第八話
小作りな顔に大きな緑の瞳にその全てを輝かせるような淡い金の髪。そんな彼女の姿を、ナタニエルが寄越したマント留めが表していた。
その蔦模様のような繊細な金細工はあの金の髪を彷彿とさせ、そこに嵌まる石はその目の色には遠いが彼女を思い出させる孔雀石。それはオクタヴィアンの呼吸を止めるほど、彼女を思い出させる。
オクタヴィアンは一目だけ見たその残像を消せないまま、深くベッドに腰掛けている。そう、逃げるようにナタニエルの部屋を出て、騎士宿舎に戻ったオクタヴィアンは自室で呆然としているのだ。
焼きついたマント留めの残像は、いつしか彼女の姿に変わっていく。手にしたままの小箱が軋んだ音を立てるほど、オクタヴィアンはその手に力を込めてしまう。
それは罪の意識なのだろうか。
それともこれが罰だと理解しているからなのだろうか。
オクタヴィアンにはわからない。ただ今わかるのは、オクタヴィアンの手が届く範囲に彼女がいないということだけ。
彼女、ソフィア・コントゥート・セレッソは今から十年前の若草月にこのアウローラ国からその姿を消した。犯罪に巻き込まれただとか、誰かの手引きである証拠もなにも残さずただ忽然と消えた。
伯爵令嬢が出奔したと、暫くは人の口に乗った。だがセレッソ伯爵は多くを語らず、いつしかその噂も消えた。ただ、一つを除いて。
消えた彼女に最後に会ったのはオクタヴィアンである。オクタヴィアンが何かをしたのではないか。だからオクタヴィアンは騎士を目指しているのではないか。そんなことが囁かれるようになった。
それはある意味で事実だ。
ソフィアはオクタヴィアンが犯した罪故にこの国から出て行った。それを自覚していても、オクタヴィアンはそのことを忘れていられるのならば忘れていたかった。
それが己の弱さ故だという自覚もある。
けれど罪から逃げたかったわけではない。逃れられるような軽いものではないのだ。ただ、ソフィアが自分の前から消えたという、そのことを忘れたかった。
ソフィアは生まれて初めてオクタヴィアンが特別と思った相手だ。そんな彼女をそうして忘れていられるほど、オクタヴィアンは感情のない男ではない。寧ろソフィアに対してだけならば多情だ。
それにソフィアを忘れることは、自分を壊すことになるとオクタヴィアンは本能で理解していたのだろう。今すでに壊れかけている自覚はあれど、これ以上は望まない。今以上に壊れてしまえば、それはソフィアを記憶している自分ではなくなる。そうわかっているのだろう。
だからオクタヴィアンは苦しみが続くのだとしても己の罪を、そしてソフィアを忘れたくないとも願っている。
そんな彼女との出会いは、魔力検査という貴族の子女として避けられない場でのこと。
その時オクタヴィアンは彼女が伯爵令嬢だということすら知らなかった。そして同じように彼女にも自分が侯爵家の子息であることも告げていなかった。まだ、その場では身分が確定していなかったから。そして告げないということがその検査での決まりごとでもあったから。
初めて家族と離れ、子供らだけで集まった王城にある教会。その大広間には、勿論検査を実施するために数人の大人はいた。が、主に子供らと接するのは最後の検査を終えた年の子供らだけ。
粛々とした静寂に満ちた検査の場で、オクタヴィアンは子供らにも、大人たちにも遠巻きに見られていた。その理由はわかっている。子供らしからぬ喜怒哀楽の発露のない子供。そのくせ希少な属性を持ち、貴族としての基準値どころかまだ三つで下級貴族並みの魔力も持っている。そんな存在を遠巻きに見ることは当たり前だろう。
そんな中、物怖じせずにオクタヴィアンに話しかけてきたのは二人。一人は以前にも数度会ったことのあるイヴァン。もう一人はソフィアだった。
三つの子供らが集まった大広間で、集まった全員の検査が終わるのを待つ間、ソフィアとオクタヴィアンは隣り合って立っていた。その時オクタヴィアンは俯いた彼女が震えていることに気づいた。
子供だけが集められるということは、頼るべき肉親がいないということ。それは幼い少女には恐ろしいことなのだろう。そのくらいは人に興味のないオクタヴィアンにもわかる。そういった感情を抱くものだと、母が言っていたことを覚えていたから、ではあるが。
そんな彼女を見て、どうすることが正解なのか。オクタヴィアンは考えていたが明確な答えは出なかった。身内以外に遠巻きに見られる程度には無表情である自分を自覚していたからである。そんな逡巡をオクタヴィアンがしていれば、ふいにソフィアが顔を上げた。
まるで何かを探すかのように周囲を見回したソフィアの目が、流れるままにオクタヴィアンへと向いた。
真昼の日差しを受けたステンドグラスが作る、色鮮やかな光。それを受け複雑に輝く淡い金の髪と、まっすぐにこちらを見る透き通る緑の瞳。オクタヴィアンはソフィアと視線が合ったその瞬間息を飲んだ。
母の大事にしている人形と同じ色合いであるのに、それに抱いたことのあるものとは全く違う感情。
それがどのようなものから生まれたのかはわからなかった。ただ、オクタヴィアンは彼女と言葉を交わしてみたいと強く思った。
そうしてオクタヴィアンはソフィアに一つ言葉をかけた。彼女もそれに応えてくれた。それから検査前に言いつけられた通りに、お互いの名を告げないまま他愛のない会話をした。
その時こう呼んで欲しいと言われるままにオクタヴィアンはソフィアの名を呼んだ。同じようにオクタヴィアンも彼女だけが知る名を口にした。柔らかく甘い声で呼ばれるたびに胸がふわふわと暖かくなったのは初めての経験だった。
あの時、あの瞬間オクタヴィアンは生まれて初めてその顔に笑みを浮かべた。とても、そうそれまで感じたこともないほど幸せを感じて。
勿論オクタヴィアンは不幸せな子供ではない。生まれた時も、育って行く中でも父母の愛情を感じなかったことはない。その表情がピクリとも動かなくとも、二人に対し多大なる親愛の情を抱いていた。同じだけそれを返されてもいた。けれど、それでもオクタヴィアンの中には、ソフィアとの思い出だけが深く刻まれている。
それから十五になるまでの十二年間。オクタヴィアンはソフィアと共に時を過ごした。王都ではイヴァンや、後にナタニエルも加わったけれど、互いの領地にいる間では二人だけの秘密の場所もあった。
ソフィアの生家であるセレッソ伯爵領は、オクタヴィアンの生家、ディレツィオーニ侯爵領と隣り合っている。最もその領地はどちらも横に広く、屋敷も近いとは言えないがそれでも王都と領地との距離からすれば随分と近い。お互いに貴族として確実に認められた五つからは家ぐるみでの付き合いもしていた。
そんな隣り合った領地の南側には離宮がある。そしてそこに続く森、まだセレッソ伯爵領とディレツィオーニ侯爵領の一部である森の際。小さな小屋が一つある。それはどちらの家も知るもの。
そこでオクタヴィアンはソフィアとの思い出を幾つも作った。
ソフィアがいて、オクタヴィアンがいる。それだけで何もいらないと思えるほどあの頃のオクタヴィアンは幸せだった。あの頃があるからこそ、オクタヴィアンは今もこうして生きていけるのだろう。ソフィアがオクタヴィアンの隣にいないのだ、としても。
今でも隣にいて欲しい。その隣にいたいと望むけれど、それは罪を犯した者には過ぎた願いだとオクタヴィアンもわかっている。もうあの頃のように、無邪気にそばにいられない。その緑の瞳に映ることすらもできないのだと。
あの頃に抱いた家族に向けるものとは違う情。それが今も抱く思いの根源なのだろうとオクタヴィアンも感じているが、その情の名をつけようとは思っていない。ただあの頃過ごした時間も、ソフィアという存在自体も、オクタヴィアンにとっては掛け替えのないもであるとだけわかっていればそれでいい。けれどそれを口にすることはない。オクタヴィアンがこんなことを言っているって知ったら、きっとソフィアが嫌がるだろうことを理解しているのだ。
だからオクタヴィアンはソフィアを忘れない。
ソフィアを忘れないでいることは、オクタヴィアンが罪を忘れないでいることと同義。つまりそれはもう二度と彼女を痛めつけずに済むということ。けれどそうして罪を忘れていないからこそ、オクタヴィアンは赤と白とに責め立てられる。
オクタヴィアンは愚直なまでに記憶の中にしかいない彼女を欲している。それも無意識に。けれどあの時の彼女だけが夢で浮かぶ。
白に塗れ、赤に濡れた苦痛に悶える顔。
全てはオクタヴィアンに罪を突きつけ、責めるためだろう。それを甘受するのがオクタヴィアンのするべきことで、しなくてはいけないこと。
それが正しいことであると、オクタヴィアンも理解している。夢で彼女を見ることが赦されるのは、犯してしまったその罪を忘れないために必要だからなのだと。罪を薄ませるような柔らかく優しい夢など必要ないのだとすら思っている。
わかっているのだ。この罰がいくらオクタヴィアンを苛んでも、この手の中に彼女を取り戻すことができないことも。彼女の隣にいることを望むことも。
そして彼女に赦しを乞う権利も、彼女を想う権利もないのだと。だけどそれでもオクタヴィアンはソフィアを求めてしまう。願ってしまう。
もう一度彼女との時を取り戻したい。あの頃に帰れぬまでも、新しい関係を作りたいと。
それがどれほど女々しく、そして自分勝手な願いであるかわかっているが故に口にはしない。ただ秘めるだけ。けれど夢はその思いすら駆逐する勢いでオクタヴィアンを責める。
どうしてこんなにも彼女の隣を望むのか。己の心の有り様すらわからない。ただ会いたいだけなのか。それとも家族に抱く親愛の情以外の情故なのか。
罪に囚われるオクタヴィアンには、己の心すら正確に見定めることができない。わかるのはただ怖いということだけ。
夢の中には現れない、もう記憶の中だけにしかない彼女の笑顔が消えていくこと。笑顔はオクタヴィアンに微かな幸せをくれはするけれど日に日に薄れていくのだ。忘れたくないと願っても、曖昧になってしまう。
勿論それは当たり前なのだろう。もう二人過ごした時間に追いつくほど、彼女がいない時を過ごしているのだ。幸せな笑顔すら思い出せなくなってしまうこともあるのだろう。けれど思い出せないが故に、オクタヴィアンは彼女にしてしまった罪を強く自覚する。
ソフィアにしてしまった、オクタヴィアンの愚かな行動。
その愚かしい行為の所為で、自ら彼女へ繋がる道を絶ってしまった。故に今ソフィアはオクタヴィアンの隣にいない。けれどオクタヴィアンはそれを認められないでいる。
どんなに思い出して苦しくても、辛くても、彼女がいないことを思い知っても、記憶の中だけでもいいからその姿を見たくて仕方なくなる。夢の中だけでもいいから彼女に会いたいとオクタヴィアンは何度願っただろう。
けれど何度願っても彼女は夢の中には現れてくれなかった。
十年前のあの日、あの小屋で起きた、彼女が出奔する原因となった出来事。
あの日以来幸せに笑う彼女は現れず、白昼夢の中でオクタヴィアンが見られるソフィアの姿は、あの赤と白とに染まったものだけになった。