第七話
振り向きもせずオクタヴィアンは部屋を出た。音もなく閉まる扉を見つめ、ナタニエルはゆっくりと五つ数えることにした。
一つ、二つ、三つ。オクタヴィアンはもう離れただろうか、と紅茶を一口含みつつイヴァンへと視線を向ける。それだけで理解したイヴァンは、紅茶を注ぐその手を止めぬままに天井へと視線を向け一言。
「ご指示の通りに遮音結界を張りましたよ」
「ありがとう、イヴァン。はあー……オクトってさ、本当にわかりにくくてわかりやすいよね」
「矛盾していますよ」
「そう? これ以上ないくらい正しく表せていると思うけど?」
オクタヴィアンが心の底からソフィーを好きだ。
それはオクタヴィアンの父である侯爵も、イヴァンも、ナタニエルもソフィーの父であるセレッソ伯爵も知っている。だからこそ、二人が八つになる前に内々ではあるが婚約が決まりかけていた。八つになったその時には流れてしまったが、本当なら二人は政略からでなく婚姻を結べるはずだった。
どれだけの者がその好意を知っていても、オクタヴィアンだけがそれを認めない。否、気づかない振りをしている。自分が囚われているのは彼女に対する贖罪故なのだと。
けれど罪の意識を十年も変わらず持ち続けれられるものか。
好きならば好きと言えばいい。オクタヴィアンがたった一言そう言ったのなら、何を置いてもナタニエルは彼の味方になる。例えオクタヴィアンがどれほどの罪を犯したのだとしても。
ましてやその罪は、オクタヴィアンだけが犯したと言えるものではないとナタニエルも、イヴァンも知っている。
オクタヴィアンと彼女、ソフィーのどちらがより罪深いのかと言えば彼女だとナタニエルは思う。
「オクトも、ソフィーも本当に馬鹿だ」
「けれどあの時の彼女にはアレしか手段はなかったでしょう?」
事もなげに言うイヴァンは、肩を竦めると優雅に紅茶を一口。僅かに眉が寄ったのは、きっと熱かったのだろうとナタニエルにとっては適温だろう紅茶に視線を送る。
セレッソ伯爵領でのみ取れる最高の茶葉。その水色は透き通った紅玉のようで、その芳香は花のように甘やか。どこか彼女を思い出す。
わざわざこの紅茶を取り寄せて、この唐突な昼食会に用意したイヴァンは本当に底意地が悪い。ナタニエルは自分を棚に上げてそう思う。どちらも似たり寄ったりであるが。
「それにアレは好いた男を誰にも取られたくなかった少女のちょっとした冒険、でしょうし」
「やー……流石にアレは冒険で済まされないと思うけどねえ」
それにそのちょっとした冒険でここまで拗れるのはいいのか。そう問いたいけれど、二人の仲が拗れたことで大っぴらに関わることができるようになった。ナタニエルとしてもそれに不満はない。寧ろ大歓迎だ。
もしなにもなくあの時二人が結ばれていたとしたら、ナタニエルがそこにまつわるアレコレに介入することはできなかった。王家の血筋に連なる者として、特定の家に肩入れすることはできないのだ。が、今ならば『ソフィーの願いを叶える』ということが免罪符になる。というかする。何が何でも。こんな面白いことにのけ者にされるなどナタニエルには耐えられない。
けれど彼女のしたアレは少しばかり短慮すぎる。そうナタニエルが視線に乗せれば、イヴァンは器用に片眉を上げる。
「そうですか? 殿下は彼女と同じことがその身に起きた時、彼女と同じ選択を取らないと? 好いた相手と結ばれることがないとわかったその時、証が欲しいとは思わないと言うことですか?」
まるでこの世の全てに疑問があるのだと問う幼子のように、イヴァンは問いを重ねる。
ナタニエルが知る、彼女の犯した罪とオクタヴィアンが犯したそれ。どちらがより悪いのかなど判じることはできない。ナタニエルは当事者ではないのだ。どんなことがあり、どのような思いを抱きそれに及んだのか。ナタニエルにはわからない。大抵のことは実現できる血筋と能力を持っているが故に。
けれどわかることもある。
「欲しいとは思うだろうね。だけど僕ならどんな手を使っても好いた相手を妃にするよ? まあ、正妃にはできないだろうけれどね」
現在のナタニエルの正妃はもう決まっている。未だ空位で、誰がその地位に着くのかなどなに一つ決まっていないが。
だからもし、ナタニエルが恋い慕う誰かができたその時は寵姫として召すことにするだろう。それが相手の望まないことだったとしても。
ナタニエルはイヴァンの言う『もしも』の話はそんな手段をとったところで意味がないとわかっている。
オクタヴィアンは彼女だけが好きで、彼女もそう。それなのにそこに第三者を入れて何になるのか。ナタニエルのもしもも同じ結果しか残さないだろうことも同じだけわかる。だからナタニエルは特別を作ろうと思っていない。
音もなくカップを置いたイヴァンは、真っすぐにナタニエルを見据える。
「──このままでは互いに想いあっているだろう初恋の相手の恋人にも、妻にもなれない。そうわかってその手段を選ぶしかなかった少女の行動の何が責められるというのですか。殿下や僕、オクタヴィアンが多少苦労しようが、彼女が幸福を得られるのでしたら瑣末です」
「イヴァン……それさ、君の嫌いな誰かだったら正反対のことを言うんだろう?」
「当たり前ではないですか。どうして僕がわざわざ嫌いなものの為にこの類いまれなる能力を使わなければいけないのですか」
「あー……うん、わかってたけどイヴァンも本当にソフィーのことが好きだね」
その柳眉を寄せ、それはもう不満げに明後日の方を向くイヴァンはどう見ても拗ねた麗しい女性にしか見えない。そんな見慣れた彼の姿に苦笑しながら、物思う。
妻になれないはずの彼女が、もう実質オクタヴィアンの妻であるとイヴァンとナタニエルだけが知っている。誰がなんと言おうと、例え己の父である王が難色を示そうとナタニエルはそれを誰もが知ることにしてみせるつもりだ。
それが彼女の願いを叶えるということで、同時にいつまでも苦しむ筆頭護衛騎士にして幼馴染の幸せに繋がることなのだから何を悩むことがあるのか。
己にできることがあるのなら、それをすることが正しいのだ。ナタニエルは必ず来るだろう未来を思ってそっと微笑みを浮かべる。
「さあ、休憩はここまでですね。仕事を始めましょうか」
「そうだね。楽しむためには前準備は欠かせない、からね」
イヴァンの声かけに笑顔で答え、ナタニエルは執務机に向かう。溜まった、とは言えないがそれなりにある書類を片付けねば心置きなくマルジーネに向かえない。己の楽しみのためならば仕事にも全力投球のナタニエルだ。
*
夕暮れはとうに過ぎ、窓の外は星が瞬いている。
最後の書類に名を入れて、王太子を示す印を押したナタニエルはグッと背筋を伸ばした。昼過ぎからずっと執務机に向かっていた所為で背中の筋肉が固まってしまったのだ。
「っあー……疲れた」
「お疲れ様でした。これで溜まっていた分は終了しましたので、明日からは通常業務に戻れますよ」
それは麗しい笑みを浮かべイヴァンは手慣れた動作で紅茶を供する。
彼のその言葉を聞き、そしてその顔を見つめるナタニエルは呆れ気味に口を開いた。
「……イヴァン、僕思うんだけどさ。これって仕事詰め込みすぎじゃない?」
執務机の上には処理済みの書類がまるで塔のように積み上がっている。そんな量は年度末の差し迫ったその時くらいで、今のような年度始まりではあり得ない。はっきり言ってこの量は平素の一月分はある。
これから予定があるとはいえ、治水工事の事後承認や、孤児院の運営費用の見直しなんて今すぐに必要な書類だとは思えない。というか、ここ数年止まっていた書類のはずだ。
治水は今季の雨季に間に合うように今予算を組んでいて、それに上乗せすることが決まっているし、孤児院の見直しも横領していた院長を挿げ替えて今は上手く回っている。
切羽詰まる事態にはどちらも陥っていない。正直上手いこと使われているのような気がしてならないナタニエルである。
「そうですか? 五日後のあの予定を恙なく終える為には何を置いても余裕が必要でしょう? ですから前倒ししようとしているだけですし、今日の執務が大変だったというのでしたらそれはご自分の所為でしょう」
「自業自得なのはわかっているけれどさ……もう少しイヴァンも手伝ってくれてもいいじゃないか」
「手伝っているでしょう? 本来なら僕は殿下の執務を手伝うのではなく、王の右腕である宰相の補佐をするのですから」
「それでも各部から書類を持ってくるだけじゃないか」
「それも仕方ありませんね。ここに来る書類は全て殿下の署名が必要なものだけ、なのですから変わることはできません。それはわかっているでしょう?」
「わかってるよ! わかっているけど面倒なものは面倒なのだから仕方ないじゃないか!」
「はあ……駄々をこねないでくださいませんか。元々殿下が方々で遊んでいたのがいけないのでしょう? 自業自得です。それで? リアンに頼む他に何か案は浮かびましたか?」
「んー? ああ、とりあえず三つほどね」
「三つもですか? 随分と余裕があったのですね」
眉を上げるイヴァンを見て、ナタニエルは慌てた。何か企んでいる。そう気づいて。
「ちょっと、明日の仕事を増やそうとか思ってないよね? あまりにも忙し過ぎて逃避してただけだからね? 余裕があったわけじゃないんだからね?」
「何を仰いますやら。その逃避がなくなるのでしたら本日の倍は熟せるでしょう? 殿下でしたら」
「期待が重い……」
「嫌ですね、期待ではないですよ? ただ純然たる事実を述べたまでです」
自分が有能であることが事実だとしてもナタニエルは認めたくない。できるならいつまでだった遊んでいたいのである。
勿論自分には責任があることも、それが課せられたものであることも理解はしているが、今のナタニエルの頭の中は基本的にオクタヴィアンへの『お節介』で占められているのだ。
落とした肩を少しでも浮上させるため、紅茶一口。馥郁たる甘い薫りに癒されるのは荒んでいるからなのだろうか。
「──とりあえずさ、オクトに贈ったマント留めもその一つ」
「ああ、アレもそうだったのですか。オクタヴィアンが壊した品の代わりなだけかと思いましたが」
「んー? それは別にいんだよね、壊れたところで問題はないし。だってさ、アレ僕が作らせたわけじゃないから」
「代々続いた王太子が下賜していた品、ですけれどね。まあ、それは良いでしょう。それで? 新しい物を下賜してどうなるというのですか?」
「イヴァンの手持ちの石。孔雀石と金の繊細な細工。それも女性的な──って聞いて何を思い浮かべる?」
「そういうこと、ですか……」
「オクトに渡したかったって言ってたからさ、てっきり翠玉とか翡翠とか天河石、橄欖石辺りか、イヴァンのとっておきだっていう変彩金緑石でも出てくるかと思ってたんだけどね。でも流石にあれは拳より大きいから無理か」
「殿下? どうしてあなたは僕の収集品を知っているのですかね?」
「まあそれはいいじゃない。どれも僕が頼んだ通りに透き通った緑、だろう? だけどイヴァンが用意したのは緑は緑でも透明度は低い。あの石を選んだのはどうしてなのかな? あれって魔石だろう? しかも産出量がかなり低い。そんなに都合よく手持ちにあるものかい?」
「──あったのですよ。もう十年も僕の手元に」
「ふうん……十年ね。それじゃあオクトに関わりがある石ってことか」
孔雀石はアウローラ国の南でよく産出されていた。採掘量は大分減ったが、今でも出ている。筆頭に名を上げるならどこであるか。すぐに思い当たったナタニエルは、思った以上にオクタヴィアンに対する効果がありそうだ、と笑みを深めるのだった。