第五話
イヴァンに先導されオクタヴィアンが辿り着いたのは、ナタニエルの私室だ。ゴテゴテと悪趣味なほど高価な家具が並ぶ部屋──などではなく、ナタニエルの趣味に合うものだけで設えてある居心地のいい空間だ。
そこに身分や容姿に拘らないナタニエルの鷹揚さが出ているような気がして、オクタヴィアンはこの部屋に来るのが嫌いではなかった。が、今はどうすればいいのか正直わからない。
それは目の前に並ぶ普段オクタヴィアンが食べている物の数倍以上は上等な食事に、ではなく主と戴くナタニエルの言葉に、だ。
「オクトにはマルジーネに着いてきてもらいたいんだ」
「────マルジーネに、ですか?」
「そう、マルジーネに」
マルジーネはアウローラの南、隣国リゼティーニとの国境にある離宮の名だ。
嫋やかな女性のような風情の白亜の王城とは違い、質実剛健な要塞のような離宮。四代前の王に嫁いだリゼティーニ出身の妃の為に建てた、リゼティーニ風の城でもある。
ちなみにその妃の好みそのままであるらしいが、真実は定かではない。なにせ五代前の王の時代にリゼティーニとの講和が成り、その証として次代の王に妃が嫁いだのだが、その頃はまだ国境付近は平穏とは言えない状況だった。それ故に要塞を模して建築されたのではないかというのが通説である。
その離宮に王太子が向かうことの意味は色々とある。
遊学の地へ向かう途中の仮宿として、またはそこを拠点として付近にある広大な森での狩り。リゼティーニとの公的な会談や密談──と、公私ともに利用する理由はある。
近年では友好国となったリゼティーニとの交友の為に利用することが多いのだが、オクタヴィアンはつい先月にもそれを理由にナタニエルがあの離宮へと向かったことを覚えている。
その時オクタヴィアンと共に同行したイヴァンがそれはもうロベルトを悪し様に評していたことも。
ちなみにオクタヴィアンはロベルトに対しこれと言った感情を持っていない。というか持てる程彼を知らない。興味がないので。
近々に訪れたばかりではあるが、ナタニエルが同行を命じるのならば従わないわけはない。が、一度向かえば三月は期間が空くのが常である離宮へとこのような短期間で向かう理由がわからないのだ。
公私ともに利用する離宮であると言っても、別段マルジーネは国境の要所でもなく、広大な森とそこにある湖以外にこれといった名所もない。
離宮にも森にも湖にも何度もナタニエルは訪れたことがあり、飽きてはいないが新鮮味の薄い地であることも事実。東の国境近くにある保養地の方がナタニエルの好みであるはずなのだ。
そんなオクタヴィアンの心中を察してか、一口紅茶を飲んだナタニエルは言葉を重ねる。
「実は内密にリゼティーニからある人を招くことになってね。かなり重要な人物であるその方をマルジーネで僕が歓待することは決定事項なのだけれど、内密であるが故に弊害が一つ」
にこりと笑みを浮かべ、ナタニエルは一つ指を立てる。
「護衛の数も、侍従の数も多くは連れて行けない」
招く人物が誰であるかや、内密である理由を問うつもりなどないオクタヴィアンは、ナタニエルに求められるまま口を開く。
「少数精鋭で、と」
「そう。イヴァンだけでなく、オクトも着いてきてくれるのなら都合がいいんだよね。元々二人は僕の筆頭魔導士に筆頭護衛騎士だから、僕に付き従うことに疑問はもたれない。その上オクト一人で連隊一つ分程の力はあるし、イヴァンは内向きの仕事も得意だから侍従の数もそう必要なくなる。僕にとっても、招く相手にも、これ以上ない」
「僕は有能ですからね。侍従の真似事も卒なく熟す自信はありますが、流石に魔導だけで護衛は難しいですから」
「──オクトがあそこを苦手としているのは理解しているけれど、着いてきてくれるかい?」
本来なら臣下であるオクタヴィアンにこうしてナタニエルが問う必要はない。命令されたことに従うのが臣下の務めであるのだ。
けれどナタニエルはそれをあまり好まない。差し迫った状況でない限り、融通しようとするのだ。が、オクタヴィアンはナタニエルの筆頭護衛騎士である。己の好悪で従わないでいられるわけもない。ナタニエルの言う「マルジーネが苦手」が真実のことであったとしても。
それにナタニエルが誰かと会うのならば、それが誰であれ護衛が多数つくことが当然のこと。
そこにオクタヴィアンかイヴァンがいるのは当たり前で、その相手が要人であればその護衛の数はいっそう増えるのも同じこと。
それはナタニエルを守る為でもあるし、相手を守る為でもある。そして対外的にナタニエルとその要人との関係を知らしめる意味もある。だが内密であるのならば、多くの護衛をつけるわけにはいかない。
だからこそ、ナタニエルがイヴァンを使いにして問うようして告げた意味は掴めた。オクタヴィアンは向かう理由も、命ぜられた意味も解したと一つ頷く。
「わかりました」
「ありがとう。オクトだったらそう言ってくれると思ったよ」
「では、話を詰めましょうか。時間も迫っていますからね」
同じように席についていたイヴァンは、丸めた一枚の紙を広げ、事前の準備から自分ら以外の同行者やその行程、そして離宮での割り振りなどの細かな説明を始める。
滔々と響くその声を聞きながら、オクタヴィアンは地図を見つめる。少しだけ古ぼけて見えるそれは、マルジーネ内部と周辺の地図だ。
離宮を中心に簡素なリゼティーニ側と詳細なアウローラ側が記された地図。離宮の周囲は、どちらの王都から伸びる街道を除けば深い森に囲まれている。街道から見て目立つものは離宮以外にはない程度には周囲に何もない。
アウローラの領地は東西に長く伸びる横長だ。というのも北側は堅牢な山脈でその先は海。南はリゼティーニであるからだ。
そんなアウローラの王都から、マルジーネまでは馬車でゆったりと進めば二日半。馬で向かうならば、途中で馬を乗り換えるか回復魔法をかけられる者であるなら一日もかからない。が普通は荷を万全にし馬車で向かう地である。
なにせ森や農地の多い、セレッソ伯爵家の領地を越えてすぐの王領であるが故にかの地にも、付近にも領民がいない。村一つないのだ。それ故に人の気配よりも獣の方が多い。最も猛獣と呼ばれる類いも、魔獣も滅多にいない穏やかな地だが。
そして森以外には青く透き通る水を讃えた湖があるだけ。
広くそして美しい湖。底まで見通せるほどに透明なそこには魚一匹いない。それは湖の水質が綺麗すぎるからなのだというが、精霊が住み着いているからだとも言われている。
マルジーネに向かうナタニエルに付き従い、オクタヴィアンも幼い頃から何度となく訪れたことがある。騎士となるまでは幼いナタニエルの側近候補の友人として、騎士となってからはその筆頭護衛として。
地図を見ただけで離宮の周囲の緑がどれだけ深いのか、青い空と、それよりも透き通る水面を湛えた湖が朝陽を浴びてどれほど輝くのかすぐに浮かび上がる。
マルジーネはオクタヴィアンにとっても幾つもの思い出がある地だ。
イヴァンの声を聞きながら、オクタヴィアンは地図に記された森の中に点在する狩猟小屋の一つを見つめ、そっと眉を寄せる。幻影がまた、目の前を過ぎた気がした。
「当日は二頭立ての馬車二台で行く予定だよね」
「ええ。殿下と僕に一つ、侍従と荷物で一つ。ですがオクタヴィアンを含む護衛騎士は単騎で並走を──」
離宮から一番離れた狩猟小屋。セレッソ伯爵領との境に近いそれはごく簡素な建物だ。
小さな水場と二脚の椅子に古びたテーブルがあるだけで、窓を覆うカーテンすらなかった。ないものを数えるよりも、あるものを数えた方が早い部屋だったけれど、オクタヴィアンにとってその感情を動かすほどの思いがある。
最後にそこを訪れた十年前が鮮明に浮かび、息が止まりそうになる。滑らかな白とそれを穢す白と赤。ライラック色の柔らかな布と秋の実りのような黄金色の髪。きつく寄せられた眉はあの時オクタヴィアンが初めて見たものだった。
「オクトー? オークートー?」
「聞いていませんよ、ナタニエル」
「やっぱりマルジーネだったんだね」
「わかっていたから選んだのでしょう?」
「それだけじゃないけどね。それにしてもオクトってば──」
どれだけの罪を自分が犯したのかをまた思い知って、オクタヴィアンの耳には辛うじて届いていたイヴァンの声も、ナタニエルの声も、何一つ届かなくなった。地図を見ていたはずの視界にはあの時見た白と赤とで埋め尽くされている気すらした。
あの日見た赤と白──それは、してはいけない禁忌を犯したオクタヴィアンを苛む二つの色だ。オクタヴィアンがオクタヴィアンでなくなった時を思い出させ、何度となく白昼夢としてオクタヴィアンの前に現れるその色が、オクタヴィアン自身が罪を忘れずにいる為に見ているのだと自覚はある。
オクタヴィアンは白いあの夢を見る度にある一人の女性を思い出している。忘れることなんてできない彼女が、オクタヴィアンに罪を教えるために現れているのだろうとすら思えるほど何度も。
勿論夢を消したいわけではない。
オクタヴィアン自身も罪が消えないのは理解しているのだ。その証たる夢が消えるわけもないことはわかる。犯した罪故の夢ならば甘んじて──否、当たり前に自分が受けるべき罰だと理解もしている。
オクタヴィアンは望んでいる。彼女が自分を罰してくれることを、それこそ誰よりも一番に。実際の彼女がそれをしてくれる可能性は限りなく無いに等しいとわかっていても、そんな微かな希望に縋ってしまうオクタヴィアンは本当に愚かな男だろう。
何度も夢の中で問いかけたことがある。君はこんな愚かな自分のことを笑うのだろうか、と。それとも謗るのだろうか、と。
けれどもこうも思う。優しい彼女はこんな自分のことすらも赦そうとしてしまうかもしれない、とも。
それほどに彼女が優しさに溢れていたとオクタヴィアンは知っていた。彼女が誰にでも平等な優しさを分け与えてくれていたこと。オクタヴィアンにも、イヴァンにも、ナタニエルにも誰に対しても全く同じだったとは言えないけれど、それでもどんなことに対しても優しさを持って行動していた。
そんな彼女の姿を見ると、オクタヴィアンの心はいつも愛しさと同時に途轍もない苦しみを感じていた。愚かで傲慢なオクタヴィアンは、彼女の優しさを自分だけのものにしたくて堪らなかったのだ。
あの頃のオクタヴィアンは望まずとも彼女の優しさを受けることができていた。けれどどんなに彼女が優しいのだとしても、今のオクタヴィアンにその優しさはこない。そんな幸運なことは起きやしない。
オクタヴィアンの犯した罪は、これまで彼女との間に築いてきた全てを壊して、もう二度と同じ関係になど戻れないほど決定的に二人を別つような、そんな取り返しのつかないもの。後悔してもしきれないほどのことをオクタヴィアンはあの日、あの場所でしたのだ。
だからオクタヴィアンは夢を見ているのだろう。幸福だった頃を思い返すのではなく、罪を犯したその時を思い出すものを何度も。
彼女のことをもう忘れるべきなのかもしれないと何度も考えた。罪だけをこの身に刻んで、想う心全てを忘れるべきなんだろうとも。けれどオクタヴィアンはどうしてもそれができない。
愚かにもほどがあると理解していても、彼女を忘れられない。彼女はきっと、オクタヴィアンに自分のことを記憶していて欲しくないだろうと思うけれど、それでも忘れられない。忘れずにいれば彼女が、オクタヴィアンのそばにいてくれたという、奇跡みたいなことがまた起きるのではないか。
また側に現れてくれるのではないか。
そんなあり得るはずのないことを期待してしまう。愚かだとわかっていても望むことは止められないでいる。