第四話
その日もオクタヴィアンは一心に剣を振るっていた。
職務が非番であろうと詰所に向かい、ただ只管に剣を振るう。それがここ八年ほどのオクタヴィアンの日課なのだ。
まだ薄暗く朝霧も深かった早朝から、朝日が顔を出し、そして中天を越えようと変わらずに同じ型を飽きもせずなぞる。
流れる汗を拭くこともなかったオクタヴィアンの体は水を被ったかのように濡れている。それでもただ無心に剣を振るう。
自分と剣との境が曖昧になるほど振るえば、手の感覚がしなくなる。周囲の音も光も感じなくなる。
勿論鳥が鳴いているだとか、風が吹いているだとか、回廊を誰かが通っただとかは感じる。遠くからの誰かの視線も感じもする。が、それらを一切気にしない。
オクタヴィアンはこの、世界にまるで一人だと強く感じる瞬間が殊の外好きだ。
「オクタヴィアン、少し遅いですが食事にしませんか?」
「──いらない」
故に剣を振る手を止めることもなく、ただ断る。声を掛けてきた主はそれを許容する人物だと理解してのこと。
彼はいつだってオクタヴィアンに食事をしろと言う。それはオクタヴィアンが平均を少し上回る身長に、平均以下の体重しかないからなのだろう。筋肉はあれど見た目は寧ろ痩躯といっていい程に細いことも含まれるかもしれない。
オクタヴィアンはそれがどちらなのだとしても彼のこと同様に興味がない。それは食事に対し、人に対するように関心が薄いからだろう。
オクタヴィアンは日に二度食事をとれば重畳で、日頃口にするのは堅パン一つに干し肉と野菜を少々。それから塩を一舐めして気が向けば林檎を一つ齧るか、といったところである。
凡そ侯爵家嫡男で、民衆に憧れられる騎士の食事とは言えない。田舎の民草の方が余程贅沢な食事をしているかもしれないが、民草の食事を知らないオクタヴィアンはそれを不満にも思っていない。というか腹が満たせればそれでいいと思っている。
そんなオクタヴィアンを知っているにも関わらず、毎度変わらず声をかける男。オクタヴィアンはどんな時でも彼を邪険に扱っている。相手をするのが面倒なのではない。素直に誘いに乗ればより面倒だと経験則から知っているのだ。
「いらないと言って倒れた回数は何度ありましたか? そろそろ自分の限界というものを理解した方が良いのではないですかね? 曲がりなりにもあなたは殿下の筆頭護衛なのでしょう?」
なりたくてなったわけではないと知っているくせに口出す。嬉々として人の嫌がることをする男だ、と知っているが故にオクタヴィアンはなんの反応を見せぬままに剣を振るった。どうせ黙っていても勝手に一人で喋り続けるのだとも知っていたから。
「大体において今日も早朝から鍛錬なさっているのでしょう? いい加減に休まないと明日に差し支えます。ご自分の体調すら管理できないのであれば、小姓をつけることになりますよ?」
「両方いらない」
「いらないではなくつけても逃げられるでしょう? あなたの顔は常に無ですからね、怖がられて逃げられた回数は両手でも足りませんよね。それでオクタヴィアン、早朝から鍛錬をしているようですが朝食は召し上がったのですか?」
滔々と流れる言葉の後、オクタヴィアンの振るう剣が止まる。
毎回オクタヴィアンの鍛錬をこうして止めるのはオクタヴィアンの幼馴染であり、知己でもあり、限りなく天敵に近い悪友であるイヴァン・デューカ・ソルティレージョだ。オクタヴィアンの振るう模擬刀の剣筋を見切り、掴める程度に彼は強い。
宰相補佐という文官であるのにそうまで強いのは、彼が本来の筆頭護衛の血筋であるから、なのだろう。
剣を留める力は無理をすれば動かせないほどではないが、戦場でもないこの場でそんな力を出すのも面倒。そして刃を引き潰してはあるが握りこまれたまま振るえばお互いに手を痛める可能性がある。
イヴァンのために怪我をするつもりは毛頭ないオクタヴィアンは仕方なしに固まりかけた指を広げ、剣から手を離した。
いつだってイヴァンはオクタヴィアンの邪魔をする。いつまでだって剣を振るって自分を律していたいオクタヴィアンの。けれどオクタヴィアンとてわかっているのだ。イヴァンの行動の八割が鬼気迫る自分を心配してのものなのだとは。
だが素直に彼の誘いに乗れば、彼は実の母以上に甲斐甲斐しく世話を焼こうとする。そこになんの下心もないと言い切れないことも知っている。世話になればなった分以上にツケとして何をやらされるのかわからない。だが断り続けることでまた面倒事に知らぬ間に巻き込まれるのも癪なので、オクタヴィアンも五回に一回は彼の言葉を聞いている。そのくらいの頻度であればツケは溜まりづらいのだ。
そして今日はまだ三回目である。オクタヴィアンは先ほどまで自分が握っていた剣を持ったままのイヴァンを無視し、水場まで歩いた。
「オクタヴィアン、僕を無視して良いと思っているのですか? それでも別に構いませんが、後で困るのはあなたですよ?」
何をどう困るのか。それはわからないが、イヴァンの口車に乗れば大概彼と、そしてナタニエルの悪戯と言うには悪質なそれに巻き込まれる。それを知っている上、従うにはまだ回数が足りない。
オクタヴィアンはイヴァンの言葉など聞こえない風情で井戸から汲み上げた水を桶一つ分とりあえず被る。動きを止めたことで漸く感じた汗の不快感を拭いたかったのである。
基本的にオクタヴィアンは人の言うことを素直に聞く男ではない。勿論仕事上は別として、平素であればしたくないことはしない。したいことはそれなりにする。やると決めたことはどこまでも貫き通す男なのだ。それも言葉少なに。そんな不言実行なところや、直向きなまでに剣を振るうその姿勢が称賛を浴びている──ということをオクタヴィアンは知らないが。
ちなみにオクタヴィアンは昔同様に静かな場所で過ごすのが好きだ。
だからこそ、剣の鍛錬もひと気の少ない早朝から始める。そんなオクタヴィアンにとって、鍛錬の邪魔をする者はイヴァンでなくとも鬱陶しいことこの上ない。
早く諦めないか、と浮かべながら二杯目、三杯目と水を被る。誘いに乗る頻度に気づいてるイヴァンならばそろそろ諦めるだろう、と火照った体に心地いい水を被る。
「オクタヴィアン、手拭い一つ用意しないまま水を浴びないでくださいと何度言ったらわかるのですか。侍女から回廊に水が滴って困ると苦情が入るのですが」
「回廊は歩いてない」
「そうですね、歩いてはいないですが跨いではいますね。ここから宿舎までの最短はあの回廊を超えたところですから」
そこまで言い切り、一つ大仰にため息を吐いたイヴァンは水を浴びるオクタヴィアンの元まで歩き出す。
オクタヴィアンよりも頭半分ほど高い背。同じくらいに細い体躯。正反対に色素の薄い白銀の髪と紅い瞳。イヴァンは性別を感じさせない容姿をしている。が、幼い頃から知っているオクタヴィアンに言わせれば、遠くから見れば彫刻のように整ったイヴァンの顔は、近くで見るとそれはもう底意地の悪い性格が出ているとしか思えない。
現に今、自分を見る彼の目は獲物を追い詰めることへの喜びに満ちている。
「最短を歩くことはまあ良いでしょう。ですが服務規程は騎士の義務の一つ。濡れたまま歩くという行為自体それに違反しています。その自覚くらいはあるでしょう?」
「服務規程は休日には適用外だろう」
「適用外だとしてもそれは市中でのことです。ここは王城内の鍛錬場、どう考えても適用されて然るべきです」
一を言えば十以上の文言で返すイヴァンに辟易としながら、オクタヴィアンはシャツのボタンに手をかけた。
濡れたままの服でいることに文句をつけられるなら脱いでしまえばいいだろう。そんな短絡的思考である。ちなみに手拭いも着替えも持参してある。イヴァンが毎度煩いので用意はしているが、今この場で出すのは癪なので出さない程度にオクタヴィアンの性格もいい。
「着替えるのでしたらもう少し端で着替えなさい」
「どうしてさ」
「衆目の前で肌を晒すことに恥がないと知らしめたいのでしたら構いませんが、そうすると背後から色々な方に狙われるのではないですかね」
「狙われたところで負けない」
「そうですね、力であれば負けはしないでしょうが相手が欲しいのはあなたからの勝利ではないので強さはあまり関係がないかもしれませんね」
イヴァンの言うことは意味がわからない、と淡々とボタンを外し終えたシャツをあっさりと脱ぎ、肩にかけて歩き出す。
大体こうするとイヴァンはそう言うのだが、認めていないが軍神とまで言われている自分を狙う馬鹿がどこにいるのだろうか。純粋な力であれば大抵の者に負けない程度は自信がある。どこかに自分よりも強い者がいるのなら寧ろ試合ってみたいくらい。
大分思考が脳筋よりになっているオクタヴィアンだ。
「それにしてもその身体はあなたが強いのだとは思えないほど細いですね。それでどうしてこの剣を振るえるのか甚だ疑問です」
「イヴァンも変わらないだろう」
「僕は魔道士ですからね、魔力を纏えばどのような重さのものでも一応持てます。ですがあなたは魔力を一切使わずにいるでしょう? それを使えば三指どころかこの国一になれるでしょうね」
「興味ない」
「まあ、あなたならそう言うでしょうね」
肩を竦めそう言ったイヴァンは自分を見ることもなく歩くオクタヴィアンを見る。
中天を越えた太陽に晒される焼けることのない白すぎる肌。普段からある艶が、水に濡れたことでなおいっそう増した黒髪。掻き上げたことでその目鼻立ちが知れる。
幼い頃から変わらない、筆で一息に刷いたような細くも力強い眉。長くそして濃い睫毛とその中で輝く紫水晶。嫌味のない鼻筋から意思の強さが垣間見える薄い唇。白い肌の中目を引く赤いその唇は、髪から滴る雫で濡れている。半裸であることを差し引いても、昼間だというのにオクタヴィアンが艶かしいのはその美貌が際立っているからなのだろう。
本当にオクタヴィアンは色々な意味で残念な男だ、と内心で深いため息を吐く。
オクタヴィアン程自分の魅力に疎い男はいない。その美貌にも、その剣技にも、格闘術にもどれほど価値があるのか理解していない。イヴァンにはそう断言できた。
彼が侯爵家の嫡男であるだとか、王太子の筆頭護衛騎士であることだとかは関係がない。男でも、女でもオクタヴィアンを一目見た者は皆一度は見惚れる。そして大体半々で二つに別れる。独りよがりな恋に落ちる者、お門違いな嫉妬をする者という。見惚れた者の中でオクタヴィアンの本質に気づくのは皆無に等しい。気づけるのはイヴァンのように昔から彼を知る者くらいだろう。
因みにイヴァンはオクタヴィアンに見とれたことはない。鏡を見ればそこに絶世の美貌を見ることができるのだ。どうして他人に見惚れるのだろうか、と言うのが彼の談だ。
美しさや強さに見惚れ、オクタヴィアンの本質に気づかないままでいるのはある意味で幸福だ。
何せオクタヴィアンは極度の人嫌いで、極度の面倒臭がりで、興味の向くことにしか力を入れない。そんな彼を知らず、華々しい姿や経歴だけしか知らねばオクタヴィアンほど騎士らしい者などいないと言えるだろう。
勿論オクタヴィアンは仕事の手を抜くことなどしない。真面目で、勤勉である。弁も立ち、学ぶことを厭わない。宰相子息らしく財務や法の知識も多い。騎士として体を動かすだけでなくそういった面もあるオクタヴィアンは確かに優秀な騎士であるのだが、まずもって自分を労わろうとしない。それが何故なのか知るイヴァンにはこうして小言を言うくらいしかできない。強制したところでオクタヴィアンが素直に聞き入れないことは考えずともわかることなのだ。
無論がむしゃらに鍛錬することの全てが悪だとは言わないが、強さとともに疲労も蓄積する。人なのだ。それが当たり前であるはずなのにオクタヴィアンはそれに気づかない。鈍感な質ではないはずであるのに。
二度目の、先程よりも深いため息の後イヴァンは居住まいを正しオクタヴィアンを見据えた。
「オクタヴィアン・マルケーゼ・ディレツィオーニ。宰相補佐にして王太子専属魔道士であるイヴァン・デューカ・ソルティレージョからの命令です。速やかに着替えた後、王太子ナタニエル殿下の私室まで来なさい。殿下があなたとの昼食を所望しています」
「それがご命令とあらば」
「命令ですと言ったでしょう。ああ、公ではなく私だとのことなので騎士正装ではなく平服で構わないそうですよ」
こくりと頷き、眉一つ寄せぬまま着替えるオクタヴィアン。イヴァンからの言葉よりもナタニエルの言葉を聞くのは彼の中での比重の問題である。それはイヴァンにも言えたことなので、イヴァンもどうこう言うつもりはない。が、少々面白くない。まあ、きっとナタニエルからの提案という名の強制命令でオクタヴィアンがどうなるのかを考えればそれも瑣末なことになる。
ああ、どれだけオクタヴィアンが驚き、そして動揺するのだろうか。その姿を想像するだけで笑いがこみ上げてしまうイヴァンは性格が悪い自分をしっかり自覚している。イヴァンにとってしたら、オクタヴィアンは軍神などという大層な存在ではなく、手のかかる可愛い可愛い弟分でしかないのであった。