第一話
柔らかな朝日が注ぐ豪奢な部屋で、二人の男が優雅なティータイムをとっている。
一人はこの国、アウローラの第一王子にして王太子でもあるナタニエル・ルーチェ・ヘリオス・アウローラ。
王太子として立てられ一年が経ったばかりの二十。艶やかな金の髪に空を映したような碧玉の瞳のおっとりとした王子という見た目をしている。もっとも中身はそれに伴わないが。
ナタニエルはそれはもう弾んだ声で一つ告げる。
「イヴァン、そろそろ進めようと思うんだ」
コクリと一口含んだ豊潤な薫りの紅茶。鼻に抜ける甘やかなその薫りを楽しみながらのそれは、提案のようでいて決定事項である。
王太子であるナタニエルの計画したものは、質の悪い悪戯以外は大抵実行されてきている。そして今回は絶対に断られるはずがないこともわかっていた。
「それはオクタヴィアンのこと、でしょうか?」
訝しむようにしながらも察しよく応えるのはナタニエルの専属魔道士にして宰相補佐のイヴァン・デューカ・ソルティレージョ。
腰まで届く白に近い銀糸の髪と、透き通るような紅玉の瞳。楚々とした美しさを持つ年齢不詳の男である。ちなみにこちらもあまり性格がよろしくはない。が、そこが魅力だと一部には人気である。
「そう、オクトの結婚。ちょうどいい機会でもあるし、オクトをいい加減素直にさせないと」
「そうですねえ……認めさせるのは骨が折れそうですが、まあできないことではないので良いのではないですか」
まるで悪巧みのようにして二人だけで彼らが交わすのは、この場にはいないオクタヴィアンのこと。
このアウローラで一二を争うほど腕の立つ騎士にして、ナタニエルの筆頭護衛騎士でもある彼は彼ら二人の数少ない幼馴染的存在でもある。
そんな彼、オクタヴィアン・マルケーゼ・ディレツィオーニは緩い癖のある黒髪に紫水晶の瞳を持つ白皙の美貌を持つ男だ。
一見すると剣など持てないだろうほど細身なのだが、その見た目に反し強い。もはや軍神と言って差し支えないほどに剣技に、そして格闘術に長けている。と言ってもそれほど強くなった理由を知る彼らには、オクタヴィアンがそれはもう不憫で仕方ないと笑ってしまう。
忘れられないものを忘れるために剣に打ち込むなんてある意味わかりやす過ぎて可愛い。それが二人の意見である。
クスリと小さく笑みながら、イヴァンは問う。わかりきった答えを聞くために。
「勿論お相手はお決まっているのでしょう?」
「決まってる。というかオクトには彼女しかいないだろう?」
「まあそうですね。彼女もどうしてオクタヴィアンがいいのかわかりませんが、未だ想いを捧げているようですのし? きっとそれが最善なのでしょうね」
「不満そうだね? イヴァンも彼女を憎からず思っているのかい?」
問いながらイヴァンを見つめるナタニエルはそれはもう楽しげだ。
人をからかうこと、人の裏をかくこと、そして実は人を喜ばせることも好きな、少しばかり傍迷惑な彼は王宮でも人気が高い。但しその行動が自分に関わらないのならば、と注釈がつくが。
そんなナタニエルを見返しながら、イヴァンは蜜のように甘やかに艶めく淡い金の髪を思い浮かべ薄く微笑む。
確かにイヴァンは彼女を憎からずどころか多大に好いている。自分にできる最大の守護魔法を彼女にかける程度には特別なのだとも言える。もっともそれをかけたことも、今もこの時も見守っていることも彼女には秘密だが。
だが、好きだからこそ彼女には誰よりも幸せになって貰いたいと願う。彼女が望むように、彼女が心から好いた男の元に嫁いで貰いたいと。それは偽らざるイヴァンの本心である──が、二心がないとは言わない。駄目なところを多大に知るオクタヴィアンで本当に彼女を幸せにできるのか、それが疑問で。
なにせ今なおオクタヴィアンは何一つとして気づいていないのだ。それを知るイヴァンは眉を寄せる。
「そんな顔をしてもダメだよ。彼女の望みを叶えるのはもう約したことなのだから、覆らない。わかっているだろう?」
ナタニエルが彼女とした約束。他愛もない、幼い頃の口約束に過ぎないそれを質草にして、ナタニエルはオクタヴィアンと彼女とを娶せようとしている。
ナタニエルの三つの祝いに彼女から贈られたのもの。それは彼女が初めて刺繍したハンカチーフである。
柔らかな絹のそれには、ナタニエルがあの頃一番好きだった白いアネモネが一輪咲いていた。春にだけ咲く『希望』という花言葉をしたそれをいつでも見ることが嬉しかった。それにオクタヴィアンとイヴァンが悔しがる彼女の初めての刺繍作品を贈られたことも嬉しくて、ナタニエルはお礼に何かお願いを聞くと言ったのだ。五つ上の彼女に。
そうして聞いた彼女の願い。言った本人はナタニエルがそれを覚えていないと思っているだろう。けれど三つの頃より前のことすら覚えているナタニエルにとっては造作もない。一言一句違わずに言えるほど鮮明に覚えている。だからこそ、今でもその願いを叶えないという選択をするつもりがなかった。
ナタニエルは覚えているのだ。彼女の願いを聞いたその時のオクタヴィアンの顔を。
「わかっていますよ。あれが彼女の最初で最後の望みなのですから、叶えて差し上げたいと僕も思っています。まあ、その相手がオクタヴィアンであることは正直不満でしかないですが、今も彼女が望んでいるのが彼なのですから、それも仕方のないことなのでしょうね」
「そういうこと」
「あの朴念仁に彼女を……っく! 腹立たしいですね」
イヴァン曰く朴念仁のオクタヴィアンは、物心つく前から表情筋が死滅している。夜泣きもしなければ、お愛想で笑いもしない赤子だった。ミルクが欲しければ視線で訴えるような赤子でもあったのだが、まあそれは彼の父も同じだったようで厭われることはなかったが。
今でも表情筋が死滅したオクタヴィアンが唯一見せるものと言えば、気に入らないことに眉が多少寄るくらいだろうか。ある意味王太子を守る騎士としては都合がいいのだろうが、ナタニエル的にはからかい甲斐の薄い男で少しばかりつまらない。まあ違った楽しみがあるのでそれでも構わないのだが。
そんなオクタヴィアンがあの時笑ったことは、たった三つだったナタニエルの記憶に深く刻まれるほど衝撃的だった。勿論はにかむとも言えないほど薄っすらとなのだが、それでもオクタヴィアンの感情は彼女の願いを聞いて動いた。それはつまり、自分たち以外で唯一オクタヴィアンに働きかけることができるのが彼女であるということ。
貴重な手段であり、彼女自体を好んでもいたナタニエルは是が非でも彼女を手の内に入れたかった。とは言え過去も、今もナタニエルにできるのは彼女の願いを叶えることだけ。彼女をナタニエルが娶ることもできなければ、オクタヴィアンが彼女の願いにどう返すのかはわからない。オクタヴィアンの反応はナタニエルにも読み難い。もっとも予測はできるが。
それにナタニエルは知っている。
オクタヴィアンも彼女と同じ想いを今なお抱いているのだ、ということを。そうでなければ代々宰相を勤めてきた侯爵家の嫡男が騎士になったこと、そして跡継ぎを作ることが義務に近い彼が婚姻していない理由が見つからない。全てオクタヴィアンが彼女以外を望まないからなのだ。
「仕方ないお互いに未だ続く初恋なのだからね」
「初恋……ですか。意外に乙女のようなことを仰いますね。けれど殿下はそう仰いますが、オクタヴィアンの場合恋を自覚しているのかは甚だ疑問ですけれどもねえ」
「あー…確かにオクトは自覚していないだろうね。でもそれでも彼女がオクトの初恋相手であり、その逆でもあると僕は知っている。しかもさ、三つの時には恋をしていたんじゃないかな、彼女の方は」
五つ上の彼女が三つの時、流石にナタニエルは生まれていないためその心の内までは知らない。だが二人が初めて出会ったのがいつなのかは聞いていた。そこからの推量だが、多分外れてはいないはずだ。
ここアウローラで幼い子供が出会う機会はそう多くなく、十に満たない子供であれば年に片手で余る程度しかない。そんな中での初めて親と離れ同世代の子供と過ごす時間は、それまでなかった濃密な時間だとナタニエルも知っている。だから大抵は十を越えた辺りでするらしい初恋を、三つの初対面でしたのだとしてもおかしくはないし、そのくらい年季が入っている方がよほど彼女らしく思える。そう思えるほど、彼女はいつまで経ってもオクタヴィアンのことだけを好きでいるのだ。
「出会ったその時が恋に落ちた時であるのならば、僕が八つ、オクタヴィアンと彼女が三つの時。王宮の教会であった儀式のその時、でしょうね」
「魔力検査の第一回だよね。でもあれが出会いってのもある意味凄いよねー。あれって名前も何もお互いに知らされないだろう?」
魔力検査という名の元で、魔力の有無の計測、その属性やその時点での魔力量を測る。それはその後その子供が貴族たり得る可能性があるかなしかを知るためのもので、もしたり得なければ良くて廃嫡の後養子に出されるか、打ち捨てられる。悪ければ処分される。だからこそ明確な確証が得られる三回目の八つの時まで周囲に名を告げないのだ。貴族らしい矜持から『家の名を穢さない』為に。
勿論それは王家であろうとも同じで、正確に言えば王太子であるナタニエルは第一子ではない。上に二人ほどいたが、そのどちらもが妾腹だったが故に王家の基準に満たない魔力量、属性しかなかった。ナタニエルは意外と死線を潜り抜け王太子となったのだ。因みに上の二人は大公家の子供として一人は騎士に、一人は外交官にと各々好きな道を歩んでいる。
そんなナタニエルと同じように、その検査でオクタヴィアンは嫡男としての地位を確保し、彼女もそれと同じだけの地位を持った──はずだったが、少しばかりそれが変わってしまったのは三度目の検査のすぐ後。ナタニエルの三つの検査が行われたその時のことだ。
あの時、ナタニエルが三つにしては稀な量の魔力を保持していると知らしめた検査で、周囲を落胆させる一人の少女がいた。それが最初の理由にして、今この状況を齎したものとも言える。
願いを口にした時の彼女の鬼気迫るほどに思い詰めた顔を思い出し、ナタニエルはゆるりと目を伏せる。