第九話
オクタヴィアンが罪を犯した日。
それは忘れもしない十年前のオクタヴィアンが生まれた日。オクタヴィアンはソフィアに乞われてあの日、あの小屋に向かった。
マルジーネまでは互いの領地からは馬で早駆けすれば一日もかからないが、あの小屋までであればそれはもっと早い。二人だけで向かうのならもっと。オクタヴィアンは愛馬の背に跨がり、ソフィアを抱くようにして馬を駆けさせた。
八つから馬に乗るようになって、乗りこなせるようになった十の頃から、いつだってオクタヴィアンは彼女と共に乗っていた。
二人だけの時間ではそれが当たり前だった。
甘い花の香りに自分とは違う柔らかく温かい体。腕の中に閉じ込めることを幸せだと感じていた。
けれどその日は、もうこれから先、オクタヴィアンは死するその瞬間まで自分の誕生を祝おうと思えぬほど記憶に残る日となった。
「大事なヴィーの誕生日、それも成人する記念の日だから……。だから二人だけで過ごしたいの」
そう言って、少し照れながら笑ったソフィアは輝いて見えた。オクタヴィアンは真っすぐその顔が見れなくて、とても照れていた記憶がある。
この頃のオクタヴィアンは、素直にソフィアを好きだと思えていた。いつからそう思うようになったのかなど思い出せないほど自然に。
この気持ちが初めて出会った時からのものなのか、それとも一緒に過ごしたからなのか。オクタヴィアンは自分の気持ちを深く考えたことはない。ただ毎日ソフィアの隣にいられたならそれでいいと思っていた。
そう、この頃オクタヴィアンは純粋にソフィアが好きだった。
「贈り物をね、あの小屋に用意しているの。お祝いの料理もなにも用意できなかったけど……ヴィーと二人で過ごしたくて。嫌じゃなかった?」
『ヴィー』とはあの日三つの頃の出会いのその時に告げた、オクタヴィアンを表す愛称。未だに二人きりになるとソフィアはその愛称でオクタヴィアン呼ぶ。だからオクタヴィアンも迷わずソフィアを愛称で呼んだ。
「──嫌だったら、来てない。ソーニャの誘いなら断らない」
「嬉しい。ヴィーがそう言ってくれて、よかった」
少しだけ戸惑うように告げるソフィアに、オクタヴィアンも迷いながら返した。そう、どれだけ照れが浮かんでいたとしても、ソフィアの誘いを断ったことなどオクタヴィアンは一度もない。それくらい特別であったから。
はにかむようにソフィアが笑って、オクタヴィアンも少し笑えた。そうやっていつでも笑みを浮かべて、前だけ見ているソフィアはいつでもオクタヴィアンの側に、隣にいた。
それが当たり前で変わらないこと、自分の側にソフィアがいることはこの先絶対に変わらない、不変なことだと思っていた。だから自分の気持ちなど深く考えなくても良かった。それは家族ぐるみの付き合いで、いずれは両家を繋ぐために婚姻をと言われるだろうことをオクタヴィアンが理解していたから、だろう。
だからオクタヴィアンはソフィアの寄越す言葉も、笑顔も、自分の隣にいることも当たり前で当然だと思っていた。
この頃のオクタヴィアンは本当に愚かだった。
ソフィアがオクタヴィアンの側にいる。婚約もせず、幼馴染というだけのその状態が、どんなに曖昧で不確かなものだったのか。どれだけ貴重なことなのか少しも理解していなかった。
「ヴィーのね、成人の記念になるような贈り物をね、用意できたと思うの。私のお願いも含まれるんだけど……」
「ふぅん……」
「私の成人の贈り物は、ヴィーが魔石をくれたでしょう? だからそれに見合うようなものをって、たくさん考えたの」
笑いながらオクタヴィアンを見たソフィアが言った言葉。
オクタヴィアンはそれがなんなのかを考えた。けれどそれを表に出さず、曖昧に返事をした。ソフィアの笑顔が今まで見たもののどれよりも儚く、そして綺麗に思えて真っすぐ見れなかったのだ。それを隠すように、興味がない振りをした。
本当はすごく気になっていた。自分のためにソフィアが考えてくれていたことが堪らなく嬉しかったくせに、それを表に出すことが恥ずかしかった。最もそれが表情に出ていたかと言えば、嘘になるが、その目は雄弁に感情を伝えていた。
真っすぐにオクタヴィアンの目を見て、嬉しげに目を細めるソフィアにはきっとオクタヴィアンが抱く感情は筒抜けだったのだろう。
「ヴィーが喜んでくれると嬉しい」
そう告げたソフィアの目はどこか必死に見えた。そんな彼女が新鮮で、気づいたらオクタヴィアンはその言葉に頷いていた。
ソフィアは滅多に我儘な言葉を口にすることがない。
それは奥ゆかしいというのとは少し違う。なにか遠慮しているのではないかと穿った考えが浮かぶほど、一歩後ろに下がる。オクタヴィアンと共にいるその時はそうでもないが、家族と共にいる時は顕著に感じた。血を分けた家族に遠慮をしているのだと思わせたのだ。
けれどそんな彼女が自分にだけ甘えているのだと感じられることが誇らしく、オクタヴィアンはほんの少し目尻を緩ませた。いつだってその表情を変えるのはソフィアが関わるその時だけ。
「ありがとう、ヴィー」
「……別にお礼を言うほどのことじゃない」
「だってヴィー、嬉しそうにしてくれてるから。私も嬉しいの」
いつだってソフィアはオクタヴィアンの些細な表情の変化を見抜いた。嬉しい時も機嫌の悪い時も、悲しい時もいつでも見抜き、そして笑顔でそばに寄り添ってくれていた。甘やかされている気すらした。
だからだろうか。オクタヴィアンは自分の全てがソフィアに許容されていると感じていた。自分がなにをしても、彼女が拒否しない。彼女は自分の全てを受け入れるとすら思っていた。
それがどれほど稀有なことか。オクタヴィアンはソフィアをなくしたその時まで気がつかなかった。
ソフィアがオクタヴィアンの側にいるのではなく、いてくれたということ。ソフィアの笑顔を、誰よりも近くで見られていたということ。それがどれだけ幸福なことだったのか。
ソフィアという特別な存在をなくして、オクタヴィアンはどれだけ彼女が自分にとって必要な存在だったのか気づいた。
いつの間にか贅沢になっていたのだろう。
どれだけの奇跡が重なって、この当たり前の日々が続いていたかなど、オクタヴィアンは少しも考えなかった。
ずっと変わらず隣にいてくれる。死が二人を分かつその時まで、きっと自分の隣にいるのはソフィアだけだとただ盲目に。
まるで手にした玩具を大事にできず、壊して初めてそれがどれだけ大事だったのか気づく幼子のよう。
この頃のオクタヴィアンは本当に情けないくらい子どもだった。だからこそ、十五という成人になっても二人きりで過ごすことに違和感も抱かなかった。
淑女であれ、紳士であれと繰り返し教え込まれる貴族の子でありながら、自分とソフィアの関係はそんな下世話なものになるはずがないと思い込んでいたのだ。
それがオクタヴィアンの最初の罪、なのかもしれない。
走り続けた馬は、いつしか見慣れた小屋のほど近くに辿り着いていた。いつものように馬を離し、オクタヴィアンはソフィアの手を取る。柔らかく、自分のものよりもずっと小さなその手。オクタヴィアンが愛おしいと感じる数少ないものだ。
どことなく緊張している風のソフィアに釣られるように、オクタヴィアンは口を開かない。普段ですら自分から口を開かないのだ。ソフィアから話しかけられなければ、二人の間で会話はなくなる。
けれどその沈黙をオクタヴィアンは嫌っていなかった。息詰まるような苦しいものではなく、穏やかな沈黙であることが、二人だけが特別だと告げているようで寧ろ好んでいた。
オクタヴィアンはソフィアと共にいるその時だけは、ただ年相応以上に幼い子供に戻っていた。それだけ彼女に甘えていたのだろう。
だから知らなかった。
オクタヴィアンはどれだけソフィアが苦悩し、そしてなにを決断したのかを。
知っていてなにができたのかはわからない。
けれど少なくとも、彼女が自分の目の前から消えるような罪を犯すことはなかっただろう。
例えどんな未来が待とうとも、手の届く場所にソフィアがいない今よりもずっといい未来だったのではないか。そう夢想してしまう。どれだけ身を引きちぎられるような思いを抱こうとも、ただ自分の知る場所に彼女がいてくれるのならばそれでいいと思えるほどにオクタヴィアンはソフィアを好いていた。
今はもう、詮ないことなのだろうけれど。
噎せ返るような濃厚な木々の匂い。幾度も歩いた小屋までの僅かな道程は、あの日も変わらずオクタヴィアンとソフィアの元にあった。
普段と違ったのは、どこか緊張した様子のソフィアと、それに気づかない鈍感なオクタヴィアンだけ。あの時ソフィアの様子に気づいていたならば、オクタヴィアンはなにをなくすことなく望む未来を手にしていたかもしれない。手にできなかったかもしれない。けれどあの時のオクタヴィアンはなに一つ気づかぬまま、ただソフィアと共にあの小屋の中に入った。
寝台が一つと、丸い机が一つに簡素な椅子が二つだけ。それが小屋の中の全てで、光を遮る無骨な鎧戸が嵌められたままの窓が一つ。
ソフィアは徐に窓に歩み寄り、軋む音を立てながら鎧戸を開いた。途端窓から差し込む明るい日差し。ステンドグラスの光を受けて輝いていた、あの日のようにソフィアの金の髪が煌めいて、オクタヴィアンは知らず目を細めた。
ソフィアはとても綺麗な娘だ。
実りの秋の畑のような、輝く麦穂に似た金の髪。透き通るような緑の瞳は、王妃のつける翠玉の首飾りよりもなお美しい。柔らかな曲線を描く肢体に、常に微笑んでいるかのような表情。全てが愛されるためにあるのではないかとよくイヴァンが言っていた。この時オクタヴィアンは初めてそれが正解なのだと思った。それほどにこの時のソフィアから目が離せなかった。
「ヴィー、喉が渇いたでしょう? 今ハーブ水を用意するから少しだけ待っていて?」
「──っ、急がなくて、いい」
「大丈夫。すぐにできるから」
ふわりと笑んで、机の上にあった水差しを手にソフィアは外に出た。小屋からそう遠くない位置に湖に続く支流がある。清く澄んだその水は仄かに甘い。だからこれまでオクタヴィアンも、ソフィアもこの小屋に来た時はいつもその水を口にしていた。そしていつもソフィアが何某かのハーブで香りづけをしていた。
一人小屋に残され、妙に跳ねる心音に惑いながらオクタヴィアンは立ち尽くしていた。
今までもソフィアを綺麗だと思ったことも、可愛いと思ったこともある。けれどこんなにも心が逸るような思いを抱いたことがなかった。それがどうしてなのか。オクタヴィアンにはわからなかったのだ。
今自分がどうすればいいのかわからぬままに、オクタヴィアンは開け放したままの扉の前にいた。そのオクタヴィアンの耳に届いたもの。それは小さな悲鳴と大きな水音。
「ソーニャ!」
「っあ、だ、大丈夫。少し滑ってしまっただけだから」
「でも濡れている」
オクタヴィアンは駆け出して、小さな川に落ちたソフィアに手を伸ばして、そうして雷に打たれたかのように固まった。
「ありがとう、ヴィー」
はにかむソフィアは、その日着ていた彼女によく似合うライラック色のワンピースをしとどに濡らしていた。
小屋の中で覚えたよりもずっと、オクタヴィアンは感情を揺さぶられた。それがなにから来るのか。劣情からなのだと今のオクタヴィアンならわかる。だがこの時のオクタヴィアンはそれすらわからなかった。ただ一つのことにだけ心を占拠されていたのだ。
ソフィアを見つめたまま、その柔らかな手をきつく握りしめた。そして勢いのまま、彼女をその腕に閉じ込めた。衝動に突き動かされるままにただ。
「ヴィ、ヴィー? どうしたの?」
「ソーニャ……ソーニャ」
「おかしなヴィー。少し濡れてしまっただけよ。こんなにいい天気なのだもの。すぐに乾くわ。それより早く小屋に戻りましょう?」
ハーブ水もできたのよ。そう言って無邪気な笑みを浮かべて水差しを示すソフィア。その柔らかな笑みに促され、オクタヴィアンはそっと腕を緩めた。本当はもっと抱きしめていたかった。柔らかで温かで、離したくないと思ったけれど、それができなかった。自分がソフィアの浮かべる笑みのように無邪気ではないのだと気づきたくなかったのだろう。
手巾で濡れた服や髪を拭うソフィアを目にしながら、オクタヴィアンは注がれたハーブ水に口をつけた。
これまで飲んできたものよりもほんの少し甘く、そして苦い後味。まるでなにかの薬を溶かし込んだようなその水はスルスルとオクタヴィアンの喉を流れた。思う以上に喉が渇いていたのだろうか。知らずオクタヴィアンは水差しの半分以上を一人で飲み干していた。
「美味しい? いつもとハーブを変えてみたのだけれどヴィーの口に合ったみたいね」
「とても……飲みやすい、よ」
「そう、よかった」
意外なほど安堵して、最後に残った一杯分をもう一つの器に注ぎ、ソフィアもそれを口にする。
コクリコクリと嚥下するたびに動く白いその喉が艶かしく思えるのがどうしてなのか。沸騰するように熱くなる頭と体を感じながら、オクタヴィアンはただソフィアを見つめ続けた。
まるで自分の瞳の色のようなライラック色のワンピースを纏うソフィア。未だ湿り気を帯びるその服は彼女の肢体を浮かび上がらせていた。
なだらかな曲線を描く胸元。折れそうなほど細く、けれど柔らかな腰元。そこから伸びる脚の形すら伝わった。紳士として、そんな姿を直視することはいけないと理解はしていても、行動がそれに伴わなかった。ただ、見とれていた。
淡く、オクタヴィアンの見たことのない輝きを放つその金の髪から一つ滴が落ちる。それが染み込んだのは、ソフィアの胸元だった。
そこからはオクタヴィアンの記憶は至極曖昧だ。
ただ手を伸ばし、一番初めに彼女の腕を取ったこと。そしてその体を抱きしめたこと。そこからは嵐のように何も考えられなくなった。
オクタヴィアンはソフィアに欲情したのだろう。
ただソフィアが欲しい。そう思う心に逆らう術など経験のないオクタヴィアンにはなく、ただ思う様ソフィアを貪った。
それがオクタヴィアンの犯した最大の罪だ。