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鈴谷さん、噂話です

狐憑きの噂話

 井上円了という仏教哲学者がいる。

 後に東洋大学となる哲学館を設立した人物だけど、それよりも妖怪研究のパイオニアとしての方が有名かもしれない。

 一応断っておくと、その当時の“妖怪”と今の“妖怪”という言葉は、少しばかりニュアンスが違っているらしいから、この井上円了の“妖怪研究”をそのまま現代の感覚で捉える事はできないのだそうだ。

 妖怪研究といっても、井上円了がやったのはその否定だった。彼は飽くまで自然科学的発想で研究を行い、その妖怪現象の本当の原因を究明していったのだ。その目的は、近代化の為に迷信を打破する事だったという。

 つまり、妖怪現象などというものは、真実ではない。だから役に立たない。それで“人間社会には不必要”とし、その為の啓蒙活動を行っていた、という事だ。

 ただし、ここが人間の複雑なところだと思うのだけど、その研究熱心な姿勢から、妖怪の類に対する興味関心は非常に高かったのではないか、とも言われている。平たく言うのなら、彼は妖怪が好きだったのだ。

 この井上円了は、その後の民俗学などの発展に大きく貢献した訳だけど、彼の後に続く妖怪現象の研究は、発想が彼のものとは根本から異なっている。

 井上円了の発想が、飽くまで自然科学的なものだったのに対し、その後の研究者達の多くは、それを社会科学的なものとして捉えたのだ。

 例え自然科学的には誤りであったとしても、それを人々が信じ、社会制度や風習などに影響を与えるのならば、そこには充分に意味があると彼らは考えたらしい。例えば、多くの形骸化する前の儀式は、人間関係を円滑にするなどの機能を担っていたと言われている。

 社会的な重要性の例として、一番分かり易いのは、シャーマン的な存在が病気を治療する、というものかもしれない。催眠による効果、或いはプラシーボ効果なのかは分からないが、それを信じた人には、実際にシャーマンによる治療効果がある。シャーマンによる説明が嘘で間違っていても、それで病気が治るのであれば、社会的装置としては充分に役に立っている事になる。つまり、価値があるのだ。誤りだから不必要であると、単純に判断できるはずがない。

 もちろん、葬式や結婚式なども、本質的には同様のものだ。それらは、社会的な装置の一つで、意味も価値もある。

 ……と、以上は、鈴谷さんという女性から聞いた話だったりするのだけど、今回の話は、この内容を踏まえておいてもらうと、よりよく理解できるかもしれない。

 あ、因みに僕は、佐野隆という名の、大学の新聞サークルに所属している学生です。大きな取柄もなければ欠点もない人畜無害な男だと、自分では思っている……

 

 鈴谷凜子…… 鈴谷さんは、民俗文化研究会という大学のサークルに所属している女学生で、僕と同学年だ。

 スレンダーな体型。少し厚めの眼鏡越しでも変わらない瞳の強さが印象的な女の子で、就職活動をしている訳でもないのに、何故かいつもスーツ姿だ。でも、とても似合っている。その所為か、それを変だと指摘されているのを僕は一度も見た事がないし、もちろん僕自身も変だと思った事はない。彼女は多少は性格がきつくはあるけど、基本的にはとても可愛いと思う。いや、その性格のきつさも含めて、僕は魅力のうちだと思っているのだけど…。

 まぁ、何というか、ぶっちゃけてしまうと、僕は彼女の事が好きなのだ。惚れている。しかもベタ惚れだ。

 今、僕は民俗文化研究会の目の前にいる。別に用はない。いや、ある。鈴谷さんに会うことが用だ。だけど、鈴谷さんはそんな事が通じるような性格ではないから、僕は彼女に会う為の口実を必死に考えているのだ。民俗文化研究会の前で、もう十分以上は悩み続けていると思う。

 相手に好かれる基本は、一にも二にも会い続ける事。と、確か、どっかの脳科学者のエッセイにそんな事が書かれてあったから、僕はそれを実践しているのだ。

 ……いえ、すいません。単に会いたいだけかもしれないです。

 “「新聞のネタが欲しい」は、つい先日使ったばかりだから使えない。取材ネタも、民俗に関係のありそうな噂話も今はない。さて、どうしよう?”

 この大学の弱小サークルは、互いに協力し合っているものだから、それを口実に利用して、僕は鈴谷さんとよく会っていたりするのだ。

 何にも思い付かずに、僕はしばらくサークル室前の廊下をウロウロしていた。人気のない場所だから大丈夫だろうけど、もし誰かが見ていたら、絶対に不審に思うだろう。

 “もう、「一緒に昼飯食べない? おごるから」、でもいいかな。けど、鈴谷さんはいつも弁当持参だから、断って来るだろうな。

 「君の笑顔が見たくなった」とか言ったら、きっとスルーか、「今、読書中だから」で、外に追い出されるだろうし……”

 やはり何も思い付かず、僕はそのうちに廊下の隅にしゃがみこんだ。そして、“鈴谷さんが出てくるまでここで待っていたら、流石に気持ち悪いかな…”とまで思ったところで、そんな僕に声がかかった。

 「そんな所で何をやっているの、佐野君? かなり不審よ」

 女の子の声。ただし、鈴谷さんではない。それよりももっと明るくてコロコロとしている感じだ。

 「小牧…」

 見ると、そこには同じ新聞サークルに所属ている小牧なみだという名の女学生がいた。

 「いや、民俗文化研究会にな」

 「民俗文化研究会に用があるの?」

 「違う。民俗文化研究会に用がなくて、困っているところなんだよ」

 それを聞くと小牧は変な笑いを浮かべた。

 「意味の分からない事を言うわね、佐野君。

 ……まぁ、なんとなく察しはするけどさ」

 それから彼女は民俗文化研究会のサークル室をチラリと見る。そのドアの向こうには、鈴谷さんがいるはず。

 因みに、僕が鈴谷さんに気があるのは、新聞サークルでは周知の事実だ。別に公言した訳でもないのだけど。

 「用なんてなくても、突入すれば良いじゃない。“君の笑顔が見たくなった”とでも言ってさ」

 「それが通じる相手なら、さっさとそうしているって」

 それを聞くと小牧は「ヘタレだなぁ、佐野君は」と、そう僕としては分かり切っている事を言って来た。そしてそれから、軽くため息をつくと、

 「まぁ、いいわ。どうせなら、佐野君も一緒に来る?」

 と、そう続ける。

 「一緒にって?」

 「わたし、用があるのよ。民俗文化研究会… というか、鈴谷さんに」

 それを聞くと僕は立ち上がった。

 「小牧ぃ 初めてお前に感謝するよ」

 そしてそう言う。小牧はそれに、「意外に失礼なことをサラッと言うわよね、佐野君って」と、そう返して来た。

 

 「あら? 今日は二人なのね。何か用?」

 少しだけこっちを見ると、民俗文化研究会に入って来た僕らに、鈴谷さんはそう訊いて来た。お茶が淹れてあって、茶菓子も出してある。一人分。いつもは読書をしているのだけど、今日は違ったらしい。と言っても、栞を挟んだ本がテーブルの上に置かれてあるから、読書の合間に単に軽く休憩しているだけかもしれない。

 「うん。佐野君が、鈴谷さんの笑顔を見たくなったのだって」

 それから小牧はそんな事を言った。

 “ちょっとぉ、小牧さん! なんて事を言ってくれるんですかぁ!”

 考える素振りすら見せず、鈴谷さんは表情をほとんど変えないで、それに淡々と「今、読書中だから」と返して来る。絶対に読書中じゃなくて、お茶を飲んでいるような気がするのですが。

 “せめて、苦笑いを浮かべるとか、冗談っぽい顔をするとかさぁ…”

 と、僕はそれにそんな情けない感想を持つ。そして、それに対して小牧はまた驚くべき発言をするのだった。

 「なぁんて、ウソウソ。そんなにヤキモチ妬かないでよ、鈴谷さん。佐野君とは、そこで偶然に会って、ついでに一緒に入って来ただけだからさ」

 “ヤキモチだって? それはないと思うぞ、小牧ぃ”と僕は思う。鈴谷さんは、「妬く…?」とだけ言って、その後は何も言わない。

 これで彼女の機嫌が悪くなったら、どうするんだ?

 と、ヘタレな僕はそれを見て不安になる。しかし、それから鈴谷さんの表情に何も目立った変化はなかった。そして、ちょっとの間の後で、

 「で、本当の用は何なの、小牧さん? 断っておくけど、私はこれからまだ読書をするわよ。色々と読みたいものが溜まっているから」

 と、そう言って来る。すると、小牧はそれから本当の用件を話し始めた。

 「うん。実はちょっと相談したい事があるのよ、鈴谷さんに。

 ……あのさ、鈴谷さんって、憑き物筋って知っている?」

 憑き物筋?

 考えてみれば、僕は小牧の用件を聞いていなかった。どんな用があるのかを知らない。そして、小牧の発したその単語を聞いて、鈴谷さんの表情は変わったのだった。やや緊張した顔つき。

 「知っているわよ。日本各地で言われている、憑き物を使役する家系のことね。その家系は、憑き物を使役する事で、富を得ているなどと説明される。忌み嫌われる場合が多く、差別問題にも関わっている。使役する憑き物で代表的なのは、人狐やクダ、イヅナなどの狐を連想させるもの。その他、狐じゃなくても、犬神、トウビョウなども。

 少し付け加えると、憑き物筋の狐は、霊獣として信仰されている狐とは少し違っている。ただし、その辺りは曖昧に混ざり合っている部分があるので、はっきりはしないわ」

 それだけの事を鈴谷さんは一気に語る。

 彼女にはスイッチが入ると、一気に饒舌になるという特性があるのだ。多少、興奮し易いところがあるのかもしれない。そのスイッチは、主に民俗文化系の話題が切っ掛けで入ってしまうようなのだけど。

 「おー、相変わらず見事ねー」

 と、それを受けて小牧が言う。鈴谷さんはそれにこう返した。

 「それで、憑き物筋が関わる噂話が、何かあるの? 小牧さんの口から、それが出るってことは、そういう事なのでしょう?」

 新聞サークル所属の小牧なみだは、噂話に詳しいという特技がある。どっからどう集めてくるのかは知らないが、この大学近辺の噂に精通しているのだ。鈴谷さんはそれを知っているから、そう尋ねたのだろう。すると、小牧はこう答えた。

 「まぁ、簡単に言っちゃうと、破談の危機な訳だよ」

 破談?

 僕にはどうして憑き物筋の話が、破談に結びつくのか分からなかったけど、鈴谷さんには察しがついたらしかった。

 額に手をやると、「それはまた、面倒そうな話ね」と、そう言う。それで僕は「どういう事?」と尋ねた。

 「“憑き物筋は忌み嫌われる場合が多い”ってさっき言ったでしょう? だから、婚姻も拒絶されることがあるのよ」

 鈴谷さんはそれに淡々とそう答える。小牧が続けた。

 「何でもね。結婚が決まりそうになったから、お婿さんの方のお爺ちゃんに、その話をしたんだって。

 そうしたら、そのお爺ちゃん、その相手の家のことを調べたらしくてね。それで、憑き物筋の家系かもしれないから、もっと慎重に考えろって言い始めたらしいの」

 僕はそれを聞いて、「はぁ、今でもそんな話があるもんなのか」と、そう感想のような事を言った。

 「お爺さんだからって事もあるのでしょうけど、現代でも残っている処には残っているのよ…… 悲しい話だけどね。

 でも、その話からすると、まだ憑き物筋の家系って確実に分かった訳じゃないのね。なら、説得の糸口はあるかもしれない。もっとも、仮に憑き物筋だったとしても、それで結婚が破談っていうのは、あってはならない事だけど」

 「うん。そのお婿さんの方の家は、つい最近… と言っても、五年くらい前だけど、に引っ越して来たばかりだから、この土地について詳しくはないみたい。

 だから、相手が憑き物筋っていうのも、そのお爺ちゃんの予想でしかないわ」

 鈴谷さんはそれを聞いてため息を漏らす。そして、「なるほど。普通の憑き物筋とは、逆って訳ね」と、そう言った。

 「逆って?」

 と、僕はそう質問する。因みに、基本僕は無知なものだから、質問役になる事が多い。鈴谷さんはやっぱり淡々と説明する。

 「憑き物筋ってね、本来は外部から移り住んで来た新住民に対しての偏見から生まれる場合が多いの。

 外来者は、差別される。何処の社会でもよくある事だけど、その一つって訳ね。その家が裕福だった場合とかは、そこに妬みも加わり、想像力が働いて怪しげな力が噂されるに至る。そしてそれこそが“憑き物の使役”で、その家系は“憑き物筋”となる。

 ……と、まぁ、そんなような説明をされる事があるのよ。もちろん、そこに各地の言い伝え等が混ざって、様々な色付けがされるのだけど。

 この話が本当なら、“憑き物筋”は、無理矢理に作られた悪口みたいなもんって事になるわ」

 僕はその鈴谷さんの説明に頷いた。

 「なるほど。今回は、外来者の土地住民に対する偏見から憑き物筋が出てくるから、“普通の憑き物筋とは逆”なのか」

 「その通り」と、鈴谷さんは返してから、小牧を見ると訊いた。

 「でも、“火のない処に煙は立たない”よね? そのお爺さんは、どうして相手の家が憑き物筋だなんて思ったの?」

 「うん。ほら、この大学の裏の道を、ちょっと行った所に、稲荷があるでしょう? で、何でも、その稲荷は元はその相手の家のものだったそうなの。

 で、その昔その家の人は、よく“狐憑き”になっていたらしいって噂があるから、多分、それだと思う」

 それを聞くと鈴谷さんは、深刻そうな表情を浮かべた。そして、自分の唇に手を当てると「狐憑きか…」とそう呟いた。唇に触れるとかそういうのは、自分を落ち着かせる為の仕草だって聞いた事がある。なら、彼女は今不安を感じているのかもしれない。そう僕は思っていたのだけど、それから彼女はこう言うのだった。

 「それは… ちょっと、面白い話ね」

 

 その稲荷祠は、十字路の道路の隅にささやかに祀られていた。なんだか、少し心細くなってしまうくらいだ。そこには、そのままくぐったら頭がぶつかってしまうくらいの小さな鳥居が幾つも並び、まるで洞窟みたいになっている。色は鮮やかな朱色。古くて掠れた感じがとてもいい。そしてその先には、もちろん、狐の石像がある。

 稲荷といったら、やっぱり狐だ。

 僕には知識はないけれど、こういうのを良いと感じる感性はあるんだ。だから、こういう場所は好きだったりする。

 「確か、この狐って、本当はジャッカルなんだよね? でも、日本にはジャッカルがいないから、狐を当てたって…」

 偶には知識があるところを見せようと、僕がそう言うと、「それ、俗説よ… そんな資料はどこにもないわ」と、鈴谷さんは淡々と切り捨てた。

 ……やっぱり、偶にカッコつけようとしても、上手くいかないみたいです。

 「元々、狐は日本で霊獣として信仰されていたの。食物の根元を古語ではケツネと言い、キツネと関連付けられたとか、その神秘的な姿や振る舞いから信仰の対象になったとか色々と言われているけど、農耕に結び付けられて考えられていて、狐の鳴き声でその年の豊凶を占うなどといった事が行われていたそうよ。

 稲荷とは、稲なり。つまり、本来は農耕の為の信仰なのね。狐がその神使とされたのは、だからだと思うわ。もちろん、一説に過ぎないし、稲荷はそんなに単純なものでもないのだけど…」

 そう言い終えると、鈴谷さんはその稲荷祠を黙って見つめた。それから、「ここで立ち話をしている暇はないわね。用件を早く済ませましょう」と言う。それで僕らは、その稲荷祠で簡単にお参りを済ませてから、近くにある家へと向かった。今回、憑き物筋ではないかと疑われている渦中の家だ。

 

 「――他人の家同士の、揉め事に首を突っ込むのも出過ぎた真似だとは思うけど、やっぱりこういうのは放っておけないわ。意味がない不幸だもの」

 鈴谷さんは、説明を一通り聞き終えると小牧に対してそう言った。そうは見えないけど、少し熱血なところもあるんだ、彼女には。

 「良かった。専門家に相談してみるって大見得切っちゃったのよね、わたし」

 と、それを聞いて小牧は喜んだ。小牧の反応を受けると、鈴谷さんは「私は別に専門家じゃないわよ」と答えながらも、自分が関わっても問題なしと判断したのか、「でも、そうと決まったら、早速、行動よね」と、そう続ける。実は鈴谷さんには行動力もあるのだ。僕が一番見習いたいと思っている点だったりするのだけど。

 その発言には、流石に小牧は驚いていた。

 「え? もう行くの? 断っておくけど、わたし、これから用事があるから、そのお爺さんの家には案内できないわよ?」

 そう言う。小牧の言葉を聞くと、鈴谷さんは、

 「ご心配なく、まずは調査から始めるのが基本でしょう? その相手の家… 稲荷の“狐憑き”からまずは調べるわ」

 と、そう返したのだった。そして本当に支度をし始めてしまう。その鈴谷さんに、やっぱり小牧は驚いているようだった。

 因みに僕は、鈴谷さんとデート(?)できるチャンスだと思って、その後、黙ってそのまま彼女と一緒に稲荷祠へと向かった。少なくとも彼女は僕を拒絶しなかったから大丈夫だと思う。本心では、どう思っているか分からないけど。

 

 「私は大学の民俗文化研究会に所属している鈴谷凜子といいます。こちらは、同じ大学の佐野。

 実は、今、私は稲荷について勉強していまして、こちらがかつてはこの近くの稲荷を祀っていたご本家だと知り、是非話を聴かせてもらえればと、伺わせてもらいました」

 僕らの訪問を驚いた顔で迎えたその家のおばさんに対して、鈴谷さんは毅然とした口調で、そう説明した。

 彼女に惚れている僕の目からの評価、という欲目を考慮に入れても、とても確りした態度だと思う。これなら不審に思われる心配はないだろう。

 「はぁ…」

 と、まだ驚いた様子でいるそのおばさんはそう答えた。それからこう続ける。

 「あの、まぁ、それは別に良いのですが、もう随分と古い事ですし、大した話は聞かせられないと思いますよ?」

 鈴谷さんはそれに軽く頷く。

 「大丈夫です。詳しい事情までは、聴くつもりはありません。この家で、どうして稲荷を祀る事になったのか、その由来を聴かせてもらえれば充分です」

 そう鈴谷さんが応えると、不思議そうにしてはいたけど、そのおばさんは「それでは…」と言って、それから僕らを家の中に招くと、お茶を出してくれ、その由来を話してくれたのだった。それに依ると、かつてのこの家が稲荷を祀っていたのには、こんな経緯があったらしい。

 この土地は元々は森で、多くの動物達が暮らしていた。ある時、人々はそこを拓いて、農地にしたのだが、しばらくしてこの家の娘に狐が憑いた。

 その時、狐の霊は、娘の口を借りて、こんな事を言ったのだという。

 「自分はこの土地に長い間暮らしていたものだが、森がなくなった事で、ここでは生きてはいられなくなった。その恨みから祟りをなすつもりでいる。しかし、稲荷と共に我を祀るというのなら、その罪を許し、この土地を守護する事を約束しよう」

 そこで、その言葉に従って、早速、稲荷を祀ると、立ち所に狐は離れたらしい。ただし、それからも狐が憑く事は度々あり、災厄を知らせたり、逆に祀る事を怠った場合には、警告を発したりしたのだとか…

 「これではっきりしたわ」

 話を聴き終えて家を出ると、鈴谷さんはそう言った。もちろん、僕には何がはっきりしたのか分からない。僕の不思議そうな表情に気付いたのか、鈴谷さんはこんな説明をしてくれた。

 「稲荷信仰というのはね、佐野君。とても複雑な経緯で広まっていったの。祭神は、倉稲魂命うかのみたまのみことという事になっているのだけど…」

 「うかのみたまのみこと?」

 「日本神話に登場する神様で、穀物の神様ね」

 「日本神話… って事は、神道かな?」

 「一応、伏見稲荷大社が全国にある稲荷神社の総本社って事になっているのだけど、稲荷には仏教系も存在するわ。仏教系稲荷の本尊は荼枳尼天。さっき佐野君が言った、ジャッカルの俗説はこっちの話ね」

 「神道も仏教もあるって、なんか滅茶苦茶だなぁ」

 「神仏習合よ、佐野君。宗教に対して柔軟性のある日本では、それほど異常な事でもないと思うわ。

 ただ、稲荷信仰には、その他にも流行神としての性質もあるし、土地神としての性質も色濃くある。さっきも言ったけど、農耕神として農村部で信仰されていた稲荷を考えるのなら、特にその点は重要なのね。

 そして、今回の稲荷は、恐らく土地神としての稲荷。話を聞く限りでは、流行神としての性質はないと思うわ。土地神としての稲荷には、さっきの話に出て来たような土地に纏わる祟り神としての性質があるから、間違いないと思う。憑くっていう点がとても重要。シャーマン的存在との関わりもあるから」

 僕はそこまでを聞くとこう尋ねた。

 「さっき、鈴谷さんが“はっきりした”と言ったのは、その事?」

 すると彼女は少しの間の後に、自分がそう言った事を思い出したのか、「ああ、うん。そうよ」と返した。それからこう続ける。

 「とにかく、これで勘違いをして結婚に反対をしているお爺さんを説得できる材料が手に入ったわ」

 「なるほど。由来が分かったから」

 「ええ。後はそのお爺さんの人となりがどうであるかにかかっているわね。実際に会ってみないと分からないけど」

 そう言う鈴谷さんは、なんだか自信有りげに見えた。僕にはそれが不思議だった。説得の材料としては、まだ弱いような気がしていたからだ。もしかしたら、彼女にはまだ何か考えがあるのかもしれない。

 

 当日。小牧に案内されて、僕と鈴谷さんはその問題のお爺さんがいる家へと向かった。でもって、家の近くで結婚を反対されているというカップルと落ち合った。小牧は自分はそのカップルの「知り合いの知り合いの知り合いくらい」とか、言っていたけど、それってつまりは他人って事じゃないのかと、僕なんかは思ってしまった。が、敢えてそこには触れないでおいた。ただ、それにしては妙に馴れた感じで、小牧はそのカップルと話していたのだけど。

 まぁ、これは彼女の特殊技能みたいなもんじゃないかと思う。

 「しかし、佐野君もチャッカリしているわよね。しれっと一緒に付いて来るなんて」

 道中、小声で小牧は僕にそう話しかけて来た。実は僕は鈴谷さんにも小牧にも同行の許可を貰っていなかったりする。鈴谷さんは、恐らく僕が小牧に許可をもらって来たのだと思っているのだろう。

 「当たり前だろう? 鈴谷さんと一緒にいられる数少ないチャンスを逃して堪るか」

 小声で僕はそう返す。それを聞くと、小牧は軽くため息をついて、「佐野君、自信なさ過ぎだって」とそう言う。

 「鈴谷さん。佐野君のこと、絶対に嫌ってはいないと思うわよ。鈴谷さんの性格だったら、もし嫌っていたら、普通に拒絶しているでしょう?」

 「嫌われていなくても、好かれているとは限らないだろう?」

 好かれても嫌われてもいない… つまり、無関心というのが最も恋愛対象になる可能性が低いってのは、よく聞く話だ。

 「いや、そういうのじゃなくてさ」

 僕が何を言いたいのか察したらしく、小牧はそう返した。僕は言う。

 「それとも何か? 僕に何か鈴谷さんに好かれる要因があるとでも?」

 「なんでそういうマイナス方面には、自信があるかな、佐野君は。

 ……でも、そうね。佐野君だったら、絶対に尻に敷けるってのは、鈴谷さんにとってはメリットなんじゃない?」

 その小牧の言葉に僕は「なるほど」と、そう呟く。

 「そういう考え方もある訳か…」

 「これで嬉しそうにするところが凄いと思う、佐野君は」

 そこまでを話したところで、不意に小牧が僕の横を指差した。何かと思って顔を向けると、鈴谷さんが。

 「あれ? どうしたの、鈴谷さん」

 僕が尋ねても鈴谷さんは何も返さなかった。無表情。僕はちょっと不安になる。しかし、そこで小牧はこう言うのだった。

 「ほらね」

 僕には何の事だか分からなかった。

 

 カップルに導かれて、問題の家に着く。五年くらい前に引っ越して来たと聞いていたけど、家は古かった。恐らくは、中古なのだろう。ただ、広くて庭付きで、住み易そうな家ではあった。

 家の中にお爺さんがいる事を確認すると、カップルは僕らを家の中に招いた。そして男の方だけが奥の座敷へと足を進め、お爺さんに僕らを大学の学生だと言って紹介した。その後を引き継ぐようにして、小牧が言う。

 「こちらの鈴谷さんは、大学で民俗文化研究会に所属しています。そして、もう一人はその彼氏の佐野君」

 その発言に僕は驚く。なんで、そういう余計な事を言うか。小牧は、こういう悪戯が多くて困る。鈴谷さんが、どう反応するかと思ったけど、彼女は無反応だった。お爺さんの目の前で揉めたりしたら、印象が悪くなると判断したのかもしれない。

 「話は聞いています」

 お爺さんは、それを受けるとそう言う。

 「何でも、あの家が憑き物筋ではない事を、私に説明しに来たのだとか」

 お爺さんは静かにそれだけを言う。落ち着いた感じだ。頑固そうには思えなかった。これなら上手く説得できるかもしれない。

 「はい。その通りです。あそこの家は、憑き物筋ではありません。民俗学者の小松和彦さんに拠れば、憑き物筋は、トランス状態を伴わないといいます。つまり、憑き物筋の家系は、使役している憑き物に自ら憑かれたりはしないのです。もちろん、子細に見れば例外もあるでしょうが、基本的には憑かれたりしません。

 あの家は、かつて狐に憑かれていた訳ですから、合致はしません。それに、そもそも稲荷で祀られている狐は、憑き物筋の狐とは別ものでもあります。

 ただし、憑き物であるイヅナと飯縄権現が関わり、飯縄権限が稲荷と関わっている、といった関連性はありますが」

 鈴谷さんは、まずは淡々とそれだけを語った。それにお爺さんは、軽く頷く。

 「なるほど。研究しているというだけあって、確かにお詳しいようだ」

 そして、そう言った。鈴谷さんは、それを否定する。

 「いえ、研究だなんて大それたものではありません。私は好事家の類です。民俗文化研究会といっても、ただのサークルですからね」

 お爺さんはこう答えた。

 「いずれにしろ、私はあなたを信用する事にしたよ。ただ、あなたは少しばかり勘違いをしています」

 「勘違い?」

 「はい。私は憑き物筋だと言った訳ではなく、“狐に憑かれる憑き物筋のような家系とは婚姻を結ぶべきではない”、と言ったのです。

 憑き物筋かどうかは関係がない。そんな祟られているような家とは、付き合いたくない」

 僕はそれを聞いて“おおっと!”と思う。何やら雲行きが怪しい。どうやら噂話になって、話が多少、歪められて広まったいたようだ。ありがちではあるけど。

 それに、この爺さん、態度こそ柔らかいけど、中々に強情そうでもある。一癖も二癖もありそうな感じ。これは簡単にはいかないかもしれない。

 しかし、鈴谷さんは物怖じしなかった。流石だ。

 「なるほど。確かに、稲荷と言えば、祟り神の側面がありますね」

 そう言うと、お爺さんの反応を少し確かめてからこう続けた。

 「子供の間でよく行われる“こっくりさん”というものがありますが、ここでも稲荷の狐がよく出てきます。取り憑くのは稲荷の狐だ、などと説明される訳ですね。

 もっともこれと同系統のものは、自己暗示によるものではないかと、随分と昔に井上円了によって指摘されているのですが。

 井上円了は東洋大学となる哲学館を設立した人物で、迷信を打破しようと啓蒙活動を行っていました。ですが、今でも“こっくりさん”が行われ、霊の作用が信じられているという事は、彼の活動は充分には効果がなかった、となるのかもしれません」

 鈴谷さんの口調は、淡々としたものだったけど、この説明は暗に、“憑き物を信じるなんて子供と同レベルだ”と言っているようにも僕には思えた。ただし、爺さんに怒りの反応はない。

 穏やかな性格なのか、それとも鈍いのか。後者なら、説得し難いかもしれない。爺さんの反応を窺いながら鈴谷さんは続けた。

 「それに、“稲荷の狐が祟る”。これを何も考えないで受け入れるのは、民俗学的にも少々、思慮が浅いように思います。

 そもそも、どうして稲荷の狐は祟るのでしょうか?」

 爺さんはそれに何も答えられなかった。いや、そもそもこれは返答を期待した質問ではないだろうけど、仮にそうでなかったとしても、普通は答えられないだろう。

 鈴谷さんは言った。

 「一説によれば、稲荷の狐が祟るのは、土地の侵略に関わるフォークロアなのではないか、といいます。

 その土地を外部の者達が侵略する。それまで信仰されていた神は、侵略者の手によって怪物などとされ、その退治の物語が作られる。

 龍退治や鬼退治などに属する話ですが、稲荷に纏わる話も、これと同系統だというのです。もっとも、稲荷の場合は、退治などという物騒なものではなく、その土地の神が稲荷として祀られる、という過程を踏むようなのですが…

 ただ、それでも土地を奪われた当初は、それを恨んで祟ります。そして、そこに“狐憑き”の物語が生まれもする」

 僕はそこまでを聞いて、鈴谷さんの話の意図を理解した気になった。祟られていると言っても、それは家系の問題ではないのだ。土地の歴史に関わる物語なのだから。

 が、爺さんは納得をしなかった。こう反論をする。

 「なるほど。話は分かりました。しかし、それでもあの家にだけ、狐憑きがあったのは事実なのでしょう?

 土地の問題なのだとすれば、他の家にも狐憑きが起こって良さそうなものなのに」

 ただし、鈴谷さんはやっぱり動じない。こう言う。

 「そうですね。奇妙です。ただ、その原因の予想は付きます。恐らくそれは、あの家系が、神聖なる立場にあったからではないでしょうか」

 「神聖なる立場?」

 爺さんはその鈴谷さんの言葉に驚いているようだった。

 「はい。稲荷で信仰される神… つまり、土地神は、稲荷が入る前から、農耕神として民間で信仰されていたものである可能性が高いのです。そして、農耕神であるのなら、豊凶を占う等の託宣も行います。

 さて、ここで考えてみるべき点があります。託宣を行う人間は、どのような状態になるでしょうか? シャーマン的な存在は…」

 それを聞いて僕は思わず、「ああ、なるほど。神が身体に降りてきた状態、つまりトランス状態になる訳か」と、そう呟いていた。鈴谷さんは僕を見ると、少し笑う。

 「ええ、そうよ。そして、日本の民間では、広い地域で、女性は神聖な存在とされていた。だから巫女の役目を担う。稲荷信仰の祭神は、神道系の場合は倉稲魂命うかのみたまのみことで、仏教系の場合は荼枳尼天。どちらも女性の姿をしている。

 そして、子供も同様に、神に近い者とみなされていた。そして、狐憑きに遭うのは、女性か子供の場合がとても多い。この意味は軽視できないわ」

 爺さんはそこまでを聞くと言った。

 「つまり、“狐憑き”とは、神からの託宣を行う状態と同じものだと…」

 鈴谷さんは頷く。

 「はい。恐らく、民間信仰で神の憑代としての巫女の役割が、それが稲荷信仰に変わった状態では“狐憑き”となってしまったのではないかと考えられます。

 ならば、それは穢れたものなどではなく、むしろ神聖なものであるはずです。決して、忌避するべきものではない。それは、民俗社会の中で、一つの機能として、とても役に立っていた」

 そこまでを聞くと、爺さんは腕組みをした。そして、こう言う。

 「なるほど。神様からのお告げを嫌っては、むしろ罰が当たるな…」

 少しの間の後、爺さんは膝をポンと叩くとこう言った。

 「話は分かった。私が結婚に反対する理由は、どうやらないようだ」

 それを聞くと、鈴谷さんは頭を深々と下げて「ありがとうございます」と、お礼を言った。僕もつられて一緒に頭を下げたけど、なんだか間抜けな感じになってしまった。因みに小牧は、頭を下げなかったようだ。

 「ああ、どうか、そんな真似はしないでください。お礼を言いたいのは、むしろこちらの方なのだから…」

 爺さんは鈴谷さんのその行動に、慌てていた。

 

 それから僕らはお礼だと言って、土産を渡された後で、感謝されつつ家を出た。もちろん、結婚への障害がなくなったカップルは男女共にとても喜んでいた。

 「良いお爺さんで良かったわね」

 家を出た後で、鈴谷さんはそう言った。機嫌がとても良いようだ。

 「良い爺さんなら、そもそも結婚に反対なんかしないのじゃない?」

 僕がそう言うと、「人間がそんなに簡単な生き物だったら、世の中、もっと良くなっているわよ」と、そう鈴谷さんは言う。

 その後で小牧が言った。

 「でも、鈴谷さんがこういう事に積極的に関わるのってなんだか意外だな」

 僕は鈴谷さんのこういう行動を、これまでに何回か見ているから意外でも何でもなかったのだけど、彼女にとってはそうではなかったらしい。

 「そう?」

 と、鈴谷さんが言うと小牧は、「そうよ。あまり、他人に関心なさそうじゃない」と返す。

 正直、小牧もかなり失礼な事をサラッと言う奴だと思う。

 「確かに、人付き合いって点では私は劣っているかもしれないわね」

 と、鈴谷さんはそう応えた。僕はそれを否定しようとしたのだけど、鈴谷さんが「でも、」と続けたので口を噤んだ。

 「ある学者が自分の研究は、本当に世の中の役に立っているのだろうか?と苦悩しているのを、私は読んだ事があるの。

 学問を否定するのは私は大反対だけど、でも、学者自身がそれを不安に感じ、疑問に思うのは、大切な事だと思うわ。

 だからね。私は研究者ってほど大袈裟なもんでもないけど、それでも、自分のやっている事が、何かの役に立つ機会があったなら、できる限り手伝う事にしているのよ。人付き合いが苦手だからって、逃げてはいられないもの。

 霊や神様、儀式。そういったものの価値は、世の中の役に立つからこそ、認められるべきものなのよ。それは、きっと、学問も同じなのだと思う」

 そう言い終えると鈴谷さんは嬉しそうに微笑んだ。そして、そんな彼女に僕は見惚れていた。

 やっぱり、彼女はカッコいい。

 そして、そう思った。

参考文献:山と里の信仰史 著者・宮田登 吉川弘文館

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