夏と彼女たち。
少女同士の淡い恋が大好きです。背徳や常識をほんの少しだけ超えた世界には自分の届かない美しい風景が広がっています。そんな情景を、夏という明るい季節で後ろめたさを隠しながら、色鮮やかに描いてみました。是非、気持ちが暗く沈んだ時に、お読みください。
とても暑く、蒼い空には雲一つない。そんな夏の日の事だった。
日の光をいっぱいに浴びた向日葵が、私の頭に優しい影を落としてくれた。大きめの麦わら帽子をかぶり直し、小路を進んでいく。
高揚が私の鼓動をちょっとづつ速めていくのを感じる。体の奥底には、夏の暑さとはまた違う快い火照りがあった。
あの子と会う。その現実は否が応でも私の胸を高鳴らせた。心なしか歩くスピードも早い。
「――――――――♪」
透き通ったソプラノの声が響いてくる。外国の曲……だろうか? 異国めいた音は私の耳になれないものだった。あの子が、其処に居る。体を抜けるような清涼感。日差しが一瞬、揺らいだような気がした。
「 」
あの子の名前を叫ぼうとして、声が詰まった。
名前を言ったら、居なくなってしまいそうな気がして。
ほんの少しのためらいを感じ、立ち止まる。頭の中の朦朧とした熱が冷めていく。
いつの間にか現れていた白い雲が太陽を覆い隠し、昏い影が落とされる。自分の息を感じ、酷く乱れていることに気付く。心の片隅から私を呑み込まんとふくれあがる得体のしれない不安。
今も尚聞こえ続ける異国の歌は、耳慣れた言葉へと変わっていた。
「――――♪――――♪」
風が一際強く、私を掠めた。
悲しい恋の歌、なのだろうか。フレーズの一つ一つが相手を求めているのがわかった。彼女も又、私と同じような不安――――もう逢えないのではないかと――――を感じていうのだろうか。切なく美しい声には、人を惑わす力さえ籠っているかのようだった。
積乱雲が流れ、太陽が再び顔を表す。じんわりとした日光の温かさが私の体を撫でる。
同じ不安を持てている――――痛みを共有している、という事実は、私の心に深い感慨と優しい安堵を与えてくれた。
先程澱んでいた雰囲気を振り払うように、私は走り始めた。
怖いものなんて何もない。不安なことは消え失せた。彼女の居場所は彼女が示してくれた。自分は其処に、ただ行けばいい。確信は確かな力と成って、私の体を動かし続けた。
運動は、得意ではなかったけれど。
「――――!」
私は無我夢中になって彼女の名を呼んでいた。声になっていないのではないかという杞憂も、彼女の更に大きくなる声が無くしてくれる。反響し、広がっていく私たちの声は空高くまで突き抜けていった。きらきらと降り注ぐ太陽の光を裂き、髪を揺らす風を突き抜ける私の体はさながら一本の矢。
息が切れ、胸ははち切れんばかりに血液を送り出していたが、不思議と苦しさはなかった。ランナーズハイとはまた違った体の火照り。苦しさの中に見える快感。心の中はかって無いほどの心地良さで満ち満ちていた。
終わりの見えない向日葵畑の中を疾走る――――
走り、走り。走って走った。
歌声が大きくなる。
全ての音は呑み込まれた。
無限かと思うような永い路。
それもやがて終わりをつげ。
目の前に。
光が広がる――――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「――――ったぁ!?」
目の前に星が飛んでいた。地から天へと垂れ下がるカーテンを横目に確認。腹筋のみで体を起こし、上下感覚を正常なモノへと正す。東の空から射す日光がうっとおしかった。
「またこの夢かぁ……」
空へ放たれた独り言は部屋の中に虚しく響く。当然答えてくれる人などいないので溜息を一つ。本当に虚しくなってきた。
この夢。向日葵畑の中を走ってどこかに行く夢。エキサイティングしすぎてベッドから落っこちるのを除けばいい夢なのに。これが一ヶ月に最低二回はあるというのが更に頭を痛くする(物理的にも)。
病気かなんかじゃないのかこれ。自分の頭を疑う。フロイト先生的にこの夢は何を暗示しているのだろうか。
知ったところで特に何もないけど。
床に正座をし、ぐるりと部屋を見渡す。薄桃の壁紙(母の趣味)、無骨なスチールの机(父の趣味)。そして、本棚にびっちりと詰められた、漫画!
マンガまんが漫画!!この素晴らしい遺産たちがあるということは、やはりここは素晴らしい現実に違いない。夢の世界に引き摺られていた認識をこちらに無理やり引っ張り戻す。
「うへへぇ……漫画さいこぉ……」
ヤバイ涎出てきた。今、傍目から見てもかなりキモチワルイことになっているだろう。鏡を見るまでもない。というより見たくない。
女子らしくない趣味だとは分かっているけど、それがどうしたのだ。私は自分を曲げないよ。この一軒家の二階に位置する六畳の自分の城。二年前の建て替えの時父に頼み込んで部屋を貰ったのは正解だった。
よたよたと立ち上がり、腕をぐいっと上に伸ばし、寝ている間に凝り固まった筋を一本一本解していく。この作業を怠ると怪我をしてしまうので要注意。
寝汗で重くなったパジャマ代わりのジャージを脱いで……ベッドに放り投げる。あとで洗濯機に入れておこう。運動用の動きやすい服を箪笥からだし、腕を通した。
静かに部屋のドアノブを捻り廊下に出る。家族の誰も起きていないのか、家の中は静まり返っていた。階段を忍び足で降りていく。
トントントン、と小気味よいリズム。
履きなれた靴を履いて、そろそろと玄関を出る。不審者か何かじゃあるまいしもっと堂々とすればいいとは思うのだが、朝毒の雰囲気のせいか何となく挙動不審になってしまう。
夏のこの時間は既に日差しが強い。日焼け止めを塗った方がよかっただろうか。左手に着けたスポーツスタイルの時計が指しているのは五時三十八分。
屈伸、伸脚、アキレス腱といつもの体操をゆっくりこなしたあと、家の前の門にかかる『久下』の表札を一瞥した後、走り始めた。
「――――はぁ――――っはぁ――――」
走り慣れた道を往く。朝の少し湿った空気が私の鼻を擽る。土と草の匂いは、昨日の夜に降った雨のせいだろうか。水溜りとぬかるみを飛び越えながら、少しずつ速度を上げていく。風を切る感覚が気持ち良い。
血液が全身を巡り、頭を冴えさせてくれた。一日の始まりを改めて感じる。ここ五年程続けているこのランニングは、もはや一日における大切なルーティンとなっていた。
朝日の中を、駆ける。
アスファルトを蹴る音が、いまだ静かな町の中に消えていった。
「――――ふぅ」
呼吸を整え、整理運動を行う。時計が指すのは六時八分。意外と多く走ったなぁ。楽しい時間が過ぎ去るのは早いのだ、と誰に聞かせるでもなく呟きながら丁寧に足の筋肉をほぐしていく。ここを怠ると次の日がきつくなってしまうので、念入りに。
気温が上がってきたのだろうか、汗が全く引かない。背中に張り付いてくるランニングシャツが不快な湿り気を帯びていた。お風呂までの我慢我慢。
少しだけ焼けている肌を見ると、夏真っ盛りであることを改めて実感する。
「ただいまー」
家に入ると、中から何かが焼ける音とともに「おかえりー」と母の返事が聞こえた。部屋の前からキッチンに向かって一言、「シャワー浴びてくるー」とだけ言ってさっさとシャワー室に直行。
玄関前の姿見には、汗まみれの女子高生がばっちり映っていた。意外とスタイルいいじゃん、とか思ってしまう。わかっている。光のマジックだ。
自分の他の人よりも幾分か体積の少ないような気がする三角錐を眺めながら風呂場へ。汗ですっかりぐしょぐしょの衣服を全て脱ぎ籠の中へ突っ込む。
浴室へ入り、蛇口を捻ると流れてくるのは温かい水。お湯は私の体を濡らし、汚れを濯いでいく。心地良い清涼感。あまり長くない髪の毛を手で梳いた。一時期は肩口まで伸ばしていたけれど、どうにも似合わなくって――――それ以外にも理由はあるけど――――バッサリと切ってしまった。今思うと、少しもったいない気がしてならない。
体を伝い、床へと流れていく水滴は蛍光灯の光に照らされ、温かく光っていた。
蛇口を反対側に締め、浴室を出る。体と髪の水分をタオルでふき取り、母の置いておいてくれた下着と制服を手に取る。母よ。この下着のセンスはない。
とりあえず穿くけど。
さすがにぱんつはいてません状態で登校するほどギャンブラーでも変態でも痴女でもない。
そう、登校。夏休みを目前に控えている七月の半ばである。どんなに暑かろうと浮かれていようと終業式までは学校に行かなくてはならないのだ。授業もあるし。
「…………行きたくないな」
純粋にめんどくさい。休み前の学校ほど萎えるものはない。
溜息をしながら髪を簡単に乾かしリビングに出ると、ダイニングテーブルには既に朝食が並んでいた。目玉焼きとウインナー、彩りのレタスとプチトマト。その横には焼かれたパン。ザ・朝食みたいなメニューである。捻りが無いとも言う。
「おかーさーん!ぎゅーにゅー!」
「お母さんは牛乳じゃないわ。自分で取りにいらっしゃい」
「…………」
んなこと知ってるわい。
心中でぼやきつつ台所へ行き、冷蔵庫を開けようとした、その時。
「――――この写真って?」
マグネットで留められた写真の中で、小さいころの私と、外国人のかわいらしい金髪の幼女が仲睦まじげに肩を並べていた。
「あら、小さいころよく遊んでたあの子よ。偶々写真出てきたから貼ってみたの」
「う、うーん」
まったく思い出せない。
何となくばつが悪くなって、頭の後ろを掻きながら呻いてみるものの、何も思い出せないのでとりあえず牛乳を取り出すと。
「…………」
「あらどうしたの? 難しい顔して」
「…………賞味期限。切れてんじゃん」
ランニングですっきりとした頭の中に残ったのは、一抹の引っ掛かりと不安感だった。
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私立時柄学園は海を背に立つ、この地域でも一二を争う“普通”の学校である。進学を目指すのならここから十キロほど東にある公立の高校に行くし、素行不良成績不良な方々は西に一三キロほど離れた番長制のある学校に行くので、そのどちらでもない中途半端な人たちが集まってしまう。故にかなり普通な学校になってしまっている。
「ウィキクロ大百科より抜粋」
「なんやねんこれ」
「いやネットの百科事典に書いてあったんだけど……」
「…………だいたいあっとるわ」
「うん」
そんな不毛な会話をしながら私は自慢の黒髪を級友の服部明に弄ばれていた。私こと久下菜々子の自慢の黒髪は他のチャラつきあそばしてるそこらの女の染め直した媚び媚びの黒髪ではなく、完全に自前である。
「それにしてもめっさ髪キレいやな―自分。ワカメでも食ったんか?」
「それ迷信じゃなかったっけ……てか触るなうっとおしいなぁもう」
「んなことどうでもええんやけど!なぁ、食べてええかなぁ!!」
「気持ち悪い死ねアバズレズ」
似非関西弁を操りこちらに顔をガンガン寄せてくる。怖い。自分がベリーショートだからって私の髪で遊ぶのはやめていただきたい。アンチめちゃモテ道まっしぐらな気がする。
「……私じゃなくて姫乃の髪にしなよ」
おっぱいでかいし。
私はうんざりしながら隣の菊川姫乃を顎で指す。そんな彼女は天然の茶髪(とても長い)。
姫乃は微笑みながら会話に入ってくる。
「あらぁ、私の髪ならいくらでも触っていいわよぉ?」
「ホンマか! じゃあ遠慮なく――――ッ!!」
「ただし十分千円よぉ?」
「怪しい店かーいっ!」
「一時間超えたらあとは十分五百円よぉ」
「そう考えるとロングタイムやとお得――――ってんなわけあるかーい!」
「うふふ、ノリツッコミありがとうねぇ?」
「姫乃ちゃん、礼は体で支払ってもらうでぇ……」
「あらあら、なにを言ってるのかしらこのスケベ親父はぁ」
間延びした声ですっごい酷いこと言う女である。さすが腹黒。そういうとこも嫌いじゃない。さすが私の友人。
「…………姫乃」
「なぁに菜々子ちゃん? 男のひっかけ方ならいくらでも教えてあげるわよぉ?」
「いやその情報はマジでいらない。姫乃ってどうしてそんなにビッチになっちゃったの?」
「さりげなくド畜生発言よねぇそれ。深く傷ついたわぁ」
「そういうのいいから」
「ええー…………」
割と本気で落ち込んでいるようだった。しかしそれでも色っぽく髪を掻き揚げたりウインクしたりとクラスの男子を誘惑することを忘れないのはさすがというべきか。
「理由なんか特にないわよぉ。愛の探究者と呼んでほしいわぁ」
「呼ばへんわ」
「えー? でもぉ、私みたいにかわいかったら作ってみたいと思わない?」
「ん?逆ハーレム?確かに姫乃くらいかわいかったら作ってみたいと思わなくもなくもない」
「どっちなのよぉ?いや逆ハーレムじゃなくて、もっと、奴隷?」
「姫乃ちゃん頭の中真っ黒や……」
「菜々子ちゃんはそういうの、ないのぉ?」
「ないわよ」
でも…………
「私はもっとこう、純粋な恋愛をしたいのよ」
「うっわーまた出たわ菜々子ちゃんのマンガ脳。あんなの現実にはあらへんで?」
「それでもいいのよ。夢見てたいの。汚れた現実なんて見たくないの。二次元最高。ビバ二次元」
鞄の中から登校中に買ってきた週刊少年漫画雑誌を取り出し、ぱらぱらとページをめくる。まず真っ先にラブコメやらを見るのが私のジャスティス。
集中。十九頁に濃縮された青春を追体験する。
「…………ぅふぅ」
読了。今週号も甘酸っぱかった。漫画とはいいものだ。多分最高のものだ。最高のものは決してなくならない。
「そのマンガ、確か男の主人公がかっこいいって評判の奴やったっけ」
「そうなんだけど、私はやっぱりヒロインが好きかなー」
「あぁ、あのツンデレ系ヒロインねぇ。わかるわぁ。でもやっぱ男の子がかっこいいわねぇ」
「あんたもう男しか頭にないのね」
「菜々子ちゃんいっつも女キャラ好きになるなぁ」
「そーかなぁ…………」
よく考えたら小さいころ読んでいた少女漫画でもみんなが好きなヒーローよりもヒロインの友達の可愛い気弱な女の子の方が好きだった。男キャラももちろん好きなのはいるけど、やはり男目線で見ている節がある。
エロゲーやるし。クラスの男子とその話で盛り上がれたし。
「菜々子ちゃんさりげに百合度高いんとちゃう?」
「――――」
言葉が詰まる。モノホンやったらネタにできへんしなー、とけらけら笑う明。
「え、と――――可愛いのが、好きな、だけだと、思う」
いつもはよく動く舌が今はぎこちなくしか動かない。
「うーん、そういうものなのかしらねぇ?」
ニコニコと笑う姫乃はゆっくりと席を立つ。
「そろそろホームルーム始まるし、席戻るわねぇ」
「――――あ、うん」
こういう時にタイミングよく話を切り上げてくれる姫乃はやっぱり良い奴なんだろう。
男を手玉に取る、つまり心理を読み取るのにはかなり慣れているのだろうし。
私は女の子が好き?いやいや男の子ももちろん好き――――“も”?あれ?違う違う。これは日本語の綾だ。
でも、クラスの男子とどうこうしたいとかがないのは、事実。それだったらまだ明や姫乃と――――こっちの方がリアリティがある。あってしまう、かも?でも二次元と三次元は別だし。だから大丈夫……なのか? 乙女ゲームとかには全く興味がないのは何故?頭の中が男に近いだけ? それとも可愛いのが好きなだけ? いや――――
「おーい」
「は?」
「そんなヤンキーみたいな態度やめぇや。一時間目の授業なんやったっけ」
「…………えと、古典」
「ん、サンキューな」
チャイムが鳴って、明も自分の席へひょこひょこと戻っていく。私はしばらく頭を押さえ、唸ってみる。当然それで何かが解決すわけでもないので思考がぐるぐると空回りする。
上手く考えがまとまらない。今度お風呂に入ったときにでもゆっくりと考えよう。それでいい。それがベスト。
漫画本を素早く机の中に入れたその瞬間に教室のドアが開き、教師が入ってきた。ギリギリセーフ。没収されたら発狂してしまう。
筋肉ダルマ先生(姫乃が命名)はいつもの五倍増しで顔を輝かし、黒板の前に立つ。暑苦しさも五倍増しだった。
「おはよう諸君ッッッ!!!」
グラップラー並みの力強さであいさつ。友達減るわ。
「今日はッッ!お前らにッ!!お知らせがあるッッッ!!!」
窓ガラス割れそう。
「転校生、だッッッ!!!」
転校生? この時期に? 俄かにざわめく教室。
「外国からの留学生でな!一日でも早く日本での生活に慣れたいらしい!皆っ!仲良くなッッ!!」
生徒から聞こえてくるのはうーい、とかへーいとかやる気の無い声。高校生にもなってくると転校生如きでテンションをあげることなんてめんどくせぇだりぃくだらねぇ――――という、フリをする。もちろん私もする。そういうお年頃なのだ。そんな中舌なめずりする明(女専門)と姫乃(男専門)が異常なだけである。
「入ってきてッッ!いいゾッッッ!!!」
そして。
私を含めポーズをしていた全員もれなく、控えめに開けられたドアから入ってきた女の子に、くだらないその態度を打ち砕かれることになった――――
どよめきは一瞬。その一刹那後に、全員が絶句した。
その姿は、正しく、光。ブロンドというには色の濃い、黄金と言えるような金の髪は腰まで伸びており、瞳はサファイアのように透き通った蒼。神々しいその姿は本来抱くべき、珍しいなどといった感情は全く想起させなかった。整った顔かたちは、あまりにも“自然”である。
男子も女子もみな等しく、その美しさに見とれていた。
姫乃が小さく、負けた、と呟いているのが耳に入った。気になったので明の方も見てみると、あろうことかあいつは幸せそうな顔で鼻血を机にぶちまけていた。凄惨である。
そして。
転校生の女の子が。
口を。
開く。
「はじめ……まして」
声を聴いたその刹那、頭の中が弾けた。記憶が急速に浮上してくる。心臓は鼓動を速め、息が苦しくなる。そうだ。私はこの声を識っている――――っ!!!
向日葵畑。歌。夏。熱い。走った。雲。教会。土。会いに行く。
私はあの時、教会に向かって走っていたんだ。
彼女に――――会うために。
「えぇと、マルセイユ・フルブライン、です。フランスから来ましたけど、小さい頃は日本に住んでいたので、日本語は、ぱーふぇくと、です」
少し緊張した面持ちで自己紹介をしている、その途中だけど、堪えられなくなった私は――――
「マリィ!」
「そうです!わたしのことはマリィって呼んで…………ふぇ?」
思わず叫んでしまった。
そう。マリィ。向日葵畑の奥の教会に住んでいた、歌の上手なおんなのこ。
気が付いたら席を立って、きょとんとしているマリィのもとへと駆け寄り、手を握っていた。
「私だよ!小さいころ遊んだ!」
「…………もしかして、ナナちゃん?」
「もしかしなくても、そうだよ」
「…………うそ」
「嘘じゃない」
「……………………ぅ」
「う?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああん!!!!」
まん丸の瞳が一瞬で潤み、一気に氾濫した。まさか、会うのが嫌――――
「よかったよぉぉぉ!また逢えたよぉおおお!!」
…………というわけではないらしい。私の目も潤んでいることだろう。
本当に良かった。思い出せて、思い出してもらえて――――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
感動の再開から四時間後、昼休みが訪れた。女子で可愛くて留学生で可愛くて外国人で可愛くて転校生で可愛くて美人で可愛いのだ。質問攻めにあうのも当然であった。
「マリィさんはフランスのどこに住んでたのかな?」
「サン・マロっていう港町ですよ。今度写真をもってきますね!」
「マリィちゃん、彼氏っておるん?」
「いませんよー」
「「「結婚してください」」」
「ごめんなさいっ!」
「マリィちゃん、髪綺麗だねぇ」
「ありがとうございます!」
自慢の髪なんですよー、と言いながら慈しむように自分の髪を撫でる姿はとても魅力的だった。作り物では再現できない、魅力だった。級友の作る輪の中でぽわぽわと笑うマリィ。昔から人懐っこい子だったなぁ、回想しながら、自分の席で彼女を見守る。このクラスに早くも馴染み始めている様子を見て胸をなでおろす。まさに親の心境だ。
あ、目が逢った。
マリィはにっこりと微笑むと此方にぱたぱたとやってくる。その子供っぽい一挙動一挙動が可愛らしい。
「どしたのマリィ?」
私は頬杖を突きながら問い掛ける。たぶん自分の頬も緩んでいるだろう。そのまま、少し困ったように笑っているマリィを見つめる。
「んと…………ナナちゃんとの関係を知りたいって、みんなが…………」
好奇の視線に晒されているのがはっきりとわかる。でも、悪い気分ではなかった。
「小さい頃――――小学二年生くらいだっけ――――の時に近くの教会にマリィが住んでたの。なんでだか仲良くなって遊ぶようになってたんだよねー」
「もうっ!そこ忘れちゃ駄目です!初めて会った時のこと!」
うぐぅ。痛いところを突かれた。えーっと…………駄目だ思い出せない。
クラスのみんなの白い視線が痛い!
「ま・ん・が」
「え?」
素っ頓狂な声を出してしまった私を、少し拗ねたような態度で続ける。
「偶然同じ漫画を買ったんですよね…………そこで会って…………」
「あーっ!思い出した!」
確か少年漫画の単行本だった気がする。あそこから私の漫画道は始まったのだ。
「色気のない話やなぁ」
「う、うっさいなー……マリィ、今でも漫画好き?」
「はい!とっても、大好きです!」
すこし顔を赤らめながら言ってくれた。やはり自分の好きなものが肯定された時っていうのは何物にも代えがたい幸福感がある、ましてや、好きな相手と共有できるのだ。これほど嬉しいことは――――好き?
今の好きって、なんかすごく『ラヴコメの中でのセリフ』っぽい意味の『好き』だった気が…………
………………………………………………………………スキ?
やば、今顔赤いかも。
あれ?なんで?女の子同士だよ?おかしいよ?でも好き?ん?ナニコレイミワカンナイ。なにこの感覚。すごく切なくて、あったかくて、苦しくて、気持ち良くて――――
「ねぇ、ナナちゃん」
「ふぇぁっ!?」
間抜けな声が出た!ヤバイすごく恥ずかしい!なんだこれ!なんぞこれ!
激しく狼狽する私を気にせず、マリィは質問する。
「ナナちゃんって部活、してます?」
「え?うん。陸上部――――だけど、もう今は引退しちゃってるし…………」
「あぅ。残念です…………」
「…………」
しょんぼりと肩を落とすマリィを見て心の底から罪悪感が湧きあがる。
陸上部に行かない、行けない理由っていうのはただ単に引退したからという以外にもあるわけで。主に、あの子。
まぁ、会っても無視すればいいや、と軽い気持ちで考えてみる。あの子に会った時のもやもや感と今のマリィに対する罪悪の念を天秤にかけた結果であった。
「マリィ、部活、行ってみようか?」
「え? でも、引退したんじゃ…………」
「いいよそれくらい。先輩風吹かせに行きたいとこだったし」
きーんこーんかーんこーん。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。私はマリィに「じゃあ放課後行こうねー」と言う。
自分の気持ちなんかより、マリィのことを考えてしまう自分への赤面を隠しながら。
「うん!一緒に行きましょうね!」
ああもうちくしょう可愛いなぁ。
・ ・ ・
通常の授業日程が終わった放課後。私とマリィは陸上部の活動場所である第二グラウンドに足を延ばしていた。照りつける太陽はいまだ高く、私たちの肌をじりじりと焼いていた。
「マリィ、日焼け止めとかしなくても大丈夫?」
「んー? 大丈夫ですよ。わたしは日に焼けない体質らしいのです」
「うわぁなにその全女子から恨まれそうな体質…………」
なぜか胸を張って誇らしげに「えへん」と言うマリィ。確かに、日に焼けたマリィというのは、全く自分の記憶になかった。
「あー…………誰か知ってる後輩はいないかなーっと」
体操をしている十数名の女子生徒の集団に近寄り、知っている顔がいないかを確認する。と、何人かがこちらに気付いて走り寄ってきた。
「先輩!今日はどうしたんですか?」
「まさかまた走りに来てくれたんスか!?」
「てかセンパイその金髪美少女はドチラサマですかっ!」
陸上部に所属していた自分に懐いてくれていたかわいい後輩たちだった。部活をやめた後でもその友情というか親愛は継続していたようで、少しホッとする。
こういう関係はいつまでも大切にしていきたいと、心の底から、そう思う。
「あー…………今日は、まぁ少し走ろうかなー、とか思ったりして」
なんだか照れくさくなってしっかりと言葉が紡げない。心地良い困惑であった。
「それなんですけど…………やめておいた方がいいと思います……あの子いるし」
やっぱりかーと小さく呟く。心なしか憐憫の表情をしている後輩たちと私の態度を交互に見て、マリィは不思議そうに訊く。
「あの子、ですか?」
後輩の一人が少し複雑そうな顔でこちらを一瞥した後、マリィに答える。
「あの子っていうのは――――」
「センパイ」
その時。
あの子――――澤田麻裕が声をかけてきた。最悪のタイミング。せめてマリィに知ってもらったうえでこの子と会いたかった。
だって。
「…………麻裕ちゃん」
「センパイ、私の名前、憶えててくれたんですね」
淫靡な笑いをする後輩の姿に思わず鳥肌が立つ。いつの間にか後輩三人組はそそくさと練習に戻ってしまっていた。これを薄情と言うことは、私でもできない。
この一瞬で、私は痛感した。
そもそもこの子と会うべきではなかったのだと。
「この子は?」
マリィは無邪気に訪ねてくる。異様な雰囲気に無垢さが入り込み、更に異様な状況になってしまっていた。麻裕ちゃんの視線が一瞬、鋭くなる。
「私の名前は澤田麻裕です…………あなたは誰ですか?」
少し険のある言い方にマリィが身を縮こまらせる。
「わたしの――――」
「この子の名前はマリィ。私の友達だよ」
マリィを遮る。でも、それでいい。この子とマリィを一瞬たりとも会話させたくなかった。
「…………センパイ、私という女の子がいるのに、駄目ですよぉ…………?」
「マリィは君の思ってるような子じゃないし、私には君という女の子はただの後輩だよ」
酷く冷たい声が自分の喉から出てきているのがわかる。体の芯が凝ってしまったかのようだ。
「センパイ。早くあの時のお返事、くださいよ」
「あれ?言わなかったっけ?一年前、ここで」
「あの時の先輩はどうかしてたんですよぉ」
「してないよ。改めて言うよ」
マリィの前で、言いたくなかった。
マリィにだけは、聞かれたくなかった。
どうしてだろう。
ひどく、震える。
「私は、女の子とは、付き合えないよ」
マリィの目が見開かれる。そういう話だとは思ってなかったのだろう。
そういう話。
痴情の縺れ――――しかもかなり特殊な。
「…………それは、私が女の子だから、駄目なんですかぁ?」
「うん。不自然だから」
自分の言葉が自らの心を抉っていく。
当たり前の、世間の一般常識を、生物としての自然を語っているだけなのに。どうして、こんなに悲しい、気持ちになるのだろう。
「あの時、センパイも気持ちよさそうでしたよぉ」
「やめて」
あの時の事なんて、もう二度と思い出したくない。
練習終わり。部室。着替え。告白。くらくらする頭。重なる影。押し倒される。体温。脳を融かしてく。どろどろに。体がうまく動かない。弄ばれる。舌が回らない。細い指と白い肌。艶めかしい。解かれる髪。蹂躙される。支配される。温かかった。気持ちよかった。全てを委ねたかった。でも、気持ち悪かった。きもちわるかった。キモチワルカッタ。
フラッシュバックする過去。止まらない。悔しくて涙が出そうになる。女の子同士だからまだよかったね?何を言ってるんだふざけるな。私の何がわかるんだ。
あの時と同じ目で、麻裕ちゃんが語りかけてくる。
髪を切ったのに。過去は全く忘却できない。
「センパイ」
いつの間にか目と鼻の先にいた麻裕ちゃんが、頬に口づけてくる。
私は、それを拒めなかった。
「いつでもお返事、待ってますよぉ?」
マリィ。
ごめんね。
こんなところを見せるわけじゃなかったのに。
軽い気持ちで来た私が、馬鹿だった。
ごめ――――
「まゆさん」
マリィが、私を引き寄せた。
「それは、駄目です」
「…………?」
麻裕ちゃんは少し吃驚したように首を傾げる。
「それは、どういう…………」
「あなたに、ナナちゃんはあげません」
「――――」
空気が、さっきとは別なものに変わる。夏場だというのに、辺りは酷く、冷たかった。
「あなたは、」
マリィがすうっ、と息を吸い込んだ。
「あなたはナナちゃんの好きな漫画を知ってますか?」
「…………さぁ」
「そんな人にナナちゃんは任せられません」
「でも、センパイは悦んでくれましたよぉ?麻裕の、この手で」
「そんなこと、知ったことですか!!」
激昂。
私の記憶に間違いがなければ、マリィが怒ったことは一度もなかった。
そんな優しい友人が、後輩に向かって、吠えた。
決して迫力のある態度ではなかったし、足も震えている。
そんな姿を。友人の姿を見て。
私が、もっと頑張らなくちゃ、と。
そう、思った――――
「麻裕ちゃん」
「センパイ……?」
「キライ」
「え?」
「だから、返事」
言わなきゃ。
どんなに怖くても。過去の不快なぬめりが消えなくても。
「私はあなたが嫌い」
「――――」
麻裕ちゃんの二度目の絶句。顔が真っ白になる様は見ていて可哀想だったけれど、それでも言わなきゃいけなかったことだった。
「女の子だからとか、犯されたからとかじゃなくて、純粋に君とは付き合えない」
「――――っ!」
唇を噛む麻裕ちゃん。私はマリィを一瞬見て、再び向き直る。
「好きな人が、居るから」
麻裕ちゃんはへなへなと崩れ落ちると、しゃくりあげて泣いてしまった。そして。
「わかりました…………っ」
涙を殺して、少しずつ言葉が紡がれていく。
「…………わたし……っ…………センパイ…………っ…………ごめんな……さい」
「いいよ。私がちゃんと――――心から答えなかったから、だから」
「…………っ…………わたし…………これからも…………これからでも…………センパイと、仲良くなりたいです………………友達、として…………」
「うん。よろしくね」
「…………っぁぅ…………ぅぅぅ…………」
声にならない声を出す麻裕ちゃんの頭を撫でる。
マリィは、その様子を、ただ眺めていた。
いつの間にか日は落ち、グラウンドには私たち以外誰もいなくなっていた。
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「ごめんねマリィ」
「なぁに?ナナちゃん」
「いやぁあの子との痴話喧嘩。付き合わせちゃってさ」
「ううん。私、邪魔じゃありませんでした?途中口挟んじゃいましたし…………」
「全然。寧ろ居てくれて良かったよ。あれが無かったら仲直りなんてできなかっただろうし」
麻裕ちゃんを部室まで送り、私たちは一足早く帰路へと着いていた。紅に染まる海と流れてくる潮風が、私たちを穏やかに包んでいる。こんな時間が一生続けばいいのに、と思ってしまうノスタルジックな風景。
一つ、心の中の重荷を下ろした私は、清々しい気持ちでマリィとの会話を楽しんでいた。
ほんの少しの、虚脱感を感じながら。
心から楽しそうなマリィの横顔を、じっと見つめてみる。長い睫、高い鼻。宝石なような瞳に夕日が反射して、蠱惑的な輝きが広がっていた。
そんな私の視線に気づいたのか、微笑み返してくる。
私は、やっぱり――――
「あのね、ナナちゃん」
「ん?どうしたの?」
唐突にマリィが私の前に来て、目を覗き込んできた。
「明日、またあの教会に来てくれませんか?」
「教会って…………マリィの家の近くの?」
「ええ。私の仕えている、向日葵畑の中にあるあそこです」
あんまり人は来なかったけれど、静かで、救われている場所。綺麗なステンドグラスとオルガンは、マリィのお父さんがいつも掃除をしていたのでいつもぴかぴかだった。
私の、大好きな場所。
「小さい頃、よく通ったよねー」
「あはは、あそこの教会でよく漫画読んだりお話したりしましたねぇ」
ほんとはだめなんですけどねー、と言うと、一瞬の間。少しの逡巡が、彼女の陰に視えた。少し勇気を振り絞るように、彼女は言った。
「明日、学校も休みですし…………来てくれませんか?」
「…………うん。いいよ。是非」
「――――うん。じゃあ、待ってますねっ!」
胸が高鳴る。どういう種類の高鳴りなのは、自分にも分らなかったけれど。とても嬉しくて幸福だという風にも取れるし、その一方で酷く怖いという感覚もある。
こりゃあ今夜は眠れないかなぁ、なんて。
・ ・ ・
翌日。抜けるような晴天。私はあの時のように白いワンピースと、少し大きめの麦わら帽子という出で立ちだった。何となく、この格好が良かったのだ。手と足にある日焼けの跡が少し恥ずかしかったけれど。
向日葵畑の入り口まで、ゆるゆると歩く。ビーチサンダルをぱったぱった音を立てながら歩いていると、まるで昔に戻ったかのような錯覚さえ覚えた。
そういえばあの頃も、今と同じくらいの髪型だったかなぁ。
「…………」
海を眺めながら歩いて二十分ほど。小さい頃はマリィとおしゃべりをしながら来ていたので実感はなかったが、今考えると短い距離だと思う。
向日葵畑の入り口。あの頃はあんなに高く感じた向日葵も。今はもうあまり高いとは感じなかった。
成長したんだなぁ、私も。
マリィが引っ越したのは、確か中学校に上がった時だったと思う。気が付いたら引っ越していて、教会は別の神父さんが管理するようになっていた。どうして今まで忘れていたのだろうか、なんて自問自答してみるけれど、その答えは、とっくにわかりきっていた。
怖かったんだ。
失うのが。いなくなってしまうのが。
多分マリィも同じような心境だったんだろう。だから私たち二人はサヨナラも言わずに、別れてしまったのだ。
子供だな、くすりと笑ってしまう。
でも、マリィは帰ってきた。
だからもう、こんなことを考える必要なんて、ないんだ。
準備体操をして、足の筋肉をほぐす。周りに誰もいないのを確認して、屈伸と伸脚をする。こんな姿間違っても他人に見られたくなかった。恥ずかしすぎる。
後悔だけはしたくなかったから。
私は、全力で――――
「よーい…………」
クラウチングスタートで。
「どんっ!!!」
走り始めた――――
走った。走った。走った。風を切り、日の光を裂き、土を抉り、汗を後ろに残しながら。
矢なんて目じゃない。この速さは銃弾。
真っ直ぐ突き進むことしか知らないこの体は、たった一人に逢うために、全ての機能を走ることに費やしていた。世界が加速して後ろに流れていく。
ワンピースの裾が揺れはためくのも気にせず、走る。
と。
「――――♪」
歌が、聞こえた。
歓びの歌だと、すぐにわかった。
これは夢じゃなくて、現実。だから道の先には教会があって、マリィがいて――――
「――――うぁあああああああああ!!!!マリィぃぃぃいい!!!」
叫ぶ。お腹の底から、彼女の名前を。
「――――♪――――♪」
共鳴して、響き渡り、鼓膜を打ち、体の奥底に染みていく。
無限じゃなくて、ただの有限の向日葵畑は思ったより早く終わり。
光が――――
「――――いらっしゃい」
マリィが、其処に居た。
・ ・ ・
「えへへ、本当に早かったですね」
「そりゃ走ってきたからね。これでも元陸上部だし」
「小さい頃は私の方が早かったですけど」
「人間は進化するのよ。昔はあんなに長いと思っていた向日葵畑も案外短かったし」
修道服(さすがに暑いらしく頭巾は脱いでいる)のマリィの隣に座りつつ、冷たい紅茶を飲む。おいしい。
教会の中はじんわりとした蒸し暑さに支配されていた。
今日は日差しがとても強いからか、ステンドグラスを通して様々な色に染められた光が当たりに溢れている。そんな幻想的な光景の中、マリィと私は取り留めのないおしゃべりをしていた。
数年の空白を埋めるかのように、私たちは語らっていた。
そして、やがて。
「…………」
「…………」
沈黙。教会という荘厳で聖なる場所が空気の重苦しさをさらに助長する。
「…………あの」
沈黙を破ったのはマリィ。私はマリィをじっと見つめ、一つ頷き、その先を黙って聞く。
「…………わたし、厭な子、なんです」
マリィがぽつりと話し始めた。
途切れ途切れだが意志に満ちた、そんな話し方。震える肩を抑えるマリィの姿は、痛々しさすらあった
「ナナちゃんが他の誰かと仲良く喋ってるとき、私以外の人と喋っているとき、そして後輩さんに告白された時」
蒼の瞳が、揺れる。ガラスを通して入ってくる蒼い陽光が、きらりと反射する。
「わたし、嫉妬してたんです」
今にも泣きだしそうな笑顔。罪を懺悔するような、聖女の告白。
やめて、そんな顔しないで。貴女のそんな顔を見に此処に来たんじゃ、ないのに。
「うらやましいなぁ、って、思っちゃうんです。だからわたしは、悪い子です」
やめて、そんなことない。
「わたしは――――」
「まっ、て」
思わず。声を出していた。自分の声とは思えないほどにかすれた声は、ステンドグラスに跳ね返ってどこかへ消えていく。唾を飲み込み、唇を湿らせる。
この役目は、私がしなきゃいけないんだ。
私が、傷つかなきゃ。
「私は」
言え。
心のままに。
今の思いを。
怖くたって、震えたって、不自然だって、気持ち悪くたって、矛盾してたって、おかしくったって、辛くたって。
言わなきゃ、いけないんだ――――
「私は、マリィが他の人と話してると、たまらなく苦しかった」
心中を吐露する。
「マリィを見てると、胸が高鳴った」
心の中を、晒していく。
「マリィがそばにいるだけで、あとは何も要らなかった」
深く、深く。
「ごめんね。私はもう抑えきれないの」
さっき、夕日の当たるグラウンドで否定した愛のかたちを、今度は肯定する。
ああ――――なんて、矛盾。
「私は、久下菜々子は」
息を吸い込む。
もう、戻れない。
「マルセイユ・フルブラインを、世界で一番、愛しています」
私は、そういう恋愛観の中に生きているんだ。
正確には、好きになった人がたまたま女の子なだけだったけど。
世間からみれば、酷く歪なものとして見られてしまうかもしれない、そんな愛のかたち。
でも、それでも、抑えきれない。
恋、なんだから。
「……………………ナナちゃん」
「…………ごめんね?気持ち悪かったよね。そうだよね。麻裕ちゃんにはあんなにはっきり言ったのに私自身がそうなんだもんね。ごめんね。ごめんね?嫌いになったよね」
本当はこんなこと言っちゃいけないとわかっているのに、次々と言葉が溢れてきてしまう。涙が堰を切ったように溢れてきてしまう。止まれ、止まれ。止まれ――――
そんな私に一言。
マリィが告げた。
「なるわけ、ないですよ」
「――――えっ?」
マリィの手が私の頬をやさしく包み、そっと撫でた。絹のような感触の、あたたかい手。マリィはゆっくりと私の涙の痕を拭い。
「――――――――」
瞬間、影が、重なった。
「――――――――」
彼女の体温が唇に当たり、そして離れた。呼吸を忘れていた。
「さっきの告白」
マリィはこっちを見て微笑みながら――――聖母のように微笑みながら、話しかける。
「漫画の、ですよね」
「……………………う、うん」
「オリジナルが良かったです…………」
拗ねたように唇を尖らせるマリィ。
「え……と。やり直す?」
「はい。わんもあ、です」
……………………。
恥ずかしい。
「ま、マリィ」
「はい」
「大好き」
「わたしもです」
「女の子同士だよ?」
「どんとこいです」
「…………不自然、だよ?」
「たまたま好きになった子が、女の子だっただけです。気にしません。周りの目も気になりません」
「…………強いなぁ、マリィは」
「えへへ。それほどでもないです。漫画、読んでますから」
「関係あるの?」
「はい!最近の漫画では、多いですから。女の子同士」
「そういうものなのかなぁ…………」
「そういうものです」
マリィがふわりと微笑むと、私まで愉快になってきた。
二人で笑う。笑いあう。
この子となら、何があっても乗り切れる気がする。
「ナナちゃん」
「どうしたの?」
「ん」
唇をこちらにつん、と可愛らしく突き出す。
しろと。
私からしろと。
「マリィ――――」
今度は私から影を重ねて、唇を合わせる。先程よりも熱烈に。過激に。
私たちは、愛を確かめ合って――――
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どんなに不自然でも、歪んでいても、醜くっても、忌み嫌われても。この子とともに、生きていたい。これが、恋で、愛なのかな。
そんな、少し歪んだ。
二人の少女の。物語。
如何でしたでしょうか。ほんの少し歪んだ恋物語、楽しんでいただけたでしょうか。少女同士のインモラル恋愛――――世間的には百合とも言います――――は、異性間での愛と同様に、とても美しく尊いものだと感じます。
あなたの心に一瞬でも、暑い夏を浮かべられたら幸いでございます。