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冒頭10分  作者: 森モト
6/6

りーちめも

(だって私自身わかってないのに)

京都だか大阪だかわからない方言を話す絶世の美女と、その美女の友達だという金髪男性と、黒い軽トラ、大破したフェラーリ、動物のマスクを被った謎の死体三体。

冷静に状況を省みても、どうしてこうなったか燃の結論が出ない。出るわけがない。

「とりあえず船に戻るぞ」

男が銃のグリップから弾を抜きながら言う。先ほどの爆撃戦で乱れたポニーテールがほどけ、ぱらりと長髪が彼の表情を隠す。

「彼女も一緒に」

え。

今日一日で果たして何度「え」と言ったか誰か数えてくれているだろうか。

かのじょもいっしょに?

「あの……」

それは拒否できないのか?

思わず美女を見たが、彼女は困ったような表情を浮かべて、しかし反論は許さないとばかりに先に口を開いた。

「堪忍な、おじょーさん。ここまできたら、ちょっとすぐには帰されへんわ」

だから貴方のそれは大阪なのか、京都なのかと。





「とりあえず、車だめになってしもたさかい、これに三人乗ろか」

その美女の一言が地獄の始まりだった。

三人の中で一番小柄な人種である燃は、ブラック軽トラの助手席側の足置き場に押し込められ、その燃を挟むように美女が座る。

狭い。せめて荷台にいかせろ、とそれが交通ルール違反だと解っていても言いたい。

押し込められた空間は狭く、ダッシュボードに何度も額をぶつけた。ダッシュボードにはオリジナルらしい不思議なマークと、英文字がスタイリッシュに踊るステッカーが所狭しと貼られていて、良く見れば剥き出しの天井にもそれは貼られていた。装飾された文字は一体なんて書いてあるのか燃にはわからなかった。

「せまない?ごめんね」

美女が座った上体で燃を覗き込んでくる。

あれだけのことをやらかしたせいか、美女からはもういい香りは香ってはこなかった。かすかな血と汗、それから火薬の臭い。それでも美女は美女なのだから恐ろしい。

「ああ、顔が血だらけや。早く消毒してやらんと」

見上げた燃と眼が合った途端、美女は口を一文字にして泣きそうな顔でそう言った。

言われてやっと、自分は頭を怪我しているのか、と燃は気付く。なんとなくズキズキはするが、アドレナリンでも分泌されているのかそこまで痛みは感じない。

というか、ロケットランチャーのせいでこの場の全員が満身創痍なので、あまり気にならなかった、というのが正しい。

「着いたぞ」

どこに、と問おうとして、車窓から見えた景色に息を飲んだ。

「く、黒船……」

目の前には巨大なシルエットの大型客船が浮いていた。

しかもはじめて見るようなブラック仕様である。どう考えても緊急事態に見つけてもらえないこと請け合いの姿は、それでもその大きさと相まって妙な迫力を醸し出している。

完全には闇に落ちない東京の明るい夜空に、そのシルエットが浮かび上がっていた。

(こんな巨大な船が寄港するなんてニュースでやってたかな)

その疑問が解ける前に、美女に手を引かれてターミナルのほうへ向かう。

見れば、大型客船のターミナル前には人だかりができていた。人だかり――といっても、数百人はいるのではないかという大人数だ。この船でイベントでもするのか、大半が若い男女だが、ところどころスーツを着込んだ渋い男性や、初老の女性なんかも見られる。船の後方では、複数の高級車や大型トラックがランプウェイから船内に入っていくのが見えた。

集団を先導するように警備員が大勢動員されており、そのざわめきはそれなりの距離を空けている燃にも届いてきた。

集団から、異様な熱気が放たれている――。

これだけの人間が黒船かくやという大型客船を前にしているというのに、メディアの姿がないのが不思議だった。

「今から東京湾クルーズでもするの?」

隣を見ると、立っていたはずの美女の姿がない。

え、と慌てて辺りを見渡すと、燃の随分前方にその姿を認めた。なにやら警備員の一人と集団を指差したりしながら口論しているようだ。

これだけ離れてれば逃げられるかも、と思ったのは一瞬で、美女のお友達がまるで監視でもするかのように背後に立っているので大人しく待つことにした。

やがて数人の警備員をつれた美女が戻ってくると、そのまま波に攫われるように乗船時間を待っているらしい集団を横目にターミナル内に入った。人の目が痛い。

白とブルーで統一されたターミナル内には、その内装には不似合いな黒のタペストリーが天井からかけられていた。その真下には、恐らくグッズ販売とかいうやつ――のスペースが確保されている。

「……この船、なんなんです?」

前を行く美女に問うと、えっ、知らんの?と逆に問い返された。

「……はあ、ニュースは見てるつもりだったんですが」

そんなに有名な船だったのだろうか。こんな船、一度でもテレビに映ったら覚えているようなものだが記憶にない。

「あのマークにも見覚えない?」

指差された先に、ターミナルの窓越しに船が見えた。

そこには、船名ではなく不思議なマークが白で描かれている。軽トラに貼ってあったステッカーと、ここのタペストリーに描かれているものと同じものだ。

「はあ、すみません」

とりあえず日本人らしく謝っておく。

「まあええわ。とりあえず船室行って手当てしよか」

美女は気を取り直したふうに前を向くと、かつかつとヒールと鳴らしてターミナルを突っ切っていった。この間、後ろの男性は空気だった。


そうして気付けば、船の一室へと案内されていた。

ライトアップされた通路やデッキでは、慌しく走り回るスタッフ達と何度も何度もすれ違い、血だらけの姿にぎょっとされたわけだが、この部屋へと続くエリアに入ると滅多に人ともすれ違うことはなかった。

たまにすれ違っても燃達の姿には全く興味ないというような様相で、それが逆に不気味にも感じる。

通された船室には、メイキングされたベッドが置いてある。客室のひとつだろうが、このひとつをとっても随分と洒落た内装だった。壁は限りなく黒に近いグレーで、よく見るとグリーンのストライプが入っている。反して天井の色は真っ白で、壁との境に木製で細かな装飾がされている。船窓は丸いタイプではなく、陸地のマンションのようなベランダへ出れるタイプのものだった。その端に、かっちりしたシルエットの白いソファが置かれている。室内のライトは赤いランプシェードで、ちょっと間違うと妖しいラブホのような組み合わせだったが何故か上品にまとまっているという不思議。

とはいえ、一般向けの客室のようには到底思えない。

音楽やファッションには詳しくないが、時々電車で見かけるゴシックやロリータといったものを好む人向けのような気がする。船の外装が真っ黒だった時点で、なんとなくわかるような気もしたが、それにしては、ターミナル前に集まっていた集団のスタイルは多種多様だった。ゴスロリ系は勿論、原宿系、美容師っぽい人、職場から直行しましたな雰囲気のOLさんやサラリーマン、ふんわりした森ガール。ぱっと見ただけでも、彼らのファッションに統一性はなかった気がする。

それは年齢も同じだ。若い人が確かに圧倒的に多かったが、それだけでもなかった。

考えれば考えるだけ訳が解らなくなって燃は下を向く。

例の美女と彼女のお友達は、手際よく燃に手当てを施すと、待っていて欲しいと一言告げて部屋を出て行ってしまった。

備え付けの冷蔵庫の中身は好きなのをどうぞ、と言われてとりあえず開けてみたが、外国産のミネラルウォーターとお酒しか入っていなかった。ラベルが全部英字でどれがアルコールでどれがノンアルコールなのか自信がなかったので、手に取るのはやめた次第である。

そうしてベッドに腰掛け美女達を待つが、既に三十分以上経っている。

(……ていうか、今気付いたけど足元が足袋のままなんですけど)

真っ白に洗濯してあった足袋は、土やら焦げやらで真っ黒に汚れ、ひどい有様である。店の客間に上がっている最中に襲撃を受けたので、草履を履く余裕すらなかった。こんな真っ黒な足袋を履き続けているのも気持ち的に不快なので、とりあえず脱いだ。

(あの動物マスクの男達は、一体なんだったんだろう……)

美女のストーカーだと説明を受けていたが、ランチャーで攻撃されてはその説を信じるのは難しい。対象に危害を加えるストーカーは過去にもいたが、ランチャーでバラバラにしようなどと考えるストーカーはいるだろうか。いるかもしれないが、あれはなしだ。集団だったし。

考えたところで答えなど出るわけもないが、考えてしまうのが人間の性である。

(……あれが過激派のテロリスト集団だとして、最近有名なのは反宇宙開発組織だよなあ)

宇宙に無限の可能性を夢見る輩もいれば、母なる地球を踏み台にして宇宙へ飛び出すなどけしからんという連中もいるというわけだ。

人類は地球でもって繁栄し、地球でもって死ぬべきだ、という思想の持ち主達である。

彼らの活動は火星への移住が本格的に始動しはじめた頃から激しさを増し、宇宙研究所の爆破予告やコロニー建築計画への妨害など、内容は様々である。日本はまだ比較的穏やかなグループだが、それでも宇宙開発前の日本と比べたら物騒になったと皆が口を揃えて言うだろう。

なにより困ったことに、一般人だけでなく各国の著名人や政界に名を連ねる人物達も堂々と反宇宙派を名乗っており、活動資金の出所はそこからではないかともっぱらの噂である。とはいえそう簡単に尻尾は出さないのがお役人のすごいところで、今のところ現行犯逮捕されている反宇宙派の連中は下っ端の下っ端ばかりらしいからなんとも進展がない。


燃は両親そろって宇宙開発に携わっていることもあり、何度か狙われたこともあった。

とはいっても、玄関の前に生ゴミ、ポストの中に呪いの手紙、無言電話、ピンポンダッシュなどなど、小物に目をつけられたなーと無視できる範囲の嫌がらせばかりだったが。

勿論、大々的な嫌がらせが燃に届く前に、両親たちの尽力で防がれていたのも理解している。


とはいえ、反宇宙派とこの船に一体なんの関係があるかは解らない。

そもそも、あの動物マスクが反宇宙派だとい確証もない。表立って目立つ行為――ロケットランチャーを立体駐車場でぶっ放すようなイカレタ連中といったら、やはり反宇宙派だといわれたほうがしっくりくるのである。

「……厭きた」

気付けば、船は静かに動き出していた。

大型客船なおで揺れはほとんどなく、気付くのが遅れたが、窓から見える埠頭の観覧車の位置がゆっくりと動いている。

燃はプロジェクターで壁に映し出された時計を見上げた。

既に美女達が出て行ってから一時間は経とうとしている。

テレビもないので、時間も潰せない。携帯端末も財布も、店のロッカーの中である。

(……あれ)

唐突に、燃は気付いた。

身分証明になるようなものを何一つ持っていない状態で、名前も知らない外国人によって動き出した大型客船の船の一室にて待たされている。

しかも動物マスクの襲撃という非現実的なトラブルが関係して負傷もした。

(……監禁?)

考えすぎだろうか。

いや、そもそもこの船は大型客船である。それもこの部屋までの規模を見れば、世界クルーズも不可能ではないと思わせるような設備が整っていた(気がする)。

(え、あれ、……この船、今からどこに向かうんだ?)

あのターミナルで乗船を待っていただろう集団を見れば、今から旅行に行きますという様子ではなかったので特に深く考えなかった。

(だって、あの人達が本当に船の乗船を待っていたかなんてわかんないじゃん)

船ではなくターミナルでなにかイベントがあって、それに参加しにきていた人達だったら?

(……ランプウェイから、大型トラックが入っていくの、見た)

あれは、今からクルーズに必要な物資の搬入ではなかったのか。

海外まで行かないにしても日本のどこか――東京から出たことのない燃には恐ろしい事態である。しかも、今手元には自分を構成するような持ち物がひとつもない。身につけている下着上下と、血塗れた店の着物に汚れた足袋、胸元に入れていた注文用のメモ帳。

それから、火星に旅立つ前日に両親から受け取ったふたりの婚約指輪。

冷静にリストにあげてみたが、ものの見事に役に立ちそうにない。

とりあえず、この混乱した頭を落ち着けようと、両親の婚約指輪を取り出して指に嵌めておいた。が、当然ながら効果は薄い。

仕事中はいつもチェーンに通し肌身離さず持っている細身のシルバーのそれに石はなく、どこの言葉かわからない文字が裏側に彫ってある。父のサイズは親指、母のサイズは薬指に嵌めるようにしていた。聞き手が右手でいろいろと邪魔なので、つけているのは左手のほうである。

燃はふたつの指輪をじっと眺めて考えた。

考えた。

「…………」

考えたが、考えたようで全く考えがまとまらなかったので立ち上がることにした。

裸足で触れた床の絨毯がふわふわして気持ちがいい。

(人を探そう。乗組員らしき人を見つけたら、この船はどこに行くのか訊いてみよう)

自分が今巻き込まれている全貌を把握しようとせずに、ひとまず目先の安堵を欲することにした。

この船の行き先や航路さえはっきりすれば、この何もかもわからない状況が少しはましになるような気がしたからだ。

立ち上がって、燃は、扉の取っ手にそっと手を置いた。

開くだろうかと怯えつつノブを捻ると、音もなく扉が開く。

(監禁説は消えたか……)

一瞬安堵しかけたが、海に出てしまった船の上では、この船そのものが監禁部屋のようなものである。監禁説はすぐに復活した。

通路には誰もいなかった。

少し照明を落としてあった室内とは違い、煌々とライトで照らされた通路を見るだけでほっとする。窓の外には随分と前に開催されたオリンピック跡地だという埋立地が見えていた。今は高級ホテルや夜景を楽しむレストランなどが有名なエリアである。

(まだそんなに離れてはないな……)

だが、着実に船は航海している。もし行き先が海外か東京以外だとしたら、あのエリアが見えなくなるのも時間の問題である。

燃は意を決して通路に飛び出した。美女達に連れ添われた道を引き返し、人の気配がありそうなところを探す。

だが、こんな大きな船だというのに、いつまで経っても誰かとすれ違う様子がない。部屋へ通されるとき、人の流れがあるところとないところがあった。

相当歩いた気がしていたが、まだ人が行き来しない場所から出られていないのだろうか。

(不気味すぎる)

こんな大きな船を動かすには、乗組員だって相当な数になる筈だ。乗ったときは確かにスタッフや乗組員らしき人達とすれ違ったのに、今はその気配すらない。

まるでこの巨大な船に、たったひとりでいるような気分になってくる。

「だめだ」

ぶるりと震えて、立ち止まっていた足を叱咤した。

びびって立ち往生していても状況は変わらないのである。

何度か階段を上がり、外に出て黒い海を眺め、こんな時だが夜景を楽しみ、また室内に入ってアップダウンを繰り返していると、徐々に人が往来する痕跡を見つけた。

通路の端っこに落ちているピアスだったり、ゴミが捨てられたゴミ箱だったりだったが、なんだかもうそれだけで安心する。

そしてその跡につられるように歩いていくと、先ほどの静寂が嘘のような喧騒が聞こえてきた。

どうやら広いフロアに出るらしいが、複数の気配はそこからしている。

途端、人前に出ることに燃の身が竦んだ。

今の今まで人恋しくて歩き回っていたというのに、人の気配がした途端怖気づくなど笑ってしまいそうだが、自分でもその心理はなんとなく理解できた。

自分は、迷子というわけではない。ただ単純に、人が恋しくて探していたわけではないのだ。

(……最悪の場合を考えて行動しよう)

あの美女が、あの美女の友達が燃にとって有害なものだとしたら、この船に乗っている人間の前にうかつに姿を現すことは憚られる。

燃は壁に隠れながら、人の気配がするフロアをこっそりと覗き込んだ。

そこには果たして、人がいた。

しかも、乗船前に見たターミナル前に群がっていた集団らしき人物達である。女子高生らしき五人の女の子グループと、フロアに置かれたソファでペットボトルを煽っているサラリーマンの男性、奇抜なファッションをした大人の女性と何かのコスプレをした男性のペア。他にも諸々、数人がたむろっている。

年齢や見た目はばらばらだが、全員、どこか興奮冷めやらずといった様子で近くの人と語り合ったり、携帯端末で誰かと話をしたり、女の子グループにいたってはきゃあきゃあと騒音まがいのボリュームで盛り上がっている。

「やばい、やばいよ。超かっこいいい」

「涙出てきた。あのままあそこいたら絶対ぶっ倒れてたって!」

「チケット当たってよかったー!この抽選で人生の運を使い果たしたね」

「オープニング超よかった。演出最高」

燃が聴いてもチンプンカンプンな内容だったが、ピンク縁の眼鏡少女が口にした〝チケット〟の言葉にはっと閃いたことがあった。

五木さん――。

今日の昼、まさしく襲撃直前に、職場の先輩である五木と話をしていた話題。


〝うちの旦那様が、今日はあの有名なバンドのライブがあるって言ってらしたわ〟

〝何年か前にすごーく有名になった方がいたでしょう?……お名前はなんていったかしらねえ。ほら、ヴォーカルの子が暴漢に襲われて、事件になったことがあったの〟


〝ああ……、それ以来、会員限定のシークレットライブばかりしてるって噂の〟


これだ―――――!!

燃は自分の頭の回転の速さに打ち震えた。

間違いない。

昼間、五木と話をしていた〝幻のバンド〟のライブ会場がこの船なのだ。

ということは、恐らくある程度時間が過ぎればまたターミナルに戻るはず。宿泊つきのライブでなければの話だが、フロアで休憩中らしいファンの姿を見るにどう考えても軽装だ。それはない。はず。

(なんだ、どうしてあの美女がこの船に乗ったかはわからないけど、帰れるんじゃん)

少なくとも、拘束時間は長くて四、五時間といったところだろう。それより長くたって構わない。帰れるならば。

燃は冷静になって、もう一度フロアを見渡した。フロアを突っ切った先に、重厚な扉が見える。例えるなら防音設備、反響設備の整った映画館のような扉だ。

恐らく、あの扉の向こうでライブが行われているのだろう。

そう考えると、俄然興味が湧いてきてしまった。帰れると確信したからには、今まで心配していた諸々がどうでもよくなってくる。

こんな機会どうせもう一生ないのだから、日本出身でありながら世界中にファンを持つという幻のバンドを一目見てみたくなった。

それに。

(ヴォーカルの名前が、リイチ)

そのことが、燃の興味をより一層掻き立てている。

同じ人間とは思わない。それでも違う人間だったと確認できただけましだ、と思ってしまうあたり、本当に引きずっている。

愛だの恋だの、そういうレベルではないのに、まるで絶対に手が届かない理想に対するような思いで、燃は〝リイチ〟を捕らえている。そして、囚われている。

本当は、ニュースで流れたときから気になっていたのかもしれない。

襲撃を受けたバンドのヴォーカルが〝リイチ〟という名前だった。

それだけのことで、燃はそのバンドのことをあえて考えないように、あえて知らないようにしてきたのだ。

(いい加減吹っ切れなきゃいけないなあ。いつまでも小学生のままじゃないんだから)

燃も、そして〝リイチ〟も。

燃は意を決して隠れていた壁から飛び出すと、大勢の人を掻き分けてその扉を目指した。

個性的なファッションをしている人が多いからか、燃の血塗れ着物に血塗れ包帯、裸足の姿でも特に注目を浴びることはなかった。

「リーチ、やばかったよね」

「CD、絶対買う。なんでDVD出さないんだろう」

「撮影禁止だしね」

「早く頭冷やして戻りたい。あのままいたら確実にぶっ倒れてたけど、ちょっとでも見れないなんていやだよね」

扉付近で話していた女性たちの言葉に、ドキリとする。

やはりこの扉の向こうでは、あの幻のバンドがライブをしているらしい。

(五木さんの旦那様――、すみません、一ファンである貴方を差し置いて、元々あんまり興味のなかった私なんぞが彼らを拝む機会に恵まれましたこと、どうか恨まないでください)

心の中で念仏のようにそう唱えて、燃は小さく深呼吸をした。

赤いベルベッドの張られた扉の、真鍮の取っ手をがっしりと掴む。

何故か心臓がどくどくと跳ねてうるさかった。

ライブ会場なんて初めての場である。

それ故の緊張か、燃はその取っ手を握ったまま動けなくなってしまった。

「――邪魔なんですけど」

そして言われて、ぱっと扉の横に飛び跳ねる。

見れば、先ほどペットボトルを煽っていたサラリーマンが不審げな眼差しを向けて燃を見ていた。

「す、すみません」

慌てて謝ると、サラリーマンははあ、と気の抜けた返事をして扉を開けた。



――――――ドッ……。


殴られた。


と思った。

頭がぐわんぐわん揺れている。

扉が開いて、閉じ込められていた音が洪水となって燃を襲った。

燃にはよくわからない楽器の大音量と、人々の異様な熱気と、汗と、それから、声、と。

ぞわ。

と感じたときには、全身に鳥肌が立っていた。

耳をつんざく歓声と、そこに被さる音。

それから、脳髄をどろっと溶かすような、低いのか高いのかわからない、歌を唄う声。

燃が立ち尽くしている間に、目の前の扉は音もなく閉じた。

「……うわー。今ので鳥肌たった」

「やっぱ早く戻ろうよ。リーチの声聴きたいよー」

「私はマキのドラムだな」

さっきの女性グループが腕を擦りながらそんなことを言っている。


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