▼海原シシリと王族サントル
かつてシシリスと呼ばれた巨大な峰に降り立った神はこう言ったという。
人はひとりで産まれ、ひとりで生き、ひとりで朽ちてゆく。
そうして全ての個が集合して、世界は、国は、息をする。
シシリはひとりだった。
気付いたときには生まれた国も家もなく、親も兄弟も親戚もいなかった。
元からいなかったのか、シシリだけが捨てられたのか解らない。とにかくシシリはひとりだった。
小汚いなりで路地のゴミ箱をあさるシシリに友人ができるわけもなく、たまに情けをかけてくれる優しい人はいたが、やはりどうしてもひとりだった。
ある日、妙な男達に攫われて船に乗せられ、足枷をつけられ監禁された。
食事は与えられなかった。まさに盗みの最中に連れ去られたので、ポケットには小さな芋が三個入っていた。それを小さく齧りながらなんとか生き延びた。
監禁されてもやはりシシリはひとりだった。
船は確かに航海しているようだが、誰一人として、船底に閉じ込められたシシリの様子を見に来るものはいなかった。
もしかしたら、男達はシシリが死ぬのを待っていたのかもしれない。
そう思ったのは、シシリがしぶとく生き延びていると知った男達によって海に放り投げられたからだ。
夜の海だった。
暗くて冷たくて恐ろしくて、シシリは力の入らない手足を必死で動かした。
それでも激しい水音がシシリの耳を打つだけでなんの意味もない。
冷たい海水に全身の熱を奪われ、手足から力が抜けて、やがてシシリはもがくことをやめた。
(……しぬのか)
急激に狭まる視界の中で、シシリは漠然と考える。
真っ暗だ。
(こんなときまでひとりだ……)
今感じているこの気持ちが虚しさなのか寂しさなのか、シシリには解らない。どちらも同じようなものだと思った。
誰かと食事をする記憶も、誰かと寝床を共にする温かさも、人の手のぬくもりも、シシリは知らない。
だから、知らないものを欲しがっている自分がどこかおかしくて、知らないそれを惜しんで悲しんでいる自分が可哀想だった。
(せめて一度くらい、誰かと手を繋いでみたかったな)
陽が沈む前、町の姉妹が手を繋いで家へと帰っていた。
休日、恋人たちが腕を組んで露天を冷やかしていた。
転んで泣いている男の子の手をとって、お母さんが慰める。
その手のぬくもりを、シシリは知らない。
気付かれないよう影に潜んで、ひとりで、拳を握り締めて、それを眺めていた。
自分の手を自分の手で包んでみたところで、なんにも感じなかった。
(でももう、これで、終わりだ)
爪先から頭の先まで冷たい海水に包まれて、シシリはやっぱり、ひとりだった。
(誰の手も知らずに、死んでいくんだ……)
それはとても寂しいこと。
人のぬくもりがある幸せを知らないけれど、胸にぽっかりと浮く青い感情はそういうことなのだろう。
この深く暗い海で、青い寂しさに包まれて死んでゆくのだ。
もう、シシリの視界に光はない。
かすかに開けていた瞼をそっと閉じたとき、どこかで水音を聞いた。
けれどそれを確かめる間もなく、光も音も、シシリから急速に遠ざかっていった。
シシリがそれを見つけたのは、聖大国時期国王が王位継承を前に何者かに攫われたというニュースが世界中を騒がせた季節の終わりだった。
聖大国よく知るというシシリ以外の船員はその話題で盛り上がっていたが、シシリはそもそも陸地に下りたことがないので、全く話題についていけなかったニュースだった。聖大国隣のグライン公国で彼の姿を見たとか、聖大国の背後を守る巨大なシシリス山脈の頂点で、逆賊によって神への生贄にされたのだとか、信憑性の欠片もなさそうな噂を耳にしながら、シシリはぼんやりと海を眺めていた。
昼の甲板拭きは終わったし、船底に溜まったビルジ(汚水)も掃除した。昼飯も食事の手伝いのついでに済ませたし、海も静かだ。
つまり休憩中で暇を持て余していたシシリの視界にふと、小さな白い物体が波の合間から見えたのだ。
最初は砕けた白波かと思った。けれどじっとそれを見つめていると、波の動きによって見えたり見えなかったりと、確かにそこに白いなにかが浮いているようだ。
シシリはビレイピンで留めてあるロープを掴むと、甲板の縁に乗り上げた。
そんなシシリに、噂話に興じていた船員達も顔を上げる。
シシリは眼を凝らすでもなく、そこに人が浮いているのを見つけた。
白く見えたのは、着ている服だ。
「おやじさん、人だ」
特に声を張り上げたわけでもないが、この船で誰よりも高いシシリの声はデッキに響き渡った。
船尾で昼寝をしていたおやじさんと呼ばれた大柄な男は、その声にちらりを視線を上げた。
彼が口を開く前に、ざぶん、と激しい波音が聞こえる。
シシリが海に飛び込んだのだ。
それを見たほかの船員たちが、おお、だの、いけシシリー、だの間違った声援で送り出す。
「……誰が救出しろっつった」
おやじさんの低い声は、船員達の声でかき消された。
シシリは慣れた動きで波間を泳いでいく。
青い空、青い海。このあたりは水質が綺麗で魚が美味いことが有名な海域だ。ただし、肉を好む攻撃的な生物も多く生息していることでも名が知られている。
乗っていた船が難破したが海賊に襲われたか――生きていても死んでいても、目の前の漂流者はこのままでは魚の餌になるだろう。
近付くにつれ、それが男のようだとわかる。濡れた金髪が、しがみついた板切れに張り付いていた。
「おおーい」
返事はないだろうかと泳ぎながら声を張り上げてみたが、やはりなかった。
すぐさま距離を詰めると、漂流者の顔がはっきりする。
まだ少年のような顔つきだった。顔色は真っ青だったが、息はある。以前、何度か死体を救出に向かってしまって以来、生死の確認はきちんとするようにしている。
少年が着ている服は白い簡素なシャツだが、襟や袖口に、よく見なければ気付かないほどの繊細な刺繍が施してある。左耳には小粒ながらカットが美しいエメラルドのピアスが輝いていた。
(……お貴族さまだ)
貴族の船が転覆したか、はたまた賊に攫われてきたか――どちらにしろ生きているなら、船まで運んでいってやろう。そうして次の港で降ろして、誰かに保護してもらえばいい。
幸い、シシリとさほど体格は違わなかったが少年はとても軽かった。海水の浮力も加わり、普段鍛えているシシリが彼を船まで運び入れるのに苦労はない。
船に戻ると、船員達がシシリと漂流者を引き上げてくれた。
「何度目だ」
甲板に座り込んで息を整えるシシリの前に、大男が立ちふさがった。
シシリは濡れそぼった前髪をそのままに、大男もとい、おやじさんもとい、この船の船長である男を見上げる。獅子の鬣のような髪は美しいまでの白髪だが、顔を横一線に横断する刀傷と眼つきの悪さが、今年還暦を迎える彼をまだ若く、精力的に見せていた。
ドーラ。女性のような名前だが、この船で一番厳しく、一番恐ろしい男である。
そんな男に真上から見下ろされ、縮こまったシシリは小さく口を開いた。
「……四度目です」
「掟は解ってんのか」
低い脅すような声に、シシリはこっくりと頷く。
「そいつの食い物はてめえの分から出せ。面倒はお前一人で見ろ。関係ねえ奴らに頼るな。他の仕事の手ぇ抜いたらそのガキと一緒に飯抜きだ。……お前ら、甘やかすんじゃねえぞ」
前半はシシリに、後半は総合的に見てシシリに甘すぎる船員達に告げる。
「でもおやっさん、四度目にしてやっと生きた人間を引き当てたんですぜ。しかもまだ子供だ」
甲板長のアジラが口を開いた。口ひげをたっぷり蓄え、筋骨隆々とした男だが、シシリに甘い顔をする代表格である。そのアジラの言葉に、他の船員もうんうんと同意を示した。
彼らの視線の先には、青ざめて意識のない少年がいる。
要するに、その少年を助けるまでの三度、全て死体を引き上げたシシリであった。船員達にすれば、シシリに頑張ったで賞を進呈したいところなのである。
「だからなんだ。死体のほうがまだマシだったわ」
ドーラは揺らぐことのない厳しさで吐き捨てると、さっと身を翻して定位置の昼寝場所へと戻ってしまった。
そんなドーラにシシリは頭を下げると、すぐ傍で横たわっている少年を気遣わしげに見た。
「たすかる?」
船医のハラに尋ねると、いつもの無表情がシシリに向けられる。
ハラは船で唯一非力に見える男だ。縁が真鍮でできた丸眼鏡をかけ、黒い髪を後ろで束ねていた。
「水は吐き出させたし、衰弱は激しいがまだ若い分回復も早い。充分な休息と栄養をとれば、後は本人の気力次第だな。季節と海域に感謝しとけ」
その言葉に頷くと、シシリはハラにも頭を下げた。そんなシシリの赤茶けた髪を、ハラの節くれだった指が混ぜっ返す。
「まあ、よくやったな」
なにしろ四度目の正直である。
ハラと船員達に交互に頭をぐしゃぐしゃにされ、シシリは嬉しくて笑った。
――真っ暗だ。
何も見えない。
自分の掌も、足先も、いつも視界に被る金色の前髪も、なにも。
それなのに、足元がぐにゃぐにゃと蠢き、闇色よりも昏い色のなにかが脈動している。
――気持ち悪い。
なんだここは、と叫ぼうとして、声が出ないことに気がついた。
馴染みの護衛二人と世話係の乳母の名前を呼んでみたが、やはり音にならない。
足元の蠢きはその間にも激しくなり、まるで波立つ水の上に立っているような気分になってくる。激しく気分が悪い。
足元を揺らす振動はやがて膝まで届き、そこまでくると胸元をそれが覆うまで時間は掛からなかった。
このままでは飲み込まれてしまう――。
サントルは音にもならないのに、叫ばずにはいられなかった。
「うわあああああああああああっ」
声が。
出た、と思った。
思ったが、揺れは変わらずにあることに恐怖が蘇る。
サントルはむちゃくちゃに手を振りまわして目の前の闇を払おうとしたが、その手を何者かに強く拘束された。
「なんだ、誰だ!? 私に、私に触るな……っ」
「暴れたら危ないよ」
サントルの悲鳴に反して、冷静な声が応えた。
しかし恐慌状態に陥っているサントルが、その程度で落ち着けるわけもなかった。
聞き覚えのない声。見知らぬ人間が自分を拘束しているという事実は、サントルにとって充分に脅威だった。
「ふざけるな!お前は誰だ、なぜ、なぜ何も見えない……!」
「だって君、眼を閉じてる。開けたら?」
そこでようやく、サントルははっとなって瞼を押し上げた。
一番最初に飛び込んできたのは、激しいほどの光だった。先ほどまで何も見えない暗闇にいたはずなのに、辺りは真昼のように明るくなっている。
次にはっきりしたのは、真ん丸の琥珀色だった。
それが人間の眼だと気付き、再び恐ろしさが舞い戻る――。
「大丈夫?」
前に、その眼の持ち主が自分とそうさして年の変わらない少年だと気付く。
サントルは先ほどまでの自分の行いが急に恥ずかしくなり、そして動かない両手が目の前の少年に拘束されていることに気付き、慌てて手を振りほどいた。
「離せ!この無礼者!」
体は衰弱していても口は動く。
そう叫んだサントルに、目の前の少年は困ったような顔をした。
「無礼なのはどっちだ。そこのシリーが助けなきゃ、お前は今頃魚の餌だぞ」
突然第三者の声が間に入ってきて、サントルはまた体を硬くした。
起き上がれないので、顔だけを巡らせてそちらを見やると、背の高いひょろりとした男が壁に凭れて立っている。開いているのかいないのかはっきりしない眼鏡越しの細眼が、なんとも人を小馬鹿にするような光を湛えていた。
それだけで、警戒するに値する人物である。
サントルは男を睨みつけ、唸った。
「……お前は誰だ」
「ハラ先生だよ」
「お前には聞いてないっ!」
サントルの問いに、近くのなよなよした少年――シシリが暢気に答えた。
なんて空気を読まない奴なんだ、とサントルはもう一度唸り返す。
「目が覚めたら覚めたで、随分態度がでかいな。もう一度捨てるか」
ハラと呼ばれた男が、細い眼を更に細める。そこにはぞっとするような迫力があり、サントルは思わずひっと喉を鳴らして顔を逸らした。
それを見かねて、少年が小さな声でサントルに囁く。
「だめだよ。ハラ先生はこの船の船員の命を握ってる死神なんだ。あんまり生意気な態度をとってると、本当に海に投げ捨てられちゃうよ。しかも手足の関節を縛られて」
その言葉に、ここが海の上で、ここが船の中だということをやっとサントルは理解した。
先ほどから感じているこの揺れも波のせいか、と納得し、あの夢から逃れられたのだと今更ながらの安堵が襲う。
「……シリー、その死神っての、誰が言ってた」
「えっ」
そんなサントルの横で、船員共通のタブーを口にしてしまったシシリは今まさに、死神に鎌を振り下ろされそうになっていたが。
「……状況はわかった。この船の名前と所属を言え」
ゆっくりと起き上がろうとするサントルに、傍らのシシリが慌てて手を貸す。
その手をごく自然に受け取って、サントルは船室の壁に背をつけて腰掛けた。
突然冷静になったサントルに、ハラは面白くなさそうに鼻を鳴らして近付いてくる。
なにをされるのかとサントルが硬直すれば、傍のシシリが診察だよ、とご丁寧に説明してくれた。
「腕を出せ」
言われて、サントルは躊躇した。
「出さねーなら完治したとして下の船員室にぶちこむぞ」
船員室とは、船底にあり、船員達が休むためのハンモックが蜘蛛の巣のように張り巡らせている広々とした空間である。揺れる船の上では、どちらかといえばベッドよりハンモックのほうが寝心地はいい。とはいえ、サントルは海を漂流していた病人だ。ハンモックで休ませるには、気力も体力もまだ足りていない。そして船員室は、なにより男達の体臭で猛烈に臭かった。
――との事情を良く知らないサントルだったが、ハラの迫力に押されて素直に手を出した。
このままでは先に進まないとも考えたのかもしれない。
腕を差し出したサントルは、子供のように拗ねているわけでもなく、冷静で無表情だった。
「脈拍も異常なし。目立った外傷も特にはないな。肉のつき方で大体見当はついたが、本当に短期間の漂流だったみたいだな。シリーに感謝しとけよ。……まあ、それなりの時間を海に浸ってたんだ。俺の許可があるまでベッドから出るなよ、クソガキ」
言いながら、サントルの腕、首筋の脈を取り、眼球、口の中も診察して異常がないことを確認する。
「なよなよしてるくせに丈夫なガキだ」
一通りの診察を終えたハラが余計な一言を口にすると、サントルの眉間に皺が刻まれた。
「貴様、さっきから失礼な口を」
「うるせーな。それよりお前、シリーに言うことがあんだろうが」
言われて、サントルはすぐ傍で診察を見守っていたシシリを見た。
サントルが改めてみると、前髪が異様に長い。両目はそれで機能を果たしているのかと問いたいくらいには、少し癖のある赤い前髪が鼻の付け根まで伸ばされていた。
目覚めたとき、琥珀の両目だったと思ったのは気のせいだったのか。
「……ああ」
サントルはシシリを見て、ハラがなにを言っているのか納得したように頷いた。
「私を助けてくれたのだったな。ご苦労だった。私がここを去るまで、船を挙げて精々尽くすがいい」
鷹揚に言い放ったサントルに、ハラが低い声で呟いた。
「……やっぱもう一度捨てようぜ、シリー」
さすがにこれには何も反論できないシシリであった。
「ようシシリ、例の坊主はどうだ?」
食堂にサントルの食事を取りに行くと、休憩中の船員達がこぞってシシリに声をかけてきた。
「聞くところによると、随分と生意気なガキだそうじゃないか」
「あの死神を怒らせたってマジか?」
サントルの態度の大きさは、狭い船内に瞬く間に広がったらしい。
確かに少年の態度は、今までシシリが接してきたどの人間よりも貴族らしいものだと思った。とはいえ、漂流直後であれだけ元気なら、全快するまで時間はかからないだろう。切れたハラが彼を海に投げ捨てなければ。
それに苦笑して、シシリは食事の乗ったトレイをコックから受け取った。
「お前の分、すこーしだけおまけしてあるからな」
受け取った際、コックからこっそり耳打ちされて、シシリは嬉しそうにはにかんで礼を言った。
この船に乗っている皆は、ほとんどが強面のムキムキマッチョだが、基本とても優しく面倒見がいい。この船で一番年下で下っ端のシシリに、皆がいろいろと世話を焼いてくれるのが常だった。
シシリは沢山の船員達に声を掛けられながら、サントルの眠る客室へと戻った。
何故客室かというと、この部屋と船長室、あとは医務室しかベッドが置かれていないからである。何故医務室に運ばなかったかというと、あんな線の細い少年に船の船員達が船の操縦の際に負った傷や、〝お仕事〟のときに被る傷を見せるのはあまりよくないだろう、との判断が下されたからだ。船での医務室の稼働率は決して高くはない。だが、多少の傷なら自分達で縫ってしまうような屈強な船員達が医師(最終手段)を頼るときというのは、無視できない重傷か気絶しているかのどちらかだった。つまり、この船の医務室が機能しているときというのは常に、血生臭いものだった。
「サントル」
なかなか警戒を解いてくれなかった少年からは、名前を聞き出すのも一苦労だった。そのためか、この名前を呼べることがなんだが嬉しいシシリなのである。例えサントルには、ゴシュジンサマと呼んで崇めろと言われていようとも。
「サントル?」
シシリが名を呼んで部屋に入ると、サントルはまだ眠っていた。
起こして食べさせるか迷ったが、寝ているときは無理に起こさず存分に寝かせとけ、のハラの言葉を思い出し、先に自分だけ食事を済ませることにした。分厚い絨毯の敷かれた客室の床に座り込み、自分用のトレイを床に置く。客室にはそれなりに豪華な赤いベルベットのソファや、細工の美しいカシヤ木製の椅子もあったが、客人ではないシシリに使うことは許されていない。
シシリはサントルの世話係兼、監視役でもあるのだ。
この船は普通の商船とはちょっと勝手が違う。漂流者を拾うのも、本来ならご法度だった。それを毎回毎回、人影が見えるたびに思わずといった態で救出に向かうシシリを見かねて、ドーラが掟を作ってくれたのだ。
一、漂流者を助けたものは、その漂流者の世話と船の仕事を兼任し、その食事に関しては自分の分から分配すること、二、その漂流者が問題を起こしたときは、自ら責任を持って収拾にあたること。三、漂流者が船に危害を加えようとする場合、即刻首を刎ねるか海にお帰りいただくこと云々――。
今のところサントルに船内を歩き回る体力はないようだが、油断はできない。
コックが量をオマケしてくれただろうポテトサラダとスープ、パンを口に頬張り、シシリはベッドで穏やかに眠るサントルを見た。
繊細な金細工のような金髪が、船窓からの光を受けてきらきらしている。今は閉じられた瞼の向こうに、氷のような水色の瞳が隠れていて、初めてサントルが眼を開けたときは衝撃だった。
あんな澄んだ瞳の色、見たことがなかった。中心の濃い群青からさっと薄い水色に染まる瞳は、どんな宝石でも表現できないだろうな、と見惚れたほどだ。
そして、その眼が埋まる肌は抜けるように白い。今は具合も悪くて多少青白いのもあるだろうが、それなりに漂流していた筈なのに日焼けがあまり見られないため体質なのだろう。
海の上で過ごしだして、すぐにごぼうのように真っ黒になってしまったシシリとは全く違う肌の色をしていた。
(綺麗な子だなあ)
シシリの素直な感想はそれだった。かつてこの船の男達しかまともに見たことのないシシリに、天使がいたらこんな感じかな、と思わせるほどサントルは幼いながらも美しかった。
――でも、性格がなあ。
こんな苛烈な性格も、シシリは初めて目にした。
いや、苛烈さで言えば、船長のドーラも負けてはいないとは思うが、サントルのものとドーラのものは質が違うような気がする。
ドーラはその威圧感と正論で人を従わせようとする真っ直ぐな苛烈さだが、サントルは、己に他人が服従するのが当たり前と思っているような屈折した苛烈さなのだ。そこに思いやりもなければ、遠慮も感謝もない。人を従えることに慣れているのだな、と世間知らずのシシリでもわかる。
それでも、今まで年の近い人間と接したことのなかったシシリは、友達ができたようで嬉しかった。だからこそ、一生懸命サントルの世話をしているのだ。
とはいえ、あの性格をにこにこ笑って受け流せるほどでもないが。
(お貴族様はみんなこんな感じなのかな)
だったらちょっとやだな、と思うシシリだった。
「あのガキはどうだ」
船長室で、航海士と共に航路の計算を行っていたドーラが顔も上げずにハラに尋ねた。
航路計画においてハラが役に立つことはない。この部屋にも、次の物資の積み込みで医療道具と薬をいくつか調達したい旨をドーラに伝えるためにきていた。
「サントルですか?……まあ、態度に相応しいふてぶてしさというか、図太さというか……あのままなら問題なく次の港までには回復するでしょうね」
生意気の極みをいくサントルを思い出しているのか、ハラの無表情が一層無表情になる。
「右耳のピアス、見たか」
ドーラが海図を眼で追いながら、更に話を続ける。それを受けて、航海士のドムが、ああ、と納得したように頷いた。
「見事なエメラルドでしたね。小粒でしたが、あそこまで精巧なカットは珍しい」
航海士でありながら鑑定士でもあるドムは、海図の航路を修正しながら口を開いた。ワイン樽のような体型に、禿げた頭部はこの船には珍しい容貌だが、その頭の切れ具合は誰よりも優れている。信頼に足る航海士なのである。
「ありゃあ、相当上位の貴族か、はたまたでかい商家の息子か」
言いながらも、あまりドムには関心がないようだった。
その会話を受けて、ハラは肩を竦める。
「私は医師ですから、人体以外のよしあしなんか解りません。ただ、あの人を使うことに慣れきったクソガキに、人のいいシリーが手足のようにこき使われてます」
その一言に、これまでの会話で海図から一度も眼を離さなかったドーラが顔を上げた。
「……」
「……」
無言で暫し見つめあったハラとドーラだったが、先に動いたのはドーラのほうだった。
「航路はこれで決定だ。あとは任せる、ドム」
「はいはい」
言って、さっと船長室を後にする。ハラは心得たようにその後に続いた。
ふたりが船長室を出て十歩といかないうちに、それは聞こえてきた。
ガシャーン、と壁になにかが叩きつけられる音と、甲高い怒声である。
「なんだこの食事は!私にこんなものを食えというのか!」
一瞬立ち止まったドーラは、次に歩き出す頃には恐ろしいまでの怒気を纏っていた。それを後ろで眺めながら、ハラは無表情がにやけるのを必死で堪えている。
あのクソガキがどんなお灸を据えられるのか、楽しみで仕方ない。
「私を誰だと思っている!そんな粗末なもの、犬にでもくれてやれ!」
「ふ、船に犬はいないよ……あ、ネズミ捕りの猫ならいるけど」
「ものの喩えだこの役立たずめ!」
客室のドアを開けると、まさに修羅場だった。
ベッドに上体だけ起こしたサントルと、頭から食事をぶちまけられたシシリの姿。シシリの頭には、銀食器が乗ったままになっている。
「あ、おやじさん……」
突然現れた予想外の人物に、シシリは身を硬くした。
怒られる――咄嗟にそう思ったのだ。自分が救出した漂流者の手綱ひとつ取れないのかと怒鳴られるかもしれない。食事を無駄にするなと叱られるかもしれない。
どうしよう、サントルがまた海に投げ出されたら――。
ぐるぐると廻る思考がまとまらず、シシリは戸惑ったようにドーラとハラを見上げるしかできなかった。
赤茶の前髪から小さく覗く琥珀色の瞳を認め、ドーラから更に怒気が上がる。
それに一層顔を青ざめたシシリに気付かず、サントルは暢気に口を開いた。
「……その姿からしてこの船の船長か?丁度いい。私への待遇について話がしたいと思っていたところだ。ああ、その前に聞きそびれていたのだが、この船の所属国と名前を教えなさい」
そのサントルの言葉に、シシリはひいいいいと全身鳥肌立った。
さすがのハラも呆れ返っている。
シシリはもはや一ミリも動くことができず、ドーラの雷が落ちるのを今か今かと待っていた。
「シシリ」
「はい!」
やがてドーラが口を開いたが、そこには怒気は含まれていなかった。
「とりあえずそのスープくせえ頭をどうにかしてこい」
言われたら逆らうことなどできない。
シシリははいっと直立不動で答えると、頭に器を乗せたまま客室から飛び出していった。
「待て!まだ私の食事が……」
そんなシシリに言いつけるように声を上げたサントルの顔面横を、ものすごい勢いでなにかが通り過ぎていった。ひゅ、と鋭い風が過ぎてからサントルが横を見ると、鍛えに鍛えられたものすごく太い足だった。客室の柔らかなベッドマットに、足首まで埋まっている。
サントルの顔面から血の気が引いた。
サントルの耳を掠るか掠らないかの位置に蹴りを入れたドーラは、自分の真下にいる顔面蒼白の子供を見下ろした。
その眼はサントルがちびらなかったことが褒められるほど冷え冷えとしていて、まるで犬畜生以下の存在でも見ているような軽蔑が浮かんでいる。
「……坊主、ちょっと黙って俺の話を聞けや」
地獄から響くような声でそう言われたら、さすがのサントルも頷くほかない。
サントルが素直に頷いたのを受け、ドーラはベッドを踏みにじっていた脚をどけた。ぼっこりと凹んだそれを見て、備品修理係が泣くな、とハラは適当に同情した。
ドーラが離れると、サントルはまるで壁にするようにシーツでわが身を包むと、じりじりと後ろの壁へと後ずさった。少しでも距離を取りたかったに違いない。
「まずひとつ」
ドーラが落ち着き払った声で言った。
「お前がさっき犬の飯だと評した食事はな、シシリが自分の分を削ってお前に分け与えているもんだ。何故か。この船は長い航海をするための船だ。陸に上がりはするが、基本長くは留まらない。物資の調達や荷の運び入れの目的がほとんどだからな。――で、この船には確認された船員以外の食料は置いていない。予備分も含めて、この船で働く船員達のものだ。間違っても、お前ら漂流者に出くわしたときのための備えじゃねえ。わかるか」
言われて、サントルはすぐに理解したようだった。だが、それを素直に認めるのは癪だったのか拗ねたように唇を尖らせる。
そうすると少年からまだ幼い少女にすら見える儚さが恐ろしい。
「……じゃあなんで、私を助けたんだ」
言い草はまるっきり子供のそれである。
ドーラは幼い子を相手にするように、諭すような眼差しを向けた。
「そこで掟の出番だ。漂流者を助けたものは、自らの食事を削ってその分を捻出すること。漂流者の世話と平行して、今までの船の仕事も完璧にこなすこと。漂流者がなにか問題を起こしたら、助けた奴が責任を取ること――まあ、大まかに言うとこれだな。シシリは自分の意思で自分の労力のみでお前を助けた。だから自分の食事を削ってお前に栄養を与え、休息を促している。だがな、シシリの意思がこの船の総意だと思ったら大間違いだぞ」
諭すような眼差しは変わらないが、後半の声には明らかに怒気が含まれている。
サントルは青ざめた表情で、次に何を言われるかとドーラを見上げていた。
ハラはざまあみろと吹き出さないことが精一杯だった。
「……お前が陸地でどれだけ周りにちやほやされていたかは知らんが、この船の総意は俺だ。俺が不要だと判断したら、シシリがなんと言おうとお前を海に放り出す。お前が当たり前だと思っている地位と権力は、今この場では有効でないことを肝に銘じておけ」
ひんやりとした眼差しが、サルトルを突き刺していた。
もはや子供に向けるような眼差しではなかったが、ドーラはそれを気にすることなく続ける。
「それからな、シシリはこの船に乗る全員の子供みてえなもんだ。そのシシリにお前があんな真似やらかすと知れたら、俺が言うまでもなく、お前はこの船から叩き出される。覚えておけ、お前は、この船の中じゃ、シシリの下のネズミ捕りの猫以下だ」
その言葉は、気位の高いサルトルに衝撃を与えた。
かつて蝶よ花よサントル様よと育てられた彼にとって、自分が動物以下だとは到底納得でいるものではない。
「この私が、あんなゴボウの、更に猫の下だというのか……!」
ばちーん!
思わず叫んだサルトルの頬が、とんでもない勢いを持ってスウィングした。
船乗りの分厚く固い鋼のような掌で平手されたサルトルは、そのままベッドから吹き飛び、床に激突して動かなくなった。気は失っていないが、呆然としている。
さすがにこれにはハラも止めに入った。
「船長、やりすぎですよ。相手はまだ衰弱している子供だ」
「……すまん、つい」
どうやらドーラもやりすぎたと自覚はあったらしい。その場をハラに任せるように、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
「っ……、な、なっ!」
叩かれたサントルといえば、平手を受けた頬を掌で覆って愕然となっている。殴られたことなど一度もないだろう頬は、すぐさま赤く腫れあがり、歯で口の中を切ったのか、床には血が零れ落ちていた。
「馬鹿なこと言ったな、お前も。この船で一番のシシリ馬鹿は、船長なんだぞ」
そんなこと今更言われても、と思わずにはおれない後出しの忠告であった。
父さんにも叩かれたことのなかったサントルは、海の男の平手の威力にいまだ呆然としている。むしろ気絶しなかったことを褒めてやりたいくらいである。
そんなサントルを前に、ハラはにやりと悪魔の笑みを浮かべた。
「……ああ、あとなんだっけ?この船の所属国と名前、だったか?」
いつもは開いていないような眼がぎらりと光った気がした。
「この船の名はゴーストシープ、だせえから号なんてつけんなよ。世界中から警戒されてる、無国籍の略奪者たちの船だ」
それを俗に海賊船と呼ぶ――。
サントルは今度こそ気絶した。