▼カタワレ
いつも朝は早かった。
庭で放し飼いにしている鶏が鳴く前に起きだして、群青色が白く染まるのを窓から眺める。
窓際のソファに座って朝日を浴びることもあれば、三階のテラスに出て冷ややかな朝の空気に包まれることもある。気温が下がる時期の夜明けは朝露が庭の木々に映えてきれいだと、飽きることなく毎日思ったり、梅雨時期の朝は鬱陶しく感じたりした。ほんのたまに、台所でコーヒーを淹れている間に、朝が過ぎることもある。
山を削った高台に建つ小さな木造の家は古臭く、辺りの現代的な鉄筋製の民家と比べると鶏小屋のようだった。庭を鶏が闊歩しているさまが尚更その雰囲気を強くして、ご近所さんが影でそう呼んでいるのも知っている。けれどその高台から臨む眺めはいつだって美しく、懐かしく、やさしかった。
中学最後の年に母が肺の病で亡くなり、わたしは独りになった。あまり家に寄り付かない人だったので、ひとりきりの生活に困ることもなく、指定区域の高校に通いだして二年。
毎日毎日、なんの変化もない日々が過ぎていく。
決まりきった安定した人生を、今の子供たちはなんの疑問も抱かずに歩んでいるのだ。
我が家の裏手にある有名な剣道道場から朝錬開始の声がきこえてきたら、時計は朝六時半をさす。それをなんとはなしに耳にしながら、フライパンでベーコンステーキと目玉焼きを焼く。ばちばちと雨が地面を叩くような竹刀のしなる音が聞こえたら、トースターから焼けたトーストが飛び出す。マーガリンを塗ったそれとベーコンエッグを食卓に並べたころ、わたしはようやくテレビをつけた。
『昨年度の政府認定パートナー制度に関するアンケート調査の結果が発表されました。対象は十代男女で、六十二パーセントが無関心、二十四パーセントが賛成、十四パーセントが反対とあり、多くの若い世代がこの制度に関して疑問を抱かずに受け入れていることがわかります。この制度が始まり、四十五年目を迎えるにあたって、政府は来年成人する認定パートナー達の大々的な集団結婚式を行う予定で……』
ロングヘアの女性アナウンサーが原稿を読み上げている画面右上では、『消えた運命の赤い糸』と、ずいぶんとロマンチックな見出しが掲げられている。内容は政府が数十年前に敢行した政策についての報道だった。
かつて深刻な少子高齢化が蔓延していたこの国で、苦肉の策として政府が掲げた「政府指定パートナー制度」は、国民のパートナーを国側が指定し決定するというもので、国がこどもの出生届を受けた時点で、その出生した乳児と同年代の異性をあてがうという異色の制度である。強行当時はそれこそ反抗反発は凄まじかったらしいが、この制度に賛成した数少ない国民をテストケースに、徐々にその根を深くしていった。
そうして四十五年経ったいまでは、自分に生まれながらに結婚相手がいるということは当たり前のことになり、そうして産まれた子供たちはなんの疑問も持たずその制度に従っているのが現状だ。もちろん、今現代でも反対団体が存在しないわけではないし、国民全体に受け入れられた制度ではない。それでも制度敢行から少子化は改善され、我が子をその制度に組み込むか否かを親が選べるという選択肢もあり、制度自体はこの国のカリキュラムに順調に浸透していっていると言いって過言ではなかった。
「赤い糸…」
昔出版された恋愛小説を見れば、よく見る言葉だった。
陳腐で不確かで、けれどどこか甘ったるい響きのそれ。
ほんの数十年前まで、世の中には運命の赤い糸というものが本当に存在していたらしい。
あらかじめ決められた生涯のパートナーではなく、自らが望み、相手からも望まれて、婚姻を結んだ時代があったそうだ。
彼らは日常生活のなかで「好きな人」を作り、片思いや両思いを経験したりして、やがては心底から「愛した」人と添い遂げて、そして幸せに向かって生きていたのだろうか。
けれど今、この時代に赤い糸は存在しない。
科学的に計算され遺伝子分析にかけられた人工的に完璧に組み合わされた恋人たち。
彼らはやがて結婚し、子を成し、その子も孫も同じように、感情とは別のところで結ばれたパートナーと結婚し、その生を閉じていく。
それがいまの当たり前だった。
こどもの誰が「赤い糸」に憧れようが、親に決められてしまったパートナーとの仲を覆すことはままならない。
成人すればパートナー同士の同意があるときに限り、この制度から抜け出せるが、そうして抜け出したところで、周りはパートナーが存在する異性ばかり。なにより、幼いころから近い距離で共に育てられるパートナーを突き放す人は、そう多くはなかった。
幼いころからパートナーへの感情を育て、幼いながらに認めさせることで、「愛」とか「慈しみ」とかを育んでいく。
それが本当の「感情」なのかどうか、わたしにはきっと最後までわからないだろう。
決められたパートナーと生涯添い遂げて、やがて暗い土にもぐるまで。
「まこと」
インターホンが鳴るのと同時に、乱暴に戸が開けられる音がした。
時計を見れば七時過ぎ。
ああもうこんな時間か、と空になった食器を流しに片付けて教科書の入っていない学生鞄を手に取った。
わたしが廊下へ出るより早く、台所入り口のカーテンを割って入ってきたクマゴリラ、もといわたしのパートナーである合田剛主が現れた。浅黒い肌に坊主頭、柔道部主将の巨体は、いつ見ても邪魔くさい。制服の学ランがパツパツに張っているのを見ると、本当に筋肉馬鹿だな、と何度目かわからない感想ばかりが浮かんでくる。
「なにしてんだよ。早く行くぞ、ノロマ」
粗雑な態度に失礼な言葉遣いは昔と変わらない。幼馴染でありパートナーのこの男は、いつだってわたしを虫けらのように蔑んできた。
その理由を知っているからか、長年の情なのか、どんな態度をとられてもとくに腹は立たない。ああちがうか、その理由が、自分にもあてはまるからかもしれない。
黙ったままのわたしに苛立たしげに舌打ちした剛主の後を追って、庭を抜ける。
高台から平地へ向かう緩い下り坂は、細い道の両側を家々の庭先に植えられた樹木に覆われている。金木犀やアジサイ、柿木、ちんちょうげ、ポプラ、竹やバラ…それぞれの趣味で囲まれた細道を、ひとりで歩くときよりずっと早く進んでいく。季節の花々に興味すらない剛主は、他人様の軒先に干された女性の下着に気をとられることはあっても、花に視線を向けることはない。小学校低学年のとき、わたしと母が花開くのを楽しみにしていた庭の雪柳を邪魔くさいと引っこ抜きやがったことを、いまだに忘れられない。ぶちぶちと細かくちぎり捨てられた柔らかな緑の葉は、まるでごみくずのようにその姿を剛主の拳から覗かせていた。
思い出したら腹が立ってきた。下り坂の途中にある数段の階段を下りる途中、わたしの視界いっぱいを埋める邪魔でしかない大きな背中を蹴り上げた。加減したとはいえ、びくともしないのがむかつく。
「なにしやがる」
「蚊がとまってたよ」
「そんな嘘が通じると思ってんのか」
思ってない。
数段下のコンクリートの階段から睨まれても、あまり怖くない。このあたり一帯で乱暴者、粗暴者と年下年上同年代から怖がられている喧嘩馬鹿の強い眼光も、十七年間見ていれば慣れる。ついでに拳骨や肩パンにも慣れる。
「お前みたいな根暗な奴とパートナーだなんて、ついてねえ」
ゲジ眉の下から送られる不機嫌な視線を無表情で受け止めていたわたしにやる気を削がれたのか、剛主は唾と捨て台詞を吐きだした。その意見には心底から同感だ。
イライラしているごつい背中を見ながら、下り坂をおりていく。
あと数メートル、高くやさしい笑い声を耳聡く聞きつけて。
大きな路地に出る直前、その邪魔くさい背中を思い切り蹴り上げた。
どっと筋肉と脂肪に覆われた背骨を底の擦り切れたスニーカー越しに感じる。それから細い路地を飛び出る剛主の体をスローモーションで見送って、同時に聞こえた小さな悲鳴に内心でガッツポーズ。ナイスタイミングだった。先週はタイミングを見誤って、剛主ひとりが無様に転んだことを思えば、今日は合格点かもしれない。
「…剛主くん?」
こんもりと生い茂ったミニバラの茂みの向こうから、鈴が鳴るような声で剛主の名が呼ばれる。高くかわいい笑い声と小さな悲鳴を発したのと同一人物。
「…っ綾瀬!」
両膝をコンクリートについた間抜けな体勢で、剛主が焦った声を出す。慌てて起き上がろうとしたその図体に、小さな手が差し伸べられるのが見えた。
「大丈夫?けがしてない?」
穏やかで柔らかな声とともに、長いロングヘアが垣間見えた。赤くなっているだろうに、いかんせん地黒の剛主の顔色は焦っているだけに見える。つくづく残念なやつ。
「お前、どうしてそんなによく転ぶんだ」
剛主が柔らかな手に触れる寸前、剛主とは別の男の声がした。
低いけれど野太くはない、硬いけれど硬すぎるわけではない、はっきりとした声。
その声に反応して、剛主は差し出された手をとることもなく立ち上がった。あーあ、あと少しだったのに。いやなやつだな、きっと、わかってやっているからタチが悪い。
「…好きで転んでるわけじゃねえ」
綾瀬の手前、強くいえないところが痛いだろう。
もう空気を読む必要もないので、大股で二歩ほど進めば今まで歩いてきた細い路地から車道のある道路へと抜ける。ちょうど剛主が立つ真横、その影に気付いた綾瀬がわたしに笑いかけた。
「まこちゃん、おはよう」
その笑顔を向けられて、まだ上がりたての朝陽のようだな、と毎回のように思う。柔らかで暖かで、少し頼りない。それでも小柄で細身の体は決して弱弱しくなんかなく、ぴんと伸びだ背筋がきれいだった。綾瀬涼香。まっすぐに伸ばした黒髪と、透けるような肌が眩しい。きらきらとした二重の瞳が力強くて、わたしはいつもくらくらと眩暈を起こしてしまう。
「おはよう、すず」
その背後に立つ長身の影には気付かないふりをして、涼香にだけ笑いかけた。
わたしの登場に、剛主は苛立たしげに坊主頭を掻いている。きっとぶん殴りたいくらい怒っているのだろうが、涼香の手前、乱暴な真似はできないだろう。クマゴリラはクマゴリラなりに気を使っているのだ。
「…いたのか」
涼香の背後に立っていた影がわたしに向かって口を開く。それを聞かなかったことにして、横に立つ剛主を見た。
涼香に心配されて満更でもないクマゴリラは、地黒の頬をうっすら赤くして似合わない笑顔を浮かべている。
それを見るたびに、わたしは泣きたくなるくらい、申し訳なくなってしまうのだ。
「…涼香、行くぞ。遅刻する」
わたしが無視したことなどお見通しだろうに、涼香の影――少し伸ばした前髪を無造作に整えて、その下に見える眼光はいつになく優しい、榊原一雪。そんな目を向ける相手は涼香だけだと、わたしたちが通う高校の生徒は皆知っている。もちろん、見た目に反して鈍くないクマゴリラもそのことには気付いているはずだ。
一雪の華奢に見える肩にかけられたまっすぐの竹刀が、その性格を代わりに顕しているようだった。品行公正で誠実だが、まっすぐすぎて曲がることを知らない。
自分の公認パートナーである涼香に、ひたむきな想いを寄せている。
全国でも有名な剣道家の娘である涼香と、その門下生のひとりである一雪は、このあたりの土地では有名なカップルだった。誰が見ても似合いだと噂されるふたりは、決め付けられた仲だけでは決して醸し出せないような濃密な絆を、いつも惜しげもなく放出している。
その空気に周りがあてられていることなどお構いなしに。
昔は家が近所同士で四人でよく遊んだ仲だったが、パートナー制度が理解できる年齢になってからは互いに距離を置くようになった。
だからこうして、朝、たまたま時間が合ったときだけ、ほんの少しの言葉を交わす。
それがわたしにも剛主にもよくないことだとわかっていながらやめられずにいる。