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冒頭10分  作者: 森モト
2/6

▼甲殻類の恋



女の子はふわふわして柔らかくってあったかいのが理想的―――。


そんなもん男が勝手に描く幻想に過ぎないと思っていた時期が私にもありました。

けれどそれは、高校二年の夏、間違っていたと思い知らされたのです。



「梓さん」

今年四月、入社してきたばかりの三輪ちゃんが青い作業着姿で駆け寄ってきた。手には日報。どうやら彼女の今日の仕事は終わりらしい。

「お疲れさん。デスクの上に置いたまま帰ってよかったのに」

「だってさよならの挨拶したかったんですもん」

「かわいいこと言うな。ぎゅうしちゃうぞ」

「げへへ」

妙な笑い声を上げるが、三輪ちゃんは茶色の髪がふわふわしているかわいい女の子である。

今時の女の子然とした容姿の三輪ちゃんだが、おばあちゃんの影響で昔から和ものが好きだったこともあり、物好きにもこの古臭い和紙工房へ希望就職した。結構な重労働なのに。

可愛らしい花柄ノートの日報を受け取る。

普段は紙漉きの現場にいる私が今日に限って乾燥に駆り出されたため、こちらまでわざわざ持ってきてくれたらしい。

「若旦那、今日はいないんですか?」

きょろきょろと三輪ちゃんが周りを見渡す。おっちゃんとおばちゃんが、珍重されるいちょうの木の干し板に圧搾された和紙を黙々と貼り付けている。

「京都に出張」

我が社で作られた和紙の新作をプレゼンしに行くらしい。大変だな。

私がそういうと、三輪ちゃんは、ちぇっと唇を尖らせた。

「あのほんわりした眼鏡姿がないと寂しいですねえ。お菓子もらえないし」

随分子供じみた理由で膨れているが、小さくて可愛らしい三輪ちゃんは若旦那によくかわいがられている。年を食った職人が多い職場で、妹や娘のように扱われ、よくお菓子で釣られている姿を見かけるのだ。

(……若旦那だけにかわいがられてるわけじゃないし)

ぼそっと頭の中で浮かんだ自分へのフォローが情けない。

「京都土産、楽しみにしてたらいいよ」

きっとあの気遣いの塊のような人は、他の職人にも三輪ちゃんにも、当然のごとく買ってくるだろうから。

「ほら、仕事終わったらすぐハンドクリーム塗りなさい」

紙漉きに携わる人間の手荒れは必須だ。真冬だろうが冷水で紙を漉くのは当然、手の感覚を失わないよう、熱い湯につけたりする。まあ、女の子の柔らかな手にいいわけがない。

「梓さんてば過保護」

またもげへへと笑いながら、三輪ちゃんは私の手を握った。ちょっと冷たいけど、湿ったふわふわした手がなんとも気持ちよい。なんてすばらしいマシュマロ。

「梓さんもちゃんと塗らなきゃだめですよ」

「もう荒れまくっちゃって、手入れしても無駄だよ」

お姉さんぶった三輪ちゃんに苦笑しながら答えて、誤魔化すようにその髪を撫でた。

鏑木梓、三十一歳。ひっつめた黒髪、凹凸のない体、地味でも派手でもない服装、無駄に高い身長、気持ちは既におばちゃんの域である。

(まあ、若くても柔らかいマシュマロではなかったけど)

女の子は柔らかくてあったかくてふわふわで甘い香り。そんなの幻想だと思ってた。

(私が違ったからな)

そこに身長、顔つきと同じように体質の違いがあるのだと知ったのは高校二年の時。

クラスメイトの花子ちゃんの手を握ったとき、思春期の男子並みに衝撃を受けた。

やわらかかった。それはもう、それ以来コンプレックスとお友達になってしまったくらい、彼女の手は柔らかくてふにふにしてて気持ちよくって、まるで瑞々しい果汁が破裂せんばかりに詰まったふわっふわのマシュマロを触っている気分になった。

そう、女の子は柔らかくて暖かくて気持ちよかったのである。

そして私は甲殻類…皮膚の硬い女であった。

(そら、あんな手でぎゅっとされたら男の人は堪んないよな)

例外なく、この老舗和紙工房の若旦那である壮二郎さんも、そんな手を持った女の子が好きなのだろう、きっと。



「ただいま、梓さん」

出張から帰ってきた若旦那が丸眼鏡の奥で穏やかに微笑んだ。

生粋の坊ちゃんであるこの人は、男の人らしい剛健さとは程遠いところにいる。周囲の悪意に鈍くて穏やかで優しげで、男の人には似合わないはずの「春のような人」、という表現がぴったりとくる人だった。

そんな人に似合うのは、やはりふわふわマシュマロの、愛らしい人だな、と長年の片思いに疲れきった私は思わずにはいられない。

それでもすきなんですけど、大好きなんですけど。

「京都土産、八つ橋買ってきました。ちゃんとチョコレート見つけてきましたよ」

出張に出る前、八つ橋のあの独特の味が苦手だと話したことを覚えていたらしい。ついでにチョコレートの八つ橋が食べてみたいと言ったことも。

「やった!ありがとう、若旦那」

若旦那とは同級生だ。

地元も同じだが、学区の関係で同じ学校に通ったことはない。単なる同い年である。

ちなみに若旦那の敬語は標準装備だ。昔から周囲の職人さんに敬語で接していたため、付き合いが長い今もどうしても抜けないらしい

「あっ若旦那だ!おかえりなさい!」

従業員用の更衣室から三輪ちゃんと香苗さんが飛び出してきた。香苗さんは私より年上だけど、この工房での勤務年数は私のほうが長い。勤めていた大手証券会社を辞め、一念発起で和紙職人を目指したというかっこいい女性であり、更には巨乳美人である。

「若旦那、お土産は?」

そして図々しい。

そんな香苗さんの隣で、まだ若く無邪気な三輪ちゃんはなにやらきらきらとした眼差しを若旦那へと向けている。心中、穏やかでない。

「ただいま戻りました。あちらに八つ橋とお抹茶を。三輪さんにははいどうぞ」

そう言って、着ていた作務衣のポケットから折り紙代の包装紙を取り出した。淡い桃色の和紙が使われたそれには、知る人ぞ知る有名な油とり紙の店名が印刷されている。

「やったあ!若旦那、ありがとうございます」

三輪ちゃんがそれを受け取って、にこにこと嬉しそうに笑う。かわいいな。

そう思いながらも、一瞬、二人の指先が触れ合ったのを凝視してしまう私。

その柔らかさに、若旦那は気付いただろうか。

(…妬くな、みっともない)

そしてそれを鉄壁の姉御スマイルで見守る。むなしい。

「…いいのかなあ、そんなえこひいきして」

香苗さんがにやにやと私を見ながらそんなことを言う。彼女にこのみっともない思いを打ち明けた記憶はない。全てお見通しらしい。

「えへへ、梓さんから若旦那が出張だって聞いたあとにメールしてお願いしたんです。ここのがどうしても欲しくって。ネットでも買えないから、これはチャンスだと思って」

げへへ、とまたあの個性的な笑い声で三輪ちゃんは若旦那に笑いかけた。それを受けた若旦那も、氾濫知らずの最上川と称された笑みを返す。言ったのは黒皮の収穫から煮熟までを担当する古株のおじちゃんだ。あの雄大で懐の深い最上川の姿と怒ることを知らない若旦那を掛けたらしい。よく解らないがなんとなく解る。

いまはそんなことより。

(うわー…)

今のは、効いた。

二人が連絡先を交換している事実も、そんな気安くやりとりできる仲だってことも、私が知ってる若旦那の連絡先なんて、タウンページにも載ってる会社の番号くらいだってことも。

「なにあんたら、そんな関係だったの?」

香苗さんも知らなかったのか、目が丸くなっている。何事にも泰然としている彼女が珍しい。

「げへへ、実はそんな関係だったんですよ~」

背後で落雷が落ちた。

衝撃再び。しかも今回はアルマゲドン到来並みの衝撃だった。再起不能である。

「そんな関係ってどんなですか?」

しかし次の若旦那の声でアルマゲドンは回避した。

天然ボケが入っている彼の笑顔を伴いながらのその言葉に、心底から救われる。

「若旦那って相変わらずボケっとしてますね~」

どうやら香苗さんの言葉に乗っただけだったらしい三輪ちゃんがげへへと笑った。なんて小憎たらしい…しかしかわいい後輩なのである。

ぎょっとしたりほっとしたり、朝から疲れた。

「仕事行きます」

思わずぐったりした声が出てしまった。

若旦那が帰ってきたので、今日からまた紙漉きの行程に戻る。今日はとにかく黙々と仕事したい。なにも考えず、煩わされず。

三人に背中を向けて作業着の上を羽織ると、私は作業場に向かった。

「あ、梓さん」

しかし何故追いかけてくる、若旦那よ。

振り返れば、若旦那とその向こう側に三輪ちゃんと香苗さんの姿が見えた。香苗さんはにやにやしてこちらを見ている。見るな。仕事しろ。

何故とか言いながらも、名前を呼ばれてだらしなくやにさがった顔なんか。

「チョコレート八つ橋、意外と美味しいって相模さんがぱくぱく食べてしまったので、梓さんの分は別に取ってありますから。あとでお渡ししますね」

なにそれ苦しい。優しさが嬉しくて他意がないのがわかるから苦しい。

ちなみに相模さんは我が和紙工房一番の食いしん坊である。先日の健康診断でメタボリックシンドロームと診断された。

「…ありがと、若旦那」

気持ちがないなら優しくなんてしないでくれ、なんて若い女の子が思うような気持ち、もうない。いやちょっとはある、…実はかなりある。でも、若旦那の優しさは通常営業、万人歓迎、私だけじゃない。

(むなしい)

三十路も過ぎてなにやってんだろ。

若旦那が意外と独身貫いてるのにも原因がある気がする。

この人は、いい女の人に出会えたら一発で幸せになれるような人なのに。

「じゃあ、昼休憩にもらいにいく」

「はい」

精一杯の笑顔を浮かべてみた。

無駄に伸びた私の身長より頭ひとつ分は大きい、ひょろりと伸びてしまった若旦那もふわりと笑う。

この人の笑顔もマシュマロだな。てなんだ、甲殻類の周りはマシュマロばっかだな。どうして私はマシュマロに産まれなかったんだろう。

自分のかさかさした、硬い皮膚が恨めしい。


「梓ちゃん、さっきの顔は傑作だったよお」

紙漉きの最中、向かいで同じ作業をしている香苗さんがにやにやとこちらを見てきた。

簀の上に満遍なく繊維がいきわたるように揺らしながら、私は顔を上げなかった。あげられるか。

「…香苗さん」

顔を上げる代わりに、非難がましい声で名前を呼んでみた。こんなほかにも人がいる場所で、その話題は避けて欲しい。

ちなみに香苗さんの横には子供も成人済みのぽっちゃりおばさんの原さん、私の横に三輪ちゃん、三輪ちゃんの向こう側に紙漉き主任職人中村さんゆらゆらしている。

顔を上げなくても私には解る。皆の耳がダンボになっていることが。

「大丈夫。みんな知ってるから」

「!?」

思わず手を止めて顔を上げてしまった。それと行き違うように、香苗さん以外の人の顔が勢いよく下がった。なんなのあんた達。

「…つうか、知らないのなんて若旦那くらいなんじゃないの?」

「そ、そ、そ…っ」

「梓、手が止まってるぞ」

顔が青くなったり赤くなったりしてるのが解る。

中村さんの注意に慌てて手を動かすが、頭の中はほぼパニックだった。ほぼじゃない、完璧に混乱しきっている。

目の前をゆらゆら白っぽい繊維が左右に揺れていく。それを視線で追いながら、皆の視線を俯けた額と右頬で受け止めた。見るな!

「あとは社長かなあ。若旦那の見合いの話、整えてるみたいよお」

その言葉は、今朝の衝撃を軽く越えた。

みあい。

あまりに色恋の沙汰のない私に、見合いの話を持ってきていた親戚はとうとう諦めた。お前の好きなように生きろと両親も私を後押しした。

しかし若旦那は違う。この老舗和紙工房のたった一人の跡取り息子なのだ。

「…じつは今回の出張のついでで、その見合い相手の会社に寄ったそうだぞ」

まさかの中村さんからそんな発言が飛び出した。

いつもなら私達の会話には絶対に加わらない昔かたぎの職人である中村さんから、そんな情報が。

恥ずかしさとか困惑とか以前に、妙な現実味が私を襲う。

「うそ!?それは知らなかった!中村さん、それマジなの!?」

「マジだ。社長から直接聞いた」

「ちょーっと!なにやってんだあのはげ親父は!!」

香苗さんが憤慨した。三輪ちゃんがまじですか…とつぶやいている。原さんはあらあらと困っていた。ちなみに若旦那のお父さん、つまり社長はカッパハゲである。

「梓さん、私がちょっと余計な事してみても全然動じないんだもん!香苗さんの指示だからって、梓さんの前で若旦那に絡むのめっちゃきつかったんですよ」

まさかのカミングアウトを三輪ちゃんからも食らい、私のエイチピーはゼロに近い。

(お見合い…)

自分にその話を持ってくる親戚達から聞いたときは他人事のようでしかなかったその言葉が、何故か若旦那に由来することだと思うと急激に身近になる。

「梓ちゃん、あんたぼけっとしてる場合じゃないわよ」

香苗さんの猛禽類のような鋭い視線が私を捉える。

(どうしろというのだ……)



「梓さん」

とりあえずチョコ八つ橋を受け取りに事務所に向かうと、若旦那しかいなかった。普段なら事務員や社長や専務がここで弁当を広げているのに。

「皆は?」

「今日は近くのお好み焼き屋さんに行くらしいですよ」

そんな店あったのか、と思いながら、予期しない二人きりに心臓が跳ねた。妙に緊張する。

「よかったら一緒にお弁当食べませんか。誘われ損ねちゃって」

苦笑した若旦那の顔を見て、はっとした。

もしや諮られたのか。事務員専務が社長を連れ出して、私と若旦那が二人きりになるように仕向けたのかもしれない。

(そういえば、この会社に入ったばかりのころはよく一緒に外にご飯食べに行ってたな)私と同時期に若旦那も社員として父親の会社で働き始めた跡取りで、お互い唯一の同級生だったから、妙な結束感があったんだよな。

年が増すにつれ、若旦那がただの社員から若旦那として働くようになって、私も指導する立場になったりして、そういうこともしなくなったけど。

「…うん」

この陽だまりみたいな空気を独り占めできるのは、久々だ。



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