▼リーチ
市河燃は、九歳の頃、とんでもない生物と遭遇したことがある。
彼はヒト科ヒト目の人間と呼ばれる生き物で、燃の同級生だった。
彼の周りにはいつも誰かが集まっていて、一時だってひとりになる時間はないようだった。
けれど彼はそれが当たり前だというように背筋を伸ばし、煩わしさなど感じもせず、毎日毎日、トモダチ、と呼ばれる人達と笑っていた。
こんな人もいるのだな、と教室の隅で燃は彼を眺めていた。
男も女も、彼のことが好きで好きで仕方がないというふうだった。
そこにはたまに恋が混じり、尊敬が混じり、嫉妬を滲ませた羨望があったりした。
彼はスポーツができた、勉強ができた、絵も模写ならうまかった。ただ、どれも一番じゃない。どれもそこそこで、容姿だって調ってはいるけれど、平凡な人だった。
それでも人が彼に集まるのは、ただ根本的に、ヒトという〝同類〟を呼び寄せる雰囲気を持った人だったのだ。
そして燃も例外なく彼に惹かれ、憧れ、まるで希少動物を見るような気持ちで、彼を見つめていた。
恋ではなかった。
ただ純粋に、こんな人間に生まれたかったものだと、友達も少なく、影の薄い燃は考えていた。
小説や映画の主人公にならるような人が、現実に存在するのだと、ちょっとおかしい感動を覚えたりして。
「リーチ」
皆は口を揃えて言う。
漢字で書くと理一。
燃は彼と親しく話したことはなかったけれど、彼の名前の由来だけは知っていた。
燃の父と彼の母が同級生で、同窓会で再会した際に生まれた子供の名前の由来を聞いたのだと言っていた。
燃は知っていたけど、本人である彼は知らないようだった。
ある日、自分の名前の由来を調べてくるようにとの宿題が出されたとき、初めて彼がひとりでいるところを目撃した。学校の近くに流れる小さな小川で、彼はひとり立ち尽くしていた。
今までひとりだったことなど一度もないような人が、ひとりでいる。
何故か燃は、話しかけていた。
帰らないの、と聞いたら、かえる、と彼は笑って答えた。
笑っていたけど、いつも見ている顔じゃなかった。
それでも、クラスメートのくせに一度も話したことのない燃から急に話しかけられたというのに、すばらしい対応だったと思う。
だから燃は、緊張で震える足を動かして、彼の隣に並んだ。
そこからの会話はあまり覚えていない。
多分、本当にどうでもいいことをぽつりぽつりと話していた。
そうして彼はやがて、宿題が出せねえ、と小さく俯いた。
理由を問う勇気が、その頃の燃にはなかった。
なので、彼の名前の由来を教えてあげた。どうして知っているのかと気味悪がられたらいやだと思って、自分の父が彼の母親と同級生だったこと、同窓会で再会した時こどもの話で盛り上がり、名前の由来を聞いたのだということまで話した。
彼は黙って聞いていた。
その沈黙が怖くて、父から聞いた「幸せそうだった」という余計な言葉まで付け加えてしまってから、余計なことを言ったかもしれないと今度はべらべら喋る自分の口が怖くなった。
彼がなにかを言う前に、じゃあまた明日ね、と早口で告げて帰路に着いた。ていうか逃げた。
翌日、彼は相変わらず人気者だった。
あの日以来、以前より眼が合う回数が増えた気もしたが、どちらも話しかけることはなかった。
あの、とんでもなく人を焦がすような、強烈な引力を持つ彼と言葉を交わしたのは、あの一度きりとなった。
「燃ちゃん、この御前、姫反の間にお願いね」
泣き黒子が色っぽい女将に言われて、燃は着物の裾を裁いて差し出された御前を受け取った。
この料亭で働きはじめて、三年が経つ。短大を卒業し、就職に失敗した燃を拾ってくれたのがこの高級料亭だった。はじめはバイトとして働いていたが、先日やっと、正社員にしてもらえた。
ここは時に政治家や芸能人もやってくる創作日本料理のお店で、竹林に囲まれた大きな子民家を改装して営業している。とはいっても、歴史は相当古いらしい。
季節ごとに素材や品は変わるが、一品ものは出さない。必ずその時々で料理人が考えたコース料理が提供される。毎日のまかないすら正式にメニューにくわえてもいいのではないかと思わせるような店だった。完全予約制だが、その時の材料の在庫具合で飛び込みも受け入れるという、高級料理店ながら、なんともゆるいお店なのである。
「燃ちゃんもだいぶ慣れてきたわねえ」
人心地ついたところで、先輩の五木から声をかけられた。
にっこりと微笑む穏やかなおばさまである。
「お母様とお父様が火星に旅立たれて、寂しいんじゃなくて?」
惑星間移動は、燃が生まれた頃にすでに確立されており、燃が成人した頃、火星に試験的なコロニーが完成した。
燃の父と母はしがないながらも研究者の端くれで、コロニー人類移住計画の第一弾として参加することになっていた。娘を置いていくことを渋ったふたりだったが、燃は既に成人していたし、宇宙にも興味がなかった。
ていうか、宇宙とか無限すぎてこわい。夜の海もこわいのに、宇宙とかむりむり、私みたいな小心者は、地球に生まれて地球で灰になるのがお似合いなのだと力説して、両親だけで火星に旅立ってもらった。
(だって未知の宇宙人に卵植え付けられて子供孕まされる可能性があるとか、こわすぎるでしょう)
「寂しくないって言ったら嘘ですけど、今は仕事が楽しいです。それに、そろそろ衛星と地球を繋ぐエレベーターが完成するらしいので、これまでよりぐっと行き来しやすくなると思いますよ」
もともと仕事人間だった両親は留守がちで、燃は小学生の頃はいつもおばあちゃんちにお世話になっていたのだ。それでもたまに帰ってくる両親に無償の愛を注がれて、小心者で臆病ながら、なんとか人間として頑張って生きてきた。
だから両親が火星に発った後も、ふたりがいない、と実感することは少なかった。
「それに、よくテレビ電話がかかってきて、前より会話が増えた気がします」
宇宙にいる家族と会話するとかすげーとか言われそうだが、この頃になるとそう珍しくない。今回の試験的コロニーが安定してきたら、地球上の四割ほどの人工を宇宙に移す計画が本格的に始動されるのだ。
燃が生まれる前から問題になっていた地球上の人口増加は、今は無視できないものになっている。
「お母様たちも、貴方のようなしっかり者の娘だから、お仕事に専念できるのでしょうね」
おいおい五木さん、褒めたってこんな小娘からはなにも出ませんよ。
ほっこりと微笑まれて、褒めなれていない燃は年甲斐もなく頬を染めてしまった。
「そういえば、今日は夜のお客様のご予約が少ないんですね。毎週金曜日に来られる房様ご一行も予約に入ってなかったし」
話題を変えようと、勤務に入る前にチェックした予約表を思い出す。
房様とはどこぞの御曹司やご令嬢の集まりらしく、燃よりまだ年若い子達のグループである。とはいっても騒ぎ立てるような無作法をする人達ではないし、彼らのご両親達もこの店の常連とあって、この店の客層では珍しい若者達だが、馴染みの顔なのだ。いつも毎週金曜日、必ず予約が入り、料理を召し上がっていかれる。
そして今日は金曜日だというのに、何故か予約が入っていない。
「ああ、うちの旦那様が、今日はあの有名なバンドのライブがあるって言ってらしたわ」
五木が笑みを絶やさぬまま答えを教えてくれた。
「……バンド?」
「何年か前にすごーく有名になった方がいたでしょう?……お名前はなんていったかしらねえ。ほら、ヴォーカルの子が暴漢に襲われて、事件になったことがあったの」
五木もあまり詳しくはない話題なのだろう。説明がだいぶふわっとしすぎていたが、暴漢に襲われて――そう言われて、やっとぴんときた。
数年前、そのニュースを見た際、その襲われたヴォーカルの名前がリーチ、だったからだ。恋をしていたわけでもないのに、いまだに彼のことはよく覚えていて、一瞬あの理一かとびっくりしたものだった。そしてそんな自分に苦笑した。
何年経っても、あの人の引力は燃の中で消えることはなく、ふとした瞬間に、思い出してはあの人はいまなにをしているのだろうか、と考えたものである。
「ああ……、それ以来、会員限定のシークレットライブばかりしてるって噂の」
なんでもたった一夜で莫大なチケット代を稼ぐらしいモンスターバンドだという。この日本という小さな島国では考えられないような規模のファンを動かすバンドだと、いつぞやのテレビで言っていた。
ネットでオークションにかけられたチケットに法外な値段がついたり、実はそのチケット自体がパチモンだったり、海外の有名バンドマンやハリウッドスター、石油王の娘などが熱狂する脅威のバンドなのだと、やはりいつぞやのテレビで言っていた。
とはいえ、燃はあまり音楽に興味があるほうではないので、詳しくは知らない。顔も見たこともなければ、どの歌が彼らの歌なのかも解らない。
「きっと、房様たちもそちらに行かれるんじゃないかしら。うちの旦那様もファンだから、行きたがっていたもの」
ちなみに五木の旦那様はもうすぐ定年されるお年であられる。十代二十代だけに留まらず、世の酸いも甘いも知り尽くしたおじさままで射止めるとはすごいバンドである。そしてそんな旦那様が好きだというバンドの名前を全く覚える気がない五木もすごい。
「でもあの事件があって以来、セキュリティが厳しくなって、一ファンがライブに行くことがとても難しくなっているんですって」
そう言って、五木はこの話題を締めくくった。どう考えても旦那様が愚痴ったとしか思えない内容である。五木はそろそろ予約のお客様がお見えになるわねえと言うと、割烹着を調えて玄関へと向かった。
(ヴォーカル、りーちねえ……)
燃にとっての〝リイチ〟は特別だった。
変わった名前だからか、あのリイチ以外のリイチには会ったことがなかったし、あんな人間を見たこともない。
特別綺麗でかっこいい容姿でもないのに、無意識に視線を持っていかれるような――周囲の人々が悪い意味でもいい意味でも放っおかないような、そんな空気を持つ人を。
それともこんなふうに感じているのは、彼に恋をしているからだろうか、と考えないでもなかったが、それはそれで認めるのも癪な気もする。接点なんか一度きりで、遠くから眺めているだけの燃が、彼の周りでにこにこ笑顔を浮かべる女の子達と同じように彼に恋をして焦がれているなんて、なんだかおこがましいような気もするのだ。
それに、彼とどうこうなりたいというよりは、彼のような人間に生まれてみたかった、というのが本音なのは間違いない。
世間から突出しない、できない、不特定多数の国民に埋もれる没個性の燃の、誰にも言いたくないナルシズムの憧憬のようなものが、そこにあるのだ。
とはいえ、これから死ぬまで会うこともないだろう彼について考えているのも時間の無駄である。家でぼんやりしているときはいいけど、仕事中に褒められたことではない。
(そうなんだよ、所詮私は、小学校の中途半端な彼との成人してからも引きずっているイタイ成人女性ってことなんだよ)
「失礼致します」
三時予約のお客様は既に部屋に通されたと聞き、注文を窺いに障子を開ける。
開けて、中の人物を視認した途端、燃の心臓は跳ねた。
(うお)
そこには、モデルや女優もかくやというような美しい外国人女性がいた。
柔らかそうな金髪は前も後ろも短くカットされ、おでこから鼻先のラインがもはや芸術的なまでにバランスの取れた曲線を描いている。くすみひとつない鼻の下につけられた唇は薄く、口紅を引いていない。飾り気のないカットソーとデニムがスレンダーな体型を際立たせている。カットソーから覗く鎖骨の美しさといったら、正直女の燃でも堪らんものがあった。残念ながら手元の携帯をいじっているため、瞳の色はわからない。
(めっちゃいいにおいする)
あまり香水の類が好きではない燃でも認めざるを得ないような香りがした。それにかすかに混ざる苦い香りは煙草だろうか。ボーイッシュだがどこか色っぽいこの人に似合いすぎててこわい。
どきどきしながら傍まで寄って注文を尋ねると、彼女はやっと顔を上げた。
でました、ブルーアイズ。
それも超絶綺麗な青だ。
今の時代、小学生ですらカラコンをつけているが、この女性のものは特別綺麗に煌いていた。
日本人特有の外国人コンプレックスの燃は、緊張しながらも彼女が口を開くのを待った。
「お好み焼きありますか?」
えっ。
となった燃をどうか接客業失格だと詰ってくれて構わない。
でもでもだって、紙面では伝わらないかもしれないが、彼女のイントネーションは関西人のそれだったのだ。説明しろといわれても解らない。とりあえず耳にしたら、あ、この人関西人なんだな、というイントネーションだったのである。
「まだ日本にきて日が浅いさかい、メニューの文字がわからんねん。おじょーさん、お好み焼きおいてはります?」
いやちょっとまて、これは京都弁か?ていうか関西弁と京都弁ってなにが違うの?わからない。一応ぎりぎり標準語圏内出身の燃には判断できない。
とりあえず気にしないことにした。
「お好み焼きはメニューにございませんが、ご希望でしたら今からシェフに伺ってまいりましょうか」
このゆるい高級料理店では、とりあえずシェフの気分ありきである。
客がメニューにない注文をしても、作れるなら作るし、作れても気分じゃなきゃ作らない。材料があったらまあ作ってもいいわってときは作るし、材料があっても作らないときは作らない。
そういう店だからこそ、面白がって著名人が群がるのかもしれない。
しかもこの店を継ぐ前は料理界では知らぬ者はいないという無駄にすごい肩書きを持つシェフの腕に死角はなかった。とりあえずなんでも作れる。親子丼からじゃがいものビシソワーズ、寿司も握ればパンもこねる。
「あ、そんな悪いどす。このメニューを口に出して読んでもらってもよろしいおますか」
やっぱり京都弁ぽい。しかし本当に京都弁なのかわからない。外国人が京都弁をベースに日本語を覚えている、というのも否定できない。
こんな美女がこんなイントネーションで話すなんて、一気に親近感が湧くと共に非常に燃える。
しかしそれをおくびにも出さず、燃は営業用の笑みを浮かべた。
「かしこまりました。では、上から順に……」
身を乗り出し、美女にメニューを見せながら読み上げようとしたときだった。
――ガガンッ。
地震だ、と思った。
次にガス爆発、とも思った。
燃の目の前には、黒塗りのごついバンが鼻面を突きつけていた。
この時間西日がきついので、窓は襖で覆ってある。足元に少しだけ外を望めるための窓からは、美しい箱庭が見えていた。
見えていたが、何故か今は大きなタイヤにぐしゃぐしゃに踏み潰され、若竹も折れて可哀想なことになっている。なにより、襖がどこかに吹っ飛んで、美しい風情を湛えていた和室の一部が、ぐちゃぐちゃのもさもさになっていた。
「チッ」
舌打ちが聞こえた。
まごうことなき金髪美女からである。
「巻き込んでしまってほんま申し訳ない」
え、と燃が答える前に、美女に手を掴まれて無理矢理立たされていた。そのまま廊下に飛び出し、脱兎のごとく逃げる美女に引きずられるようにして燃は走った。走らされた。
着物に割烹着を着込んだまま、店の出口から飛び出し、駐車場に置いてある黒いスポーツカーに乗り込む。天下のフェラーリ様である。
ほぼ無理矢理、右助手席に押し込まれた。
え、え、と燃が状況を判断する間もなく、心地の良いエンジン音が唸る。
ふと車の外を見ると、鹿がいた。
(えっ)
鹿だけじゃない。豚と猪もいる。
いや、勿論本物の動物ではない。ダークスーツを着た人間が、動物のマスクを被っているのだ。
あまりにも怪し過ぎる容貌の男達が、このフェラーリに向けて走ってくる。
その手には、テレビでしか見たことがない拳銃が握られていた。
「えっ」
思わず、燃の口から間抜けな声が出る。
「シートベルトしいや!」
隣の美女が叫ぶ。
「えっ」
また間抜けな声が出る。
が、次の瞬間にはぐんと加速したフェラーリ様に敵わず、すばらしいフィット感のある座席に背中から押し付けられていた。
ぐ、と息を飲むと、後ろかパシュパシュッと空気の抜けたような音がする。
見ると、動物のマスクを被った男達が銃を構え、引き金を引いていた。
しかも後部ガラスに見事にヒットしている。
しかし割れてはいない。
これはあれか、アクション映画鉄板の防弾ガラスというものか。
「え―――――!?」
普段、無口でも饒舌でもない燃の口からは、〝え〟しか出てこなかった。
(何故、こんなことになっているのだ……)
なんとか震える手でシートベルトをした燃は、座席に足を引き上げ、着物のまま体育座りをしていた。身を小さくしていないと、がくがく震えそうで怖かったのである。勿論、草履は脱いでいる。
ちなみにまだカーレースは続いている。
今は賑やかな都内の道路を走っているので、後ろの謎の集団も強行には出られないらしい。
こんな街中でドンパチされたら、どんな被害が出るか――想像して、ぞっとした。
まあ、後ろのガラスにばっちり弾痕が残っているので、後ろに並んだ無関係の車の運転手はぎょっとしているが。
「……おじょーさん、堪忍なあ。まさかこんな早く見つかるとは思ってなかったねん」
もはや美女が話すのが京都弁だろうが関西弁だろうがどうでもよくなっている。そういえば大阪弁というものもあった。もしかして京都弁と大阪弁をひっくるめて関西弁というのだろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「……あの、何故、私まで」
逃げなきゃならなかったのでしょうか。
最後まで言いたかったが、唇が震えて続かなかった。
美女は困った顔をして、器用にハンドルを回しながら燃を見た。
透き通るようなブルーアイズが困惑したように揺れ、愛らしく首が傾げられた。
「……いきおい?」
もはや、〝え――――!?〟も出なかった。
「あいつら、私のことつけ狙っとるストーカーやねん。今日は港が騒がしいから、久々にゆっくりできると思たんやけど、うまくいかんなあ」
美女のストーカーは拳銃を持って一体美女をどうするつもりなのか。
一般人中の一般人である燃には、想像もつかない。
「も、もしつかまったら、どうなるんですか」
美女はともかく、燃は勢いでつれてこられた携帯ストラップのようなものだ。
「うーん……、聞きたい?」
問われて、燃は答えを諦めた。
世の中、知らずにいたほうがいいことがいっぱいある。
「あの、店の皆は……」
あんなでかいバンが飛び込んできたのだ。もしかしたら怪我人も出ているかもしれない。
記憶の通りであれば、この美女と燃がいた部屋にしか被害はないようだったが、どこでどんな影響が出ているかわからない。
なにより、いきなり消えた燃を心配しているかもしれない。
(……え、それでもし警察に通報されて、事情聴取された場合、なんて答えればいいの?)
店の客であった金髪美女に勢いで連れ出され、美女のストーカーとカーレースをしていた、で納得してくれるのか?日本の警察官はそんなに甘いものか?――否。
(そんなわけないじゃん、そんなわけないじゃん。なんでこんな目に遭ってんの)
未だにドキドキとうるさい心臓は静まることを知らず、燃は握った手にぎゅっと力を込めた。
「店のほうにはうちの友達を向かわせたから、大丈夫や。あんたはあんたのこと考えてたらええ」
考えろといわれても、一体なにを考えたらいいのかさっぱりである。
美女は困惑しまくっている燃を安心させるように笑った。こんなときだが、金払ってでも見たいと言わせるような微笑であった。
「あんたも安心しとき。あいつらには絶対殺らせへん」
いや、やらせへんて……どのヤルですか?
美女の特別な微笑も、燃の恐怖心を煽る作用しかなかった。
やがて高速に乗ったかと思うと、フェラーリ様はぐんとスピードを増した。後ろのバンも同じくスピードを出しているが、追いつく気配はない。
県外に向かう大型トラックや一般車両の間をすり抜けつつ、どちらも様子を見ながら運転しているようだった。
その間、美女が携帯でどこかに連絡を取り、英語で会話するのを燃は耳だけで聞いていた。
フェラーリ様が港に向かうためのインターチェンジで降りると、後ろのバンも当然ながらついてきた。
「……私の友達がすぐそこまで迎えにきとらすから、とりあえず合流しよか。この際、邪魔臭いからさっさないないしよか」
ないないってなんですか、とは聞けなかった。
燃は既に体育座りをやめ、普通に座席に身を任せていた。
銃に撃たれてもまったくその影響を感じさせないフェラーリ様の乗り心地は最高だった。
そう、既に燃は、悟りの境地にいた。
(多分、聞いても余計なことはこの人も言わないだろうし、この人がこんだけ落ち着いてるんだから、そんなに危険な状況じゃないのかもしれない。私は完全に巻き込まれただけだし、事態が収拾すれば家に帰してもらえるはず)
実弾が飛び出す銃で発砲されておいてなにがそんな危険な状況じゃないのかとか、事態が落ち着いたら美女によって口封じに消されるかもしれないとかいろいろ頭の隅で考えたりしたが、全て見ないふりをした。
世の中には知らなくていいことが云々。
そうして気がつくと、巨大な立体駐車場に入っていた。日本的な建造物ではなく、どちらかというえばアメリカ的な規模のでかさである。この近くに艦船も寄港する巨大な港とNASAとJAXAの共同研究所があるため、車を使っての人の行き来が都内より多いのである。
コンクリートの曲線をぐるぐると回っていきながら、屋上ではなく7Fと書かれた階に滑るようにフェラーリ様が吸い込まれていく。当然ながら、後ろから例のバンもついてきた。
7Fには一台の軽トラック以外、他に車はなかった。
まさかの軽トラックである。しかも良く見る白い車体ではなく、黒に塗装された軽トラックである。
(……まさかあれがお友達か!?)
美女を振り返って確認したかったが、勇気がなかった。
そしてそれを確認できなかった燃を嘲うかのように、フェラーリ様は軽トラの隣で停車した。
「貴方は車に乗っておって」
なにがあっても出てきてはならないと言い含められた。出るわけないじゃん!とこの際叫んでやりたかったが、謙虚な日本人女性である燃は頷くに留めた。
そうして、あの動物マスクの男達が乗ったバンも、少し離れた場所に停車した。開けられたスライドドアから、鹿、豚、犬、猪の順で出てくる。
犬もいたのか、とフェラーリの窓から外を覗きながら、燃はのんきに考えた。
視線をずらして美女と軽トラックを見ると、新しい人間が増えていた。
こちらも外国人である。美女と同じく金髪で、それを美女より長く伸ばし、後ろでポニーテールにしている。高い鼻に黒縁の眼鏡が引っかかっており、着ているシャツとスキニーも相まって、小奇麗な印象を受ける。燃に外国人の顔の分別はつかないが、なんとなく美女と顔立ちが似ているような気がした。
「――――」
「――――」
声は聞こえないが、なんとなく英語だろうな、とは判断がつく。先ほどの電話もそうだったので、恐らく間違いないだろう。
(ていうか、この人達は一体何者なのだろうか)
美女は動物マスクをストーカーだと称したが、そんなわけがない。言われたときは深追いしたくなくて素直に引き下がったが、今はなんとなく落ち着いてきたせいか、気にすべきところが気になってきた。ていうか、あんな妖しい集団ストーカーいてたまるか。
動物マスクもそうだが、美女達も正直謎である。
被害があった店にもトモダチを向かわせたと言っていたが、手際が良すぎないか?ていうか、そんなんで現場に飛んでいってくれるトモダチっているの?
(だめだ……友達が少ない私にはわからない)
それとも平凡女と美女との違いだろうか。悲しい現実である。
ぼんやりと美女と男を眺めていると、ふいに男が顔を上げて燃を見た。ガラス越しとはいえ小奇麗な外国人男性と眼が合って、ひえっと妙な悲鳴が出る。
――と、その男がこちらにゆっくりと向かってきた。
いや来なくていい、とジェスチャーで伝えたいが、残念ながらそんなスキルを持ち合わせてはいない。
燃はただ身を小さくして、男の到着を待った。
――パシュッ。
「!?」
また、あの乾いた音がしたと思ったら、男が胸を仰け反らせている。男は舌打ちすると、お尻のぽけっとから小さな拳銃を取り出した。
いやいや、ここ銃規制のある国なんですけど、とはもう今更過ぎて突っ込めない。
男を撃ったのは例の動物マスク、男が拳銃を向けたのも、動物マスクである。
(やばい、ドンパチ始まる)
しかも燃が乗っているフェラーリ様を間に挟んでである。
(なんだこれ、ここ本当に安全か?)
確かに銃弾が飛び交う外よりは安全かもしれないが、果たして――。
燃がそんな不安に襲われたときだった、ふと動物マスクのほうを見ると、なんだか巨大な筒を持っている。そう、まるで打ち上げ花火を上げるときに使うような筒である。
いや、ちょっと待て。もっと近いものを、先週の金曜ロードショーで見た気がする。
そうあれは、ロケットランチャーとかいうやつではないのか。拳銃などその威力の足元にも及ばない、車なんて簡単にふっ飛ばしてしまうような、ランボーとかが愛用しているような武器ではないのか。
気付いたときには、燃は反射的に外に飛び出していた。
先の逃走で着物が乱れていたのが良かった。裾を割って踏み出した足を大きく開き、美女のほうへ走り出す。
――ドオンッ。
ランチャーが発射された音と、美女が燃に手を差し出したのは同時だった。
その手を燃が取った瞬間、男が美女と燃を一緒くたにして抱き込むように走り出す。
天地すらわからなくなって、とにかく男と美女に支えられながら走った。間髪いれず、背後から爆音と衝撃波が襲ってくる。人間様がそれにあっさりと飛ばされて、燃はコンクリートの地面に投げ出された。
「っおじょーさん!」
こんなときだが、美女の訛りがなんだか場にそぐわず和む。
とはいえほっこりしたのは一瞬で、腰を強かに打った燃はすぐには起き上がれなかった。
視界の端で、天下のフェラーリ様が無残な姿になっているのがわかる。燃のすぐ傍に飛んできた黒いドアが突き刺さっていてぞっとした。
「―――!!」
美女のお友達である男がなにやら口汚く喚いているようだった。
その後すぐに、パンパンッとあからさまな銃声が聞こえ、小さな悲鳴が届いた。
「おじょーさん、堪忍な、すぐないないするからね」
ないないが終わらせるという意味ならば、是非さっさと終わらせてください。
燃は美女の手を借りてゆっくりと起き上がると、燃え上がるフェラーリの向こうを見た。
鹿と犬と猪が倒れている。
あとは豚だけのようである。一番のろそうなイメージだが、この豚は俊敏だったらしい。
男が何度か発砲したが、やがてフェラーリの影に隠れてバンが発射する音が聞こえた。それでも男の発砲はやまなかったが、やがてエンジン音が遠くなるとそれもやんだ。
(ていうか、こんな場所でこんなに派手なことしていいのかな……)
いや、ランチャー相手によくやったと褒めていただきたいところだが、何故ロケットランチャーを相手にしている、と問われたら、それはそれで困る。