第二十一話「夢の先」
「……ろ! 起きろ、露草!」
低い声がおどすような口調で叫ぶのに、目が覚めた。
カーテンのように周りを覆う緑の蔦を押しのけた鮫島少尉が、私を腕に抱いて見おろしている。
何が起きているのか理解できず、ぼーっと見あげていたら怒られた。
「起きたなら返事くらいしてください! 聞こえてるんですか? 露草」
強い口調で言いながら、不安そうにゆれる目が愛おしい。
うまく動かない手を持ち上げて、ふらふらと揺れる指先で、いかつい顔の、頬に触れた。
「きこえてるよ」
すると、無愛想な鉄面皮の意外と感情豊かなその目から、ほろりと透明な雫が流れ落ちた。
初めて見た鮫島少尉の涙は、ほろほろと流れてすべり、私の上に降ってくる。
驚いて、何が起きているのかさっぱりわからず混乱したけど、ただ苦しそうな彼をなぐさめたくて言った。
「だいじょうぶ」
ゆっくりと腕を動かし、大きな体を抱きしめて、繰り返す。
「もう、だいじょうぶ」
力強い腕が、無言で私を抱き返した。
◆×◆×◆×◆
私が皐月を抱いて湖に落ちた後、何が起きたのか聞いて、また驚いた。
約束の雫石を湖に受けて、青龍が出現。
私の願いを叶えると言って瀕死の皐月に自分の力を与え、その本性を取り戻させて生きのびさせた、というのだ。
その結果。
琵琶湖のほとりに巨大な樹がそびえたって、青龍の隣人となり。
私達は今、皐月だったその巨樹の虚の中にいる。
「あなたは樹としての本性を取り戻した皐月に、湖の底から引き上げられたんです。ただ、冷たい水の中に落ちて仮死状態になっていたので、皐月が自分の中へ入れて治癒の力を集中させることで、なんとか呼び戻したそうです。
そしてようやく今日、あなたが起きそうだから中に入って良いと皐月が許可を出してくれたので、おれが入りました。
皐月はあなたを助けるのに力を尽くしたので、今は疲れて眠っていますが、起きたら話せるでしょう」
夢ではなく、本当に皐月が私をすくい上げて助けてくれたのだと聞いて、思わず笑ってしまった。
ずっと私が皐月を抱っこする側だったのに、ずいぶんと変わってしまったものだ。
「笑いごとではありませんよ、露草。今、この樹の周りでは大変な騒ぎが起きているんです。中止された『世界樹計画』の中の一枝が生きのびて、なぜか琵琶湖に根付いて成長してしまったのですから。しかも『魔導院』の魔法使いの目の前で」
あー……
確かに、笑いごとじゃなさそう。
鮫島少尉の膝の上に座ったまま、樹の状態じゃ逃げられないし、どうしよう? と青ざめていると、緑の蔦のカーテンの向こうから、懐かしい声がした。
「うちの妹を脅かすな、青二才。龍の上に投げ落とすぞ」
慌てて緑の蔦の向こうへ行こうとする私を、鮫島少尉が止めた。
たくましい腕に小柄な体をしっかりと抱いて、立ち上がりながら低い声で答える。
「あまりにも危機感がない様子なので、すこし現状を把握してもらおうと思っただけです。あなたは妹を甘やかしすぎですよ」
「姉が妹を甘やかして何が悪い」
外から即答されるのにため息をついた鮫島少尉が、やっと緑の蔦の向こうへ連れ出してくれた。
めまいを起こしそうな高さにある巨樹の枝の上に、白い猫を膝に抱いた魔女が座っている。
「椿! どうしたの? 休眠期は?」
久しぶりに会った椿は、にっこり笑って答えた。
「気合いで起きた」
「え。いや、魔女が“気合い”ってどうなの?」
「成せばなる。それより露草、大活躍だったな」
起きた理由は適当に流し、椿はのほほんと言う。
「『世界樹計画』は“中止”ではなく、“一部変更”となった。
皐月は「露草を守る」という意志の元に確固たる自我を築き、しかも青龍の加護まで得て理想的な世界樹の中枢に育った。
それでこれを利用しない手はないだろうと『魔導院』の計画推進派の連中が大喜びしたので、わたしが取りまとめて、ついでに反対派のトップを蹴倒してきたんだ」
蹴倒してきたのか。
ありがとう、椿。
ついでにもう何発か蹴飛ばしといてもらってもいいよ。
「しかし肝心の中枢、世界樹たる皐月が「くーがおきるまで、ほかのことはしない」と言いだしてな。まあ、お前を守るという一念で確固たる自我を持ったのだから、当然のことなのだろうが。
わたし達がいくら世界各地の砂漠に枝をわけてくれと頼んでもまったく聞いてくれないから、いっこうに話が進まないのには困った」
「ちょっと待って、椿。確認させてほしいんだけど、『魔導院』はまた『世界樹計画』の推進に戻ったの?」
「ああ。“世界樹の根”を殺しておきながら、今さらそれは通らないだろう、と思っている様子だな。
しかし、露草。人などそのようなものだよ。その時の勢いに流され、危険だと判断した相手に対しては容赦なく攻撃し、利用できるものだと判断したものはとことん利用しつくす。
ならばこちらも利用できるものは利用すべきだ。君一人で皐月を守るのは、もう無理だろう」
だから『魔導院』の計画推進派を利用して、皐月を守らせるべきだということか。
「露草。今の皐月は君の言葉しか聞かない。母親である根を殺されたことで、人間に対する不信感が植え付けられてしまったからな。反対派はそこを突いて、今も「切り倒すべきだ」と叫んでいる。
推進派は龍の加護を得て立派に育った世界樹を守ろうとしているが、肝心の世界樹に信用されていないということに懸念を覚える者も多い。
わたしは個人的に、人を盲信する魔法生物より、人に対してある程度の警戒心を持った魔法生物の方がしぶとく臨機応変に育ってくれるから、これはこれで良いと思うんだが。
まあ、ともかく皐月は一刻も早く自分の能力を示し、世界にとって有益であるということを知らしめなければ危うい立場だということだ」
うーん。
またいつでもひっくり返りそうな状況……
「ねえ、椿。皐月はもう人型には戻れないの?」
「おそらくそれは無理だろう。完全にこの地に根付いてしまっているからな」
それならもう、腹をくくるしかない。
「皐月が砂漠に枝をわけて、魔物を抑えるのに成功したら、『魔導院』はこれからも皐月を守るんだね?」
「ああ。そうなれば『魔導院』だけでなく、『世界統合機構』も警備に当たるようになる。皐月は万全の態勢で守られるだろう」
わかりやすい取り引きだ。
今はまだ感情的に「『魔導院』キライ」と言いたいところだけど、長い目で見るなら協力した方が皐月のためになる。
「わかった。皐月と話すよ」
「そうか。話してくれるか。ありがとう、露草」
「皐月が協力するかどうかわからないから、お礼はまだいいよ。……そういえば、棗は? 私に『世界樹計画』が中止になったって教えてくれた、青桐一門の魔法使いなんだけど。何か罰とか受けてない?」
訊ねると、その場にいた全員の様子が変わった。
椿と鮫島少尉は不機嫌になって、白い猫だけがおもしろそうにしっぽを揺らしている。
「青桐の棗か。それが君を罠にはめるのに利用されてくれた若造のことなら、ああ、勿論罰を受けている」
ひんやりとした口調で答えた椿に、すぐには意味がわからず、「どういうこと?」と首を傾げた。
すると今度は、椿の膝の上から漣が答えてくれた。
「青桐は君を湖へおびき出すのに利用されたんだよ。待ち伏せしてたあの男にね」
その時は落ち着いて考えてなどいられなかったが、聞いてみれば単純な罠だった。
皐月の様子を観察する役だった『魔導院』の男は、『世界樹計画』の中止を知り、それに便乗して私から龍の雫石を奪う計画を思いついた。
時期を見計らって棗に情報を流し、私に報せが行くようにして、自分は琵琶湖で待ち伏せる、というものだ。
そうして棗は“たまたま聞いた話”について手紙を出し、私はあっさりその罠にかかって湖に現れた。
しかし、最後の最後で雫石ごと真冬の湖に落ちるという自滅的な行動に出たので、まさかそこまではするまいと思っていた彼の計画は失敗に終わった。
ちなみにその後、龍の出現と世界樹の急成長に呆然としていた彼は、これは寝ている場合ではないと飛び起きてきた椿によって捕えられた。
「寝起きの椿は機嫌悪いし、ぼくの目を通して露草に何をしたか全部見てたからね。あいつボロ雑巾みたいになるまでお仕置きされたんだ。たぶんまだ生死不明で『魔導院』の医務室で寝てるんじゃないかな」
椿は首を横に振った。
「漣、わたしは致命傷は与えていない。あれは間もなく目をさまし、己の行いについて正式に罰せられるだろう」
お仕置きされた上に処罰されるのか。
私が殴るヒマもなさそうだなー……
「それと、あの男に君が雫石を持っていると情報を漏らした【大和】の魔道具開発部の鑑定士も、それなりの罰を受けることになる。彼には悪意はなかったようだが、機密情報を漏らしてこのような罪を起こさせる要因を作ったわけだからな」
情報源は鑑定士か。
世の中、誰がつながってるかわかんないもんだ。
「何か、私が寝てる間に色々あったみたいだね。
でも、棗は利用されただけで、べつに悪いことしたわけじゃないでしょ?」
「彼は自分の行動によって起きたことについて責任を持つべきだ。彼の手紙がなかったら、露草、君は死にかけたりしなかったのだからね」
それはどうだろう。
棗が報せを送らず、何も知らないでいるうちに皐月が死んでしまったら。
その時自分がどうしていたか、正直なところよくわからない。
「棗の手紙はきっかけにすぎないんだよ、椿。行動を起こしたのは私なんだから、責任をとるべきは私でしょ?」
「無論、君はこれから世界樹の中枢を守り、導くことでその責任を果たすことになる。だが青桐の若造も、それなりの責任はとるべきだ。もとより君が案ぜずとも、さほど厳しい罰ではない。世界樹を守るための結界を構築し、維持するという仕事を命じられているだけだ」
棗が皐月を守ってくれているのか。
ありがたいけど、これだけ巨大なものを守ろうというのは、わりと大変なような……
うーん、と考えこんでいると、それまで黙っていた鮫島少尉が言った。
「これでひと通り話はできたでしょう。先に降ります」
そして椿からの返事を待たず、さっさと動き出す。
私はそれに、声も出せないほど驚いた。
鮫島少尉が世界樹の枝から枝へ、私を抱いて軽々と飛び降りていくからだ。
「露草を落とすなよ!」
上の方から椿が言うのに、「落すわけないでしょう」と不機嫌そうにつぶやく低い声。
そうは言っても揺れるので、反射的に肩にしがみついていると、鮫島少尉は数秒で巨大な樹の頂上付近から、一気に地上へ降りてしまった。
「……君、今わりとすごい身のこなししたね」
ちょっと呆然として言うと、彼はなんでもないことのようにあっさり答えた。
「おれは異能者なんです。書類上は普通の人間で、おれに異能があることを知っているものはいませんが」
はい?
「他の護衛官がことごとく負傷していくのに、いつもおれだけ軽傷か無傷だったでしょう。実は、何度か力を使って生きのびました」
「異能者? 力?」
「まったく気づいてなかったんですか。おれをそばに置いておくために、わざと言わないでいてくれるのかと思ったこともあるんですが」
そりゃー君、かいかぶりってものです。
「『紅の魔女』の双子の妹にしては、あなたは本当に未熟ですね。仕方がないので、これからもおれが守りますよ」
なんだそれ。
ふと、笑いがこぼれた。
そうして微笑んだまま、言った。
「私にも秘密があるんだよ」
鮫島少尉はゆるぎなく答えた。
「誰にでも秘密はあります」
うん、まあ、それはそうかもしれないけど。
「それに、あんなふうに置き去りにしたし」
「そこはおおいに反省していただきたいところですが、あなたは未熟な魔女ですから、あの時は他にやり方が思いつかなかったのだと諦めてあげましょう。
ただし一つだけ、条件があります。これは絶対に譲れません」
鋭い眼差しで断言するので、思わずごくりとつばをのみこみ、緊張して訊いた。
「どんな条件?」
鮫島少尉は重々しい口調で答えた。
「おれを呼ぶ時は「鮫島少尉」ではなく、名前で呼ぶこと」