第二十話「水底の夢」
人の目から魔法で隠れ、翼持つ魔物の姿をした椿の使い魔は、音もなくふわりと湖のほとりへ降り立った。
私は片腕に皐月を抱いてその背からすべり降りると、もう片方の手で首にかけてずっと持ち歩いていた、青い雫石を取る。
その時。
「譲葉少佐」
不意に背後から声をかけられて、ぴくりと肩が動いた。
本能が「敵だ」とささやき、反射的に体が戦闘に備えて鼓動する。
そうして身構えながら、奇妙なほど冷静に振り向いた。
聞き覚えのある声の主は、一点のしみもない真白のローブをまとった男。
確か、皐月の様子を見に来た、『魔導院』の魔法使いだ。
「『世界樹計画』は終わりました、譲葉少佐。あなたが腕に抱いたそれはもう、機能を停止しています」
返事はせず、目の前にこの男がいる、ということの意味を考えていた。
『魔導院』の追手にしては、あまりにも早すぎる。
軍が私と皐月の不在に気づき、脱走と判断して『魔導院』へ連絡した後でしか、『魔導院』からの追手は動かないはずだ。
けれどこの魔法使いは私が来るよりも早く琵琶湖にいて、待ち伏せていた。
たった一人で。
その意味するところはひとつだろう。
はめられた。
どこからどこまでがこの男の策略かはわからないが、ともかく私は罠にかかったのだ。
肌の下に煮えたぎるような怒りをはらみながら、淡々とした口調で問うた。
「狙いは龍の雫石?」
「話の早い方で助かります」
魔法使いは無表情に答えた。
「それを譲っていただけるのなら、今回のあなたの暴走について、私が『魔導院』と軍をなだめましょう」
「断ったら?」
まったくの無表情だった顔にふわりと浮かんだ微笑みと、物騒な沈黙が答えだった。
私を殺して奪うだけ、か。
彼にとって、それはたやすいことだろう。
この世界に生まれて年齢分の経験を積んでいる『魔導院』の魔法使いと、短い期間で戦い方を教えられただけの私では、比べるまでもない。
姿隠しの魔法をかけているにもかかわらず、彼にはまったく問題なく見えている辺りで、その力量差ははっきりしていた。
「今ここで私があたなを殺して雫石を持ち去っても、誰も私を罪に問えない。むしろあなたを片づけたことで、評価が上がるくらいだ。あなたは『魔導院』の所有物である“世界樹の若枝”を奪い、軍から逃げ出した罪人なのだから」
そうなるように仕向けた男が、押し黙る私に傲然と言う。
「“世界樹の根”が完全に息絶えた今、若枝はもう生きてはいけません。わかるでしょう? 今さら龍を呼んでも無意味なのです。彼らとて、死せるものを呼び戻すような力はないのですから。
さあ、雫石を渡しなさい。それはもっと、有効に使われるべきものです」
ふと、笑みが浮かぶのを感じた。
定まった心が表に出たのだろう。
私はいつもの口調で答える。
「残念だけど、君と私では“有効”の定義が違うようだ」
微笑みを消し、感情のない声で魔法使いが答える。
「そうですか。それはたいへん残念です」
湖上を渡る冷たい風が吹き抜け、数秒。
「シガー!」
呪文の詠唱なしで放たれた風の刃に、私の呼び声に応えた炎の獣が右肩の紅珠から現れて、ごうっと猛火を吐きだし対抗する。
風と炎。
それが含む魔力と魔力の激突によって、衝撃波が発生する。
私はそれに抗わず、皐月を抱いて自ら跳んだ。
空中で呪文の詠唱なしに炎の攻撃魔法を撃ち、吹き飛ばされる方向を修正。
一瞬の浮遊感の後、背中の衝撃とともにざばんっと派手に飛沫の散る音がして、凍える水の手に全身を抱かれた。
うまく呼吸ができず、押し寄せる水に口をふさがれる。
予想以上に体が動かせず、凍える腕や足は何かにからめとられたように重くて、瞬く間に沈んでいく。
血相を変えた魔法使いの攻撃を阻む漣とシガーの背に、ごめん、とつぶやいた。
ヌシどの
お願いです
青い、青い、龍の君よ
雫石は投げ入れられた
「皐月を、たすけて……」
真冬の湖に皐月を抱いたままゆっくりと沈んでいきながら、私は意識を失った。
◆×◆×◆×◆
ゆらゆらと揺れる水底で、皐月が私を呼んでいた。
「くー? どこにいるの? くー?」
その声が、怯えておらず、痛がってもいないのにほっとして、答えを返す。
ここにいるよ。
皐月の「くー」は、ここにいる。
皐月はなかなか私を見つけられなかったが、何度か答えると、ようやく見つけられたようだった。
「くー! みーつけたっ!」
嬉しそうな声ではしゃぐように言う皐月が、手を伸ばして私の体をすくいあげる。
おやおや。
私の体を手ですくうなんて、皐月、いつの間にそんなに大きくなったの?
それともこれは、夢だろうか。
最期の、夢?
「だいじょうぶよ、くー。こんどは、さつきが、くーをまもるの」
ああ、皐月。
君はそんなこと、何も気にしなくていいんだよ。
君達と会えたのは楽しかったし、嬉しかったけど、棚からぼたもちみたいに降ってきた命だから、たぶんそれほど長くはいられないだろうと思ってたし。
それに元から私は心が弱くて、親しい人を失うと生きていけないんだ。
突然の事故で家族を失って酒とタバコに溺れた前世のように、もし何もできず君を失っていたら、きっとまた何かに溺れて無意味に死んでいただろう。
私の死とともにシガーが消滅してしまうというから、それは寂しいけど。
今さらどうしようもないから、仕方がないと諦めてもらって、シガーには一緒に来てもらうよ。
ねえ、皐月。
青龍は、君を助けてくれたのかな?
そうだったら、いいな……
微笑んで、思って。
また、意識が消えた。