第十九話「樹海の底」
鮫島少尉の部屋から皐月と漣のいる城砦の部屋へ戻ると、夜闇にまぎれて核都市【大和】を出た。
あとどれくらいの時間が残されているのだろう。
世界樹の根が殺される前に、軍や『魔導院』に見つかる前に、皐月を連れていかなければならない。
樹海に入ってしばらくしてから、飛行できる魔物の姿になった漣の背に乗った。
姿隠しと加速の魔法の他、軍や『魔導院』からの追跡をかわすための魔法をかけ、出立する。
「目的地は?」
真冬の夜空へ舞い上がった漣に訊かれ、眠る皐月を腕に抱いて答えた。
「琵琶湖へ」
◆×◆×◆×◆
時折短い休憩をとりながら、ひたすらに北へ飛んだ。
皐月は目を覚ますと空を飛ぶという初めての体験に喜び、「これから湖へ行くんだよ」と言うと、きらきらと瞳を輝かせて「みずうみって、なあに?」と訊いた。
たくさん水があって、魚がいて。
大きくて青い、龍のいるところだよ。
樹海の上を飛びながら、好奇心旺盛な皐月が「あれはなあに?」と指差して訊いてくるのに答え、焦燥感に波立つ心を平静に保つことに集中した。
誰かが私が「龍の雫石」を持っていることを思い出し、琵琶湖へ追手を差し向けるかもしれない。
それでも皐月の体を構成する魔法を理解していない私には、他に頼るあてがない。
行くしかない。
そして、青龍に頼んでみるしかない。
失敗した時のことは考えないようにして、「くー」と呼んで見あげてくる皐月に、「なーに?」と笑顔を返した。
◆×◆×◆×◆
【大和】を出た翌日。
皐月が急に怯えだした。
「くー、おかあさん、こわいって、いってる。おかあさん、こまってる」
ふるふると青い顔で震えながら言うのを抱きしめ、世界樹の根が殺されようとしているのだろうと思った。
いつも手続きだ何だとなかなか動かないくせに、どうしてこんな時だけ仕事速いんだ『魔導院』。
まだ棗の手紙が届いた、翌日だぞ。
「くー、どうしよう? おかあさん、いたいっていってる!」
皐月が転がり落ちそうな勢いで暴れはじめたので、漣に頼んで樹海に降りてもらった。
泣き叫ぶ皐月が自分を傷つけないよう、全身で抱きしめる。
「いたい! いたいよ! どうして? なんで、おかあさん、いたいのに! どうして、やめてくれないの!」
小さな手が何度も私の背を叩き、薄い爪が首をひっかいた。
皐月は自分が何をしているのかもわからない様子で、ぼろぼろと涙をこぼしながらひたすらに叫んだ。
「やめて! いや、やめて! いやぁぁーっ!!」
断末魔の悲鳴のような絶叫の後、幼い体から力が抜けた。
しんと静まり返った、樹海の底。
腕の中でぐったりとしてまぶたを閉じる皐月を見おろす。
「皐月。……皐月?」
何度呼んでも、体を揺らしてみても、答えは返らない。
私は腕に皐月を抱きなおし、顔をあげた。
「漣。まだ飛べる?」
「飛べるよ、露草。でも、どこへ行くの?」
「琵琶湖へ」
漣は金色の目を閉じ、深い息をついた。
それが諦めのため息に見えて、私は吹き荒れる感情のまま叫んだ。
「まだ死んでない!」
驚いて目を見開いた漣の視線で、取り乱したことに気づいた。
ふー、と意識して長い息をついてから、できるだけ冷静に言う。
「怒鳴ってごめん。でも聞いて、漣。棗の手紙にあったでしょ?
『魔導院』が告知なしで世界樹の根を殺した後、核都市から「機能停止」の報告が無かった場合は、『魔導院』が“生きのびた若枝”を処理しに行くって。
つまり、根が殺されても若枝が生きのびる可能性はあるんだよ」
皐月の体は、まだあたたかいの。
見つめる先で、漣が体を低くかがめた。
「乗って、露草。行くよ」
私は腕にしっかりと皐月を抱き、その背中へ飛び乗った。