第十八話「黄昏の中で」
聞き間違いだろうと思った。
それくらい信じられなかった。
けれど鮫島少尉は、微笑んだまま言葉を続けた。
「任務ではなく、自分の意思であなたを守りたいと思っていました。
ただそばにいたいと。
おれも一緒に行きます。連れて行ってください、……露草」
これが現実だということが理解できなくて、動けなかった。
鮫島少尉はかたんとイスから立ちあがり、驚きに固まる私の傍らに来ると、片膝をついた。
「ひとつ聞かせてください。あなたが別れの挨拶をしたのは、おれだけですか? それとも、九条中尉や他のものにも?」
言葉が出てこず、首を横に振って、間近にきた鮫島少尉の顔を見つめ返す。
彼にもこんな表情ができるのだとは、思いもしなかった。
「そうですか。良かった。それならおれの勘違いというわけではなさそうだ」
彼の大きな手がそっとのばされ、私の頬を包み込むようにして触れる。
一瞬びくっとしてから、ため息をつくようにまぶたを閉じて、その手に頬をすり寄せた。
無骨な指が頬を撫でるのにかすかに震えながら、ちいさな声で言う。
「ずっと君の背中に守られてたんだよ。疲れてへこんでる時には優しくしてもらった。青龍にだって、一緒に食われかけたし」
暗闇の向こうで笑う気配がして、思わずまぶたを開けば。
黄昏の陽射しの中で穏やかに微笑む顔。
いつまでも見ていたい人が、そこにいて。
「だから、したって、いいでしょ。……恋くらい」
つぶやくように言うと、彼が動いた。
唇が触れる。
その瞬間、油をかけられた炎が一気に燃えあがるように、私は我を忘れて彼に溺れた。
それは口づけなどという甘ったるいものではなく、お互いがお互いを食らい合うような、むさぼるようなキスだった。
キスの仕方なんてろくに知らなかった私は、ただ本能でより深く彼に触れようと唇をひらいた。
体を抱き寄せる腕も、もたれかかった胸もがっしりとして堅いのに、唇やその奥は驚くほどやわらかい。
そして葡萄酒の味がして甘く熱く、ほろ苦く。
息をする余裕もなく、どれくらいそれに没頭したのかもわからなくなった頃に、鮫島少尉が離れた。
一気に空気を吸いこんで肩で荒い息をしながら、いつの間にか床に座り込んだ彼の、膝の上に抱かれているのに気づく。
「露草。おれを連れて行ってくれますね?」
私より早く呼吸を整え、鮫島少尉が訊いた。
激しいキスの余韻にとらわれ、ぼうっとした頭で、私は首を横に振る。
「無理だよ、鮫島少尉。私は魔女としてはまだ未熟な方だし、腕も、二本しかない。皐月を抱いたら、もう、他のものは守れない」
「それでいい。おれは自分の身は自分で守ります。そして、皐月を抱いたあなたを、おれが抱きます」
低い声がゆるぎない意思を持って言うのに、味わったことのない幸福感で心が満たされる。
けれど同時に、胸が締めつけられた。
「それより、露草。いつまで「鮫島少尉」と呼ぶんです。まさか、おれの名前を覚えていないということですか?」
ちいさく笑って、顔を突き合わせているのが奇妙に恥ずかしくなって、彼の肩に頬を寄せる。
書類で見て覚えているけど、護衛官たちと距離を置くために、あえて誰の名も呼ばないできた。
そして今も、彼の名を呼ぶ気はなかった。
「ありがとう、鮫島少尉。でも私のことはこれで忘れて。私は軍と『魔導院』に追われることになるから」
「あなたもいいかげん強情ですね。おれは一緒に行くと言っているんです」
「でも、それはできないんだよ。君はもうすぐ、半日は目覚めない、深い眠りにつくんだから」
「先ほども言いましたが、何も感じませんよ。薬の種類か、分量を間違えたんじゃありません、か……?」
言いながら、かすかに顔をしかめて額に手を当てる。
「ようやく効いてきたみたいだね。本当、君は何に対しても強い」
「皮肉ですか」
苛立たしげに言って、私の体を抱く腕にぐっと力を込める。
「露草。皐月は連れていくのに、どうしておれは連れて行ってくれないんですか?」
「いや、そもそも皐月を助けるために逃げるんだよ。だからその質問はおかしい」
「おかしいのはあなたです」
なんだか変な会話になった。
私達は何を話しているんだろう? と首を傾げると、鮫島少尉がまた私の頬に触れた。
顔の輪郭をたどるように無骨な指が動き、頬をすべってあごを撫で、唇をなぞる。
思いがけない繊細な動作に、体の奥が細波立つ。
「……おれが眠るまで、あと、どれくらいありますか」
たぶんもう、すこしだけ。
ちいさく息を吸い込んで、視線をあげた。
怒っているのでもなく笑っているのでもなく、何を考えているのかわからない不思議な表情をした鮫島少尉に、言う。
「鮫島少尉。もう本当にこれで最後だから、今から君が眠るまで、何でも好きにしていいよ。
部屋を出て誰かに私の脱走を報せてもいいし、他にも何でも、したいことをしていい。
私は後で文句言ったりしないから」
つぶやくように、低い声が訊く。
「……なんでも?」
私は答える。
「なんでも」
鮫島少尉には考える様子も、迷うそぶりもなかった。
ただゆっくり、ゆっくりと近づいてきて。
優しく、やさしい、キスをした。