第十六話「露草の決断」
初雪が降ってから、数週間後。
寒い冬の日の朝に、まばゆい陽の光で目覚めた皐月は上機嫌で窓の外を見に行った。
「くー! きょう、はれた。おそら、あおいよ!」
ぼーっとした私がベッドに寝転がったまま「そりゃー良かったねー」と答えると、ぱたぱたと走って戻ってきて、何かを差し出す。
「まどのした、おちてた」
窓の下に落ちていた手紙を持ってきてくれたらしい。
昨日、そんなところへ手紙を持ち歩いた記憶などなかったが、「ありがとう」と差し出されたものを受け取った。
「ん? 青桐中佐から? ……いや、もう“中佐”じゃないのか」
ぶつぶつ言いながら封を破いて中の紙を取り出し、右上がりに駆け抜けるような特徴的な字でつづられた手紙を読んで、その内容に硬直した。
数秒、あるいは数分の思考停止。
それが解けると一瞬で頭が動き出す。
「漣、出てきてこの手紙読んで」
ベッドの上に手紙を放って呼び、銀の指輪についた透明な珠から出てきた椿の使い魔に言う。
その間に床へ降りた私は部屋を走り回る皐月を捕まえて抱き上げ、近くにあったイスに座らせて「少しの間、ここに座っていて」と指示した。
皐月は常とは違う私の様子を敏感に感じ取り、不思議そうな顔をしながらも頷いて、おとなしくイスに座る。
私は皐月から離れ、部屋に置かれた戸棚から必要なものを取りだして大容量鞄へ詰め込む荷造りを始めた。
今は動くべき時だ。
感情を一時的に心の奥底へ沈め、どう動くか考えることに集中する。
◆×◆×◆×◆
露草
『世界樹計画』が中止になる。
前から推進派と反対派でモメてたのはお前も知ってると思うが、新しく入ったばっかの俺にまで話が聞こえてくるくらいだから、今回の中止決定はほぼ確実だろう。
お前は『魔導院』に来なくて正解だ。
ここは“魔法研究の最高峰”だが、同時に“ドロ沼化した長命種の権力争いの中心”になってる。
今回の『世界樹計画』の急な中止についても、『世界統合機構』や『エイリー教』の連中からの反対意見が来たり、どっかの都市で騒動が起きた影響っていうより、ほとんど「推進派の中心人物の急死で反対派が勢力争いに逆転勝ちした結果」だ。
アホらしいが、ここも軍と同じ。
権力握ったヤツの命令が通る。
ウワサによると、『世界樹計画』の中止は若枝の担当者たちに通告されない。
世界樹の“根”を殺せば、そいつとつながってる若枝は自動的に全滅するようになってるらしい。
だから世界樹の根を殺して、若枝を配布した核都市からの「若枝機能停止」の報告を待ち、万が一その報告がない都市があれば『魔導院』が生きのびた若枝を処理しに行く。
反対派の連中は、推進派が体勢を立て直す前にやる気だ。
時間がない。
だから、これを知ったお前がどうするかはわからないが、とにかく知らせることにした。
この手紙の礼は今度会った時に何かでもらうからな。
それまでは死ぬなよ。
棗
◆×◆×◆×◆
「露草、読み終わったよ」
漣が言うと、私はその手紙を燃やすようシガーに命じた。
「それで、露草。ぼくには君が迷いなく逃げる用意をしているように見えるけど、本気?」
「本気。世界樹の一枝として砂漠に植えられることについては覚悟してたけど、わけもわからずいきなり殺されるのを黙って待つ覚悟をする気はない。
そんな覚悟をするには情を移しすぎたよ。……椿のことを笑えなくなったね」
自嘲気味に笑ってみせると、漣は金色の目に私を映して訊いた。
「君が今考えてることを実行したら、その結果、何がどうなるかわかってる?」
「自分がどうなるかはわかってる。でも、椿にどういう波紋が行くかがわからない。だから漣を呼んで、手紙を読んでもらったの」
いつもより早口になっていることに気づいて、ひとつ深呼吸。
体を落ち着かせて、言葉を続ける。
「双子の妹が世界樹の若枝を連れて逃げたら、双子の姉は何かの罪に問われる?」
「うーん。どうだろうね? 休眠中の魔女が、双子の妹のやったことで責任を問われる、なんていう前例は聞いたことないけど。
でも、もしも責任を問われたとしても、椿は怒らないよ」
「……私の勝手な行動で責任を問われても、怒らない? そんなこと、どうして断言できるの? 漣」
「椿は昔【大和】に住んでて、今の露草と同じように兵役についたりしてたんだけど、恋人が死んだり、親しい人が死んでいくのに耐えられなくなって樹海にもぐったんだ。
その名の通り、長命種は普通の人より長く生きるのが当たり前だから、他の長命種たちは人の死にわりと鈍感にできてるんだけどね。
ぼくの主は、例外だった」
椿は恋人を、失ったことがあるのか。
「だから今、露草が皐月を連れて逃げようとするその気持ちを、椿は理解できる。
怒ったりなんてしないし、それで[円環の蛇]を取り上げられても、むしろ「縁が切れて清々した」とか言うよ、きっと。
そもそも[円環の蛇]は椿が望んで得たものじゃなくて、譲葉一門の魔女を手放したくない『魔導院』が強制的にはめさせてるだけだし」
それなら。
「私はここから逃げてもいいの? 漣」
「君が望むなら、ぼくはそれを支持する。
もちろん、ぼくも一緒に行くからね」
漣の答えに、心の底からほっとして、「ありがとう」とつぶやく。
そうしてようやく、自分が精神的に追い詰められた状態にあったのだと気づいた。
もっとしっかりしろと、声には出さず自分を叱咤する。
冷静にならなければ、皐月を連れて逃げるのは自殺行為にしかならない。
魔法研究の最高峰である、『魔導院』の決定に逆らおうというのだから。
「ところで、露草。逃げた後はどうするの?」
「ひとつだけ考えがあるから、それを実行する」
「ふぅん? 露草に考えがあるならいいけど、必要なら椿の隠れ家に案内するから、言ってね」
漣は頷く私に「あとひとつ」と、言葉を続ける。
「動くなら夜にした方がいい。昼はいつも通りに過ごして、暗闇にまぎれて姿を隠そう。
だから今日はいつも通りに過ごすんだ。
それで夕方くらいに、お別れを言いに行っておいで」
頭の中に浮かんだ、ひとりの人の姿に、ぐっと唇を引き結ぶ。
「皐月はぼくが見ててあげる。同じ都市内なら指輪から離れても大丈夫だから」
黙りこんでいる私にそう言って、漣は指輪の珠へ戻った。
私は不安そうな顔をしてちょこんとイスに座っている皐月と目を合わせ、「何でもないよ」と言って、そのちいさな体を抱きあげる。
「くー。いたい? おなか、いたいの?」
「大丈夫だよ、皐月。私は大丈夫」
心配そうに私の頬を撫でる皐月に微笑み、いつも通りの一日を送るべく、食堂へ降りていく。
今日の護衛官は鮫島少尉で、午後から九条中尉と交代することになっている。
私は表通りで皐月を遊ばせ、茶屋の奥さんにだんごを一本サービスしてもらい、金物屋の主人が客と乱闘騒ぎを起こすのを止めて、日が傾きはじめると城砦へ帰った。
遊び疲れてうとうとまどろむ皐月をベッドへ入れ、漣にまかせて九条中尉に見つからないよう城砦を抜け出す。
黄昏時。
葡萄酒のボトルと肴の乾燥果実を片手に、私は初めて訪れる部屋のドアをこんこんと叩いた。
中で足音がして、ドアが開く。
「何だ。……譲葉少佐?」
予想外の来客に驚く平服姿の鮫島少尉に、お酒と肴を見せて言った。
「ちょっと一杯、一緒に飲まない?」