第一話「始まりの契約」
酒とタバコが相棒で死因。
自業自得に二十九歳で生涯の幕を閉じ、生まれ育った世界から去った。
けれど、それが本当の終わりではなかったようで、ある時ひとつの声が聞こえてきた。
「自由なる魂よ、我が元へ来たれ」
やわらかな女性の声だ。
私はその声に引き寄せられ、それまでいたところから落ちた。
落下先は、石造りの広い部屋。
ドアも窓もなく、本がギッチリ並べられた書棚や、実験器具らしき道具が無数に放り込まれたガラス戸棚が並べられているせいで壁も見えない、四角い密室だ。
書棚に入りきらない本が床に積まれ、戸棚に入りきらない道具が木箱からあふれて部屋を占領しつつある。
そんな部屋の、あちこちに置かれたロウソクの灯りの中。
シンプルな紅のドレスをまとって同色のとんがり帽子をかぶり、首飾りや指輪や腕輪などのアクセサリーできらびやかに身を飾った黒髪の女性が、木箱の一つに腰掛けて私を見ていた。
部屋の中央の床に描かれた複雑な文字と図形 (魔法陣っぽい)の上、ただふよふよと浮かんでいる私に、穏やかな微笑みを浮かべた彼女が言う。
「自由なる魂の君よ。我が呼び声に応えしものよ。
我は譲葉一門の当主たる魔女。現世が名は、椿。
我との契約に同意するか?」
契約って、何の?
「わたしは君に体を与えることができる。だがそれを受けたら、君はこれより十一年の間、わたしの意志に従って生きなければならない。
十一年間役目を果たしてくれれば、後は自由だ」
ほー。
それ、引き受けたらどんな体をくれるの?
「君の後ろに用意してある」
言われて振り向いた先にあったのは、透明な液体で満たされたガラス製の棺の中で眠る、成人女性の体。
切れ長の眼も形の良い鼻も薄い唇も、何もかもが私を呼んだ女性とそっくりだ。
見る人によっては「美しい」と言えなくもない、黒髪黒目の狐顔。
小柄だけど極度に痩せているわけではなく、健康そうに見える。
「わたしの複製体だ。この契約に同意してくれるなら、君はその体に宿って一年ほど力慣らしをした後、わたしの双子の妹として十年間の兵役につくことになる。
長命種は佐官始まりだから、「東方連合軍の譲葉少佐」だな。
もっとも長命種に与えられる階級はただの飾りで、佐官といっても部隊を指揮する権限は無いのだが。書類から健康まで、身の回りのすべてを管理してくれる専属の護衛官がつけられる程度に待遇は良い。
護衛官が監視役でもあることや、命令一つで困難な戦いを強いられる任務に従事しなければならないことに抵抗がなければ、衣食住には困らない快適な環境と言えるだろう」
うーん。
私は軍隊に入るどころか、戦ったことさえないんだけど。
魔女さん、人選間違えてない?
「間違いはない。わたしはいくつかの条件を付けて魂を呼び、それにぴたりと当てはまる君が降りてきて今ここに在るのだから。
それに、戦うことについてもさほど心配する必要はない。用意した体にはすでにある程度の知識を仕込んであるし、兵役につく前にひと通り、わたしが魔法の使い方とこの世界での戦い方を教える。
さて、これでどうだろう。
自由なる魂の君よ。わたしと契約してくれるか?」
ここまで言いきれるということは、私でかまわないものなのだろう。
魔法を使って戦うなんて、映画やマンガの世界に入るみたいで面白そうだ。
興味をひかれて答えを返した。
おいしいお酒が飲めるなら。
◆×◆×◆×◆
ガラスの棺で眠る女性の中に入れられ、定着するまで一ヶ月ほどかかった。
魂が体に馴染むのを待つ間、私は椿が体に仕込んだこの世界の知識を興味深く飲みこみ、外へ出て別の部屋へ移されると、葡萄酒と思しきお酒のボトルをもらって上機嫌でイスに座った。
椿は向かいのイスに座り、どこからともなく現れて膝の上に乗った白い猫の、美しい毛並みを撫でながら紹介する。
「この子はわたしの使い魔だ。今は猫の姿をしているが、他にも様々な姿に変化することができる。今後、君のそばにいて補佐をしてくれるから、仲良くやってくれ」
主の膝の上で丸くなった使い魔は、金色の瞳に私を映して口を開いた。
「ぼくの名前は漣。『紅の魔女』に仕える『万形の守護者』と呼ばれることもある、椿に造られた魔法生物だよ。
食べたものの姿になれる能力があるから、君の望む生き物の姿になれる。これからよろしくね、名無しのお嬢さん」
おお。猫が喋ってる。
ひらりと手を振って「よろしく」と答えつつ、今更ながらファンタジーな世界に来たものだと思った。
使い魔と名無しの複製体の挨拶が終わると、椿は軽く指を振ってどこからともなくグラスと肴を取り出す。
私は腕に抱いたボトルからグラスにお酒をつぎ、アルコールの甘い香りに微笑んだ。
これだよ、これ。待ってましたー。
椿は片方のグラスを取り、軽く持ち上げながら言った。
「まずは無事の誕生を祝して一杯。新しき君に、おめでとう」
「ありがとう」
グラスをカチンと鳴らして飲んだそれは味も葡萄酒で、私は至福のため息をつきながらイスに沈む。
ガラスの棺が置かれていた薄暗い石造りの密室と違い、巨大な木の虚を利用して造ったのだという現在地のこの部屋は、窓が大きくてとても明るい居間だ。
窓には硝子がはまっていないのに、虫が入るどころか風さえも吹いてこないという不思議な空間だが、何らかの魔法がかかっているのだろう。
なにしろ部屋の主は魔女だ。
窓の向こうにひろがる冬枯れた森を眺めながら、のんびり葡萄酒を飲んでいると、椿が言った。
「まずは名前を決めよう。候補をいくつか書いておいたから、気に入ったものを選んでくれ」
これはまた、たくさん考えてくれたものだ。
渡された紙にずらずらと並ぶ名前候補を眺めながら、酒の肴に出された乾燥果実をつまむ。
椿が体に入れておいてくれた知識の中には、三種類の言語があった。
この世界の「共通語」と、今私たちがいる地域で昔使われていたという「旧言語」、そして魔法を操るために必要な「古語」。
どれも一ヵ月でほぼ完全に飲み込めているので、共通語で話しながら旧言語で書かれた名前候補を見るのに苦労はない。
「露草にする」
ひととおり候補を見て一つを選ぶと、「ずいぶん簡単に決められるのだな」と椿がつぶやいた。
「わたしがそういう魂を呼んだのだから、当然のことなのだろうが。君は新しい体への抵抗感や、元いた世界への未練はないのか?」
「抵抗感や未練か」
昔から冷淡な私の、唯一の心の拠り所だった家族は、七年前の交通事故であっけなく逝ってしまった。
それが理由だと言うつもりはないが、その事故で生活が一変した後、気がつけば何にも執着を持たない刹那的な生き方をするようになり、酒とタバコに溺れていた。
「ここがどこだろうと、おいしいお酒が飲めるならそれでいい」
グラスを傾けて異界の葡萄酒を味わう私に、椿は「そうか」と頷いて話題を変えた。
「では話を進めよう。まずは君がこの世界の知識をうまく取り込めたかどうかの、確認だ」