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だうん  作者: 篠義
2/7

そのに

 結局、看病をしたのは病院に連れて行っただけだ。風呂に浸かりつつ、ふうと息を吐いた。

「水都、溺れる前に出てこいよ。」

 外から声がして、物音がした。着替えを用意してくれたんだろう。それから歯磨きをしている音がして、また無音になった。すっかりと体調が戻った同居人は、いつものように動いている。こういう時は、ちゃんとしなければ、と、意気込んでいたのに、仕事が予測しないよう転がって、世話どころではなかったからだ。


 本日も、本当なら夕方に帰るつもりだった。だが、出社したら、部下三人が病欠で休んでいた。わかりやすいサボりだな、と、思ったものの、今まで自分がやっていた仕事だから気にせずに、手を付けた。とはいうものの、それらの仕事が増量したら、いつもの仕事に食い込むわけで、部下が入る前の通常帰宅時間になってしまった。


 ・・・・・たかだか、叱っただけでこれかいな?・・・・


 仕事について叱っただけで、サボられるのか、と、俺はびっくりしたのも事実だ。仕事さえしてくれたら、俺は、別に気にしないが、それができないから叱ったのに、それでへそを曲げられたら、どうしたらいいのかわからない。


・・・・・向きじゃないからなー・・・・・


 とりあえず、出て来ないなら、以前のような仕事の段取りに戻ればいいか、と、結論した頃に、乱暴に風呂の扉が開いた。

「おまえは、何度言うたらわかるんやっっ。もう出ろっっ。」

 乱暴に風呂から引き上げられてバスタオルを頭からかぶせられた。さっさと着替えて、居間に顔を出したら、なんで、風呂上がりに・・・と、文句を吐きつつ、俺の旦那は温かいお茶を入れていた。

「梅ほうじ茶。ほんで、これ、飲んどき。」

なぜだか、旦那の病院から貰った薬を差し出された。

「え? 」

「うっかりしとったけど、おまえ、絶対に移ってるから。予防しとくにこしたことはない。」

「そうか? 」

「俺の看病して、一緒に寝たやろ? あれは、まずい。」

「うーん、そうかなあ。」

「なんでもええから飲め。」

 心配性な旦那なので、予防したいらしい。ひいてからでもええやろうと俺は思うのだが、いつものことなので気にしないで、梅干の入ったお茶と薬を飲んだ。

「どうにか持ち直したわ。」

「おう、早かったな。もっと長引くかと思たわ。」

「初日に盛大に熱出したからな。まだ、ちょっと喉はいがらいわ。おまえも、喉が変やったら早めに言いや。」

「はいはい。」


 いつものように返事したら、花月は困ったように笑って、「まあ、ええわ。」 と、頷いた。

「おまえの世話は、俺の専売特許やしな。俺のほうが早よ気付くから、おまえは、いつも通りにしとったらええわ。・・・・・明日は、なんか食べたい物あるか? 」

「うどん? 」

「・・・・もうええ。寝よか? 」

 食べたい物と言われても、俺にはない。一番食べやすいものが、麺類だから、簡単そうなものを言うと、花月は、首を横に振った。





 深夜残業が三日続いて、それから二日、俺の嫁は、やはりというか、当たり前というか潜伏期間を消化した頃に、熱を出した。わかりやすくインフルエンザなので、俺と同じように病院へ連れて行き寝かせておいた。

 これといって、看病することもないので、俺は半休だけして、出勤したものの、うっかりと嫁の職場へ休みの連絡をするのを忘れていたことに気づいた。職場についてから、連絡をしたら、「わかりました。」 という女性の素っ気無い声で言われて電話を切られてしまった。

 俺は、あまり嫁の仕事について詳しくはないが、以前、堀内のおっさんから説明されたところによると、嫁が近畿圏店舗の半分の経理と資金繰りを担当しているという。全てを一人でやっているわけではないが、統括しているのは嫁で、かなりの金額を動かしているらしい。それで、そういう重要なヤツが休んでて、あの程度で、済むのが不思議だ。


・・・・いや、部下が入ったとか言うとったから、それでなんとかなるんかな?・・・・


 二日三日なら、それなりに対応できるのかもしれないと思い直して、俺も、その件は忘れてしまった。






 定時上がりで家に帰っても、俺の嫁かダウンしたままだった。仕方がないだろう。疲れていたところへ悪性の菌に暴れられたら、誰だって動けない。クスリで熱は下がったのか、ちょっと呼吸は楽そうだ。

「ただいま。」

「・・・うー・・・・」

「着替えたら、おまえも着替えさせたるから、ちょと待っとけ。」

 服を着替えてから台所へ行ったら、出て行った時と、まったく変わらなかった。具合がよければ食べろと、お粥を用意したが、ここまで這ってくる根性もなかったらしい。枕もとの飲料水は減っていたから水分だけは補給している。いちいち、こんなことで怒る気はない。

 お粥を温めなおして卵を放り込んだ。それから、冷ます。とてつもない猫舌な嫁は、湯気が出ているだけで警戒する。だから、人肌程度まで冷ます必要があるのだ。

 熱いタオルで身体を拭いて、着替えさせたら、えふえふと咳をする。咳止めに、大根はちみつを飲ませて、飯を食わせた。

「ほれ、口をあけ。」

 食べる気のない嫁は、ぐったりベッドに倒れたままだ。いつものことなので、そのまんま、レンゲで冷ました粥を口元に運ぶ。これは、以外と楽しい作業だ。

「・・う・・・・」

「なんでもええから。・・はい・・・・はい・・・・梅干もはい。」

「・・・うー・・・・」

「唸っとるんやったら、もう一口。ほんで、クスリ。」

 一連の作業が終了すると、やれやれと俺は食器を下げる。それから、自分も食事して、風呂に入る。


・・・あの様子やったら、二日ぐらいで復活かな・・・・・


 風邪とか過労とか、いろいろとダウンする俺の嫁なので、だいたい復活までの時間もわかる。早めに予防したり、病院に連れて行けたから、復活も早い。いつもこうなら楽なのだが、普段は隠しやがるので、後手後手に回る。または、復活しかけた嫁を、うっかりというか欲望のままに、というか、俺がダウンさせてしまうので、一度のダウンで一週間が通常だ。今回だって、一ヶ月ぐらいご無沙汰しているので、ちとやばい。


・・・で、おまえは空気読めへんのよ、水都・・・・・・


 いつもは、一人で寝ているくせに、こういう時だけ一緒に寝たがるのだ、俺の嫁は。さすがに、あんなにぐったりしていると、俺も気を遣うのだが、足を絡ませられた日には理性が崩壊する時もある。


・・・いや、今夜はまずいやろう・・・・


 風呂から上がって、様子を覗いたら、案の定、俺の嫁は潤んだ目で、手を差し出した。

「・・うー・・・」

「かまへんけど、足を絡ませたりキスしたり胸を揉むなよ? 水都。介護老人並みの身体にさせてまうからな。」

「・・・う?・・・」

「いや、無意識にやってるんやろうけどな。てっっ、おまえ、言うてるしりから、それをやるなっってっっっ。」

 なぜ、病人相手に理性の限界の修行をしなければならないのか、それが、かなり厳しいのが、俺には不可思議だ。当人は無意識に、俺に擦り寄ってくる。普通に密着するぐらいなら、俺だって我慢できる。だが、無意識の俺の嫁は、いきなり、パジャマのボタンを外してみたり、触らんでええとこを、ちょこちょこと触ってくる。

・・・・頼むわ、ほんま、そんな積極的なんは、元気な時にしてくれや・・・・

 動きを封じるために、ぎゅっと抱き締めて、トントンと背中を叩いた。クスリは効いてくるから、しばらく押さえ込んでいたら、俺の嫁の身体は、くたりと力が抜けた。

・・・危なかったわ・・・・

 やれやれと、俺は、ボタンを嵌めなおし、もう一度、抱き締めるようにして目を閉じた。





うちの会社は、本部が中部地方にあるが、一応、近畿エリアを統括するのに、支店がふたつある。その下に、営業所というか遊技場と言うか、そういうものが、存在する仕組みだ。

「助かりました。おおきに。」

 統括している支店の面倒を手助けしてもらった俺は、所属していないほうの支店長にフォローの礼は入れた。インフルエンザだと自覚した瞬間に、メールでヘルプの依頼を送っていた。日々の売り上げの日計や報告は、後からでも、どうにでもなるが、資金繰りは、そうはいかない。高額の金銭が出入りするので、金が尽きる事態は問題だからだ。何かで数日出てこられないという事態の時は、とりあえず、俺の担当エリアからの資金繰りの依頼を、もう一方の支店のほうで、処理してもらうことにしている、逆もまた然りで、俺が立替で資金を送り込むこともある。数日なら立替で、どうにかなる。それらの清算をして、それから、資金の循環をチェックする。チェーン店がたくさんあるので、統括地域内で、資金が流れていれば問題はない。どっかが赤字で現金持ち出しでも、どっかで、その分、黒字であれば問題にはならない。それが、チェーン店の強みでもある。

「いやいや、うちのほうも倒れたら頼むわ。」

 向こうの支店長は、以前、こちらにいた人なので、割と気安く頼める。向こうも堀内のおっさんの部下だったからだ。





 連絡を終えて、そろそろ本日業務に入ろうかと思ったら、うちの支店長が呼んでいると、部下その一が呼びに来た。うちの支店長は、俺より、かなり年上だが、俺よりは後で入社したおっさんだ。仕事の区分としては、お互いに接点はないので、呼ばれることなど稀な相手だ。





「きみの勤務態度は目に余る。」

「はあ? 」

 支店長室に入って開口一番が、これだ。俺の背後には、俺の部下達が立っていて、クスクスと笑っている。部下に八つ当たりで怒鳴り散らしているだの、無断欠勤しただの、言いがかりとしか思えないことで、くどくどと小言を言われるに当たって、どうも、支店長と俺の部下が共同戦線で俺を排除したいと画策しているらしいと気づいた。

「それで、訓戒は終わりですか? 」 と、小言が切れたところで、尋ねたら支店長が激昂して、「おまえなんかクビだっっ、クビっっ。」 と、言い放った。


・・・・いや、俺、あんたの部下やないし・・・・・


 内心で、そう思ったが、支店長の続く言葉にカチンときた。

「この不況の世の中で、おまえみたいなぼんくらは再就職もままならんだろう? クビになりたくなければ、今後は大人しく働くことだ。」

 いや、ボンクラはいいのだ。実際、そうだから。ふと、俺は、これまでの人生で生活の為に働いている自分の履歴を思い浮かべた。学費と生活費を稼ぐのに、仕事をしていなかった時期は、高校時代からない。自分で自分の生活を支えていなければならなかったからだ。大学は、親からの要請で入ったので、入学金とかの最初の分は支払ってくれたが、そこからは断った。あまりにも自分と親の関係が普通ではないことには、当の昔に気付いていたので、大学へ入ることを期にして、縁を切ることに自分で決めたからだ。だから、毎日、大学とバイトで精一杯の状態で、四年間を暮らして、そのまんま、そのバイト先へ就職した。正直、辛いこともあったし、もうちょっと楽な仕事はないかと考えたこともあったが、日銭が切れると、途端に生活できないという状況では、おいそれとバイトは切れなかった。

 ただ、大学生活後半に花月と知り合ってから、少し、その生活は変わった。それまでの生活に、花月が、いろんなものを運んでくれたからだ。


・・・・ははは、俺、ひとりやないねんなー・・・・・・


 そう思ったら、肩の荷がなくなった気がした。かなり理不尽な目に遭っても、仕事をやめられなかったのに、今は、簡単にやめられるのが、嬉しいと思う。

「じゃあ、やめます。・・・・引継ぎは、どないしますか? 支店長。」

「なにぃ? 」

「いや、俺の仕事の引継ぎせんとあかんでしょ? 」

「そんなもん、女の子らがおるからいらん。」

 こいつらがやっていたのは、一番簡単な仕事だけなのだが、と、反論するのも面倒で、「では、机の整理して帰ります。」 と、頭を下げて、支店長室を出た。




 携帯で、堀内のおっさんに、「クビになったから。引継ぎも拒否られたんで、後はよろしく。」 と、連絡したら、えらい剣幕で叱られた。

「おっおまえ、近畿圏を混乱の渦にするつもりか? おまえの人事権は、わしが持ってるやんけっっ。誰が、みっちゃんをクビにしたっっ。」

「支店長。・・・でもな、おっさん、俺、ちょっとゆっくりしたいと思うねん。花月が前から、そう言うてたし・・・・俺、あいつの嫁やから、嫁らしいこともしたいしな。」

 この前の風邪の時に、つくづくと自分の忙しさには嫌気がさした。あんな時くらい、もっと、旦那の世話ができる状態でありたいと思ったのだ。さすがに専業主夫というわけにはいかないだろうが、今よりは時間を作れるだろう。しばらく、堀内のおっさんは沈黙したが、なんだか笑っているような声になって口を開いた。

「・・・・まあ、ええわ。ほんだら、しばらくは遊んどけ。・・・・みっちゃんが、そんなことを言うようになるやなんてなあー、わしも年とったわ。」

「おい? 」

「まあ、よろし。また連絡するから、それまで、新婚ごっこでもしとけ。あのあほとな。」

「いや、おっさん? 」

 退職の挨拶をするつもりだったのに、堀内のおっさんは、勝手に電話を切ってしまった。確かに、俺の人事権は直属の上司である堀内が握っている。この支店に席はあるが、所属はしていないのだ。だから、堀内のおっさんが、「うん」 と、言わなければ、俺は解雇ということにはならない。だが、支店長が、どういう方法を考えるか、わからないが、何がしかの罪状でもつけて上に報告すれば、いくら、堀内でも頷くだろうと、俺は甘いことを考えていた。



 机の整理をして、自分が使っていたパソコンのデータを、綺麗さっぱり消去した。必要なデータは、一応は残してあるが、それは、パスワードが入用なものばかりだ。パスワード設定をしたのは、堀内のおっさんなので、解除コードは、関係者なら誰でも知っているものだ。

 長年愛用していた筆記具は、全てが会社支給のものだから持ち帰るものはない。強いてあげれば、机上辞典とかいう辞書ぐらいだ。これらは、正式に入社する前から使っていたものだから、寄贈しておくことにした。個人的な住所録だけ紙袋に放り込み、後のものはゴミ箱へ投げ入れて、元から物の少なかった机は、綺麗に整理できた。

 何事だ? と、部屋の人間は驚いていたものの、声をかけるものはいない。これ幸いと、俺は紙袋をひとつ手にして、会社を後にした。




 まだ、午前中で、慌てて帰ったところで用事はない。せっかくなので、ぶらぶらと街を散歩した。久しぶりに、古本屋街をひやかして、のんびりと昼飯に明石焼きを冷まして食った。今日から自由の身と頭は理解しているのだが、心が追いつかない。今まで時間に追われている生活が常だったから、何をしても良い状態というのに馴染めないのだ。


・・・・いや、こういうのは初体験やなあー・・・・・


 授業をサボったことはあるが、何日も自由になるなんてことはなかった。晩ごはんの買いだしもしておこうと、デパ地下へと降りて、賑やかな宣伝で、明日が愛の告白デーだと判明した。とはいうものの、さすがに、そんなイベントをやるほどに若くはないので、そこは無視して、惣菜売り場へと足を向けた。








 あれ? と、俺は自分の家に灯りがあることを目にして慌てた。俺の嫁の風邪が、ぶり返して、早退でもしたのかと思ったからだ。しかし、部屋に飛び込んだら、台所から煮物のいい匂いがして、「おかえり。」 という穏やかなトーンの声に出迎えられた。

「珍しい。」

 俺より早く帰るなどということは、滅多にあることではないので、そう声をかけたら、困ったように俺の嫁は笑って、「無職になった。」 と、漏らした。

「ん? ムショク? それは、あれか透明とかそういう・・・・」

「ああ、無理にボケんでもええで、花月。クビ。I am fire. のほうやから。」

「おお、そうか。くくくくく・・・・・・まあ、ええやないか。しばらくゆっくりしとったらええわ。」

 何かあってブチキレたかなんかで、辞めてきたのだろう。別に、俺は、それでもええ。ちょっとゆっくりして、また働き口でも探したらええわ、と、内心で呟いた。

「これから、家事は任せてくれ。」

「おお、専業主夫か? ええがな、ええがな。『おかえり、あなた』 で、お出迎えのキスを頼むで。」

「あほか、おまえは。とりあえず着替えてこい。」

「おかず、何? 」

「キンメの煮たのとサトイモの煮物。」

 誰かが待っていてくれる家に帰れるのは嬉しい。俺は、そう思うから水都に、その環境を提供していた。だから、俺は、自分が、それができるのなら、嫁が専業でもええと思う。まあ。家賃とか考えたら、バイトくらいはしてもらわなあかんけどさ。




 俺の嫁 専業主夫化で、二日目もゆっくりと始まった。朝が弱いので、朝飯に関しては俺が作ることになっている。

「すまん。」

「いや、別に・・・・後で、『行ってきますのチュウ』とか希望。」

「あーうん。」

 寝惚けた俺の嫁は、意味がわからないままに返事して、また目を閉じている。気が抜けたと、昨晩、水都はこたつで寝転がっていたので、これ幸いと襲ったのは俺だ。これからは気兼ねなくできるな、と、耳元で囁いたら、蹴りを入れられたが、拒否られることはなかったので、了承と考えて先に進んだのは言うまでもない。で、そうなると、俺の嫁は起きられなくなる。

 朝から大層なことをする必要はないので、いつも通りに、バターを塗ったトーストと、目玉焼きぐらいを準備して、俺は早速食べた。いつもなら、ぐたぐだと呪いの言葉を吐きつつ起き出すのだが、今からは起きる必要はない。さっさと食って洗濯機を回して、俺ものんびりと新聞を読んだ。


・・・・優雅なもんや・・・・・


 いつもなら、先に洗濯機を回して出勤前に干していくが、それは、専業主夫にお任せしたので、ゆとりがあるのだ。

「そろそろ出るか。」

 テレビで時間を確かめて、嫁の部屋に顔を出した。

「水都、行って来るわ。・・・・洗濯もん干しといてや。」

「うー。」

「いやあー奥さん、そんな色っぽい声ださんといて。会社へ行きたくなくなるやんか。」

「・・・・あほ・・・行って来い。」

 布団に埋もれたままの水都の腰の辺りを、ぽんぽんと叩いて部屋を出た。出会ってから、ふたり共、バイトしていたり就職したりで、こんなにゆったりと会話することもなかったから、新鮮でしかたがない。






 定時上がりで帰ったら、食事も風呂もできていて、「おかえり」の出迎えもある。食後のデザートだと、俺の嫁が、コーヒーと共に黒いケーキを、こたつの上に載せた。もちろん、甘い物が苦手な嫁は、レアチーズケーキだ。

「デザートまで付くなんて、すごいなあー。」

「なあ、花月。おまえ、顔が緩みまくってるけど大丈夫か? 」

「いやーなんていうか、もう、ほんま。なんか嬉しいてな。あかんねん。」

「えーっと、今日のおかずがよかったとか? 」

「それもあるけど、万事が万事嬉しい気分なんよ。家に帰ったら、誰かがおるっていうのは、ええ。」

 ついでに、こっそりというか、ひっそりというか、チョコがイベント当日に現れるのもいい。いつもは、コンビニの売れ残りを叩きつけられる。それも日付ギリギリとかで、喜ぶ間もない。照れ屋な俺の嫁は、平静を装ってはいるが、実は緊張している。こっそりとバレンタインのチョコをケーキで贈っていることに気づかれないか、ひやひやしている。

「ええ、ほんま、俺の嫁は最高や。」

「お世辞はええから、はよ、食うて寝ろ。」

「くくくくく・・・・・俺、おまえのそういうとこが好きやわ。」

「あっそーかーおおきにありがとさん。」

「その棒読みにまで愛を感じるし。」

「花月、それ以上言うたらしばくから。」

 ばくばくと、自分の白いケーキを丸呑みして、さっさかと、嫁は逃げた。そんなに照れることもないだろうと言うのに。







 洗濯物を畳んでしまうと、家事もひと段落する。やれやれと読みかけの小説を引っ張り出して、それに目をやる。溜まっていた本も着々と消化中で、なんだか、あまりにも平々凡々していておかしくなる。

 もしかしたら、と、気にしていた職場からの緊急連絡もないので、すっかりと気抜けした状態だ。まあ、堀内のおっさんに連絡してあるから資金繰りなら、本社からでもできるだろう。


・・・・・落ち着いたら、バイトはせんとあかんなあー・・・・・


 ただいまは、貯まりに貯まっていたはずの有給休暇のはずで、月末に給料が振り込まれたら、それで完全に縁が切れる。それまでは、ちょっとのんびりしていようと思っているのだが、問題は次の職場だ。

 専門バカというか、長いこと、同じ職種にいたので、それ以外に、どんなことができるか、いまいち、自分でもよくわからない。できれば、同じような商売に、と、考えていたのだが、それには、ちょっと問題がある。

 というのも、俺の旦那が、俺が出迎えることに異常にはしゃぐからだ。そして、「もう無茶な仕事はせんでもええ。なんなら、もうちょっと家賃の安いとこへ越してもええしな。」 と、留めの言葉を吐いた。

 つまりは、俺の旦那は、家に俺がいることを望んでいるということだ。まあ、そりゃそうかもしれへん、と、同居してからの状態を考えたら頷けるものがある。深夜残業なんて当たり前。土日も忙しければ休日出勤。ゆっくりするのは、年末年始ぐらいという過激な生活態度だった。

 その生活を支えていたのが、花月のほうだ。家事全般を請け負って、へろへろの俺が胃潰瘍にも肝炎にもならずに、どうにか働けていたのは、そのフォローがあってこそのことだ。


・・・・・とりあえず、家賃の負担分ぐらいは、どうにかしとかんとな・・・・・


 当座の生活費には、なんら問題はないが、もし、俺が本格的に専業主夫化したら、やっぱり家計は厳しい。交通の便がいいので、このハイツの家賃は、それなりに高い。朝から夕方までのバイトを探して、ちまちまと稼げば、どうにかなるだろうか、と、俺は考えている。今までの給料が破格だったから、生活費を、こちらで負担していたから、それがいきなりなくなったら、さすがにまずいだろう。


・・・でも、できたら、花月の希望は叶えたいんやけどなあー・・・・・・


 土日祝日が休みで、定時上がりができる仕事なんて、そうそうあるもんでもないだろう。それならバイトでも同じだ。だが、それだと実入りも悪くなるわけで・・・・・はてさて・・・・どうしたもんじゃろか・・・・・・


 本を読んでいるつもりで、窓から見える空を見上げていた。引越ししてもええかな、とか思い直して、また本の字面を追ってみる。


・・・・・・もう少ししたら買い物に行こう。チラシのチェキを買おて、それから、クリーニング屋も寄ってこなあかんな。・・・あいつの職場に、もうちょっと近いとこに引越したら、どうやろう? あっちは田舎やから家賃は安いはずやしな・・・・・・・


 やっぱり、字面を追っているつもりで、空を見上げていた。

「あかんわ、俺。動こう。・・・どうも止まると、余計なことばっかり考える。」

 文庫本を閉じて立ち上がった。







 外へ出たものの、時間も早いから散歩がてらに遠回りをした。見知らぬ公園に行き当たって、そこのベンチへ座り込む。さすがに寒い時期だから、人気はない。鳥の囀りが、樫の木から聞こえてくる。


・・・・なんていうか、長閑や・・・・・


 自覚なく笑っている自分に呆れた。こんな時間があるのも、旦那がいてくれればこそや、と、思ったら、やっぱり引越しするかと決めた。



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