真実の闇
本当の闇
その日、片岡早紀は久しぶりの休日を迎えていた。
だが、目覚めは最悪だった。
昨夜はかなり飲んだ。
二十八歳の頃から三年間付き合ってきた彼氏に、振られたのだ。
三十一歳。そろそろ結婚を考えてもいい年齢だ。いや、考えていた。彼だって同じ気持ちだと思っていた。
ところが、である。
「他に好きな人ができた。別れてほしい」
――だと!?
昨日の夕方、会社の前で待っていた彼は、いつもより少し洒落た格好をしていた。
紺色のジャケットに、細身のパンツ。短く整えられた髪。背はそれほど高くないが、清潔感のある顔立ちで、笑うと目尻に小さなしわができる。
その笑顔が好きだった。
今日は何か特別な話があるのかもしれない。
そんな期待をしていた自分が馬鹿みたいだった。
「……え? ちょっと待って。どういうこと?」
「だから、好きな人ができたんだよ」
「いつから?」
「そんなこと聞いてどうするんだよ」
彼は面倒くさそうにため息をついた。
その仕草に、早紀はひどく傷ついた。
三年間。
たった三年かもしれない。でも、二十八歳から三十一歳までの三年間は、早紀にとって決して軽いものではなかった。
休日には一緒に出かけ、互いの部屋を行き来し、将来の話だってした。
結婚したらどこに住もうか。
子どもは何人欲しいか。
そんな話をしたこともあった。
「結婚するって……言ってたよね?」
「結婚しようかなって話はしたけど、約束したわけじゃないだろ」
早紀は言葉を失った。
彼は腕時計をちらりと見た。
「もういいだろ。俺、行くから」
「待って!」
思わず彼の腕をつかんだ。
「離せよ!」
強く振り払われた。
履き慣れていたはずのパンプスの踵が滑った。
「あっ!」
身体が後ろへ傾く。
とっさに手をつこうとしたが、間に合わなかった。
ゴツン。
後頭部に鈍い衝撃が走った。
一瞬、目の前が白くなった。
「片岡さん!」
「大丈夫ですか!?」
会社の前だった。
帰宅しようとしていた同僚たちが、慌てて駆け寄ってくる。
「何やってるんですか!」
若い男性社員が彼を睨みつけた。
「いや、こいつが勝手に腕をつかんできたんだよ!」
「だからって、突き飛ばすことないでしょう!」
「突き飛ばしてない! 振り払っただけだ!」
彼は吐き捨てるように言うと、足早に立ち去っていった。
早紀は呆然とその背中を見送った。
「片岡さん、立てます?」
「……うん。大丈夫」
「頭、打ちましたよね? 病院へ行った方がいいですよ」
「平気、平気。ちょっとびっくりしただけ」
笑ってみせた。
頭は少し痛かったが、それよりも恥ずかしさと惨めさの方が勝っていた。
大勢の前で振られた。
しかも、地面にひっくり返るおまけ付きだ。
「……もう、最悪」
そうつぶやくと、同僚の一人が肩を抱いてくれた。
「飲みに行きましょう! 今日は私たちが付き合います!」
その言葉に甘えることにした。
居酒屋では、散々彼の悪口を言った。
泣いた。
笑った。
また泣いた。
普段なら二杯も飲めば十分なのに、その夜は何杯飲んだのか覚えていない。
途中から頭痛がひどくなったが、飲み過ぎたせいだと思った。
帰り際、同僚が心配そうに言った。
「本当に大丈夫ですか? 頭も打ってるんだし……」
「大丈夫、大丈夫! 明日は休みだし、ゆっくり寝るから」
タクシーで帰宅したことは覚えている。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ、着替えもせずベッドに倒れ込んだ。
そこまでは、確かに覚えていた。
* * *
喉が渇いた。
ひどく喉が渇いていた。
早紀は重たい頭を持ち上げた。
(……今、何時?)
枕元へ手を伸ばす。
いつも置いてあるスマートフォンが見つからない。
(あれ?)
目を開けた。
真っ暗だった。
(まだ夜中なのかな……)
もう一度、目を閉じる。
そして開く。
暗い。
何も見えない。
(……おかしくない?)
この部屋は、カーテンを閉め切っていても完全な暗闇にはならない。
大都会ではないが、そこそこ賑やかな町だ。
道路には街灯があり、向かいには二十四時間営業のコンビニもある。
夜でも、カーテンの隙間からぼんやりと明かりが差し込む。
それなのに。
真っ暗なのだ。
早紀はゆっくりと身体を起こした。
手を伸ばす。
ベッドの感触と、足元のクッションの感触で、自分の部屋であることは間違いないとわかった。
でも、何も見えない。
(……嘘でしょ?)
ベッドから足を下ろし、手探りでサイドテーブルを探す。
指先がスタンドライトに触れた。
スイッチを押す。
カチッ。
カチッ。
何度押しても、光は見えなかった。
「……嘘」
自分の声が、やけに大きく聞こえた。
顔の前に手をかざしてみる。
何も見えない。
目をこする。
何度もまばたきをする。
それでも、何も変わらない。
「……見えない」
口に出した途端、全身が冷たくなった。
「私……目が見えない……?」
喉がからからだった。
とにかく水を飲もう。
壁に手を添え、一歩ずつ歩く。
何度も足をぶつけながら、ようやく冷蔵庫へたどり着いた。
扉を開ける。
冷気が顔に当たった。
冷蔵庫の中には明かりがつくはずだ。
だが、何も見えなかった。
手探りでミネラルウォーターを取り出し、口をつける。
冷たい水が喉を通る。
少しだけ落ち着いた。
(救急車……呼ばなきゃ)
早紀はベッドへ戻った。
スマートフォンを探す。
枕の下。
布団の中。
サイドテーブルの上。
何度探しても見つからない。
「どこに行ったのよ……!」
床にしゃがみ込み、手を伸ばす。
指先に埃がついた。
それでもスマートフォンには触れなかった。
外へ出て助けを求めることも考えた。
だが、最近、このアパートの周辺では見知らぬ人たちが夜遅くまで集まるようになっていた。
言葉も通じず、こちらを見ながら何やらひそひそ話していることもある。
不正な民泊でもやっているのではないかと、近所で噂になっていた。
もちろん、本当に危険な人たちなのかはわからない。
だが、目の見えない今の自分には、玄関から階段を下りることさえ恐ろしかった。
(七時……)
毎朝七時にはスマートフォンのアラームが鳴る。
その音を頼りに探せばいい。
いつも六時頃には自然に目が覚める。
きっと、あと少しだ。
幸い、頭も痛くない。
身体も動く。
早紀はベッドに腰を下ろした。
そして、じっと耳を澄ませた。
* * *
アラームは鳴らなかった。
どれほど待っただろう。
外から車の走る音が聞こえる。
遠くで犬が吠えている。
人の話し声もする。
きっともう朝なのだ。
いや、昼かもしれない。
時間がわからない。
時計も見えない。
スマートフォンも見つからない。
(充電が切れたんだ……)
昨夜は酔っていた。
充電器につながず、どこかへ放り出してしまったのだろう。
もう一度、探してみた。
やはり見つからなかった。
その日は、ほとんどベッドの上で過ごした。
何度も眠った。
目が覚めても、暗闇は変わらなかった。
* * *
翌日。
たぶん、日曜日。
早紀は冷蔵庫の前に座り込んでいた。
昨日、残っていたヨーグルトを食べた。
パンも一枚あったはずなのに、どうしても見つからない。
食べ物を探すだけで、こんなに大変だとは思わなかった。
袋の形を確かめ、匂いを嗅ぎ、指で触れる。
それでも、何がどこにあるのかわからない。
うっかり落としたものは、拾うのにも苦労した。
「……もう嫌」
涙がこぼれた。
昨日まで普通にできていたことが、何ひとつ満足にできない。
トイレに行くのも怖い。
お風呂なんて、とても入れない。
鏡に映る自分の顔さえ、もう見えないのだ。
三十一歳。
まだ三十一歳なのに。
(この先、どうなるんだろう……)
仕事は?
結婚は?
子どもは?
何十年も、この真っ暗な世界で生きていくのだろうか。
想像するだけで息が苦しくなった。
誰かに助けてほしかった。
でも、誰も来なかった。
* * *
月曜日。
今日は会社がある。
無断欠勤をすれば、きっと連絡が来る。
電話に出られなくても、何度もかけてくれるはずだ。
それでも連絡がつかなければ、誰かが家まで来てくれるかもしれない。
(お願い……早く来て……)
早紀は耳を澄ませた。
廊下を歩く足音。
階段を上る音。
隣の部屋の扉が閉まる音。
そのたびに身体を起こした。
しかし、チャイムは鳴らなかった。
実際、会社では早紀の欠勤を心配する声が上がっていた。
だが、金曜日の一件を知る同僚たちは、彼女の心情を察していた。
「片岡さん、よっぽどショックだったんでしょうね」
「昨日も連絡したけど、返事がないんですよ」
「そっとしておいてあげた方がいいんじゃない?」
早紀が無断欠勤をするような人間ではないことは、誰もが知っていた。
だからこそ、よほど傷ついているのだろうと考えた。
上司も、ひとまず休暇として扱うことにした。
誰も、彼女の部屋で何が起きているのか知らなかった。
* * *
火曜日。
早紀は、もう何日経ったのかわからなくなっていた。
食べ物はなくなった。
飲み物は、水道水だけになった。
蛇口をひねれば水が出る。
それだけが救いだった。
不思議なことに、空腹はそれほど感じなくなっていた。
最初の頃は、あんなにお腹が空いていたのに。
最近は、水を飲んでも喉の渇きが癒えた気がしない。
それでも、何度も蛇口をひねった。
水の流れる音がする。
その音だけが、自分がまだ生きている証拠のように思えた。
そして、その夜。
カサッ。
何かが動いた。
早紀は息を止めた。
カサカサ……。
床の上を、小さな何かが這っている。
(……ゴキブリ?)
ぞっとした。
見えていた頃なら、殺虫剤を持って追いかけることもできた。
だが、今はどこにいるのかわからない。
カサッ。
今度は近い。
「いや……」
思わず足をベッドの上に引き上げた。
カサカサ。
音がする。
足元なのか、壁なのか。
それとも、もうベッドの上にいるのか。
「いやあっ!」
早紀は悲鳴を上げた。
何かが肌に触れた気がした。
慌てて腕を払う。
布団を振り回す。
「来ないで! 来ないでよ!」
何も見えない。
どこにいるのかわからない。
何匹いるのかもわからない。
ただ、音だけがする。
カサカサ。
カサッ。
カサカサカサ……。
「助けて……」
早紀は膝を抱えた。
「誰か……助けてよ……」
声がかすれた。
誰も答えなかった。
* * *
それから、どれほど時間が経ったのだろう。
早紀はベッドに座ったまま、ぼんやりと考えていた。
どうして目が見えなくなったのか。
病気だろうか。
飲み過ぎたせいだろうか。
それとも。
ふと、金曜日の出来事を思い出した。
彼に腕を振り払われた。
転んだ。
頭を打った。
あのとき、確かに頭を強く打ったのだ。
(……あれが原因?)
頭の中で何かが切れたのかもしれない。
視神経が傷ついたのかもしれない。
詳しいことはわからない。
でも、あの転倒が原因なら、説明がつく。
「あいつのせいだ……」
声が漏れた。
「あいつが、私を……」
怒りが湧いてきた。
三年間付き合って、最後はあんな別れ方。
そのうえ、目まで見えなくなった。
「……許さない」
そうつぶやいた。
けれど、怒りは長く続かなかった。
疲れていた。
何もかもが、どうでもよくなり始めていた。
眠っているのか、起きているのかもわからない。
朝も夜もない。
ただ、真っ暗な世界が続いている。
いつしか早紀は、声を出すことさえ少なくなっていた。
* * *
水曜日の午後。
会社では、さすがに心配する声が強くなっていた。
「やっぱり、おかしいですよ」
金曜日に早紀を居酒屋へ誘った同僚の美香が言った。
「片岡さん、どんなに落ち込んでても、無断欠勤するような人じゃないです」
「電話もつながらないんだよな」
「電源が切れてるみたいです」
美香は唇を噛んだ。
あの日、早紀は頭を打っていた。
病院へ行くよう勧めたのに、大丈夫だと笑っていた。
その笑顔を思い出すと、胸がざわついた。
「私、家に行ってきます」
上司も反対しなかった。
管理会社に連絡を入れ、事情を説明した。
そして、美香は早紀のアパートへ向かった。
* * *
カツン。
カツン。
廊下から足音が聞こえた。
早紀は顔を上げた。
誰かが近づいてくる。
足音が止まった。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
「……!」
早紀は跳ね起きた。
「片岡さん! いますか?」
聞き覚えのある声だった。
「美香ちゃん!?」
慌てて立ち上がる。
「いる! いるよ! 助けて!」
玄関へ向かおうとして、足を家具にぶつけた。
痛みを気にしている場合ではなかった。
「片岡さん!」
もう一度、声がする。
「今、開けるから!」
早紀は叫んだ。
だが、鍵の位置がわからない。
焦るほど、手が震えた。
そのとき。
ガチャリ。
鍵の開く音がした。
管理会社の人が開けてくれたのだろう。
扉が開く。
「片岡さん、入りますよ!」
美香の声。
早紀は心の底からほっとした。
やっと。
やっと助けが来た。
「美香ちゃん!」
声のする方へ手を伸ばした。
「よかった……私、目が見えなくなっちゃって……」
その瞬間だった。
「……え?」
美香の声が止まった。
数秒の沈黙。
そして。
「きゃああああああっ!」
耳をつんざく悲鳴が響いた。
早紀はびくりとした。
「どうしたの!?」
返事はない。
美香は泣きながら、誰かを呼んでいた。
「救急車! 救急車を呼んでください!」
「どうしたんですか!?」
「片岡さんが……片岡さんが……!」
早紀は困惑した。
(何言ってるの?)
(私なら、ここにいるじゃない)
美香の肩に触れようとした。
だが、手応えがない。
もう一度、手を伸ばす。
何も触れない。
(……え?)
そのときだった。
今まで真っ暗だった世界に、ぼんやりと何かが浮かび上がった。
最初は灰色の影だった。
やがて、それが部屋の輪郭になった。
サイドテーブル。
ベッド。
床に転がったクッション。
そして。
ベッドの上に、一人の女性が横たわっていた。
着替えもせず、金曜日に着ていた服のまま。
青白い顔。
閉じたままの目。
動かない胸。
早紀は、その顔を知っていた。
毎朝、鏡の中で見ていた顔だった。
(……私?)
ベッドとサイドテーブルの隙間には、スマートフォンが落ちていた。
画面は真っ黒だった。
もう何日も、充電が切れたままだった。
早紀はゆっくりと、自分の身体を見つめた。
思い出した。
金曜日の夜。
帰宅して、ベッドに倒れ込んだ。
頭がひどく痛かった。
吐き気もした。
少しだけ休もうと思った。
それが最後だった。
(……そうか)
ようやく、わかった。
自分は、目が見えなくなったのではない。
あの日、死んでいたのだ。
水を飲んだと思っていた。
食べ物を探していた。
ゴキブリの音に怯えた。
何日も何日も、助けを待っていた。
けれど、それはすべて。
自分がまだ生きていると信じていた、早紀だけの世界だった。
美香の泣き声が聞こえる。
「ごめんなさい……片岡さん……ごめんなさい……」
早紀は、そちらを向いた。
(美香ちゃん、泣かないで)
声は届かなかった。
不思議だった。
自分が死んでいたとわかったのに、思っていたほど怖くなかった。
悲しくないわけではない。
生きていたかった。
まだ三十一歳だった。
やりたいことも、行きたい場所も、たくさんあった。
結婚だってしたかった。
子どもを産んで、家族を作って。
そんな当たり前の未来を、夢見ていた。
もう、何ひとつ叶わない。
そう思うと、胸が締めつけられるようだった。
それなのに。
心のどこかで、ほっとしている自分がいた。
(……そっか)
(もう、あの暗闇で生きていかなくてもいいんだ)
もし、本当に失明していたのなら。
これから何十年も、光のない世界で生きていかなければならなかった。
朝日も。
青い空も。
桜も。
紅葉も。
誰かの笑顔も。
もう二度と見ることができない。
昨日まで当たり前だった世界を失ったまま、何十年も生きていく。
それが怖かった。
何よりも、怖かった。
死んでしまったことは悲しい。
悔しい。
でも、もう明日を怖がらなくてもいい。
そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
そして、ふと、彼のことを思い出した。
(……あの人、どうなるんだろう)
会社の前で、大勢が見ていた。
彼は私の腕を振り払った。
私は転んで、頭を打った。
それが原因で死んだとわかったら。
彼はどうなるのだろう。
殺人犯とまでは言われなくても、罪に問われるかもしれない。
たとえ罪にならなくても、あの日のことを見ていた同僚たちは忘れないだろう。
会社に居続けるのは難しいかもしれない。
そして、彼が好きになったという女性は。
すべてを知っても、彼を愛するのだろうか。
それとも。
(……ふふ)
早紀は少しだけ笑った。
意地の悪い考えだとは思った。
でも、最後くらい、そんなことを考えてもいいだろう。
もう答えを知ることもないのだから。
美香の泣き声が、少しずつ遠ざかっていく。
救急車のサイレンが聞こえた気がした。
誰かが自分の名前を呼んでいる。
早紀は、もう一度だけ部屋を見渡した。
見慣れた家具。
お気に入りのクッション。
いつも寝転がっていたベッド。
ずっと、ここで暮らしていた。
そして、ここで人生が終わった。
(……さようなら)
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。
部屋の輪郭が、ゆっくりと薄れていく。
音も、遠ざかっていく。
悲しかった。
とても悲しかった。
それでも、どこか安堵していた。
もう、光を取り戻そうと必死にならなくてもいい。
もう、誰かが助けに来るのを待たなくてもいい。
早紀は静かに目を閉じた。
そして、ほんの少しの安堵と、消えることのない悲しみを抱いたまま。
すべての音が消えた、その先の――
本当の闇へと、ゆっくり沈んでいった。




