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婚約破棄の書類に不備があったので、王太子殿下に差し戻しました

掲載日:2026/10/13

「エレオノーラ・フォルスター! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」


建国記念の夜会。楽団の弦が、曲の途中でぷつりと止まった。


大広間の中央で、王太子ジェラルド殿下が一枚の紙を高々と掲げている。

その左腕には、桃色のドレスの令嬢がしがみついていた。男爵家のミレイユ・ボネ嬢だ。


「ミレイユへの数々の嫌がらせ、もはや見過ごせん。これが婚約破棄届だ。受け取れ!」


紙が、私の胸元に突きつけられる。


視線が一斉に集まった。扇で口元を隠す夫人たち。グラスを持ったまま固まる紳士たち。

泣くか、縋るか、取り乱すか。誰もがそれを待っている。


私は両手で、丁寧に紙を受け取った。

それから、ドレスの隠しポケットから愛用の羽ペンを抜いた。


「拝見いたします」


「……は?」


殿下の口が、半開きのまま止まった。


ミレイユ嬢が、殿下の袖をくいくいと引く。

「ジェラルド様、あの方、どうしてペンなんて……」

「知るか」


周りの貴族たちも、顔を見合わせている。

婚約破棄を突きつけられた令嬢が、羽ペンを構えて紙を読み始める。たしかに、あまり見ない光景だとは思う。


でも、紙を渡されたら読む。読んだら審査する。

それが、私の六年間の毎日だった。


◇


この国では、貴族の婚約は「王宮文書局」に届け出て、はじめて成立する。

解消も同じだ。文書局が届を受理した瞬間に、婚約は消える。


そして夜会の間、急ぎの届出を受け付ける夜間当番は――今夜、私だった。


王宮文書局、二等書記官。エレオノーラ・フォルスター。勤続六年。

夜会が終わったら局へ戻って、未決箱の書類を片付けるつもりだった。だから羽ペンも、差戻印も、ちゃんと持ってきている。


「本来でしたら、当事者の私は審査から外れるべきなのですが」


「な、何を言っている」


「あいにく本日の夜間当番は、私ひとりでして」


ペン先をインクに浸す。指先に馴染んだ重さが、すっと気持ちを平らにしてくれる。


「文書局規定第四十二条の但し書きにより、代わりの者がいない場合は、当事者でも一次審査を行えます。もちろん、その旨は記録に残ります」


「そんな規定、聞いたことがないぞ」


「殿下が三年前に決裁された規定です」


会場のどこかで、誰かが小さく噴き出した。


殿下の頬が赤くなる。けれど、私の目はもう紙の上にあった。


正直に言えば、この紙は私にとって、少しだけありがたいものでもある。

婚約が続けば、来年の春に婚礼だ。王太子妃は官職を兼ねられない。私は文書局を辞めることになっていた。


六年間、好きで好きでたまらなかった仕事を。


朝いちばんに、未決箱の書類を机に積む。インク壺は三つ。黒と、赤と、予備の黒。ペン先は十二本を磨いて並べておく。

一枚ずつ審査して、正しい書類に受理印を押す。夕方、未決箱の底が見えたときの、あの軽さ。


あれを手放すのが、本当は少しだけ惜しかった。


――いや。今は審査中だ。私情は余白に書かない。


◇


書類は、頭から一行ずつ読まない。まず、紙の全体を一度に見る。


不備のある書類は、どこか一か所だけ、紙から浮いて見える。インクが濃すぎる。行が詰まりすぎる。書き手が焦ったり、ごまかしたりした場所は、必ずそこだけ浮き上がる。


この紙は、浮いている場所が三つあった。


まずは、いちばん上から。


「相手方氏名の欄ですが」


私は羽ペンの尻で、該当の行を指した。


「『エレノア・フォルスター』と書かれています」


「それがどうした」


「私の名前は、エレオノーラです」


一拍。


大広間が、しんと静まり返った。


「……ジェラルド殿下、ご婚約は十年でしたわよね?」

「十年で、お名前を……」


夫人たちのささやきが、波のように広がっていく。

殿下が慌てて紙を覗き込んだ。ミレイユ嬢も一緒に覗き込んで、それから気まずそうに目を逸らした。


「ほ、ほとんど同じだろう! 細かいことを言うな!」


「そういえば」


私は、ふと思い出した。


「毎年いただいていた誕生日のお手紙も、宛名が『エレノア』でした。代筆の方の書き癖かと思っておりましたが」


「……っ」


「十年分、十通。すべて、局の私物棚に保管してございます」


夫人たちの扇が、一斉にぱたぱたと動き出した。

今度のささやきは、もう誰も声を落としていなかった。


「氏名が一致しない届は、別人に対する届として扱われます」


私は淡々と続けた。


「このまま受理いたしますと、殿下は『エレノア・フォルスター』という、存在しないご令嬢との婚約を破棄されることになります」


「……」


「なお、私との婚約は継続します」


殿下の顔から、すうっと血の気が引いた。


私は紙を、きっちり殿下の方へ向けて差し出した。


「差し戻しです」


◇


「貸せ!」


殿下は紙をひったくった。書き直そうとして、手元に何もないことに気づく。きょろきょろと周りを見回す。


夜会にペンを持ってくる者は、普通いない。


私は、黙って羽ペンを差し出した。


殿下は一瞬ためらってから、それを奪うように受け取った。二重線を引き、横に『エレオノーラ』と書き込む。


「訂正印もお願いします」


「……印など持っていない」


「でしたら、署名で代用できます。訂正箇所の横に、殿下のお名前を」


殿下は歯ぎしりしながら署名した。

インクが少し跳ねた。私は見なかったことにした。


「これで文句はないな!」


「次の箇所を拝見します」


「次!?」


二つ目に浮いていたのは、破棄理由の欄だった。


『九月十二日、午後二時頃。王宮西庭園の噴水前にて、ミレイユ・ボネ嬢を突き飛ばし、噴水へ転落させた』


整った字だった。殿下の字ではない。きっと側近の誰かに代筆させたのだろう。

日付と時刻と場所まで、きちんと揃っている。書類としては、とても良い書き方だ。


内容が事実なら、の話だけれど。


「九月十二日、午後二時」


私は読み上げた。


「その時刻、私は文書局の第三執務室におりました」


「嘘をつくな! ミレイユは確かに突き飛ばされたのだ!」


「わ、わたし、本当に怖くて……」


ミレイユ嬢が、殿下の腕に顔をうずめる。

同情の目が、ちらほらと彼女に向いた。


私はうなずいた。


「では、確認いたしましょう。文書局の出勤簿は公文書です。入室と退室の時刻は、局長と警備兵の二名で確認しております」


「そんなもの、いくらでも――」


「間違いございませんぞ」


しゃがれた声が、人垣の後ろから割って入った。


白い髭の小柄な老人が、杖をつきながら進み出てくる。文書局長のグスタフ老だ。

夜会の端で、ずっと葡萄酒をなめていたらしい。


「九月十二日なら、よう覚えとります。その日の午後、フォルスター君は第三執務室から一歩も出とらん。わしが入退室の判を押しました」


「局長……」


「自分もです!」


今度は、広間の扉の脇から声が上がった。

槍を持った若い警備兵が、真っ赤な顔で直立している。


「九月十二日、第三執務室前の当番は自分でありました! フォルスター書記官殿は、昼食も机でパンを召し上がっておられました!」


「余計なことまで言わなくてよろしい」


私が小声で言うと、警備兵は「はっ」と言って、さらに背筋を伸ばした。


「それにな、殿下」


局長は、片眉を上げて殿下を見た。


「その時刻に彼女が清書しておったのは、殿下ご自身の決裁書類ですぞ。南部街道の補修予算案、四十二枚」


会場が、ざわりと揺れた。


「殿下の書類を、婚約者が……?」

「清書? 王太子のお仕事を?」


殿下の耳が、真っ赤になっていく。


「そ、それは! あれは、文書局の仕事だろう! そいつが勝手にやっただけだ!」


「はい。仕事ですので」


私はうなずいた。何か間違ったことを言われた気はしなかった。


「話を戻します。破棄理由の欄に、事実と異なる記載がある場合――」


ペン先で、該当の行をとんと叩く。


「王国法第百十八条により、虚偽記載として扱われます。罰せられるのは、届の提出者です」


「提出者……」


「はい。殿下です」


誰も、何も言わなかった。


楽団の誰かが、弓を床に落とした。からん、という音が、やけに大きく響いた。


「なお、申立日時の訂正でしたら、この場で受け付けます。ミレイユ様、正しい日時をお教えいただけますか?」


「え」


ミレイユ嬢が顔を上げた。

目が泳いでいる。右へ、左へ、それから殿下の顔へ。


「えっと……十二日、じゃなくて……十一日? いえ、十三日だったかも……」


「十一日は休局日で、私は実家におりました。十三日は終日、殿下の外遊日程表を作っておりました」


「……」


「それから、念のため申し添えますと」


私は、ついでに思い出したことを口にした。


「九月の第二週、西庭園の噴水は、清掃のために水を抜いておりました。庭園管理課の清掃届を、私が受理しましたので」


「……水が、ない?」


誰かが、ぽつりと繰り返した。


水のない噴水に突き落とされたなら、ミレイユ嬢は今ごろ、こんなふうに夜会で踊ってはいられないはずだ。

広間の何人かが、ミレイユ嬢のつま先から頭のてっぺんまでを、ゆっくりと眺めた。かすり傷ひとつない。


「訂正は、なさらないということでよろしいですか?」


ミレイユ嬢は、何も答えなかった。


私は、紙を殿下へ向けた。


「差し戻しです」


◇


殿下は、破棄理由の欄に何重にも線を引いた。

紙の上で、そこだけ真っ黒な四角になる。


「理由など後で書き直す! とにかく、婚約を破棄するという意思は明白だろう!」


「承知しております。では、三つ目の箇所を」


「まだあるのか!?」


あるのだ。いちばん大きいのが。


私は紙の右下、空白のままの欄を指した。


「承認欄です」


「承認……?」


「十年前、私たちの婚約は、国王陛下の勅許によって結ばれました」


殿下が、はっと目を見開いた。


「勅許による婚約を破棄するには、国王陛下の副署が必要です。この欄が空白のままでは、届として成立いたしません」


「ち、父上には後で話す!」


殿下の声が裏返った。


「いいから受理しろ! これは王太子の命令だ!」


会場の空気が、ぴんと張りつめた。


王太子の命令。書記官ひとりが、逆らえるものではない。

誰もがそう思ったのだろう。気の毒そうな視線が、今度は私に集まった。


私は少しだけ考えて、それからうなずいた。


「承知いたしました。受理いたします」


「……ふん。最初からそうすればいいのだ」


殿下の口元が、勝ち誇ったように緩む。


私は、ドレスの隠しポケットから、もうひとつの印を取り出した。

朱肉の蓋を開ける。


「では、こちらを押しますね」


「なんだ、それは」


「『不備あり』の印です」


殿下の笑みが、止まった。


「不備のある届を、命令によって受理する場合の規定がございます。届には『不備あり』の印を押し、不備の内容を明記したうえで、陛下の御前に回送いたします」


「……回送」


「はい。そして、この記録は」


印を、紙の上にかざす。


「提出者の公務記録として、永年保存となります」


「永年……?」


「はい。殿下が国王になられた後も、殿下のお孫様の代になっても、どなたでも閲覧可能です」


私は付け加えた。


「名前の書き間違いと、虚偽の理由と、承認欄の空白。三点とも、丁寧に記載いたします」


朱肉の匂いが、つんと鼻をついた。


印を、紙に向かって下ろしていく。


指三本ぶん。


殿下の喉が、ごくりと鳴った。


指二本ぶん。


人垣の後ろで、殿下の側近がひとり、そろそろと出口の方へ後ずさっていくのが見えた。理由欄を代筆した人だろう。


指一本ぶん。


「待て」


殿下の手が、私の手首の上で止まった。触れはしなかった。触れる直前で、ぶるぶると震えていた。


「……押すな」


「では、取り下げますか?」


「取り下げは、しない!」


殿下は、紙を奪い返した。


「理由を書き直す。それなら文句はないのだろう!」


◇


殿下は、私の羽ペンでがりがりと書いた。

覗き込もうとしたミレイユ嬢を、手で押しのけて。


突き返された紙の、理由欄の黒い四角の下。


『真実の愛を見つけたため』


ああ。

今夜はじめて、紙が浮いていない行だ。


「拝見しました。こちらは、受理可能な理由です」


「そうだろう!」


殿下が、ぱっと顔を輝かせる。

ミレイユ嬢も、殿下の腕にぎゅっと抱きついた。


「ただし、この理由の場合」


私は続けた。


「婚約解消の責は、殿下の側にございます」


「……責?」


「十年前の婚約の条件として、フォルスター伯爵家は、北部の治水工事費として金貨三万枚を、王家に無利子でお貸ししております」


会場の奥で、がしゃん、と音がした。

財務卿が、グラスを取り落としたのだ。


「契約書の第七条によれば、婚約が王家側の責によって解消された場合、貸付金は即時、一括でご返済いただくことになっております」


「さ、三万……」


「加えて、婚約不履行の慰謝料が、規定により金貨五千枚」


私は指を折った。


「合計、金貨三万五千枚。お支払い期限は、届の受理から三十日以内です」


殿下は、口を開けたまま固まった。


財務卿が、人垣をかき分けて真っ青な顔で飛んでくる。

「で、殿下、今年度の予備費は、もう八千枚しか――」

小声のつもりだったのだろうけれど、静まり返った大広間では、端までよく聞こえた。


「ぶ、分割だ! 分割にすればいいだろう!」


殿下が叫んだ。


「分割払いの申請は、様式第九号です」


私は、すらすらと答えた。


「添付書類は、王家の資産目録、二十年分の返済計画書、保証人二名の署名、それから財務卿の意見書が必要です。お急ぎでしたら、明朝九時から受け付けております」


「……」


「よろしければ、記入例もお付けします」


殿下は、何か言おうとして、やめた。

財務卿は、両手で顔を覆っていた。


ミレイユ嬢が、そっと殿下の腕から手を離した。


「え……王家って、お金、ないんですか……?」


誰も答えなかった。


ミレイユ嬢は、一歩、二歩と後ずさった。


「わ、わたし、ちょっと気分が……失礼しますっ」


桃色のドレスが、人垣の隙間へ吸い込まれていく。

殿下は、それを目で追うことさえしなかった。


◇


「――その届、余が見よう」


低い声が、大広間に落ちた。


殿下の肩が、びくりと跳ねた。

財務卿が、顔を覆っていた両手を、そろそろと下ろした。


人垣が、海が割れるように左右へ引いていく。

その奥から歩いてきたのは、国王陛下だった。


そして、陛下の半歩後ろに、銀縁の眼鏡をかけた長身の青年が控えていた。宰相補佐官のアルベルト・ローゼン様だ。

騒ぎが始まってすぐに、陛下を呼びに走ってくれていたらしい。


広間じゅうの貴族が、一斉に膝を折る。私もドレスの裾をつまんで、深く礼をした。


「ち、父上! これは、その、エレオノーラが――」


「黙っておれ」


陛下は殿下の手から紙を取り上げた。


二重線。殿下の殴り書きの署名。黒く塗りつぶされた四角。『真実の愛』。空白の承認欄。

陛下は、それを長いあいだ黙って見つめていた。


「……ジェラルド」


「は、はい」


「お前、この三年、決裁書類で一度も差し戻されたことがなかったな」


「はい! それは、私の実力で――」


「全部、この娘が直しておったのだ」


殿下の言葉が、喉の途中で止まった。


陛下は、局長の方へ顎をしゃくった。局長が、杖をついて一歩前に出る。


「申し上げます。殿下名義の書類は、提出前にすべて一度、フォルスター書記官の机を通っております」


局長は、指を一本ずつ立てるような口調で言った。


「三年で、四千二百十七件。誤字の訂正、計算の検算、添付漏れの補充。彼女は、それを昼の休憩と終業後の時間で片付けておりました。差し戻し率は――」


局長は、ちらりと殿下を見た。


「ゼロでございます」


会場が、どよめいた。

今度のどよめきは、さっきまでとは違う色をしていた。


「四千件……?」

「休憩時間で……?」

「では、殿下の『差し戻しなし』の評判は……」


「待て、では去年の外遊日程表も、か」


人垣の中から、外務卿が呆然とつぶやいた。


「あれは見事だった。三か国、十九日間、移動の待ち時間が一刻もなかった。殿下に作成者を尋ねたら、『私が考えた』と……」


外務卿の隣で、騎士団長が腕を組んだ。


「北部遠征の糧食表もそうだろう。あの年だけ、一袋も腐らせずに帰ってこられた。おかしいと思っていたのだ」


声が、あちこちから上がり始めた。

あの予算書も、あの議事録も、あの招待状の席次表も。名前が出るたびに、殿下の肩が少しずつ下がっていく。


ひそひそ声の中で、殿下は立ち尽くしていた。

自分の功績だと思っていたものが、目の前でひとつずつ剥がれていくのを、ただ見ていた。


私は、少しだけ居心地が悪かった。

四千二百十七件。数えていたのは知らなかった。私はただ、座りの悪い数字を見ると、直さずにいられないだけなのだ。


陛下が、深く息を吐いた。


「……余は、なんというものを、手放させるところだったのか」


紙を持つ陛下の指先が、かすかに震えていた。


「フォルスター書記官」


「はい」


「愚息が、長く世話をかけた。何か望みはあるか。爵位でも、褒賞でも、言うてみよ」


広間じゅうが、息を詰めて私の答えを待った。


私は少し考えた。爵位はいらない。褒賞も、思いつかない。


「明日も、出勤させていただければ、それで」


一拍、間があった。


「……それだけか」


「はい。未決箱に、まだ二十三件残っておりますので」


陛下は、目を閉じて天井を仰いだ。

局長が、髭の下で肩を震わせて笑っていた。


「アルベルト。ペンを」


「は」


ローゼン様が差し出したペンで、陛下は承認欄に、ゆっくりと署名した。

王家の印章が、私の目の前で押される。


「フォルスター書記官。これで、不備はないか」


「……拝見いたします」


私は紙を受け取り、もう一度、全体を一度に見た。


名前は正しい。理由は事実だ。承認欄は埋まっている。

どこも、浮いていない。


「不備はございません。受理いたします」


文書局の受理印を、まっすぐに押した。


朱が、紙に沈む。

印を持ち上げる。

文書局の紋章が、少しのかすれもなく、くっきりと残っていた。


その瞬間、十年続いた婚約は、一枚の紙の上で終わった。


不思議なくらい、手は震えなかった。

十年分の何かが、肩からすとんと落ちた気がした。代わりに残ったのは、いつもの仕事を一件終えたときの、あの軽さだった。


◇


「ま、待ってくれ!」


殿下が叫んだ。


「撤回する! エレオノーラ、婚約破棄は撤回だ! 今のは、その、何かの間違いで――」


私は、腰に下げた懐中時計の蓋を開けた。


そのとき、大広間の大時計が鳴り始めた。

ごおん、と一つ目の鐘。


「破棄の撤回届は、様式第十二号です」


二つ目の鐘。


「ただ、申し訳ございません、殿下」


三つ目。


私は時計の蓋を閉じ、深く一礼した。


「夜間受付は、ただいま午前零時をもって終了いたしました」


十二の鐘が鳴り終わるまで、誰ひとり、口を開かなかった。


最後の鐘の余韻が消えたとき、殿下は、その場にずるずると座り込んだ。

誰も、手を貸さなかった。


私は羽ペンのインクを拭い、差戻印と受理印を、ハンカチに包んでポケットへ戻した。

今夜の審査は、これで一件、完了だ。


「では、私はこれで失礼いたします。局に、未決の書類が残っておりますので」


もう一度、陛下に深く礼をする。

くるりと背を向けたとき、背中のほうで、誰かがひとり、小さく手を叩いた。


ひとつ、またひとつ。

扉にたどり着くころには、それは大広間いっぱいの拍手になっていた。


振り返りはしなかった。仕事を終えて帰るだけの人間に、拍手は少し大げさすぎる。


◇


その後のことは、人伝てに聞いた。


金貨三万五千枚は、王家の私財から二十年の分割で返されることになった。

殿下の王位継承について、来月の評議会で「見直し」が議題に上るらしい。

ミレイユ嬢は、翌朝いちばんの馬車で男爵領へ帰ったそうだ。

理由欄を代筆した側近は、自分から辞表を出した。辞表の書式は、完璧だったと聞いている。


殿下は、陛下の命令で、来月から一年間、文書局で書類の書き方を一から学ぶことになった。

担当は、局長のグスタフ老。私ではない。局長が「当事者は外れるべきだからの」と、にやにやしながら決めた。


会いには、行っていない。行く用事も、特にない。


◇


大広間を後にして、私はまっすぐ文書局へ戻った。


誰もいない第三執務室。ランプを一つ灯すと、机の上の未決箱が、黄色い光の中に浮かび上がった。

今夜の分は、まだ二十三件残っている。


ドレスの上から事務用の上着を羽織り、羽ペンを持ち直した。

来年の春に辞めなくていい。そう思うと、未決箱の山が、少しも重く見えなかった。


一件目は、東の村の水車小屋の修繕届。見積もりの合計が、銀貨二枚ぶんだけ座りが悪い。

付箋を一枚、ぺたりと貼る。


二件目は、新しく開く菓子店の営業届。書式は完璧だった。受理印を押すと、紙の上に、店の名前がくっきりと立ち上がった。

春になったら、この店に行ってみよう。そんなことを考えたのは、ずいぶん久しぶりだった。


扉が、控えめに二度鳴った。


「失礼します。まだお仕事中でしたか」


ローゼン様だった。夜会服のまま、手に一枚の紙を持っている。


「受付時間は終了しておりますが」


「存じています。審査ではなく、事前の確認をお願いしたくて」


ローゼン様は、紙を机の上に置いた。


様式第三号。婚約申込書。


申込者の欄に、几帳面な字で『アルベルト・ローゼン』とある。

相手方の欄には――『エレオノーラ・フォルスター』。綴りは、一字も間違っていなかった。


私は顔を上げた。


「……これは」


「三年前の冬を、覚えていますか」


ローゼン様は、少しだけ眼鏡の位置を直した。


「私が作った北部の配給計画書に、あなたが付箋を一枚貼って返してくださった。『この欄、数字の座りが悪いです』と」


「……申し訳ありません。覚えておりません」


「でしょうね。あなたは毎日、何十枚も付箋を貼っていますから」


ローゼン様は、小さく笑った。


「桁が、一つずれていたんです。あの付箋がなければ、北部の村で二千人分の小麦が足りなくなるところでした。あの冬、誰も飢えずに済んだのは、あなたの付箋一枚のおかげです」


「それは」


私は少し考えてから、正直に答えた。


「数字の座りが悪かっただけです」


「あれから、局から戻ってくる私の書類には、ときどきあなたの付箋が付いていました」


ローゼン様は、上着の内ポケットから、小さな紙の束を取り出した。

色あせた黄色い付箋が、きっちり角を揃えて重ねてある。


「三年で、四十七枚。全部、取ってあります」


「……捨ててください、そういうものは」


「嫌です」


即答だった。

私は、なんと返していいか分からず、インク壺の蓋を意味もなく開けたり閉めたりした。


「付箋が来るたびに、直して、出し直しました。四十八枚目が来ない書類を作るのが、いつの間にか目標になっていた」


ローゼン様は、付箋の束を大事そうに内ポケットへ戻した。


「ええ。だから、この書類は、あなたに見ていただきたかった」


ローゼン様は、申込書の上にそっと指を置いた。


「この書類も、座りが悪いところはありますか」


私は紙を見た。全体を、一度に。


それから、今夜の殿下の届と同じ順番で、一つずつ確かめていった。


まず、相手方氏名。『エレオノーラ・フォルスター』。伯爵家の正式な綴りで、家名の後ろの小さな飾り文字まで正しい。そこまで書ける人は、局の中にもほとんどいない。


次に、申込理由。短く、『生涯、隣で書類を見ていたいため』とある。

事実と異なる記載かどうかは、私には判断できなかった。ただ、紙のどこにも、ごまかしの跡はなかった。

添付書類の欄には、宰相補佐官の妻は官職を兼ねられる旨の、規定の写しまで付いていた。


「……第五十一条」


「確認済みです。あなたが、局を辞めずに済むように」


そして、右下の承認欄。

そこにはもう、見覚えのある署名と、王家の印章が押されていた。


「陛下の副署まで、すでに」


「先ほど、ついでに」


「ついでに」


「陛下がペンをお返しくださるときに、こちらも一緒に差し出しました。陛下は中身を一度ご覧になって、『次は逃がすな』とだけおっしゃって、署名してくださいました」


ローゼン様は、真顔のまま付け加えた。


「書式に不備があったら、陛下に恥をかかせるところでした。三回、書き直しています」


ついでに、で頂くものではない。私は少しだけ呆れて、それから自分の口元が緩んでいるのに気づいた。


どこも、浮いていなかった。

今夜見た中で、いちばん静かな紙だった。


「不備は、ありません」


「では、受理していただけますか」


私は、懐中時計を見た。午前零時四十分。


「受付時間外です」


「承知しています」


ローゼン様は、少しも残念そうな顔をしなかった。この人は、規定を守る人間が好きなのだと思う。私と同じで。


私は申込書を両手で持ち上げ、未決箱の、いちばん上にそっと置いた。


「ですので、明朝、いちばん最初に審査いたします」


ランプの光の中で、ローゼン様が眼鏡の奥の目を細めた。


「お待ちしています」


翌朝。私は始業の鐘より一時間早く、文書局の扉を開けた。


未決箱のいちばん上で、一枚の紙が、少しも浮かずに私を待っていた。


(完)


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― 新着の感想 ―
途中まで良かったんだけど最後がなー…… 別に新しい婚約者なんていらんと思う 話としてはその前のウキウキ仕事してるとこで終わっても充分かと
口ではちゃんと名前が言えているのに字では毎回間違えていたと言うのはどういう事? スペルが違っていたと言うことかな? それと、名前の訂正で押印がないから署名でとあるけど、それだと氏名欄に名前が二つ書かれ…
仕事人の鏡♪でした。 書類って精神的に疲れるんですよね。何度も確認したのに間違っているのが出て来たときは、思わず「ウソだろ?」と呟いたモノです。
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