婚約破棄の書類に不備があったので、王太子殿下に差し戻しました
「エレオノーラ・フォルスター! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
建国記念の夜会。楽団の弦が、曲の途中でぷつりと止まった。
大広間の中央で、王太子ジェラルド殿下が一枚の紙を高々と掲げている。
その左腕には、桃色のドレスの令嬢がしがみついていた。男爵家のミレイユ・ボネ嬢だ。
「ミレイユへの数々の嫌がらせ、もはや見過ごせん。これが婚約破棄届だ。受け取れ!」
紙が、私の胸元に突きつけられる。
視線が一斉に集まった。扇で口元を隠す夫人たち。グラスを持ったまま固まる紳士たち。
泣くか、縋るか、取り乱すか。誰もがそれを待っている。
私は両手で、丁寧に紙を受け取った。
それから、ドレスの隠しポケットから愛用の羽ペンを抜いた。
「拝見いたします」
「……は?」
殿下の口が、半開きのまま止まった。
ミレイユ嬢が、殿下の袖をくいくいと引く。
「ジェラルド様、あの方、どうしてペンなんて……」
「知るか」
周りの貴族たちも、顔を見合わせている。
婚約破棄を突きつけられた令嬢が、羽ペンを構えて紙を読み始める。たしかに、あまり見ない光景だとは思う。
でも、紙を渡されたら読む。読んだら審査する。
それが、私の六年間の毎日だった。
◇
この国では、貴族の婚約は「王宮文書局」に届け出て、はじめて成立する。
解消も同じだ。文書局が届を受理した瞬間に、婚約は消える。
そして夜会の間、急ぎの届出を受け付ける夜間当番は――今夜、私だった。
王宮文書局、二等書記官。エレオノーラ・フォルスター。勤続六年。
夜会が終わったら局へ戻って、未決箱の書類を片付けるつもりだった。だから羽ペンも、差戻印も、ちゃんと持ってきている。
「本来でしたら、当事者の私は審査から外れるべきなのですが」
「な、何を言っている」
「あいにく本日の夜間当番は、私ひとりでして」
ペン先をインクに浸す。指先に馴染んだ重さが、すっと気持ちを平らにしてくれる。
「文書局規定第四十二条の但し書きにより、代わりの者がいない場合は、当事者でも一次審査を行えます。もちろん、その旨は記録に残ります」
「そんな規定、聞いたことがないぞ」
「殿下が三年前に決裁された規定です」
会場のどこかで、誰かが小さく噴き出した。
殿下の頬が赤くなる。けれど、私の目はもう紙の上にあった。
正直に言えば、この紙は私にとって、少しだけありがたいものでもある。
婚約が続けば、来年の春に婚礼だ。王太子妃は官職を兼ねられない。私は文書局を辞めることになっていた。
六年間、好きで好きでたまらなかった仕事を。
朝いちばんに、未決箱の書類を机に積む。インク壺は三つ。黒と、赤と、予備の黒。ペン先は十二本を磨いて並べておく。
一枚ずつ審査して、正しい書類に受理印を押す。夕方、未決箱の底が見えたときの、あの軽さ。
あれを手放すのが、本当は少しだけ惜しかった。
――いや。今は審査中だ。私情は余白に書かない。
◇
書類は、頭から一行ずつ読まない。まず、紙の全体を一度に見る。
不備のある書類は、どこか一か所だけ、紙から浮いて見える。インクが濃すぎる。行が詰まりすぎる。書き手が焦ったり、ごまかしたりした場所は、必ずそこだけ浮き上がる。
この紙は、浮いている場所が三つあった。
まずは、いちばん上から。
「相手方氏名の欄ですが」
私は羽ペンの尻で、該当の行を指した。
「『エレノア・フォルスター』と書かれています」
「それがどうした」
「私の名前は、エレオノーラです」
一拍。
大広間が、しんと静まり返った。
「……ジェラルド殿下、ご婚約は十年でしたわよね?」
「十年で、お名前を……」
夫人たちのささやきが、波のように広がっていく。
殿下が慌てて紙を覗き込んだ。ミレイユ嬢も一緒に覗き込んで、それから気まずそうに目を逸らした。
「ほ、ほとんど同じだろう! 細かいことを言うな!」
「そういえば」
私は、ふと思い出した。
「毎年いただいていた誕生日のお手紙も、宛名が『エレノア』でした。代筆の方の書き癖かと思っておりましたが」
「……っ」
「十年分、十通。すべて、局の私物棚に保管してございます」
夫人たちの扇が、一斉にぱたぱたと動き出した。
今度のささやきは、もう誰も声を落としていなかった。
「氏名が一致しない届は、別人に対する届として扱われます」
私は淡々と続けた。
「このまま受理いたしますと、殿下は『エレノア・フォルスター』という、存在しないご令嬢との婚約を破棄されることになります」
「……」
「なお、私との婚約は継続します」
殿下の顔から、すうっと血の気が引いた。
私は紙を、きっちり殿下の方へ向けて差し出した。
「差し戻しです」
◇
「貸せ!」
殿下は紙をひったくった。書き直そうとして、手元に何もないことに気づく。きょろきょろと周りを見回す。
夜会にペンを持ってくる者は、普通いない。
私は、黙って羽ペンを差し出した。
殿下は一瞬ためらってから、それを奪うように受け取った。二重線を引き、横に『エレオノーラ』と書き込む。
「訂正印もお願いします」
「……印など持っていない」
「でしたら、署名で代用できます。訂正箇所の横に、殿下のお名前を」
殿下は歯ぎしりしながら署名した。
インクが少し跳ねた。私は見なかったことにした。
「これで文句はないな!」
「次の箇所を拝見します」
「次!?」
二つ目に浮いていたのは、破棄理由の欄だった。
『九月十二日、午後二時頃。王宮西庭園の噴水前にて、ミレイユ・ボネ嬢を突き飛ばし、噴水へ転落させた』
整った字だった。殿下の字ではない。きっと側近の誰かに代筆させたのだろう。
日付と時刻と場所まで、きちんと揃っている。書類としては、とても良い書き方だ。
内容が事実なら、の話だけれど。
「九月十二日、午後二時」
私は読み上げた。
「その時刻、私は文書局の第三執務室におりました」
「嘘をつくな! ミレイユは確かに突き飛ばされたのだ!」
「わ、わたし、本当に怖くて……」
ミレイユ嬢が、殿下の腕に顔をうずめる。
同情の目が、ちらほらと彼女に向いた。
私はうなずいた。
「では、確認いたしましょう。文書局の出勤簿は公文書です。入室と退室の時刻は、局長と警備兵の二名で確認しております」
「そんなもの、いくらでも――」
「間違いございませんぞ」
しゃがれた声が、人垣の後ろから割って入った。
白い髭の小柄な老人が、杖をつきながら進み出てくる。文書局長のグスタフ老だ。
夜会の端で、ずっと葡萄酒をなめていたらしい。
「九月十二日なら、よう覚えとります。その日の午後、フォルスター君は第三執務室から一歩も出とらん。わしが入退室の判を押しました」
「局長……」
「自分もです!」
今度は、広間の扉の脇から声が上がった。
槍を持った若い警備兵が、真っ赤な顔で直立している。
「九月十二日、第三執務室前の当番は自分でありました! フォルスター書記官殿は、昼食も机でパンを召し上がっておられました!」
「余計なことまで言わなくてよろしい」
私が小声で言うと、警備兵は「はっ」と言って、さらに背筋を伸ばした。
「それにな、殿下」
局長は、片眉を上げて殿下を見た。
「その時刻に彼女が清書しておったのは、殿下ご自身の決裁書類ですぞ。南部街道の補修予算案、四十二枚」
会場が、ざわりと揺れた。
「殿下の書類を、婚約者が……?」
「清書? 王太子のお仕事を?」
殿下の耳が、真っ赤になっていく。
「そ、それは! あれは、文書局の仕事だろう! そいつが勝手にやっただけだ!」
「はい。仕事ですので」
私はうなずいた。何か間違ったことを言われた気はしなかった。
「話を戻します。破棄理由の欄に、事実と異なる記載がある場合――」
ペン先で、該当の行をとんと叩く。
「王国法第百十八条により、虚偽記載として扱われます。罰せられるのは、届の提出者です」
「提出者……」
「はい。殿下です」
誰も、何も言わなかった。
楽団の誰かが、弓を床に落とした。からん、という音が、やけに大きく響いた。
「なお、申立日時の訂正でしたら、この場で受け付けます。ミレイユ様、正しい日時をお教えいただけますか?」
「え」
ミレイユ嬢が顔を上げた。
目が泳いでいる。右へ、左へ、それから殿下の顔へ。
「えっと……十二日、じゃなくて……十一日? いえ、十三日だったかも……」
「十一日は休局日で、私は実家におりました。十三日は終日、殿下の外遊日程表を作っておりました」
「……」
「それから、念のため申し添えますと」
私は、ついでに思い出したことを口にした。
「九月の第二週、西庭園の噴水は、清掃のために水を抜いておりました。庭園管理課の清掃届を、私が受理しましたので」
「……水が、ない?」
誰かが、ぽつりと繰り返した。
水のない噴水に突き落とされたなら、ミレイユ嬢は今ごろ、こんなふうに夜会で踊ってはいられないはずだ。
広間の何人かが、ミレイユ嬢のつま先から頭のてっぺんまでを、ゆっくりと眺めた。かすり傷ひとつない。
「訂正は、なさらないということでよろしいですか?」
ミレイユ嬢は、何も答えなかった。
私は、紙を殿下へ向けた。
「差し戻しです」
◇
殿下は、破棄理由の欄に何重にも線を引いた。
紙の上で、そこだけ真っ黒な四角になる。
「理由など後で書き直す! とにかく、婚約を破棄するという意思は明白だろう!」
「承知しております。では、三つ目の箇所を」
「まだあるのか!?」
あるのだ。いちばん大きいのが。
私は紙の右下、空白のままの欄を指した。
「承認欄です」
「承認……?」
「十年前、私たちの婚約は、国王陛下の勅許によって結ばれました」
殿下が、はっと目を見開いた。
「勅許による婚約を破棄するには、国王陛下の副署が必要です。この欄が空白のままでは、届として成立いたしません」
「ち、父上には後で話す!」
殿下の声が裏返った。
「いいから受理しろ! これは王太子の命令だ!」
会場の空気が、ぴんと張りつめた。
王太子の命令。書記官ひとりが、逆らえるものではない。
誰もがそう思ったのだろう。気の毒そうな視線が、今度は私に集まった。
私は少しだけ考えて、それからうなずいた。
「承知いたしました。受理いたします」
「……ふん。最初からそうすればいいのだ」
殿下の口元が、勝ち誇ったように緩む。
私は、ドレスの隠しポケットから、もうひとつの印を取り出した。
朱肉の蓋を開ける。
「では、こちらを押しますね」
「なんだ、それは」
「『不備あり』の印です」
殿下の笑みが、止まった。
「不備のある届を、命令によって受理する場合の規定がございます。届には『不備あり』の印を押し、不備の内容を明記したうえで、陛下の御前に回送いたします」
「……回送」
「はい。そして、この記録は」
印を、紙の上にかざす。
「提出者の公務記録として、永年保存となります」
「永年……?」
「はい。殿下が国王になられた後も、殿下のお孫様の代になっても、どなたでも閲覧可能です」
私は付け加えた。
「名前の書き間違いと、虚偽の理由と、承認欄の空白。三点とも、丁寧に記載いたします」
朱肉の匂いが、つんと鼻をついた。
印を、紙に向かって下ろしていく。
指三本ぶん。
殿下の喉が、ごくりと鳴った。
指二本ぶん。
人垣の後ろで、殿下の側近がひとり、そろそろと出口の方へ後ずさっていくのが見えた。理由欄を代筆した人だろう。
指一本ぶん。
「待て」
殿下の手が、私の手首の上で止まった。触れはしなかった。触れる直前で、ぶるぶると震えていた。
「……押すな」
「では、取り下げますか?」
「取り下げは、しない!」
殿下は、紙を奪い返した。
「理由を書き直す。それなら文句はないのだろう!」
◇
殿下は、私の羽ペンでがりがりと書いた。
覗き込もうとしたミレイユ嬢を、手で押しのけて。
突き返された紙の、理由欄の黒い四角の下。
『真実の愛を見つけたため』
ああ。
今夜はじめて、紙が浮いていない行だ。
「拝見しました。こちらは、受理可能な理由です」
「そうだろう!」
殿下が、ぱっと顔を輝かせる。
ミレイユ嬢も、殿下の腕にぎゅっと抱きついた。
「ただし、この理由の場合」
私は続けた。
「婚約解消の責は、殿下の側にございます」
「……責?」
「十年前の婚約の条件として、フォルスター伯爵家は、北部の治水工事費として金貨三万枚を、王家に無利子でお貸ししております」
会場の奥で、がしゃん、と音がした。
財務卿が、グラスを取り落としたのだ。
「契約書の第七条によれば、婚約が王家側の責によって解消された場合、貸付金は即時、一括でご返済いただくことになっております」
「さ、三万……」
「加えて、婚約不履行の慰謝料が、規定により金貨五千枚」
私は指を折った。
「合計、金貨三万五千枚。お支払い期限は、届の受理から三十日以内です」
殿下は、口を開けたまま固まった。
財務卿が、人垣をかき分けて真っ青な顔で飛んでくる。
「で、殿下、今年度の予備費は、もう八千枚しか――」
小声のつもりだったのだろうけれど、静まり返った大広間では、端までよく聞こえた。
「ぶ、分割だ! 分割にすればいいだろう!」
殿下が叫んだ。
「分割払いの申請は、様式第九号です」
私は、すらすらと答えた。
「添付書類は、王家の資産目録、二十年分の返済計画書、保証人二名の署名、それから財務卿の意見書が必要です。お急ぎでしたら、明朝九時から受け付けております」
「……」
「よろしければ、記入例もお付けします」
殿下は、何か言おうとして、やめた。
財務卿は、両手で顔を覆っていた。
ミレイユ嬢が、そっと殿下の腕から手を離した。
「え……王家って、お金、ないんですか……?」
誰も答えなかった。
ミレイユ嬢は、一歩、二歩と後ずさった。
「わ、わたし、ちょっと気分が……失礼しますっ」
桃色のドレスが、人垣の隙間へ吸い込まれていく。
殿下は、それを目で追うことさえしなかった。
◇
「――その届、余が見よう」
低い声が、大広間に落ちた。
殿下の肩が、びくりと跳ねた。
財務卿が、顔を覆っていた両手を、そろそろと下ろした。
人垣が、海が割れるように左右へ引いていく。
その奥から歩いてきたのは、国王陛下だった。
そして、陛下の半歩後ろに、銀縁の眼鏡をかけた長身の青年が控えていた。宰相補佐官のアルベルト・ローゼン様だ。
騒ぎが始まってすぐに、陛下を呼びに走ってくれていたらしい。
広間じゅうの貴族が、一斉に膝を折る。私もドレスの裾をつまんで、深く礼をした。
「ち、父上! これは、その、エレオノーラが――」
「黙っておれ」
陛下は殿下の手から紙を取り上げた。
二重線。殿下の殴り書きの署名。黒く塗りつぶされた四角。『真実の愛』。空白の承認欄。
陛下は、それを長いあいだ黙って見つめていた。
「……ジェラルド」
「は、はい」
「お前、この三年、決裁書類で一度も差し戻されたことがなかったな」
「はい! それは、私の実力で――」
「全部、この娘が直しておったのだ」
殿下の言葉が、喉の途中で止まった。
陛下は、局長の方へ顎をしゃくった。局長が、杖をついて一歩前に出る。
「申し上げます。殿下名義の書類は、提出前にすべて一度、フォルスター書記官の机を通っております」
局長は、指を一本ずつ立てるような口調で言った。
「三年で、四千二百十七件。誤字の訂正、計算の検算、添付漏れの補充。彼女は、それを昼の休憩と終業後の時間で片付けておりました。差し戻し率は――」
局長は、ちらりと殿下を見た。
「ゼロでございます」
会場が、どよめいた。
今度のどよめきは、さっきまでとは違う色をしていた。
「四千件……?」
「休憩時間で……?」
「では、殿下の『差し戻しなし』の評判は……」
「待て、では去年の外遊日程表も、か」
人垣の中から、外務卿が呆然とつぶやいた。
「あれは見事だった。三か国、十九日間、移動の待ち時間が一刻もなかった。殿下に作成者を尋ねたら、『私が考えた』と……」
外務卿の隣で、騎士団長が腕を組んだ。
「北部遠征の糧食表もそうだろう。あの年だけ、一袋も腐らせずに帰ってこられた。おかしいと思っていたのだ」
声が、あちこちから上がり始めた。
あの予算書も、あの議事録も、あの招待状の席次表も。名前が出るたびに、殿下の肩が少しずつ下がっていく。
ひそひそ声の中で、殿下は立ち尽くしていた。
自分の功績だと思っていたものが、目の前でひとつずつ剥がれていくのを、ただ見ていた。
私は、少しだけ居心地が悪かった。
四千二百十七件。数えていたのは知らなかった。私はただ、座りの悪い数字を見ると、直さずにいられないだけなのだ。
陛下が、深く息を吐いた。
「……余は、なんというものを、手放させるところだったのか」
紙を持つ陛下の指先が、かすかに震えていた。
「フォルスター書記官」
「はい」
「愚息が、長く世話をかけた。何か望みはあるか。爵位でも、褒賞でも、言うてみよ」
広間じゅうが、息を詰めて私の答えを待った。
私は少し考えた。爵位はいらない。褒賞も、思いつかない。
「明日も、出勤させていただければ、それで」
一拍、間があった。
「……それだけか」
「はい。未決箱に、まだ二十三件残っておりますので」
陛下は、目を閉じて天井を仰いだ。
局長が、髭の下で肩を震わせて笑っていた。
「アルベルト。ペンを」
「は」
ローゼン様が差し出したペンで、陛下は承認欄に、ゆっくりと署名した。
王家の印章が、私の目の前で押される。
「フォルスター書記官。これで、不備はないか」
「……拝見いたします」
私は紙を受け取り、もう一度、全体を一度に見た。
名前は正しい。理由は事実だ。承認欄は埋まっている。
どこも、浮いていない。
「不備はございません。受理いたします」
文書局の受理印を、まっすぐに押した。
朱が、紙に沈む。
印を持ち上げる。
文書局の紋章が、少しのかすれもなく、くっきりと残っていた。
その瞬間、十年続いた婚約は、一枚の紙の上で終わった。
不思議なくらい、手は震えなかった。
十年分の何かが、肩からすとんと落ちた気がした。代わりに残ったのは、いつもの仕事を一件終えたときの、あの軽さだった。
◇
「ま、待ってくれ!」
殿下が叫んだ。
「撤回する! エレオノーラ、婚約破棄は撤回だ! 今のは、その、何かの間違いで――」
私は、腰に下げた懐中時計の蓋を開けた。
そのとき、大広間の大時計が鳴り始めた。
ごおん、と一つ目の鐘。
「破棄の撤回届は、様式第十二号です」
二つ目の鐘。
「ただ、申し訳ございません、殿下」
三つ目。
私は時計の蓋を閉じ、深く一礼した。
「夜間受付は、ただいま午前零時をもって終了いたしました」
十二の鐘が鳴り終わるまで、誰ひとり、口を開かなかった。
最後の鐘の余韻が消えたとき、殿下は、その場にずるずると座り込んだ。
誰も、手を貸さなかった。
私は羽ペンのインクを拭い、差戻印と受理印を、ハンカチに包んでポケットへ戻した。
今夜の審査は、これで一件、完了だ。
「では、私はこれで失礼いたします。局に、未決の書類が残っておりますので」
もう一度、陛下に深く礼をする。
くるりと背を向けたとき、背中のほうで、誰かがひとり、小さく手を叩いた。
ひとつ、またひとつ。
扉にたどり着くころには、それは大広間いっぱいの拍手になっていた。
振り返りはしなかった。仕事を終えて帰るだけの人間に、拍手は少し大げさすぎる。
◇
その後のことは、人伝てに聞いた。
金貨三万五千枚は、王家の私財から二十年の分割で返されることになった。
殿下の王位継承について、来月の評議会で「見直し」が議題に上るらしい。
ミレイユ嬢は、翌朝いちばんの馬車で男爵領へ帰ったそうだ。
理由欄を代筆した側近は、自分から辞表を出した。辞表の書式は、完璧だったと聞いている。
殿下は、陛下の命令で、来月から一年間、文書局で書類の書き方を一から学ぶことになった。
担当は、局長のグスタフ老。私ではない。局長が「当事者は外れるべきだからの」と、にやにやしながら決めた。
会いには、行っていない。行く用事も、特にない。
◇
大広間を後にして、私はまっすぐ文書局へ戻った。
誰もいない第三執務室。ランプを一つ灯すと、机の上の未決箱が、黄色い光の中に浮かび上がった。
今夜の分は、まだ二十三件残っている。
ドレスの上から事務用の上着を羽織り、羽ペンを持ち直した。
来年の春に辞めなくていい。そう思うと、未決箱の山が、少しも重く見えなかった。
一件目は、東の村の水車小屋の修繕届。見積もりの合計が、銀貨二枚ぶんだけ座りが悪い。
付箋を一枚、ぺたりと貼る。
二件目は、新しく開く菓子店の営業届。書式は完璧だった。受理印を押すと、紙の上に、店の名前がくっきりと立ち上がった。
春になったら、この店に行ってみよう。そんなことを考えたのは、ずいぶん久しぶりだった。
扉が、控えめに二度鳴った。
「失礼します。まだお仕事中でしたか」
ローゼン様だった。夜会服のまま、手に一枚の紙を持っている。
「受付時間は終了しておりますが」
「存じています。審査ではなく、事前の確認をお願いしたくて」
ローゼン様は、紙を机の上に置いた。
様式第三号。婚約申込書。
申込者の欄に、几帳面な字で『アルベルト・ローゼン』とある。
相手方の欄には――『エレオノーラ・フォルスター』。綴りは、一字も間違っていなかった。
私は顔を上げた。
「……これは」
「三年前の冬を、覚えていますか」
ローゼン様は、少しだけ眼鏡の位置を直した。
「私が作った北部の配給計画書に、あなたが付箋を一枚貼って返してくださった。『この欄、数字の座りが悪いです』と」
「……申し訳ありません。覚えておりません」
「でしょうね。あなたは毎日、何十枚も付箋を貼っていますから」
ローゼン様は、小さく笑った。
「桁が、一つずれていたんです。あの付箋がなければ、北部の村で二千人分の小麦が足りなくなるところでした。あの冬、誰も飢えずに済んだのは、あなたの付箋一枚のおかげです」
「それは」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「数字の座りが悪かっただけです」
「あれから、局から戻ってくる私の書類には、ときどきあなたの付箋が付いていました」
ローゼン様は、上着の内ポケットから、小さな紙の束を取り出した。
色あせた黄色い付箋が、きっちり角を揃えて重ねてある。
「三年で、四十七枚。全部、取ってあります」
「……捨ててください、そういうものは」
「嫌です」
即答だった。
私は、なんと返していいか分からず、インク壺の蓋を意味もなく開けたり閉めたりした。
「付箋が来るたびに、直して、出し直しました。四十八枚目が来ない書類を作るのが、いつの間にか目標になっていた」
ローゼン様は、付箋の束を大事そうに内ポケットへ戻した。
「ええ。だから、この書類は、あなたに見ていただきたかった」
ローゼン様は、申込書の上にそっと指を置いた。
「この書類も、座りが悪いところはありますか」
私は紙を見た。全体を、一度に。
それから、今夜の殿下の届と同じ順番で、一つずつ確かめていった。
まず、相手方氏名。『エレオノーラ・フォルスター』。伯爵家の正式な綴りで、家名の後ろの小さな飾り文字まで正しい。そこまで書ける人は、局の中にもほとんどいない。
次に、申込理由。短く、『生涯、隣で書類を見ていたいため』とある。
事実と異なる記載かどうかは、私には判断できなかった。ただ、紙のどこにも、ごまかしの跡はなかった。
添付書類の欄には、宰相補佐官の妻は官職を兼ねられる旨の、規定の写しまで付いていた。
「……第五十一条」
「確認済みです。あなたが、局を辞めずに済むように」
そして、右下の承認欄。
そこにはもう、見覚えのある署名と、王家の印章が押されていた。
「陛下の副署まで、すでに」
「先ほど、ついでに」
「ついでに」
「陛下がペンをお返しくださるときに、こちらも一緒に差し出しました。陛下は中身を一度ご覧になって、『次は逃がすな』とだけおっしゃって、署名してくださいました」
ローゼン様は、真顔のまま付け加えた。
「書式に不備があったら、陛下に恥をかかせるところでした。三回、書き直しています」
ついでに、で頂くものではない。私は少しだけ呆れて、それから自分の口元が緩んでいるのに気づいた。
どこも、浮いていなかった。
今夜見た中で、いちばん静かな紙だった。
「不備は、ありません」
「では、受理していただけますか」
私は、懐中時計を見た。午前零時四十分。
「受付時間外です」
「承知しています」
ローゼン様は、少しも残念そうな顔をしなかった。この人は、規定を守る人間が好きなのだと思う。私と同じで。
私は申込書を両手で持ち上げ、未決箱の、いちばん上にそっと置いた。
「ですので、明朝、いちばん最初に審査いたします」
ランプの光の中で、ローゼン様が眼鏡の奥の目を細めた。
「お待ちしています」
翌朝。私は始業の鐘より一時間早く、文書局の扉を開けた。
未決箱のいちばん上で、一枚の紙が、少しも浮かずに私を待っていた。
(完)




