仏教とカレーライス
お盆である。
普段は宗教に無頓着な日本人でも黙祷などをする。
しかし、これには日頃から「なんでやねん」という気持ちがある。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などのアブラハムの宗教では「復活」を前提とするため、遺体は大事に土葬する。―― 今でも原理原則を守る人間たちはそうだ。
しかし、「輪廻」を前提とする仏教では衛生面も考慮し、火葬する。輪廻するのだから、元の肉体は不要というわけだ。
だが、どうにも「日本の仏教」には、辻褄が合わない部分が多い。先祖供養であったり、祭礼を重んじたり、「輪廻」しているのであれば、「不要な行為」が多く含まれている。これはなぜか?
短絡的に考えるのであれば、「坊主が儲けるため」という答えに結び付きそうだが、答えはもう少し複雑だ。インドから日本に仏教が到達するまでの間に、中国と韓国というフィルターを通しているためだ。
先祖祭祀は、儒教や道教の精神である。
家を重んじ、法要ではみんなが集まる。
定期的に集まるので、結束も深まる。
社会構造を考えても一定の合理性がある。
本来の仏教では、ひとは「死んだ瞬間に」次の生へと乗り換える。チベットのダライ・ラマなどの選定も、先代が亡くなった直後に誕生した子供たちの中から、次のダライ・ラマが選ばれる。四十九日の間、冥界で7回の裁判を受けるという例のあれは道教や民間信仰によるもの。一周忌にせよ、三回忌にせよ、お盆(盂蘭盆会)にせよ、もともと先祖供養の発想は中国というわけである。
神仏混交。しかも日本では、この「ブレンド仏教」にさらに神道が混ざる。本来の仏教の原型は、いったい何%ほど残っているのか?
その昔、オウム真理教というカルト教団があった。まだカルトと見做される前のオウム(ヨガ団体期~初期)は、本場インドの仏教用語を多く重視しており、そのため、仏教の源流を知りたいひとたちを惹きつけたともいう(中には国会議員なども含まれていた)。たしかに「仏教」を名乗るのであれば、「原点」に立ち返ろうという精神は、当然といえば、当然か。
ちなみに本場インドでの現在の仏教徒の数は840万人ほどで、インド全体に人口に対し「0.7%」ほど。これが世界になると4~7%ほどと言われ、日本では60~70%ほどがマイルド層も含め、仏教徒だという(この数字は各々調査機関がバラバラなので信憑性は低い。特に日本の数字は)。
―― で、タイトルに戻る。
「日本の仏教の状況って何かに似てるな」と思ったら「カレーライス」である。しかも、サイドメニューがいっぱい取り付けられた。カレーそのものの味も違えば、サラダどころか、カレーをおかずに食べるメインディッシュのようなものまである「カレーのコース料理」だ。
これを「仏教」と名乗るのは果たして正解なのか?とも悩むが、よくよく考えれば、宗教に限った話ではない。朝鮮民主主義人民共和国は、民主主義でも共和国でもないし、中国共産党も共産党でも何でもないのといっしょで、思想の発生地から遠ざかるほど、原点は失われる。
それに原点がいつまでも正しいとは限らない。
正しいは時代と共に変化していくものだからだ。
どのくらい時代に合っていて、どのくらい歪んでいるのかをその都度見るのが、大事である。
さて、日本の仏教は、いま何点か?
宗教は、愚か者に枷をかけるのには便利だが、賢き者の行動をも制限する。そして、愚か者ほど「自分は賢い」と考え、それを踏みにじろうとする。
宗教に対する態度には、その人間の本質が現れる。
この日本における分かりやすい正解は、儒教でいう「中庸」である。協調性を考えるのであれば、中庸こそが取るべき態度で、あまり過激な行動は控えるべきである。
さて、これはいったい誰に向けられた言葉なのだろうか?




