「妻なんだから家にいろ」と夫に言われ続けたので、家ごと隣国へ飛びました
窓の外で、鶏が鳴いている。
実家に暮らしていた頃は朝の合図だった鳴き声も、今は見張りが交代する時間。
扉の向こうで誰かの足音が近づいてくる。何事かを話し、やがて別の足音が動き出した。その音も次第に遠ざかり、再び静寂に包まれる。
私――ローレリアは、ベルニエール子爵家の長女として生まれ、何不自由なく生きてきた。
社交界に出て、十八になったところで、親に勧められるままマルセル伯爵家へ嫁いだ。
そうして三年が経った。私の朝は、いつも白く塗られた格子窓から始まる。夫のジルベールは、結婚式の翌週に大工へ命じ、その窓を嵌め殺しにさせた。
青く澄んだ空は、もう私の手からは届かない。
「妻なんだから家にいろ。社交は私が出れば十分だ」
ジルベールが初めてそう言ったのは、結婚式の翌日だった。
今まで通り社交場に向かおうとしたとき、私の腕を掴み、彼は微笑みもせずに言った。
これからは伯爵家の夫人として人脈を広げなければ。そう息巻いていた私の決意は呆気なく挫かれた。
反論しようとして、しかし『新婚の妻が夫の言葉に逆らうものではない』という母の言葉を思い出し、そのまま口をつぐんだ。
あのとき自分の意思を示していれば、少しは違ったのだろうか。
「客は私が応対する。お前は部屋から出るな」
二度目は半年後。学院時代の親友だったエレオノール侯爵令嬢が訪ねてきたとき、彼女は玄関先で帰された。
わざわざ手紙を寄越してくれた彼女に、姑のアガット夫人が「奥様は体調がすぐれないの」と書き送ったのだと、後になって侍女から聞いた。
エレオノールは今、私の生死すら知らないはずだ。
それから三度目は一年後。父の葬儀の朝。
必死に働き、「幸せになれ」と私を送り出した優しい父は、天然痘を患い、そのまま死んだ。
その連絡を受けた私は、久しぶりに外へ出られる。家族に会える。そんなことを考えていた。
「家にいなさい。喪服の妻が表に出るのは不吉だ」
私が黒のドレスに袖を通している最中、ジルベールは寝室にやってきて、そう告げた。
鍵が外から回される音を、私はその時はじめて聞いた。
父の棺を見送ることなく、私は黒のドレスを脱ぎ、白い格子窓の前に戻った。指先で窓枠を撫でた跡が、薄く埃を浮かせた。
以来、私は数えるのをやめた。
屋敷を仕切っているのは、姑のアガット夫人だ。
私の持参金は屋敷の改装と彼女のドレスに消えた、らしい。会計帳簿を見せてもらえないので、正確なことは分からない。
だが、それを私に教えた侍女は程なくして屋敷から去った。
侍女頭はもう三度替わった。中には私に同情した者もいたが、それがアガットに露見すると、容赦なく解雇された。
残ったのはクラリスひとり。十六で雇われた華奢な娘で、まだ夫人に怯えながら私の世話をしてくれる。
食事は朝晩の二回、侍女によって部屋まで運ばれる。「子爵家から嫁いだ娘が肥えてはみっともない」というのがアガットの口癖で、私の皿にはいつもパンが半分と、薄いスープと、輪切りのリンゴが一切れ載っている。スープには塩気がなく、リンゴはたいてい芯の近くまで茶色くなっている。先週、クラリスがこっそりバターを添えてくれたとき、アガットは厨房で彼女を平手打ちにした。その音は二階の私の部屋まで届いた。
退屈で気がおかしくなりそうな午後には、十歳の春のことを思い出す。
遠い隣国オルセン王国の王宮で、私は結界転移の魔法を授かった。母方の祖母から私へ、女系で受け継がれてきた小さな魔法だ。
式のあと、私は広大な王宮の薔薇園でひとり迷子になった。
両親の名前を呼びながら、泣きじゃくる私。その声が届いたのか、やがて男の子がやってきた。彼は、アルベルトと名乗った。
ひとつ年上の彼は、のちにオルセン王の継承権を持つ第一王子だと知った。
しかし、初めて会ったアルベルトは王子らしからぬ気さくで親しみやすい少年で、私も数分前まで泣いていたことも忘れ、すぐに仲良くなった。
「結界石、ひとつここに埋めとけよ」
彼は別れ際にそんなことを言った。
薔薇の根元の土を、自分の靴で踏み均している。
「いつか、オルセンに来たくなったらここに来い。大人には内緒だぞ」
王族の端正な顔で、けれど目だけは悪戯っぽく笑っていた。
私もつられて笑い、薔薇の根元に小指の先ほどの結界石をひとつ落とした。
それきり、私はオルセンに行っていない。
今振り返れば、なんて事のない子供の悪戯。彼だってそんな些細な事は覚えていないだろう。
アルベルトは今、即位して五年目になる。
あの薔薇の根元に、まだあの石があるかどうか、私は知らない。
* * *
午後になり、ジルベールはノックもなく私の部屋の扉を開けた。
私が何をしていようとお構いなし。この男はいつもこうだった。
「ローレリア」
いつもみたいにそのまま部屋の中に入るのかと思いきや、彼は入口に立ち尽くしていた。
私が代わりに近づくと、ジルベールは一瞬後ずさるが、すぐに何事もないかのようなすました顔を浮かべた。
どうしたんだろう、と思った矢先、私の鼻先を別のものが掠めた。
淡い薔薇と蜂蜜の混じった、女性ものの香水の匂い。私の好みではないし、アガットの使うものとも違う。
「明日の夜は晩餐会だが、お前の代わりにジュリエッタを伴っていく」
彼は私の顔を見ずに、書斎用の手袋を選びながら言った。
「ジュリエッタ嬢、ですか」
「知っているだろう。母上の懇意の令嬢だ。彼女は今夜この家に泊まっていくから、粗相のないように」
そう言い終えると、彼は心なしか、せわしなく部屋を出ていった。
ジュリエッタ・サンクレール。姑の古くからの親友にあたる伯爵家の令嬢で、たまにこうして家へやって来ることがある。
ジルベールが去った後も、香水の匂いだけがしばらく床に落ちていた。
夫はそのまま用があると言って屋敷を出た。それから一刻ほど経ち、遠慮がちなノックが扉を鳴らした。
どうぞ、と声をかけると、クラリスが顔を覗かせる。その手には給仕用のトレイとティーカップが載せられていた。
いつもなら部屋を訪れるような時間ではないので驚いたが、よく見るとその表情は少し強張っていた。
恐れ入ります、とティーカップをテーブルに差し出す。
その傍には、一枚の封筒が添えられていた。封蝋は見たことのない紋章。三日月と薔薇を絡めた、若い令嬢の好む類のもの。
「以前から、同じ蝋の手紙が何通も旦那様に宛てられていたんです。先ほどジュリエッタ様とご歓談されていたのを偶然拝見してしまい、そのときにそちらの手紙をお手に取っていらして……。その、いけないこととは分かっているのですが、どうしても知らせずにはいられなくて」
クラリスは震える声で頭を下げた。
「差し出がましいことを申し上げます。どうか……このことはご内密にしていただけませんか」
胸元で握られた手は、白くなるまで握られていた。
「ありがとう、貴方には感謝しているわ」と、私がその華奢な身体を抱きしめると、彼女は胸の中で小さく震えた。
クラリスが部屋を辞した後、私は震える指で封蝋を割った。中の便箋は香水と同じ、薔薇と蜂蜜の匂いがした。
『愛しい人へ。今夜こそお母様に話してくださると信じています。あの方を屋敷から出すための算段、上手く運んでいるとのこと、嬉しゅうございます。あなたと正式に共になる日が待ち遠しいですわ。あなたのジュリエッタより』
最後まで読み終えたとき、私はゆっくりと手紙を膝に伏せた。
薔薇と蜂蜜の甘ったるい香りが、私を真綿で首を絞めるように包み込んでいる。私をこの部屋に閉じ込めた理由が、あまりにも鮮明に、そしてあまりにも陳腐な形で目の前に突きつけられていた。
愛なんてない。そんなことは、三年前にあの窓が嵌め殺しにされた日から分かっていたことだ。
それでも――どこかで信じたかったのだ。同じ屋根の下で時を重ねれば、いつかは氷が溶ける日が来るかもしれないと。私の心に残っていた最後の灯火が、音を立てて吹き消された気がした。
これでいい。何もかもが腑に落ちた。私は深く頷き、静かに息を吸い込んだ。
……なのに、なぜだろう。頬を伝う熱い雫に気づき、私はそっと指先でそれに触れた。
哀しいわけではない。悔しいわけでもない。ただ、自分の歩んできた人生の結末が、これほどまでに惨めで滑稽であることに、心が悲鳴を上げていた。
なんでこんな人生になってしまったのか。
嵌め殺しの窓から差し込む光が、私の足元に細長い影を落としている。その影は、どこへも逃げ出せない私自身のように、ひどく歪んで見えた。
翌朝、クラリスが食事を運んでくる前に、私は身支度を整えていた。
昨日の手紙を思い出す――その宛先はジルベールだったが、私が探るべきは夫の部屋ではない。
社交然り、金も、食も。『お母様に話してくださると信じています』という文面が示す通り、この屋敷の実権とすべての計画はアガットが握っている。
その点において、夫もお義父様も、アガットの描いた筋書き通りに動く哀れな役者に過ぎないのだ。
「クラリス。お義母様は今、どこにいるかしら」
「朝の祈祷で、礼拝室にいらっしゃいますが……」
「そう、なら一刻は戻らないわね。――鍵束を持ってきてくれる?」
彼女は息を呑んだ。すぐには答えない。その瞳は、私の真意を探るように揺れていた。
何を言い出すか、私はただ黙ってクラリスを見つめていた。無茶を言っている自覚はある。
それでも私が彼女から目を逸らさなかったのは、その決断を尊重したかったからだ。
クラリスもその重さが分かっているのだろう。
不安げに揺れていたその表情を伏せる。それからゆっくりと顔を上げると、今度はその瞳の奥に、確かな覚悟が灯っていた。
アガットは用心深い性格で、技師を雇い自室に錠を付けさせていた。
クラリスは秘密裡に鍵を持ちだし、それを私に預けた。鍵束のうちのひとつを鍵穴に挿し込むと、カチ、という音とともに扉が開いた。
中に入ると、流れ出た空気とともに、あまり趣味ではない香が鼻をくすぐる。
私のものより遥かに高価そうな寝台や、ドレッサー、スツールといった調度品が目に入り、それらの奥に文机が見えた。
自然と、その机に備えられた引き出しへと目線が向く。何かを隠すなら、うってつけの場所に思えた。
もう一度背後を確かめて、文机に近づく。
引き出しを引くと、中には雑多な書類が折り重なっていた。
上から内容を検めていくうち、先程見たものと同じ封蝋の付いた封書があった。
差出人はジュリエッタの父。中には伯爵との結納に関する覚書がなされていた。
『息子の正妻はジュリエッタにする。ローレリアの持参金は全額、ジュリエッタの結納金へ移す。ローレリアは然るべき手段にて。子爵家には病死の報を出す。来月の晩餐会で詳細を話し、その翌日に決行する』
便箋と別に、一枚の証文も添えられていた。
それは私の持参金の詳細――子爵家の印璽が捺された本物の文書だった。
私の口から、いよいよ乾いた笑いが漏れる。
ああ、なんだ。そういうことだったのか。
胸の奥底でカチリと音がして、長年の難問が解けたような奇妙な達成感すら湧き上がってきた。
三年間の冷遇も、あの嵌め殺しの窓も、私への憎しみからきたものではない。
ただ、持参金を新しい妻へ横流しし、私を帳簿上から消し去るための、極めて事務的な下準備に過ぎなかったのだ。
私がどれほど惨めに愛を乞うたところで、この家の計画の前では、一人で勝手に踊り狂う道化でしかなかったというわけだ。
あまりの滑稽さに、肩の力がふっと抜けた。悲劇のヒロインを気取って流した昨日の涙すら、今となっては返してほしいくらいだ。
自虐的な笑いが収まる頃には、私の中から妻としての未練は一滴残らず干上がっていた。
「奥様……」と、背後で声を震わせるクラリスの気配があった。
その悲痛な声には、この紙切れに凝縮された悪意への恐怖と、理不尽の底に突き落とされた私への深い憐れみが滲んでいる。
それは私の中でとっくに枯れ果てた感情の分まで、彼女の柔らかな心が代わりに血を流してくれているようだった。
私は便箋と証文を元の場所に重ね直した。その他の書類も最初と寸分違わぬ位置に戻し、静かに引き出しを戻す。
その一連の動作の間、私の指先はもう一度も震えなかった。
書面には『来月の晩餐会で詳細を詰め、その翌日に決行する』とあった。
晩餐会はまさに今夜行われるはずだ。つまり計画の実行日は、明日。
――家にいろ。
そう命じるジルベールの声が脳裏でこだまする。
何度も何度も、私をこの部屋に閉じ込めるために向けられた言葉。
貴方達がそのつもりなら、私も、もう容赦はしない。
家にいろ、ですって?
「お望み通り、家にいましょう」
私は、無駄に豪華な装飾が施されたベッドの縁に座り、頷いた。微笑みすら浮かべて。
「ずっと、家に」
* * *
翌日。深夜が薄明に変わる頃、あらかじめこの時間の見張りを名乗り出たクラリスが、頃合いを見て扉を静かに開けた。
私を真っ直ぐと見つめる瞳に、問いかける。
「クラリス。本当にいいのね」
彼女は神妙な面持ちで頷いた。
「はい。迷いはありません。私のお使えする主は、ローレリア様だけです」
その言葉に偽りはない。
私は自身の頬をそっと拭い、彼女の身体をふわりと腕の中に引き寄せた。
昨日のやり取りを思い出す――。
姑の部屋を出た後、私はクラリスに計画を告げた。
「結界転移の魔法、ですか」
突如明かされた私の能力に、彼女は目を丸くした。
「ええ、それを使って、この家ごと移動させる」
とはいえ、大掛かりな魔法だ。成功するかどうかの保証もない。
なぜなら、結界転移は生涯一度しか発動できない。文字通り人生一度の大博打。その結果は、神のみぞ知るというところだ。
だが、それに賭ける価値は十分あると思う。
どうせここにいても、私は遠からず始末されるのだろう。それなら、最後に一矢報いてやろうじゃないか。
私は左手の中指に嵌められた指輪を見た。
中央に光るのは結界石――その青い光が、私の鼓動に合わせて微かに脈打っていた。
「クラリス、あなたには選ぶ権利があるわ。無理やり付いてこなくたって、それを責めたりはしない」
その言葉を噛みしめるように、クラリスは目を閉じる。
彼女にだって人生がある。この賭けが失敗したとき、私はもちろん、クラリスだってただでは済まないだろう。
しかし、再び目を開けたクラリスの表情は、まるで憑き物が落ちたように、晴れやかだった。
「ローレリア様。私は貴方様に感謝しています。大奥様に目をつけられていた私を庇ってくださったのは、ローレリア様ただ一人でした」
珍しくジルベールに呼ばれ、朝食をお義母様たちと取っていたとき。
ついその数日前に奉公にやってきたクラリスが、食堂で陶器を割ってしまい、それ以来事ある事にアガットにいじめられているのを知っていた。
ある日、用を済ませ自室に戻る途中、キッチンの側でへたり込むクラリスと、彼女を執拗に平手打ちするアガットの姿を見た。
周りにも何人か侍女がいたが、彼女たちは全員我関せずといった風で、誰も助けようとしない。
その姿に、もしかしたら自分を重ねていたのかもしれない。
私は気づくと二人の間に立っていた。
そのときもアガットには散々嫌味を言われた気がするが、内容は覚えていない。
クラリスの看病を済ませると、彼女はその日から私に懐くようになった。
「――だから、今度は私が恩返しをする番です」
そして今。クラリスはあの頃と見違えるほど勇ましい笑顔で、私と共に行くことを宣言したのだった。
* * *
朝食の時間。
私は静かに自室を出て、食堂の扉の前で耳をすませた。
夫の声、姑の声、――そしてジュリエッタの声。
彼女は晩餐会の後もこの家に泊まり込んでいた。
深夜にジルベールと帰ってきて、姑のもてなしを受け、客間ではなくジルベールの寝室の隣に通されたのだと、クラリスが教えてくれた。
彼らの談笑の断片が、扉越しに漏れてきた。
「あぁ、ようやくジルベール様と一緒になれる日が来るのですね。感無量ですわ」
「はは、気が早いなジュリエッタは。まだあいつの処理が残ってるだろう」
くすくすと、令嬢の底意地の悪い笑い声が響く。
「あの娘の最後の食事には、何を盛りましょう。眠るように逝かせてやるのが、せめてもの情けかしらね」
「まあ素敵! お義母様はなんてお優しいのかしら」
「優しいだなんて! 私、貴方を迎えられるのが本当に嬉しいのよ」
やはり、この人たちは変わらない。
それ以上は、一音すら聞くのが不快だった。
扉から離れ、代わりに隣で控えていたクラリスが、食堂の扉を閂でそっと閉めた。
私とクラリスは顔を見合わせ、お互いに頷く。
それを合図に、左手の指輪に精神を集中させる。
ぼんやりと光っていた結界石に徐々に魔力が集まり、やがてそれは星のように瞬いていく。
そしてその勢いが最高点に達した瞬間、屋敷の地面が、息をした。
最初は微かな揺れだった。海の波みたいなゆっくりとした上下。最初は揺蕩うかのような穏やかな振動も、少しずつ激しさを増し、それは大きなうねりとなった。
石の光はいつの間にか薔薇色へと変化している。まるであの時の薔薇園みたいな色。
そして、窓から見える景色が割れた。
そう思うと同時、私たちのいる土地が、ぐにゃり、と歪む。
屋根瓦の向こうに見えていた隣家の塔が、見知らぬ尖塔に挿し替わった。地平の朝焼けが、見たことのない山並みに切り替わった。井戸の水面に、別の国の空が映った。
大扉を開け外に出ると、空気の匂いまで違った。薔薇と、湿った石畳の匂い。
ああ、よかった。まだ、ここにあったんだ。
そして屋敷を載せた地面は、まるで巨人の掌に静かに置き直されたように、最後の揺れで止まった。
食堂の中から、最初の悲鳴が上がった。
「これは――何をした!」
私と話すときにはほとんど抑揚のないジルベールの声が、いやに慌てている。
「扉が開かない……。出しなさい、ローレリア!」
姑の声がキンキンと響く。
「ええ、お望み通り」
私はそう言って、慇懃に礼をしながら、食堂の扉を開放する。
その後ろに、異国の兵たちの姿を背負いながら。
屋敷の正門の前で、馬の嘶きが聞こえた。続いて、革と金属の擦れる音、規律正しい靴音、そして、銃の遊底を引く整った音が、十、二十と増えていく——。
やがてその銃口が私たちを取り囲んだ。
私が顔を上げると、食堂の中には三つの顔が滑稽な表情で並んでいた。
その様子に自然と唇の端が持ち上がった。だがそれは、歓喜とは異なる、もっと無機質なもの。
乾いた砂に石を落としてもただ跳ねずに沈むように、私の内側にはもう、彼らのために揺れる感情などひとかけらも残っていない。
「妻なんだから家にいろ、と。あなたは確かにそう仰いました」
自分でも驚くほど、冷たく澄んだ声が出た。
「ですから、家ごと参りました。これでお気に召しまして?」
ジルベールの口が、半開きのまま固まった。
「ここは——」
「私の母方の従兄、オルセン王国国王アルベルト陛下の王宮、その南庭ですわ」
「オルセン王国だと? なぜそんな小国に……」
目に見えて狼狽する彼の疑問に答えるように、私の後方から凛とした声が届いた。
「小国で悪かったね。名も知らぬ無礼な客人よ」
十歳で聞いて以来の声。いくら当時の記憶は曖昧とはいえ、それとは明らかに違う、男性らしい低い声。
それでも私はすぐに、その人だと分かった。
「アルベルト陛下!」
私が振り返ると、その瞳が大きく見開かれ、信じられないものを見るように私を捉えた。
「まさか、ローレリアなのか?」
「はい。はい……!」
覚えていてくれた。それだけで、私の目から熱いものがとめどなく溢れる。
「な、なぜ君がここに――いや、今は後だ。兵よ、この者らを捕らえよ!」
その命に従い、陛下の背後に控えた兵たちが続々と押し寄せてくる。
「説明しろ、ローレリア。お前は一体何をした!」
目まぐるしく状況が動く中、私の後ろから金切り声が響いた。
ジルベールが青ざめた顔でこちらを見ている。
「十歳の春に、私は結界転移の魔法を授かりました。そのときに悪戯で結界石を埋めた場所、それがこの薔薇園でした」
アガットが、ダイニングテーブルを拳で叩いた。
「ローレリア! ついに狂ったか、すぐに家を元の場所へ戻すんだよ!」
血走る瞳をぎょろぎょろと動かし、やがてその目線の先にクラリスを見つける。
「クラリス! お前が協力したのか……この恩知らずの田舎娘が! ただで済むと思うんじゃないよ!」
クラリスが微かに息を呑み、肩を揺らした。私は彼女を庇うように一歩前へ出た。
「もう二度と、私の大切な侍女に暴力を振るう日は来ませんよ、お義母様」
冷たく澄んだ私の声に、姑がビクリと体を強張らせた。私はそのまま、一切の感情を交えずに言葉を続ける。
「それから、私の最後の食事の献立までご心配いただき、ありがとうございます。ですがご安心を。オルセンの地下牢で出る食事は、塩気のないスープと腐ったリンゴよりはマシでしょう。お義母様の仰る『せめてもの情け』、どうぞご自身でたっぷりと味わってくださいませ」
「な……お前、まさか聞いて……!」
そして屋敷の玄関口にはすでに、銀の鎧の近衛兵が二列の整列を完了していた。先頭の一人が抜き身の指揮杖を頭上に掲げると、後列の二十挺の銃が一斉に私たちへ向けて構えられる。
「無許可での王宮侵入容疑で、貴殿らを拘束させていただく」
近衛兵の列から歩み出た文官が、ひどく事務的な、それゆえに冷酷な声で告げた。
食堂の中にいる三人の顔から完全に色が抜け、膝から崩れ落ちた。
* * *
私とクラリスも含めた五人は一度捕らえられ、そのまま王宮の地下牢へ投獄された。
しかし、それから程なくして、私の牢の前に兵士が現れ、その扉を開いた。
地上へ出ると、同じく即座に開放されたクラリスが、目に大粒の涙を浮かべながら私の元へ走ってきた。
状況がまだ飲み込めずにいると、目の前の兵士たちの奥から、一人歩いてくる人影があった。
その姿を見るや、近衛兵が一斉に剣を抜き、鞘の縁を地面に叩いて礼をする。
若い王が先程のローブのまま、薔薇園を横切ってこちらへ歩いてきたのだ。
最初に薔薇園で会った時よりも、ずっと背は高くなり、肩も広くなった。顔はますます精悍になり、一国の王らしい貫禄を放っている。
それでも、私を見ていたずらっぽく笑う表情は、あの頃とそっくりだった。
「約束通り、来たね」
そう言うと、私の頬に薄く残っていた雫を、骨ばった指で一度だけ拭った。
事後処理は呆気ないほど迅速に進んだ。
ジルベールにアガット、ジュリエッタの三名には大逆罪が言い渡され、そしてジュリエッタには身分詐称の罪も科された。
なんと、本物のジュリエッタ・サンクレール伯爵令嬢は、三年前に夭折していたことが判明したのだ。
彼女の本当の名前はニコール・ヴェルネ――アガットの遠縁の踊り子の娘だった。
マルセル伯爵家は持参金返還と慰謝料の支払いを命じられ程なくして破産、領地は国に返還された。
私とクラリスは、情状酌量――といっても陛下が相当無理を言ったらしいが――として、無罪放免となった。
それから、半年が経った。
父の墓に、私はようやく花を手向けた。隣国から送った、薔薇の鉢植えだった。
私はオルセン王国に亡命し、今は故郷とは違う、異国の地に住んでいる……それも、王宮の中に。
あのとき転移した屋敷は、オルセン王宮の南庭に置きっぱなしになっていた。
結界転移は生涯一度きり。私にはもう動かすための魔力が残っていなかったのだ。
しかし商魂逞しいというか、王国の近衛と庭師たちは、屋敷の周りに小道を作った。
迷子の客人が偶然たどり着いたら一晩泊められるように整え、今やある種の観光名所にもなっていたのだ。
屋敷の正面玄関には、誰が掛けたのか、『薔薇の迷子館』という小さな看板が下がっていた。
そんな、突如として王宮の敷地に家が現れるという怪事件がオルセン中の話題を攫うまで、ひと月もかからなかった。
クラリスは迷子館の女主人として、迷い込んでくる旅人や子供に食事を出し続けている。私、この仕事好きみたいです、と彼女ははにかんでいた。
社交界復帰の夜会は、半年の節目に開かれた。
私は祖母の形見の青いドレスを直して着た。三年前に姑が「派手すぎる」と仕舞い込ませた一着だ。
会場の階段の下で、痩せた侯爵令嬢が私の前で立ち止まり、口を一度だけ震わせて、それから何も言わずに私を抱きしめた。
エレオノールだった。嫁いでから一切手紙の返事が出来なかったことを謝ると、彼女は息の仕方を忘れたかのように胸を押さえ、喉の奥から絞り出すように泣いた。
私はその日、子どもに戻ったかのように、人前で泣いた。
ある日の夕方、私は迷子館の窓辺で繕い物をしていた。
ずっと覗いていた、白い窓。その景色の中をアルベルト陛下が薔薇園の方角から歩いてくる。
私は顔を綻ばせて、その窓を思い切り開いた。爽やかな風と薔薇の香りが舞い込み、髪を揺らす。
「ローレリア、今日もここにいたのか」
「ここ、私のお気に入りなんです」
「おいおい、王宮の中だってこと、完全に忘れてるだろ」
私と陛下は顔を見合わせ、どちらともなく笑った。
嵌め殺しだった白い窓枠はもうない。私の視界を遮るものも、私を理不尽な鳥籠に押し込める者も、ここにはいない。
開け放たれた窓から差し込む陽光が、隣で笑う彼の横顔を明るく照らし出していた。
私はもう二度と、諦めるために目を閉じることはないだろう。
奪われた三年分の時間を取り戻すように、大きく息を吸い込む。見上げた先には、手を伸ばせば触れられそうなほど近くで、青く澄んだ空が広がっていた。
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ここまでお読みくださり、ありがとうございます!
少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。
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