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翌日。
朝の食卓には静かな空気が流れていた。テレビからはニュースの音が流れ、部屋の端で首を左右に振る扇風機の音と、カチャカチャと食器の音だけが響いている。
いつもは遅れて起きてくる結花だが、今日に限っては、エマが一階に降りてきた時にはすでに居間に座っていた。
結花とエマは目が合うことはあっても、言葉を交わすことはなかった。まだスマホの件が、互いの心に引っかかっているようだ。
静寂を破るように明美が箸を置き、口を開いた。
『明日からお盆だら?年とるたんびに、ほんと時間が経つのが早くて怖いねぇ。』
『おぼん?』
エマが聞き返した。
『そうだよ。お盆っていうのはね、亡くなった人が年にいっぺん帰ってくるって言われてるんだよ。家族みんなで迎えてさ、お墓にも行って『いつもありがとう』とか『元気にしてますよ』って伝えるの。だからね、美香、お母さんも明日から帰ってくるかもしんないねぇ。』
意味がわからず困った表情を浮かべていたエマを見た誠は、「お盆 英語 意味」とスマホで調べて、エマに見せた。
『うん。I understand. ありがとう。』
次に霞が、敏朗と明美に向かって言う。
『お父さん、お母さん、前にも伝えましたけど、予定通り明日から4日間千葉の実家に帰りますね。』
『そうだったね。ご両親にも、よろしくお伝えしてねぇ。』
『はい。』
と明美が答えると、敏朗が少し重いトーンで言った。
『誠、おめぇは行かなくていいんか?』
『いや、俺が行くと向こうも気ぃ使うしさ。今年は姉さんのこともあるし、こっちにいるよ。』
『そうか。』
今度は、霞が結花に話かけた。
『結花、あなたは千葉に帰るのよ。おじいちゃんもおばあちゃんも楽しみにしてるんだから。』
『うん...』
結花の声には元気がなかった。
明美が元気のない結花を気遣って、優しく声をかける。
『結花、昨日のデザート、まだ食べてないだら?冷蔵庫に入ってるから後で食べな。』
『うん。』
昨日レストランで、結花はあんなにンナコッタを食べたがっていたのに、今は全く別人のように反応が薄い。
朝食の後、誠は達磨山の休憩所へ電話をかけた。
『まだ見つかってないってさ。見つかれば向こうから連絡くれるって。ノー・スマートフォン・バット・イフ・ゼイ・ファインド・コール・ミー。」
「ありがとう。」
エマは返事をするも、どこか諦めたような眼差しだった。
今日は日曜日だったが、敏朗は町内会のボーリング大会、明美は近所の友人の集まり、誠と霞は明日からの帰省に備えて買い物に出かけていた。
結花は2階の自分の部屋にこもり、夏休みの宿題に取り組んでいる。居間では、エマが一人、日本語の勉強に集中していた。。
今日はひらがなの続きと、会話文のページへと進んだ。
この教材の登場人物は主に、”たくみ”という少年と”さくら”という少女だ。最初の章では、小学校に転校してきた”さくら”が、自己紹介をするというものだった。
”その1 転校生のさくら”
『さくら:はじめまして、私の名前はさくらです。東京から来ました..』
と、エマがたどたどしい日本語で教科書の会話文を音読していると、階段の軋む音がして、結花が一階に降りてきた。
居間に入ってきた結花とエマは、互いちらりと顔を見合わせるが、声をかけることもなく結花は黙って台所へ向かった。
結花は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐと一気に飲み干した。そして、また静かに居間を通り過ぎ、2階へと戻っていった。
エマが時間も忘れて勉強に集中していると、「ピンポーン」と家のチャイムが鳴った。
来客は、いつも誰かが対応するため、エマが玄関に出ることはなかった。しかし、そのとき家にいるのは結花とエマだけでだったので、エマは立ち上がり玄関へと向かった。
玄関のガラス戸越しに、小柄な女性らしき人の影が見えた。
『はい。』
エマは玄関から声をかけると、優しい女性の声で返事があった。
『こんにちは。お忙しいところ、すいません。私、小さな会の者です。』
エマは意味がわからなかったので、とりあえず玄関の扉を開けた。
扉を開けると、そこには白いワンピース姿で日傘を持った、霞と同じくらいの年齢の女性が立っていた。
『こんにちは。あら、お嬢さんお一人?』
『こんにちは。えっと、にほんご、わかりません。』
女性は、エマの不自由な日本語と容姿からすぐに、日本人でないことを察した。
『おかあさんやおとうさんいるかな?』
『My mother and father?(私の母と父?)。』
『うん、そう。ユアー・マザー・アンド・ファザー。』
エマは文字通りの意味として答える。
『My mother passed away a month ago, and I don't remember about my father at all.(母は1ヶ月前に亡くなって、父のことは全く覚えていません。)
』
『えっ?』
女性は英語が聞き取れず、困った顔を浮かべた。
『あー、ソーリー。ノー・イングリッシュ。』
するとエマは、スマホの翻訳アプリを起動して、もう一度同じことを言った。
女性は、和訳された文章を読むと、エマに同情をするように言葉を選びながら言った。
『……まあ、それは……とても、おつらかったですね。お母さまのご冥福をお祈りします。』
エマは、意味のわからない言葉にきょとんとすると、女性はエマのスマホを指差して言った。
『ちょっと、お借りしても良いかしら?』
ジェスチャーから女性が翻訳アプリを使いたいとわかったので、エマはスマホを女性に渡した。
『あら、日本語でどうやったら打つのかしら?ジャパニーズ?』
女性は、英語のキーボードになっているスマホの画面をエマに見せながら言った。
エマが日本語のキーボードに切り替えると、女性は改めて文字を打ち始めた。
女子が入力を終え、スマホをそっとエマに手渡すと、画面の翻訳にはこう書かれていた。
『That must have been very difficult for you. May your mother rest in peace.(それは本当におつらかったことでしょう。お母さまのご冥福を心よりお祈り申し上げます。)』
『Thank you.』
とエマは一言、お礼を言った。
『あの……私たちの会では、そういった“心の痛み”を抱えていらっしゃる方に、寄り添う活動をしているんです。もしよかったらもう少しお話を聞かせてくださらない?』
今度はエマが女性にスマホを渡して、翻訳を使うようにお願いした。
女性の言った翻訳を見ると、どうやら女性は宗教か何かの勧誘で、家を訪れたのだと察した。そして女性が聞きたかったのは、エマの父と母ではなく、この家に住む誠と霞のことだと気づいた。
エマは嘘をついたわけではなかったが、今さら訂正するのも気まずい。しかしこのままでは、亡くなった母の死を利用され、どんどん逃げられなくなってしまうような気がした。とはいえ、女性が悪い人という雰囲気でもないため、強く追い返すこともできず、エマはただただ困惑し、次に何を話せばいいのか分からずにいた。
女性は穏やかな笑みを浮かべて、エマを焦らすこともなく返事を待っていた。
エマは2階にいる結花に助けを求めようか一瞬迷ったが、チャイムの音で気づいてるはずだし、助けに来てくれないのは、まだ昨日の件で怒っているからだと思ってやめた。
黙ってしまったエマに、とうとう女性が話しかけようとした時、女性の後ろから明美が帰ってきた。明美は、たんまりとみかんが入った袋を持ってる。
『あら、こんにちは。』
『あ、こんにちは。お婆様ですか?よかったわ。私し..』
『え?なんだって?すいませんね。耳が悪くてねぇ。』
明美は耳が遠いふりをして、止まることもなく玄関の扉を潜る。
『あ、おばあさま、私、小さな会の...』
女性はさっきの倍のくらいの声量で言った。
『え?なんだって?』
明美はまた耳が遠いふりをすると、女性は息を大きく吸い、さらに大きな声で言った。
『あの!私は!小さな会の者です!聞こえますか!?』
『はい?なんでしょうか?』
流石の女性も会話をとうとう諦めて、手に持っていた紙袋の中からチラシを一枚取り出して明美に見せた。そして女性は指でチラシの文字をなぞりながら、明美に説明している。
『ん?目も悪くてねぇ、こんな小さい字は読めないねぇ。悪いねぇ。』
明美は、さらに目が悪いふりに加え、足も悪いふりをしながら玄関に腰を掛け、ゆっくりと靴を脱いだ。
『エマ、ちょっと手伝っておくれ。』
明美はエマに腕を貸してくれというジェスチャーをして、エマだけに見えるようにウィンクしながら言った。 そして、明美はエマに介助されるようにして立ち上がりった。
『あ、すいませんけど、扉だけ閉めていってくださいねぇ。』
明美は、その女性にその言葉だけを残して、エマに介助されながらゆっくりと居間へと入って行った。
その後、女性の返事はなかったが、『ガラガラ...ドンっ』っと小さく扉が閉まる音だけが聞こえた。
明美の存在は心強かった。多分何度もこうやって数々の勧誘を避けてきたに違いない。
『結花はどこにいるら?』
明美がエマに優しく問いかける。
『えっと...』
エマは2階を指さして言った。
明美は居間のテーブルの上に、みかんの袋をどさっと置く。
『近所のさんからたくさん頂いたから、みかんを食べようか。エマちゃん、結花を呼んできてちょうだい。』
エマは少し気まずそうに頷いた。そして階段を静かに上がり、結花の部屋の前で小さくノックした。
『ゆいか? みかん。Let's eat?(食べよう?)』
しばらくの沈黙の後、結花は小さく返事をした。
『うん。』
扉を開けて出てきた結花は、視線をそらすようにして、足早に階段を下りていった。
居間で3人がみかんを摘んでいる。エマは、みかんの白い筋を一本ずつ丁寧に取り除いてから口に運ぶ。結花は対照的に、筋などお構いなく、ぱくぱく食べている。
『冷凍みかんにすっとおいしいんだよ〜。夜になったらまた食べようねぇ。』
明美がそう言うと、結花は通訳をすることもなく黙々とみかんを食べている。
エマは意味はわからなかったが、明美の言葉に反応しないのも悪いので、とりあえずうなずいた。
『ごちそうさま。』
結花は早々にみかんを食べ終わると、それだけ言って、また2階の部屋に戻っていった。
明美は、ふぅっとため息をつくと、重たい腰を上げた。
『昼ごはんもまだだったね。』
そう独り言のように呟きながら台所へと向かい、昼ごはんの準備を始めた。
エマもみかんを食べ終わると、再び日本語の参考書を開いて、勉強の続きをした。
参考書の続きのページをめくる。
”その2 趣味の話”
『たくみ:さくらちゃんの趣味は何?』
『さくら:わたしの趣味は、絵を描くこと。たくみくんの....』
隣のページの英訳と語彙を確認しながら、ゆっくりと意味を理解しながら音読していく。
『しゅみ is something you like to do. (趣味とは何か好きなこと。)』
「What is my しゅみ?(私の趣味ってなんだろ。)」
エマは頭の中で自分の趣味について考えた。しかし、よくよく思い出してみても、何かに熱中したようなものが思いかばなかった。
”さくら”のように、絵を描くのも嫌いではないが、趣味ではない。”たくみ”の趣味は、サッカーとゲームらしいが、それも違う。動物は好きだけど、趣味とは言えないし、日本語は熱中してるけど、趣味というか、必要なことだからやっているという感じが強い。そう考えると、エマは趣味がない自分になんとなく劣等感を覚えた。
すると、明美がキッチンから居間に入ってきた。
『おばちゃん?』
『ん?ちょっと待って。』
明美はそういうと、そのまま居間を抜けてトイレに向かった。
しばらくして明美が戻ってきた。
『どしたら?』
『おばあちゃん。しゅみはなに?』
エマの突発的な質問に、明美は眉間に皺を寄せる。そして少し考え込んだ後、エマを見て答えた。
『そうねぇ、孫の成長を見ることかしら?』
『え?まごのせいちょうをみる?』
『そうそう。それが楽しいんだよ。』
エマはスマホで意味を調べた。
”孫の成長を見る means to see my grandchild grow up”
予想もしなかった答えに冗談かとも思えたが、明美は冗談を言っているようには見えない。
『欲を言えば、あなたたちが成人するくらいまでは見届けれられたらいいね。』
今度は冗談のような明るいトーンで言った。
エマにとって、「趣味」という言葉の定義は曖昧になっていた。しかし、明美の答えを聞いて、趣味が見つからないと変に考えすぎていた自分が馬鹿らしく思えた。
そのあとは昼ごはんを食べてから夕方まで、食いつくように日本語の勉強を続けた。
西の空が真っ赤に染まり始めた頃、誠と霞が帰ってきた。1階が騒がしくなると、結花も疲れた様子で2階から降りてきた。
「疲れたー、お腹減ったー。」
その頃には、エマも勉強を終えてほっと一息をついていた。
誠はキッチンで盛り付けられたトマトをパクッと一口盗み食いをし、思い出したように言った。
『そうだ、ご飯食べたらみんなで庭で花火やろう。今日、ショッピングモールで買ってきたんだ。』
『やったー!』
結花が目を輝かせて言った。
『はなび?』
エマはその言葉を前にも聞いたことがあった気もしたが、思い出せなかった。
『えっとーファイアー...なんだっけ。えっと』
誠は花火の英語がわからず、花火をジェスチャーで伝えようとしている。
『Mmmm, a gun?(鉄砲?)'』
『ノー!!』
『A bomb??(爆弾?)』
『ノーーー!!!』
『Mmmm, a gun?(鉄砲?)'』
誠は悔しそうにして、玄関に置いてあった袋を取りに行った。そして戻ってくると、花火の袋をエマに見せた。
『あ!!はなび!やった!』
とエマも結花のように嬉しそうに言った。
夕食が終わるとすぐに、みんなで花火の準備に取りかかった。
明美は縁側にある一人掛けの椅子に座り、外にいるみんなの姿を見守りながら冷凍みかんをつまんでいた。
霞は蚊取り線香を縁側に設置し、誠は袋から手持ち花火を丁寧に取り出している。結花は水入りバケツを持って、フラフラとした足取りで縁側に歩いてくる。エマは庭の真ん中で、空き缶の中に入った蝋燭に火を灯していた。
『よし、準備はいいだら?みんな好きな花火取って!』
誠が言うと、4人はそれぞれ花火を手に取り、蝋燭を囲うようにして花火を近づける。
最初に誠の花火が点火し、誠の花火を通じて全員の花火も勢いよく輝き出した。
結花がはしゃぎながら火花を振るい、あたりを色鮮やかに照らす。
『ほら、危ないわよ!』
『大丈夫大丈夫!』
はしゃぐ結花の姿を見て、縁側の椅子に腰掛けていた明美が言った。
『美香も子どもの頃は、毎年夏になるとここで花火やってたんだよ。線香花火が好きで、誠と競い合ってたねぇ。』
すると誠が、優しいトーンで静かに言葉を返した。
『姉ちゃん、毎年一回は、必ず線香花火を逆の方からつけてたよ。』
『そんなこともあったけねぇ。』
『エマのおあかさん・はなび、えっと、イン・サマー。』
『I see..(そうなんだぁ..)』
エマは誠の言葉にしんみりとなって、自分の火花の火力が少しずつ弱くなっていくのを見つめていた。
花火の炎が消えると、切ない気持ちが心に広がる。あんなにも美しく輝いていたのに、まるで一瞬で命を失ったかのようにパッと消えていく姿は、どこか突然亡くなった母と重なった。
やがて手持ち花火を使い切り、みんなで線香花火を手に取った。
『これな、線香花火って言うんだ。派手じゃないけど、これにはこれの風情があっていいんだよ。』
『せんこーはなび?』
4人が蝋燭を囲んで腰を下ろし、それぞれの線香花火に火を灯すと、線香花火からパチパチと小さな火花が飛んだ。
結花は、線香花火の光で、ぼんやりと照らされたエマの顔を見た。すると、エマは寂しげな横顔で線香花火を見つめていた。
線香花火の静かに揺れる小さな光が、結花の心にも切なさを呼び起こす。その火を見つめながら、結花はエマの胸にある母の死への悲しみに思いを馳せていた。
もし自分が一年後にエマと同じ年齢になって、霞が急に亡くなったら?そして、見知らぬ国へ引っ越して、知らない人たちと一緒に暮らすことになったら?
そう想像しただけで、胸が締め付けられるような恐怖を感じた。
(エマのが何倍も何倍も辛い状況にいるんだ。)
言葉にならない思いが、結花の胸にこみ上げてきた。
その時、エマと結花の線香花火が同時にポトリと落ちた。
『はい、2人とも負けーー!』
誠が茶化すように言いった。
『まだまだ子どもには負けらんないからな。』
そう誠が言うのを待っていたかのように、誠の花火がすっと消えた。
『えっ?』
と誠が不意をつかれたように固まった。
『消えた?』
結花も不思議そうな顔をして言った。
一瞬の静寂のあと、霞の花火がボトリと落ちる。
『私の勝ちね! 今年も!!』
誠は悔しそうに花火をポイっとバケツに投げ入れながら言う。
『せめて落ちて欲しかったよ。』
みんなの笑い声が広がり、穏やかで優しい空気が流れた。
結花は楽しそうに笑うエマの姿を見ると、さっきまであった心のモヤは、どこか遠くに行ってしまった。
そして、結花の心の中にあったスマホのわだかまりも、一緒になくなっていた。