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 待ちに待った土曜日を迎えた。

 今日はお昼から茂のレストランへ家族みんなで行く。そのあとはスマホを買いに修繕寺から車で20分ほど離れた、三島という街に行く予定だ。

 あれから土曜日を迎えるまでの数日間、エマは毎日朝から晩まで日本語の勉強に費やしていた。外が猛暑日で出たくなかったのもあるが、誠が買ってくれた日本語の教材が、エマの日本語学習の熱をかき立てていた。

 「匠」は、ゼロから日本語を学ぶ外国人向けで、まさエマのレベルに合った教材だった。名前の「匠」の通り、誠が買ってくれた初級の他に、中級・上級の全ての参考書をマスターしたら、日本語の「匠」になれるといったコンセプトのようだ。

 カナダで生まれ育ったエマにとって、第二言語を学ぶのは初めてではなかった。エマが育ったビクトリアでは英語が公用語として話されていたが、カナダのいくつかの州ではフランス語が公用語となっているため、小学校のころからフランス語を学ぶ授業があった。とはいえ、英語ネイティブがフランス語を学ぶのと、全くルーツの違う日本語を学ぶのでは訳が違った。

 「匠」ではまず、ひらがな46文字を学ぶところから始まる。エマにとって「ひらがな」は、丸みを帯びたアートのような、謎めいた文明文字に見えた。まったく馴染みがないため、1文字覚えるだけでも大変だ。

 書き順を間違えたり、バランスが崩れると原型が見えなくなり、全く別の文字のようにも見える。特にエマを苦しめているのが、似ている文字の存在だった。例えば、「あ」を何度も練習した後に「お」を練習すると、その二つの文字は途端に頭の中でごちゃ混ぜになる。同様に「ね」と「れ」、「ぬ」と「め」などの、似たような文字は、エマの頭をひどく悩ませた。

 一方、アルファベットはたったの26文字。形もシンプルで、自分の母国語がいかに覚えやすいものかをエマは実感していた。

 エマは日本語を学ぶことに強い情熱を持っていたが、3日間で覚えられた「ひらがな」は、せいぜい10から15文字ほど。そもそも暗記という作業自体が得意ではなく、意味もわからない文字を何度も書いて頭に染み込ませる作業に、ストレスを感じることもあった。

 しかし、中には一度で覚えられる文字もある。たとえば「く」は、音も見た目もどこか英語の「K」を思わせるし、「の」は「no」の発音に似ていて、形も英語の「O」に似ている。そうした共通点や覚えるための“きっかけ”が見つかると、ただの丸暗記とは違ってすっと頭に入ってきた。そしてその瞬間、意味のない線の集まりにしか見えなかった文字が、自分のものになったような感覚を覚える。その脳に快い電流が走るような感覚は、エマの日本語学習にますます拍車をかけた。

 時刻は12時を過ぎ、レストランの予約している時間に差し迫って来た。エマは出発のギリギリまで「匠」を使って、ひらがなの書く練習をしていた。

 各々が準備を終わらせて、誠の黒いミニバンに乗り込む。車内の温度を一気に下げるため、社内はエアコンが全開で肌寒い。助手席には霞、二列目に明美、敏朗、三列目に結花とエマが座りこむと、誠がサイドブレーキを外した。

 『じゃあ、出発すんべ!』

 『ゴーゴー!!』

 誠に続いて、結花も高いテンションで言った。

 道中の車の中では、イタリアンの話で賑わっていた。

 『私のおすすめは、やっぱりマルゲリータピザかしら!』

 霞が言うと、エマも目を輝かせて答えた。

 『Margherita pizza!! Very おいしい!』

 『あ、エマちゃんも食べたことあったんだっけね!美味しいよね!』

 すると今度は、明美が敏朗に尋ねた。

 『イタリアンなんてさぁ、最後に食べたのは、いつだったかねぇ、じいさん?』

 『さぁーなぁ、何年か前だか、それとも何十年も前かもわからないな。』

 『俺だって、イタリアンなんか最後にいつ食べたかわからないよ!』

 誠はバックミラーをちらっと見て言った。

 竹田家はイタリアンとは遠く離れた家庭だ。エマが竹田家に越してきてから、朝ごはんにトーストが出てくることは稀にあったが、それ以外は基本的に和食だ。もしかしたら、イタリアンがなんなのかよく知らないのは、結花だけじゃないのかもしれない。

 『車を運転しないでよかったら、シャンペーンでも飲んだのに。』

 と誠が言うと、霞がすかさずツッコミを入れる。

 『シャンパンはフランスでしょ?』

 誠は聞こえなふりをして、話題を変えた。

 『そ、そーいえばさ、エマの在留カードのことだけど、審査に一ヶ月くらいかかるんだって。』

 『在留カードってのは、なんだら?』

 と明美が聞く。

 『まぁ、ざっと言えば、それがないと日本に住めないんだよ。』

 『ありゃまぁ、そりゃぁ大変だねぇ〜。』

 『在留カードがないと役所の手続きとかもできないんだ。』

 すると、今度は霞が聞く。

 『学校が始まるまでには間に合うのかしら?』

 『学校のほうは市役所に事情話したら、気持ちよく受け入れてくれたよ。手続きはあとでも構わないって。8月の後の方に、一遍学校に来てくれって話になったから、また日にち決まったら連絡くるらしい。』

 『そうなのね、よかった。エマちゃん、修善寺中学校に行くことになるのね?』

 『そうそう。去年、市内の三つの中学校が閉校して、今は新しくて綺麗な学校が建っただら?修繕寺駅からも近くていい感じだよ。』

 『でも、こどもが毎年毎年少なくなってくんのは、悲しいねぇ。』

 明美がぼそっと暗いトーン言った。

 『そうですね、お母さん。日本はこのまま行くと2100年には人口が半分になるって言われてますもの。』

 と霞が真剣に答えた。

 『そん時には、俺っちらの誰もいないだろうな。』

 誠が皮肉気味に答え、さらにエマに話しかける。

 『あ、エマ。ユー・ゴー・トゥー・ジュニアハイスクール・アフター・サマー・バケーション。』

 『あ!ちゅうがっこう?』 

 『お、知ってるら?』

 すると、結花が後ろの座席から前のめりになって言った。

 『結花が教えたんだよ!!』

 エマは中学校に行くということを聞いて、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。 

 ただでさえ日本語が理解できない上に、学校なんてついていけるのか?友達ができるのか?いじめられないか?いろんな不安が一斉に込み上げてきた。

 『エマにとって、日本の学校に通うってのはハードルが高いよな。でも、学校は行ってもらわないといけないから、頑張れとしか言えないよ。』

 誠が同情を込めて言った。

 『本当ね、学校生活の中まではサポートできないから。エマちゃん、ファイト!!』

 霞が応援するように言うと、エマが不思議な顔をして返事をした。

 『ファイト??』

 『あれ、ファイトって英語じゃないのかしら?』

 霞は気になり、英語での「ファイト」の意味をスマホで調べた。

 『えっと、ファイトは英語では、戦え!喧嘩しろ!と言う意味になります。』

 霞がスマホの検索結果を読み上げる。

 『あら、そう言う意味じゃなかったんだけど。つまり、エマちゃん、グッドラック!!』

 『Ah, Okay. Thank you.』

 エマは納得して答えた後、すぐに修善寺駅の近くのコインパーキングに着いた。

 駐車場に車を停めて、少し歩いて"The Mozzo"へ向かう。

 お店の前の交差点に着き、信号が青に変わるのを待っていると、結花がお店の名前を眺めて言った。

 『ザ・モゾ?変な名前ー。』

 すると誠が答える。

 『モッゾじゃないか?イタリア語かな。』

 『それはどいう意味なの?』

 結花の質問に、誠は少し考えてから答えた。

 『んーイタリアの地名だら。』

 『へーー。』

 結花は感心したような顔を浮かべる。

 信号が青になり、横断歩道を渡り終え、お店の前に着いた。すると、スマホでなにやらチェックしていた霞が誠に言った。

 『確かに、Mozzoって場所の名前がイタリアにあるわ。』

 『そうだら?』

 誠は誇らしげな笑みを浮かべてながら、お店のドアを開けた。

 お店に入ると、女性の店員が明るく声をかけた。

 『いらっしゃいませー。』

 『えっと、6人で予約してた竹田です。』

 『お待ちしておりました。こちらへどうぞ。』

 お店は土曜日のお昼時ということもあり、賑わっていた。

 サイクルジャージ姿の自転車乗りの人々、おしゃれなランチを楽しみに来た主婦たちが、パスタやピザを嗜んでいる。

 みんなは、お店中央の6人席へと案内された。

 案内してくれた女性の店員は、この前働いていた人と同じで、エマを見てニコッとすると、エマは自分を覚えていてくれたことが嬉しくて、自然と笑みを浮かべた。

 テーブルの上にはランチセットのメニューが置いてあり、席に着くとそれぞれが物珍しそうにパスタの写真を眺めながら、どれにしようかと真剣な眼差しで選び始めた。敏朗はメニューよりも、店内に展示されている自転車の方に興味があるようだった。

 席についてから数分が経ち、店員の女性が、人数分のお水を持って注文を伺いにきた。

 『ご注文はお決まりでしょうか?』

 『俺は、ボロネーゼとサラダのセットにしようかな、大盛りでお願いします。』

 『ボロネーゼが何か知ってるの?』

 と霞が誠に聞く。

 『あたり前だら!?ひき肉とトマトを、えっと、赤ワインでじっくり煮込んだミートソースパスタだよ。』

 誠が言った事は、メニューに書いてあることと、一言一句同じだった。

 それに気づいた霞は、くすくすと笑った。

 『なんだかよくわかんないし、あたしも同じのにしようかねぇ、普通のサイズで。ねぇ、じいさん?』

 明美の問いかけに敏朗は小さく頷いたが、敏朗の視線はまだ、店内に飾られている自転車に向いていた。

 『結花は、カルボナーラにオレンジジュース。』

 『私もそうしようかしら。それにサラダセットで。』

 『I'll have the pescatore and a glass of orange juice, please.(ペスカトーレとオレンジジュースで、お願いします。)』 

 『それとみんなでつまめるように、ピザを2つくらい頼んでみよっか?』

 誠が霞に提案した。

 『そうね。じゃあ、マルゲリータピザと、このジェノベーゼピザをお願いします。』

 女性の店員は料理を復唱し、オーダーに間違いが無いか確認を済ませると、深々と頭を下げて厨房へと戻っていった。

 『修善寺に、こんなオシャレな店あるんだなー。まるで都会に来たみたいだ。』

 『ほんと、東京まで行かなくて済むわね!』

 誠と霞の会話に、明美が続けて言う。

 『でも、なんでまた修善寺で店やることにしただろうねぇ?』

 『修善寺が好きなんじゃないら?』

 と誠が答える。

 すると店内に置かれている自転車を眺めながら、今度は敏朗が言った。

 『この店のオーナーさんがチャリ好きってのは、店ん中の自転車を見りゃすぐわかる。伊豆もチャリで有名だしな。』

 霞が納得した様子で答えた。

 『確かに、車で走ってると、天城の峠を自転車で登ってる人をよく見かけますよね。あんな坂道を自転車で、見ているだけの私も疲れちゃいましたよ。』

 『そういえば昔、修善寺から達磨山まで、親父にヒルクライム連れてかれた時は、酷い目に遭ったなぁ。』

 敏朗が誠に向かって言った。

 すると、誠が答える前に、霞が目を丸くして聞いた。

 『あの達磨山まで自転車で?』

 『そうだよ。まだ小学生だったのに!』

 誠が不満じみた声で言い返すと、敏朗がふっと笑いながら言った。

 『あんときは、誠はピーピー泣いとったな。』

 『小学生にはキツすぎる!』

 『でも、帰りの下りは一変して楽しそうだったな。』

 『帰りは一回もペダル漕がなくてよかったから!』

 いつも無愛想なことが多い敏朗も、昔のことを思い出して楽しそうに話してる。エマにとっては、敏朗が楽しそうにしている姿は初めてで、とっても新鮮に感じた。

 それからしばらくして、女装のスタッフと茂が料理を運びにきた。

 『お待たせしました、こちらはボロネーゼの大盛りになります。』

 『おーー美味しそう!』 

 それぞれの料理がテーブルに置かれると、誠が簡単なお礼を口にした。

 『今日はわざわざ気を遣って来ていただいてありがとうございます。』

 『このあいだは、エマがたいへんお世話になりました。』

 明美が茂にお礼を述べた。

 『いえいえ、無事に帰れてよかったです。』

 エマも、少し硬くなりながらも思いを込めて伝える。

 『あの、ありがとうございました。』

 『あっ、いえいえ、こちらこそ今日は来てくれてありがとうね。』

 エマは、日本語で感謝の気持ちが言えてなんだか嬉しかった。やっぱり日本人には日本語で伝えた方が、何もフィルターを通さずに、直接気持ちが届いているような気がする。

 それから茂は、料理の説明を日本語と英語を交えて丁寧にしてくれた。その真剣で熱い説明から、料理にはとてもこだわりがあることが伝わる。

 『ではごゆっくりとしていってください。』

 『あ!』

 茂がキッチンに戻ろうとした時に、結花が茂を呼び止めるように言った。

 『モッゾって、意味はなんですか??』

 『すいません。お忙しいのに。この子、お店の名前が気になってるんみたいで。』

 霞が申し訳なさそうに言う。

 『大丈夫ですよ。“Mozzo”ってイタリア語で、自転車のハブ、つまり、タイヤの軸のことなんです。修善寺で、そんな“中心”みたいな存在のレストランになれたらと思って。あと、修繕寺には自転車をコンセプトにしたレストランがなかったので、サイクリストが来たときに、ふらっと寄ってもらえる場所にもしたいなっていう思いも込めてます。』

 『素敵な名前ですね。結花よかったわね!意味がわかって。』

 と霞が言うと、結花は茂にお礼を伝えた。

 『ありがとうございます!』

 『いえいえ、また気になることがあったら何でも聞いてね!では、ごゆっくりと。』

 茂は軽く会釈すると、キッチンの方へ戻って行った。

 茂の姿が完全にキッチンへと消えた時、結花が誠にだけ聞こえるように小さく言った。

 『場所関係ないじゃん。』

 誠は聞こえないふりをして、手を合わせながら言った。

 『ほら、結花。パスタが冷めるぞ。いただきまーーす!』

 明美、敏朗、誠、結花、おそらく初めての本格イタリアン。普段お箸しか使わない食卓で慣れているせいか、フォークを使ってパスタを食べている家族の姿が新鮮に見える。

 『美味しいわね。やっぱりチーズの合う料理ってイタリアンって感じがするわ。』

 竹田家の中では一番イタリア料理に詳しそうな霞が言った。

 『確かに、どの料理にもチーズはだいたい合うな。』

  と誠はなんとなくで会話を合わせる。

 『じいさん、今度町内会のみんな誘って、イタリアンパーティでもしたらいいんじゃないかねぇ?』

 『いいかもしれんな。町の爺さん婆さんも、イタリア料理なんぞ食ったことねぇだら?』

 『流石に、そりゃ一度くらいはあるんじゃないかね〜。』

 敏朗と明美の会話の後、結花が何か企んだような顔をして言った。

 『ここで働いたら、いつもイタリアン料理が無料で食べられるかな?』

 『そりゃ、働けたら賄いでるんじゃないか?でも、ここで働きたいって人は多そうだからな、雇ってもらえるかどうかな。』

 誠がそう言うと、霞も付け加えるように言った。

 『そうよ。そんな甘い考えじゃダメよ。それにここは、外国人のお客さんも多いから、英語が話せないと雇ってもらえないんじゃい?』

 『英語...。』

 結花は、そのハードルの高さに諦めたような表情をみせた。

 『エマちゃんなら、あと3年経って高校生になる頃には、日本語にも慣れて、雇ってもらえるかもね!』

 と霞が言うと、結花はエマに嫉妬した。

 『ずるい!!結花だって3年もあれば英語は話せるようになるよ!中学校でも英語の勉強するでしょ?』

 『いいねぇ。結花とエマどっちが外国語が上手くなるか、勝負しても面白そうだな』

 と誠が、結花の勉強に熱を入れようとした。

 『でも、結花のモチベーションって続くのかしら?』

 霞がそう言うと、今度は敏朗が入ってきた。

 『賄いのために学ぶのと、生活のために学ぶのとじゃあ、偉い差だな。』

 敏朗、誠、霞、この3人は、結花のモチベーションは続かないだろうと、心の中で確信していた。

 それから食事は進み、最初に食べ終わったのは1人大盛りを頼んでいた誠だった。みんなよりも早くパスタを食べ終えると、苦しそうに腹を摩っていた。

 『結構量もあるな。とにかく美味しかった!』

 それから結花、敏朗、霞、エマ、明美と、順々に料理を食べ終わった。そしてみんながほっと一息つき、お客さんが帰り始めているのを察した霞が口を開いた。

 『そろそろおいとましましょうか?』

 『そうだな。いや〜、うまかったなぁ。また来よう!』

 そう誠が答えると、結花がメニューを眺めながら言う。

 『え?修繕寺パンナコッタってあるよ?』

 『さっき、お腹いっぱいって言ってなかったら?』

 誠が結花に念を押す。

 『余裕。』

 と結花は、絶対的な自信を込めて言った。

 『でもテイクアウトして、夜のデザートにしたらどう?今は私もお腹いっぱいだし。』

 霞にそう言われたら誠は、パンナコッタを6個テイクアウトすることにした。

 会計の場で、誠がパンナコッタを6個お持ち帰りできるか女性の店員に尋ねた時、エマがそっと誠に言った。

 『えっと、can we have panna cotta for my mother too?』

 誠は何も言わずにニコッと笑顔で返し、パンナコッタを7個テイクアウトした。

 お会計も済まし、入り口を出ようとした時、キッチンから茂が出てきた。

 『本日はご来店いただいて、ありがとうございました。またいつでもお待ちしております。』

 『今度はじいさんばあさん達も一緒に連れてきますね。ご馳走様でした。』

 と明美が言うと、後に続くように

 『ご馳走様でした。』

 とみんなが声を揃えて言い、お店を後にした。

 それから一旦みんなを家に送ってから、誠とエマは2人で三島に向かった。

 三島までは、温泉街のところから有料のバイパスを使って行く。

 バイパスは橋の上にあるので見晴らしがよく、大きな狩野川を横目に、岩肌の見える絶壁の山々や、町の風景が一望できる。時々トンネルに入ることもあり、何だか別世界へワープしているようでワクワクした。

 トンネルを抜けると、ぱっと明るい景色が広がり、視界の中にはひときわ大きく富士山がそびえ立っていた。エマが誠に連れられて修善寺を訪れた日、三島から修善寺へ向かう電車の窓からも、富士山は見えた。だから、その時に名前だけは誠から教えてもらっていた。

 『Wow, ふじさん is massive.(富士山、すっごい大きい。)』

 エマは富士山を指さして言った。

 『マッシブ??』

 『うん。So big!!』

 『あぁ。えっと、富士山の高さって教えたっけ?』

 『え?ふじさんのたかさ?』

 『そうそう、ハイト!高さ!』

 『Oh, the hight. I guess、えっと、maybe six thousand meters?(6000m?)』

  エマの予想をはるかに超える数字に、誠は思わず笑った。

 『シックス・サウザンド?それは高すぎだな。3,776メートルだよ。これでも、日本でいちばん高い山なんだよ。』

 『さんぜん、なな、ろく??』

 エマは日本語の数字、特に大きな数字はまだわからない。

 『スリー・セブン・セブン・シックス。』

 『あーOkay。The highest mountain in Japan?』

 『うん。ナンバー1。』

 誠は誇らしげに言った。

 『Woo、Cool!!(え、すごい!)』

 日本一と聞くと、富士山はさらに偉大に見えた。

 それからバイパスを下りて大通りをまっすぐ走らせたら、三島のスマホショップに着いた。

 スマホショップに入るやいなや店員が近づいてくると、誠に話しかけた。

 『ただいま、混み合っておりますので、座席にお掛けになって少々を待ちください。』

 誠は店員に軽く会釈すると、エマにそっと内容を伝えた。

 『少し待つことになりそうだって。ウィー・マスト・ウェイト・リトル。』

 『うん。』

 2人は長椅子に腰掛けて、店員に呼ばれるのを待った。

 エマは家から持ってきた古いスマホを、お店のWi-Fiに繋いだ。すると、すぐにアメリカの友達から心配するメッセージがいくつも届いた。

 “Where did you go? Are you okay? miss u(どこに行ったの?元気?さみしいよ。)”

 エマはすぐに返事を返さなかった。悪い気もしたが、どう返事をすればいいかわからなかったし、今はまだ返事をする気分にはなれなかった。

 エマは他の友達からのメッセージも読んでいると、店員に呼ばれカウンター席に案内された。

 誠がすべて手続きをしてくれて、エマは横でなんとなく頷いているだけだった。日本語の説明はまったく聞き取れなかったが、店員が説明で使用している冊子に書かれた「20GB」の文字だけは理解できた。スマホは水色、薄いピンク、そして黒色から選べた。特にこだわりがあるわけではなかったが、何となく爽やかな見た目の水色を選んだ。

 新しいスマホは店員が初期設定からデータ移行まで全てやってくれたので、案内されてか15分ほどで全ての手続きが終わった。

 『思ったより早く終わったな。じゃあ、家っちに帰るか。レッツゴーホーム!』

 『うん。ありがとうございます。』

 『えっ?あぁ、ありがとございますってのは固いから、家族では使わないよ。』

 誠は軽く笑いながら言った。

 『かたい??』

 『んー、フォーマルってこと。』

 『あ、Okay。ありがと。』

 そう言うと、エマは新しいスマホを大事にポケットにしまった。古いスマホは、購入したスマホの箱が入っている紙袋の中へ入れ、店を出た。

 帰り道の車の中、誠がふと閃いたように言った。

 『あ、そうだ。富士山がすっごくよく見える場所があるんだよ。行ってみるら?』

 『よくみえるばしょ?』

 『だるま山って言うんだ。』

 『だるまやま?』

 『そうそう。ま、着くまでのお楽しみっ!』

 誠はニヤッと笑って、英語での説明はしなかった。

 帰りも20分ほど掛けて、バイパスを通って修繕寺まで戻ってきた。

 温泉街から家の方へ向かう途中、まっすぐ行けば帰れる道を、右折して山道へ入った。

 そこからはクネクネとした坂道をどんどん登っていく。周りは森に囲まれていて、方向感覚も、今どのくらい高いところにいるのもわからなかった。

 時折、山道を降りてくる車やバイクとすれ違ったり、この山道を自転車で登っていく強者たちを追い抜くこともあったが、基本的に車通りや人通りはない山道で、たまに人間をみるとなんとなく安心する。

 15分ほどアクセルを踏み続け、ようやくトイレと駐車場のある、開けた場所に到着した。

 車を降りても山の上の涼しさはなく、相変わらず暑い。そして、少し離れた山々からは、蝉の鳴き声が聞こえる。

 『エマ、目つぶって?クローズ・アイ。』

 エマは誠に言われた通り目を閉じると、誠にエスコートされながらゆっくりと歩き始める。エマは下を向きながらも、少し目を開けて足元だけは確認していた。駐車場から伸びるコンクリートの道を50メートルほど進むと、足元の道がウッドデッキに変わった。

 『よし、オープン・アイ!』

 エマは薄目で地面を見ていた顔を正面に向けて、パッと目を大きく開けた。

 すると、左手には広々とした海、右手には雄大な山々が連なり、正面の遠くには街の景色が広がっている。そのさらに奥には、雲を突き抜けるように富士山が堂々とそびえ立ち、まさに絶景が目の前に広がっていた。

 『いい景色だら?』

 エマはその景色に見入ってしまい、数秒してから小さく答えた。

 『So beautiful…(綺麗。)』

 『ここは車じゃなきゃなかなか来れないから、ゆっくり見るといいよ。』

 誠はそう言うと、駐車場の方へと戻っていった。

 エマはポケットから、さっき買ったばかりの新しいスマホを取り出し、写真を一枚撮った。

 母の死んだ辛さも、孤独感も、新しい生活への不安な気持ちも、常に心の片隅にはあるけど、この景色を見ていると、なんだか心が晴れて清々しい気持ちになる。

 エマは撮った写真を添えて、カナダの友人にメッセージを送った。

 『So sorry for the late reply. I'm in Japan now, but I'm doing fine.Thanks a bunch for checking in! Miss you too!XOXO(返事遅れてごめんね。今は日本にいるんだ。私は大丈夫だよ!気にしてくれてありがとう!私も会えなくてさみしいよ!)』

 メールを送り終えた時、両手に缶の飲み物を持った誠が戻ってきてた。

『もう何回来たかわかんないけどさ、やっぱこの景色は、何度見ても絶景だなぁ。』

 誠はそっとエマに冷たいカフェオレ手渡しながら言った。

『ありがとう。』

 エマは、かぱっと栓を開けてカフェオレを啜った。

 それから誠は、ここから見える駿河湾という海の名前、沼津という街の名前や、さっきスマホを買った三島の街の方向を指差して教えてくれた。

 『ここは夜も静かでさ、ひとりで黄昏に来るのもいいし、デートスポットとしても最高だ。』 

 エマはきょとんとしながら、誠の話を聞いていた。

 『まぁ、サムデイ・ウィズ・ユアー・ボーイフレンド。』

 エマは意味がわかると、笑って返した。

 『I hope so.(そうだね。)』

 それから、しばらくはここに来れないかなと思い、たっぷりと景色を目に焼き付けていると、山の方から『ピーー!!』っと甲高い動物の鳴き声がした。その声は聞き覚えのある、何だか懐かしい音だった。

 エマが鳴き声がした方向を眺めていると、誠が言った。

 『これは、鹿の鳴き声だよ。』

 『しか?Deer?』

 『あ、そう。ディアー!!なんでわかった?』

 『There are a lot of deer in Canada, too.(カナダにも鹿ってたくさんいるんだ。)』

 『そっかぁ、カナダを思い出した?』

 『おもいだした??』

 『えっと...』

 誠はスマホの翻訳アプリと開いた。

 『ダズ・イット・リマインド・ユー・オブ・カナダ?(カナダを思い出した?)』

 『うん!A little.(少し。)』

 エマの顔はどこか嬉しそうにも見えたが、同時に寂しそうにも見えた。

 それからまた、しばらく景色を眺めてから帰った。家に着く頃には、西の空がぼんやりと赤く染まり始めていた。

 「ただいま〜!」

 と言いながらエマが玄関に入ると、居間から結花が小走りで出てきた。

 目を輝かせるようにして結花が来ると、エマは古いスマホを結花に渡すため、紙袋の中に手をいれる。

 しかし、そこには古いスマホは入っていなかった。

 『What?(え?)』

 エアは慌ててポケットに手を突っ込んだが、そこに入っていたのは新しいスマホだった。

 エマは額に脂汗を感じながらも、最後に古いスマホを触った時を必死に思い出そうとする。

 (Ah, right... I touched it when I transferred the data at the phone shop. And then... oh yeah, I reset it to give to Yuika when we were at Mt. Daruma, looking at the view...(えっと、そうだ。スマホショップでデータを移行する時に触って、それで、あ、達磨山で景色を見てる時に、結花にあげるために初期化したんだ。))

 達磨山で古いスマホを見たのが最後、それ以降の記憶がなかった。

 エマは気まずそうにして、結花に言った。

 『Sorry. I lost my old phone…(ごめん。古いスマホを無くしちゃった。)』

 すると結花は口を開けて一瞬固まった後に、小さなトーンで聞き返した。

 『え?』

 『I think I lost it...(無くしちゃったみたい。)』

 『 くれるって言ったじゃん!』

 結花は心の声がそっと漏れてしまったことにハッとしたが、エマには理解できてはいなかった。

 玄関に沈黙が流れる。

 後から玄関に入ってきた誠は、その重たい空気をすぐに察した。そして状況が理解できると、優しい声で言った。

 『展望台に休憩所があったら?そこに電話してみよう!もしかしたら、誰かが届けてくれてるかもしれない。アイ・コール・ダルマヤマ。』

 『うん。』

 エマの声にはすっかり元気がなかった。

 すると、その暗い空気を吹き飛ばすように、居間から明美が顔を出して言った。

 『ほれ、そんなとこでなにやってんだら?ごはん冷めるよ、早やく食べな。』

 誠とエマは夕食の準備が整った居間へと向かった。だが結花は黙ったまま、階段を駆け上がって自分の部屋へと消えていった。その背中は、とっても寂しそうに見えた。

 結花も今日という日を心待ちにしていたのだ。エマがスマホを買ったら、自分も“おさがり”をもらえると、ずっと楽しみに信じていたから。

 ご飯の前に、誠が達磨山の休憩所に電話をかけて、心辺りのある場所を捜索してもらったが、スマホは見つからなかった。

 『明日もういっぺん電話してみるよ。』

 と誠がエマを慰めるように言うと、エマは小さく頷いた。

 その夜、結花とエマの間にはわだかまりが残ったまま、長い一日は終わった。


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