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3/13

 エマが修善寺に来て3日目を迎えた。

 子どもたちは夏休みの真っただ中だが、大人たちは変わらず仕事で、誠は慌ただし朝の準備に追われている。

 エマも、誠たちが起きてくると大体その物音で目が覚める。目が覚めたときにはいつも喉がカラカラで、唾を飲み込むと喉の奥がつっぱるようだった。そして渇いた喉を潤すために、ふらふらと一階へ降りる。

 居間のテーブルには、焼きたてのトースト、カリッと焼き上げられたベーコンに、ふわふわの黄色い卵焼き、イチゴやブルーベリーのジャム、マーガリンが並んでいる。ずっと和食だったが、今日は初の洋食の朝ごはんだった。

 朝食はバラバラに始まることが多く、結花はいつも寝ていていない。敏朗、誠、霞が3人で先に朝食を食べていた。

 エマもテーブルの前に座り、

 「いただきます。」

 と言って、卵焼きを一口ぱくっと食べた。

 卵焼きはほんのりと甘くて、母が作ってくれた卵焼きもこんなふうに甘かったことを思い出した。母親の味かと思っていたが、この甘さは”明美ゆずり”の味だったことに気づいた。

 誠はスーツのズボンにワイシャツ姿で、トーストを忙しなく口に運び、喉につかえをコーヒーで無理やり流し込んでいる。そしてむせながらも、エマに話しかけてきた。

 「っエマ、ゴホゴホ。っそういやさ、ここ田舎だからどこ行くにも、ちょっと遠いんだ。だからせめて、自転車くらいあったほうがいいら?」

 そう言って、自転車をこぐジェスチャーをしてみせる。

 「Bicycle?」

 エマは首をかしげながら言った。

 「イエス!イエス!バイシクル!!」

 誠はうなずきながら、さらに続ける。

 「えっと、キャン・ユー・ライド?」

 「Yes, I can ride a bike.(うん、乗れるよ。)」

 「グレイト!」

 誠は続けて、コーヒーを啜っていた敏朗に話しかけた。

 「おやじの古いママチャリ、まだあるだら?」

 すると敏朗が答えるよりも早く、明美が台所から顔を出して答えた。

 「物置に入ってるねぇ。たしかタイヤ、パンクしてたんじゃなかったら?霞さんが乗らなくなってから、もう一年くらい誰も使ってないよ。」

 「パンクしてから、それっきりですね。でも、壊れたわけじゃないですよ。」

 と霞が付け加えるように言った。

 「パンクぐらい、すぐ直せるだら?」

 誠が敏朗を見て言う。

 少しの沈黙のあと、敏朗が口を開いた。

 「あとでちょっと、見てみるか。」

 エマは、会話の内容はわからなかったが、自転車について話しているのだろうと思いながら聞いていた。

 「ジーチャン・バイシクル・直す・メイビー・トゥデイ!」

 誠はエマに向き直り、にこっとして親指を立てて言った。

 「Naosu?」

 「えっとー直すは。」

 誠はスマホで「直す 英語」と調べると、『Fix』という言葉が出てきた。

 「あ、フィックス・バイシクル!」

 「Ahh, Okay. Sounds nice! Arigatou.(あ、やった。ありがとう。)」

 エマにとって、カナダに住んでいた時は自転車は必要な存在だった。スーパーに行ったり、友達の家に行ったり、学校や母親と出かける以外は、基本的には自転車だった。それにサイクリングもよくした。特に風の気持ちいい日に自転車に乗っていると、悩みやモヤモヤした気持ちが後ろに吹き飛んでいく気がして好きだった。

 誠と霞が仕事に出掛けて、気づけば10時を過ぎていた。

 誠は小学校の先生で、家を出るのは大体7時くらいだ。霞は旅館の清掃のパートをしているので、大体9時前には家を出る。結花はほんの少し前に、小学校のプールに遊びに行った。 

 みんなが出かけていった後、エマは静かな縁側に腰掛け外を眺めていた。

 庭の隅には古びた小さな物置があり。その物置の前には、カゴの付いた水色のママチャリが停めてある。敏朗が物置から出したようだ。

 エマは縁側の窓を開けて、下に置いてあったサイズの大きいサンダルを履き、自転車の前へと向かった。どこかくたびれて見える自転車は、後輪のタイヤの空気がすっかり抜けぺちゃんこに潰れている。ハンドルを覗き込むとギアは3段変速だった。

 しばらくすると敏朗が玄関の方から歩いて来た。エマはそっと自転車から離れて、木の木陰の方へと移動した。

 敏郎は水の入ったバケツと工具箱を持ち、首には白いタオルをかけている。無言のまま静かに自転車の前にしゃがむと、前後のタイヤを触った。

 「うしろの空気は抜けてるか。前は.....大丈夫そうだな。チェーンもちっと錆びてるけど、このくらいなら使えるな。」

 敏朗はブツブツと独り言を言いながら、工具箱を開け黙々と作業に取りかかる。

 慣れた手つきで後輪を外し、中のチューブを取り出す。そしてチューブを水の入ったバケツに沈めて、空気の漏れを調べていく。ぷくぷくと小さな気泡が出てくる穴を見つけると、その部分をやすりで削る。やすりで表面をなめらかにしてから糊を塗ってしばらく乾かした後、その上にパッチを貼りつけた。パッチを乾かしている間も、敏朗はタイヤの裏面に何か異物がないか念入りに調べていた。

 それから5分くらいが過ぎ、敏朗がチューブに空気を入れると、チューブはしっかりと膨んだ。

 「よし。」

 と言ってチューブの空気を一度抜き、タイヤへ取り付け始めた。

 蝉の鳴き声に混じって、時おり金属の軋む音、ペダルを回す際にチェーンがなる音、どれも聞いていて心地よかった。敏朗の無駄のない動きを見ていると、昔から自転車が好きで、よくいじっていたんだろうなと思った。

 外の暑さに耐えかねなくなったエマは縁側に戻り、家の中から敏郎の作業を見ていた。

 作業を始めてからおよそ30分が経った頃、敏朗は縁側にいるエマに声をかけた。

 「直ったぞ。」

 エマは縁側のサンダルをつっかけると、サイズの合わないサンダルをカパカパと鳴らしながら、小走りで敏朗のもとへ向かった。

 敏朗はサドルをポンポンと軽く叩くと、後ろに下がった。

 「Okay!」

 エマはワクワクしながら自転車にまたがった。

 両足のつま先が地面にギリギチ届くくらいで、少しふらりとしながら漕ぎ出す。ペダルを数回漕ぐとすぐに敷地の端まで到達し、エマはくるりと小さく旋回して戻ってきた。

 敏朗は一度エマを自転車から下ろし、サドルの位置を少し調整した。

 調整されたサドルにエマが跨ると、今度はしっかりとバランスが取れるくらいまで足が地面についた。

 エマはすっかり嬉しくなって、自転車にまたがったまま敏朗に言った。

「Ittekimasu!」

 そのまま玄関の方へ向かってゆっくりとペダルを漕ぎ出す。玄関の前を通り過ぎたあたりで、玄関から明美の声が聞こえた。 

 「エマちゃん!帽子かぶってきなさい!」

 そう言いながら、手に麦わら帽子を持って玄関から出てきた。そして、エマのもとへ駆け寄ると、帽子をそっとエマの頭にかぶせる。

 「Thank you. Ittekimasu!」

 エマはにっこりと笑って言った。

 明美は少し不安げな顔で、エマの後ろ姿を見送り、庭からバケツを手に持って戻ってきた敏朗も、玄関先で静かにエマの背中を見送った。

 エマが後ろを振り返ると、明美は手を振っていた。敏朗は一瞬だけ目が合ったが、特に手を振ることもなく、家の中へと入っていった。

 エマは”チリリン”とベルを鳴らす。その音は、蝉の声にかき消されることもなく、玄関の中まで響いた。

 エマは特に行き先を決めることもなく、ゆるやかな傾斜を勝手に進む自転車の流れに身をまかせていた。

 最初に通りかかったのは、結花の通う小学校。通りからは見えなかったが、校舎の奥の方からは子供達の賑やかな声が響いてくる。きっと、プールに行っている結花の声も混ざっているだろう。

 小学校を通り過ぎ、エマは住宅街を気の向くままに進んでいった。結花と訪れた商店や公園もあっという間に後ろに流れ、家を出てからまだ5分も経たないうちに、温泉街にたどり着いた。

 今日は平日だからか、観光客の姿もまばらで、温泉街は落ち着いている。川沿いに続く道には、鉄の赤い柵が設けられていて、それが周囲の風景によく映えている。修禅寺や老舗旅館、土産屋さんを横目に、なだらかなスピードで下っていく。

 ぺダルをほとんど漕ぐことなく、10分くらいで山の麓まで降りてきた。

 山の麓には大きな川が流れていて、『修善寺橋』と書かた大きな赤い橋にたどり着いた。「修善寺」の文字は駅や看板で何度か見たことがあったので、もう見慣れている。もちろん漢字の意味はわからないし、書くことも不可能だ。修善寺橋の『橋』という漢字は、教えられなくても橋のことを表していることは見ればわかった。

 橋を渡って、人通りの少ない小さな商店街を抜けると、すぐに修善寺駅のロータリーに着いた。家から駅までの道は、基本的には一本道で続いており、スマホがなくても迷う心配はない。

 改札のあたりを見つめながら、エマは2日前の自分を思い返した。不安と緊張で胸がいっぱいだったあの日。たった2日しか経っていないという事実が信じがたく、同時に、2日前までカナダにいたという現実もどこか夢のように感じられた。

 感傷に浸る暇もなく、喉の渇きがエマを現実に引き戻した。やはり、自転車を降りると風がなくて暑い。

 エマは、改札のすぐ隣にあるコンビニの傍に自転車を停めた。そして自転車を降りた時、サイズの違うサンダルをそのまま履いていたことに、今さら気づいた。

 見た目はダサいし、歩きづらいくて嫌だなと感じたが、それよりも意識は自転車の鍵に向かった。家からロックを持ってきていないことに一瞬焦ったが、幸いにも後輪を見ると簡易的なロックが付いていて、レバーを下ろすとタイヤにロックが掛かった。

 「Is this really safe?(こんなので盗まれないの?)」

 エマはその簡単に壊せそうな頼りないロックに、自転車が盗まれないか不安に思った。

 カナダでは、バイクラックや支柱に、自転車のボディやタイヤをU字ロックなどでしっかりと施錠するのが普通なので、自転車を持ち上げたらそのまま運べてしまうような鍵の掛け方はしない。

 とは言え、他に方法もないので、エマは急ぎ足でコンビニへと向かった。

 店内は外の暑さを忘れてしまうほど冷えていて、むしろ肌寒い。

エマは店の奥へと進み、びっしりと冷たい飲み物が並んだ冷蔵棚の前に立った。棚の中央に並ぶ、桃のイラストが描かれたペットボトルに目を留めると、迷うことなくそれを手に取り、他の飲み物には一切目もくれずにレジへと向かった。

 ポケットに手を入れると、昨日のお釣りの320円がそのまま入っていた。飲み物は150円だったので、ついでにお菓子でも買おうかと一瞬考えたが、自転車が気になったので、飲み物だけ買ってさっさと外に出た。

 自転車が無事にあることを確認し、コンビニのすぐ外にあるベンチに腰を下ろす。

 そして、味を確かめるように飲み物をひと口飲んだ。無色透明なのに、ほんのり桃の香りとやさしい甘みが広がり、冷たくて美味しかった。

 次は勢いよくボトルをあおった。

 「ゴクゴクゴク...」

 と音を立てながら喉の渇きを一気に潤すと、500mlのボトルはもう半分以上なくなっていた。

 穏やかな駅前のロータリー。雲ひとつない、まっさらな青空を見上げながら、エマはもう一度感傷に浸る。

 この空のずっと向こうに、カナダがあるのだろうか。ふとそんなことを考えてみるが、北がどちらかもわからない今、自分がどの方向に目を向けているのかも見当がつかないし、そもそもカナダがどの方向にあるのもわからない。

 しばらくの間、ぼーっと空を眺めていただが、蒸し暑い気温に我慢できなくなったエマは、ボトルの中身を飲みきる前に、家に向かおうと自転車のところへ戻った。

 4分の1ほど中身の残ったペットボトルをカゴに入れ、ペダルを踏み出したそのとき、前輪に違和感を感じた。

 「What?(え?)」

 この感覚、何度か覚えがある。ちらりと前輪に視線を落とすと、嫌な予感は的中した。前輪のタイヤの底が重みに耐えきれず、潰れている。

 自転車を降りて、前輪をじっくり観察すると、小さな金属片のようなものが刺さっていた。

 エマは辺りを見回したが、奇跡的に自転車屋さんがあるはずもなかった。このまま押して帰るとすれば、1時間は掛かりそうだ。しかも足元は、サイズの大きすぎるサンダルを履いている。スマホはWi-Fiがないと使えなどころか、そもそも持ってきていない。

 「Seriously(最悪。)」

 と文句を吐いた後、ふと思いついたように、ロータリーのバスの停留所に停まっていたバスを見た。カナダでは、バスの前方にバイクラックが付いてることが多いので、もしかしたらと思った。

 しかし、期待とは裏腹に、そんなものが日本のバスには付いていなかった。

 エマは途方に暮れる思いだったが、立ち止まっていても喉が渇くだけだったので、エマは自転車を押し、少しづつでも来た道を戻ることにした。

 サイズの合っていないサンダルをパカパカといわせ、ぎこちない足取りでゆっくりと進む。歩いて帰るのも嫌だったが、敏朗がせっかく直してくれた自転車を、こんなに早くパンクさせてしまったことを伝えるのはもっと嫌だった。

 修善寺橋の手前に着いた時、青い外壁に『The Mozzo』という名前のコンクリート造のお店が目に入った。入り口にはイタリアの国旗がゆらゆらとはためいている。

 山から降りてきた時にも通った道だが、その時は駅の方に気を取られていて気づかなかった。小洒落た雰囲気で、お店の前にはバイクラックが設置してあり、そこには綺麗な青いロードバイクが立てかけてある。

 「Could this be a bike shop..?(もしかして、これってバイク屋さん?)」 

 まさかと期待を抱いたエマは、お店の前に自転車を停めて、入り口の窓から店内の様子を覗いてみた。

 店内は黒と白を基調としたシックな雰囲気の壁に、カウンターはレンガで色味を出していて、内装もおしゃれだ。高そうな自転車が何台か展示されているが、テーブルと椅子が何個も並べられていているので、残念ながらレストランだった。お店の窓ガラスをよく見ると、そこには『Authentic Italian Cuisine』(本格イタリア料理)と書いてあった。

 諦めて自転車へと戻ろうと思った時、キッチンから出てきた男性と目があった。男性は少し不思議そうな顔で近づいて来て、ガチャっと鍵を解錠してお店のドアを開けた。

 「ごめんね。開店は11時だから、あと10分くらい待てるかな?」

 出てきた男性は、身長は低めだが体型はがしっかりとしている。40歳くらいで、凛々しい眉毛、キリッとした目が特徴的で、黒いキャップに黒いエプロンをしている。

 「Sorry I don’t understand what you are asking me.(すいません。何を言っているかわかりません。)」

 男性は、はっとしたような顔を一瞬見せたが、すぐに流暢な英語で返事をした。

 「Ah, we open at 11. Would you mind waiting about 10 minutes?(11時オープンなので、後10分ほど待てますか?)」

 エマは日本に来てから、初めて英語でしっかりと意思疎通ができる人に会えたことに、思わず笑みが溢れた。

 エマは自転車屋さんかと思い、お店を覗いたことを男性に伝えると、男性はエマの自転車をちらっと見て、前輪に空気が入っていないことに気づいた。

 「 Sorry for bothering you.(お邪魔しました。)」

 とだけ言ってエマは立ち去ろうとした時、男性が引き止めるように声を掛けた。

 「Do you live near here?(この辺に住んでるの?)」

 エマは住所がわからなかったので、正確にどこに住んでいるかはわからなかったが、降りてきた山の方向を指差し、温泉街を抜けた田んぼのエリアに住んでいる事を伝えた。

 すると男性は、パンクした自転車を長い距離押して歩くのはタイヤのチューブによくないと言った。そして、エマの履いている大きなサンダルを見ると、男性は少し考え込み、一つの解決策を提案してくれた。

「I’ll be closing the shop at 3 for a bit. If you can wait, I can fix the flat tire then.(3時に一度お店を閉めるから、待てるなら、そのタイミングでパンクを直してあげるよ。)」

 とのことだった。

 その間は、涼しい店内で待っていてもいいとも言ってくれた。

 4時間あれば間違いなく歩いて帰れる。ただ、外は暑いし、坂道だし、サンダルだし、それに敏朗にパンクしたことを言うのも嫌だった。そう考えると、やっぱりお店で待たせてもらうことにした。

 「Thank you so much. I really appreciate it.(本当にありがとうございます。)」

 と言って、軽くお辞儀をした。

 「No problem! By the way, I'm Shigeru. A chef of this restaurant. Nice to meet you.(気にしないで、それより、俺はシェフのシゲル。よろしくね。)」

 「I'm Emma. It’s nice to meet you too!(エマです。こちらこそよろしくお願いします。)」

 改めてあいさつを済ませると、茂はエマの自転車を持ち上げて、自転車ラックに停めてくれた。

 「Is this lock really safe?(このロックで盗まれないですか?)」

 「If it’s not an expensive bike, it should be fine. Shuzenji is pretty peaceful! (高級な自転車じゃなければ、大丈夫じゃないかな?修善寺は平和だし!)」

 茂は笑いながら答えると、エマをお店の中へと招き、壁際の2人がけテーブルに案内してくれた。

 茂は開店の準備のためキッチンの方へ戻ると、途中で若い女性の店員にこそこそっと何か話した。するとその店員はエマの方をちらっと見て、ニコッと素敵な笑顔を見せた。

 エマも軽く会釈して返すと、女性は開店準備へと戻った。

 エマはポケットを確認すると、中には170円が入っていた。テーブルに置いてあったメニューに軽く目を通してみるが、当然買えるものなんてあるわけもなかった。とはいえ、他にすることもわからなかったので、美味しそうなパスタやピザのメニューを羨ましそうに眺めては、時間を潰していた。

 しばらくして女性の店員が、エマのテーブルにオレンジジュースの入ったグラスを運んできた。

 「Ohh, Thank you but... I have only…(あ、ありがとうございます。でも、これしか...)」

 と言いながら、ポケットに入っていた170円を出してみせた。

 「It's on the house.(お店からですよ)」

 女性の店員はそう言うと、ニコッとして、テーブルの上にジュースを置いた。

 「Thank you so much.」

 エマは遠慮することもなく、素直に優しさを受けとった。

 それからお店は開店し、昼時に近づくにつれてお客さんが入ってきた。客層は40代−50代くらいの女性が多く、自転車のコンセプトとは関係ない、おしゃれな昼ごはんを求めてやってきている人も多い印象だった。確かにこの店の雰囲気は、修繕寺という古風な趣のある街のイメージとは違い、まるで都会にあるような今時の店だ。

 時々茂がキッチンから出てきては、店内に設置されたピザ釜の様子を見にくる。ピザ釜のあたりはものすごく暑そうだが、大きなヘラを使って焼き上がったピザを捌いてく。

 お客さんが食べているサラダ、いろとりどりのパスタ、こんがりと焼き目のついたピザを横目に、エマの食欲はそそられる。和食もいいが、やっぱり西洋の料理もいい。エマはいつか、お金が貯まったらちゃんと食べにこようと心に決めた。

 それからすることもなくなったエマは、テーブルに俯くような姿勢で目を瞑っているうちに、眠ってしまった。

 「Emma?」

 と呼ぶ男性の声で目が覚める。

 エマは寝ぼけながら顔を見上げると、そこには茂が立っていた。

 「Do you like pizza?(ピザは好き?)」

 手に持った丸いお皿の上には、チーズとトマトのピザが香ばしい匂いを漂わせていた。

 「Of course! I love pizza!(もちろん!大好き!)」

 寝ぼけながらも、その美味しそうな見た目と匂いにそそられて、唇をぺろっと舐めた。

 「No worries, it's on me. Only this time!(大丈夫、俺の奢りだよ。今回だけね!)」

 と茂は冗談まじりに言った。

 「Thank you so much! I definitely will!!(ありがとうございます!絶対来ます!)」

 「Itadakimasu!」

とエマが手のひらを合わせて言うと

「召し上がれ」

 と茂が優しいトーンで返してくれた。

 ピザは焼きたてでまだ熱い。指をおしぼりに当てて少し冷やし、ピザの熱が指に伝わらないうちにスライスされた薄いピザを口に運んだ。カリッとした食感、チーズの風味と、トマトの酸味が舌にふわりと広がる。

 「So good! I really li..ah...Oishi(美味しい...本当に美味しい!)」

 とエマは日本語も混ぜて伝えると、茂は満足そうな笑みを浮かべた。そして茂は、エマが食べている間に自転車のパンク見てくると言い、店の外へと出て行った。

 店内の時計を見ると、3時20分を指していた。とうに閉店時間を過ぎていて、女性の店員はすでに帰ったようだ。

エマはピザを味わいながら、今日一日の出来事を振り返っていた。修理したばかりの自転車がすぐにパンクして途方に暮れたのも束の間、見知らぬ人に助けてもらい、こうして美味しいピザまでご馳走になっている。そんな未来を、いったい誰が想像できただろう。

 エマにとって、緊張と不安に包まれた未知の街だった「修善寺」は、家族や茂のおかげで、やさしくて温かい印象へと上書きされていく。

 ピザを食べ終えた頃、パンクの修理を終えた茂がお店の中に戻ってきた。

 「Lucky it was just the front tire.(パンクしたのが前輪でよかったよ。)」

 茂は笑いながら言った。

 「Gochisosama deshita! Pizza very Oishi. Thank you so much for everything(ごちそう様でした。ピザ美味しかったです。いろいろとありがとうございます。)」

 茂は照れを隠すようにして返した。

 「どういたしまして!」

 「Douitashimashite?」

 「あぁ、It means you're welcome.(どういたしましてってことだよ。)」

 「Ahh, I see. Thank you.(なるほど、ありがとう。)」

 「Have a safe ride home.(帰り道、気をつけてね)」

 エマはぺこっとお辞儀をして、お店を後にした。

 茂が直してくれた自転車に跨り、店内にいる茂に手を振る。そしてペダルを漕ぎ始めると同時に、「カリカリッ」とギアを軽くして、家の方へと向かった。

 帰り道は緩やかな傾斜が永遠と続く。自転車を降りるほどではないが、スピードが出ない感じが地味に辛い。

 特に寄り道をすることもなく、軽く息を切らせながら自転車を漕ぐこと20分、無事に竹田家へと帰ってこれた。

 「Tadaima!」

 と言って玄関を上がると、なんだかほっとするような安心感に包まれた。

 居間に入ると、座椅子に座ってテレビを見ていた敏朗が一言ぼそっとつぶやいた。

 「ん、帰ってきたか。」

 今度はその敏朗の言葉に対して、エマはもう一度言う。

 「Tadaima.」

 すると明美も台所からやってきて、エマに話しかけた。

 「朝から、だいぶ長いこと出かけてったけど、どこ行ってたら?けっこう遠くまで行っただら?」

 エマは言葉が理解できなかったが、どうにか返事をしようと口をごもつかせる。

 「だいじょぶだよ。誠が帰ってきたら、晩ごはんのときにでも話、聞かせてもらおうかね。」

 エマはそれも理解できなかったが、明美の優しいトーンに何となく合わせて、こくりと頷く。

 明美は、夕食の支度の続きをするために台所へと戻った。

 エマは軽くシャワーを浴びた後、母親の仏壇の前で今日あった出来事を母に伝えた。写真立ての母の顔は和かで、その顔を見ているとエマの鼻の奥がつんとなった。

 「 Mom…I wanna talk to you like before.(お母さん、前みたいに話したいよ。)」

 こんな一方通行な会話は嫌だ。そんな気持ちが込み上げてくる。それからしばらくの間、仏壇の前で母の顔をじっと見つめていた。

 誰かと話している時や、何かしているときは、母親が死んだということを意識していないので、割と普通に過ごせる。しかし、ふと何もしていない瞬間になると、やはり母親のことが頭に浮かび、その現実を受け止めたくない気持ちで辛くなる。この辛さはいつまで続くのだろうと、エマは答えのわからないものを問い続けていた。

 そうこう考えているうちにすっかり日も暮れて、夕食の時間になった。

 「ディス・イズ・ピーマンの肉詰め!」

 結花がいつものように料理の名前を教えてくれている。 

 「Pe-man nikuzume...Ah Pe-man, I know it.(ピーマンの肉詰め...あ、ピーマン知ってる!)」 

 エマはピーマンの肉詰めを口に運んだあと、口を軽く隠しながら言った。

 「This is… so Oishi.」

 すると明美が、ふと思い出したように口を開いた。

 「そうそう、今日ね、エマちゃんが自転車でどこか行ってきたみたいなんだよ。」

 「へー!ウェアー・ディド・ユー・ゴー?(どこ行ったの?)」

 誠がエマに聞いた。

 「I went to Shuzenji Station, chilled in front of a convenience store, and when I was about to hop on my bike, it turned out the tire was flat and...(修善寺駅にいて、コンビニの前で休憩して、自転車に乗ろうとしたらパンクしてて、それで...)」

 エマが楽しそうに語っていた途中で、誠が止めに入った。

 「ストップ!ストップ!ごめん、わからないや、ちょっと待って!」

 誠はそう言うと、スマホの翻訳アプリを起動した。

 「スピーク・ディス!(これに話して)」

 エマは修善寺駅まで行ったこと、自転車がパンクしたこと、茂に助けてもらった上に、料理までご馳走になったこと、全ての経緯を、誠の翻訳アプリに向かって事細かに説明した。

 するとアプリは、ほんの数秒で日本語に変換し、誠がそれをみんなの前で読んだ。

 そして、最初に明美が言った。

 「そりゃあ、茂さんにはお礼言わんとだら?エマちゃんがお世話になりましたって。」

 「あぁ、The Mozzoって、あの赤い橋んとこの店だら?霞、知ってる?」

 と誠が霞に尋ねた。

 「そうそこ!私は前に行ったことあるよ!シェフの茂さんも愛想良くて、特に修善時の主婦界隈では有名なおしゃれイタリアンレストランなのよ。」

 「イタリアン食べたい!」

 結花が会話に割って入ってきた。

 「イタリアンなんて、結花にはわかないだら?」

 誠が少し小馬鹿にするように言うと、結花は少し考えてから、料理の名前を口に出した。

 「アップルパイ!」

 「んーーっ欧米かっ!!」

 まるで話を合わせていたかのようなキレのあるボケとツッコミに、食卓には笑いが起きた。エマはそのユーモアが理解できなかったが、食卓の明るい雰囲気に合わせて少しはにかんだ。

 「まあ、お礼はいかないとな。今週の土曜、みんなでランチでも食べに行こうか?」

 誠が発案する。

 「予約しとかないと、だめじゃないかねぇ?」

 明美が言うと、霞が答えた。

 「それなら私が予約しときますね。」

 「わーーい。イタリアン!!」

 結花はイタリアンが何かよくわかっていないが、嬉しそうに言った。

 「えっと、エマ、サタデイ・ウィー・ゴートゥー・茂さん’s・イタリアンレストラン。」

 と誠がエマに伝えると、エマはまたピザが食べられると思うと嬉しくなったが、レストランに行くことになった経緯が気になったので、誠に聞いた。

 「But, what made us go to Shigeru’s restaurant?(なんで茂のレストランに行くことになったの?)」

 「えっと、なんで行くかってこと?まぁ、家族としてもお礼に行こうかなって。」

 「Ahh, sorry, I don't understand.(あ、すいません。わからないです、)」

 「あ、ごめん。ビコーズ・ウィー・ウォント・トゥー・セイ・センキュー・トゥー・茂。」

 「But I already thanked him.(でも、エマはもうお礼を言ったよ?)」

 「んーー、でも、日本のマナーかな。あ、ジャパニーズ・マナー。」

 「A Japanese manner?(日本のマナー?)」

 エマはそのマナーが、いまいちよくわからなかった。

 というのも、パンクを直してもらったのはエマで、ご馳走してもらったのもエマだ。エマがその場で茂に感謝は伝えたし、家族みんなでお礼に行くのは少し大袈裟じゃないかなと思った。

 考え事をしているエマを見て、明美が言う。

 「どうしたんだら?」

 「あー、アー・ユー・オーケー? 」

 誠が通訳する。

 「Ahh, yes, I'm okay.(あ、うん。大丈夫。)」

 「そうだ、エマにプレゼントがあるんだよ。プレゼント・フォー・エマ。」

 エマはプレゼントという言葉に反応し、パッと目が見開いた。

 「Present??」

 「ちょっと待って。今、取ってくるから。」

 そう言うと誠は2階へ向かった。そして、すぐにドタドタと階段を降りて戻ってきた誠の手には、白い袋が握られていた。

 「これ、仕事帰りに本屋さんで買ってきたんだ。エマには絶対必要だと思ってさ。」

 エマは袋を受け取り中を覗くと、そこには本が1冊入っていた。

 『匠(Takumi)』と書かれたその淡いピンク色の本には、『Beginer』の文字が書いてある。

 「あら、日本語の参考書?」

 霞が横から覗き込むように見て言った。

 「日本に住むからには、日本語は必須だからな。覚えるのは大変だと思うけど、話せないほうが、もっと大変になる。」

 「あら、いいこと言うのね!」

 誠は少し照れながら頭をかいた。

 エマは参考書のページをめくりながら、新たな思いをめぐらせる。

 日本語が話せれば、明美や敏朗、霞ともっと会話ができる。誠や結花が通訳してくれる手間も省けるし、何より家族との距離がぐっと縮まるだろう。何度か、簡単な日本語で返事をした時でさへ、心が通じ合ったように相手が喜んでいる瞬間があった。思い返せば、言いたいことは翻訳アプリを使えば伝わるけど、それはどこか味気なく、自分の気持ちをそのまま伝えるには物足りないような気もした。

 自分の言葉で話したいという思いが募り、それはエマが日本語を学ぶモチベーションになった。

 「Thank you. I will do my best!(ありがとう!頑張る!)」

 誠は、エマの決意に満ちた瞳を見て、安堵の息をついた。

 「あ、そうだ、スマホも必要だな。今日みたいにパンクしても、連絡とれないと困るら?」

 誠が閃いたように言うと、霞が答えた。

 「そうね。土曜日のランチの後に見に行ったらいいじゃない?」

 「そうだな。エマには、それまで我慢してもらって。アフター・レストラン・レッツ・ゴー・トゥー・スマホ・ショップ。」

 「Sumaho?」

 「スマートフォン・フォー・ユー。」

 「For me?」

 「イエス!」

 スマホは母が死んでから誰とも連絡する気分にもなれなかったから、正直なくてもいいかと思っていた。でも、現実的に考えれば、外出中にスマホで連絡ができないのは不便だと思いも変わった。誠に、家族だから硬くならなくて良いと言われてたが、エマは敢えて日本語でお礼を言った。

 「Arigato.」

 「おっ、どういたしまして!」

 すると結花が身を乗り出すようにして、スマホの話に食いついた。

 「結花もスマホほしい!!」

 誠は、予想通りの結花の反応に苦笑しながら言う。

 「中学生になったらな!」

 結花は納得がいかない様子で、口をとがらせた。

 「エマと1歳しか変わらないよ!」

 結花に対して、霞はなだめるように言う。

 「私が子どものころなんて、スマホどころか、携帯電話すら持ってなかったのよ。小学生が持つなんて考えられなかったわ。」

 「今は今!!」

 結花は強めに言い返した。

 霞は少し困ったように眉を下げ、それ以上何も言わなかった。

 「Do you want a Sumaho?(スマホ欲しいの?)」

 とエマが会話の空気を読み、結花に聞いた。

 「え? スマホくれるの?イエスイエス!」

 結花は目を輝かせて言った。

 「I have my old phone. If I get a new one, I’ll give the old one for you!(古いスマホがあるから、新しいの買ったらあげるよ!)」

 「うん!くれるの!?」

 なぜか都合のいい事は、結花には簡単に聞き取れたようだ。

 「よかったな、結花!でもな、Wi-Fiなきゃ使えんだら?」

 「いいもん!!」

 霞が不思議そうして聞く。

 「でも、ネットに繋がってないと何もできないじゃない?」

 「写真撮りたいだけ。」

 「ああ、そういうことね。」

 「うん! 友達と遊んだときとか! 昨日エマと外に行った時も、写真撮りたかったんだよ!」

 「Me?」

 自分の名前に反応して、エマはきょとんとした。

 「早く土曜日にならないかな〜!」

 結花の嬉しそうな顔をみて、エマも土曜日が待ち遠しくなった。

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