表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

 翌日。

 早朝から雨が降り始めていたが、昼頃には止み、空には真夏の強い日差しが戻っていた。午前中は静かだった蝉たちも、再び元気を取り戻したかのように声を響かせている。

 居間では、明美、結花、エマの3人がテーブルを囲み、古びたアルバムをめくっていた。ページをめくるたび、色あせた写真がぎっしりと並び、母や誠の幼い頃の姿が次々と現れる。

 まだ赤ん坊だった頃の、ふくふくとした頬の母。赤いランドセルを背負い、校門の前でまぶしそうに目を細めている小学生の母。テニスのラケットを抱えて、汗まじりの笑顔を見せる中学生の母。

 写真の母はどこか別人のようにも見えるが、笑顔や目元の形に、確かに母の面影を感じる。

 「これが美香で、これが誠だよ。」

 「They look happy.(楽しそう)」

 「見て!この顔!めっちゃ変な顔してるー!」

 と結花が別の写真を指差して、笑いながら言う。

 明美とエマもその写真を覗き込み、ふっと笑みが広がった。

 エマは、浴衣姿の母親の写真を見つけて言った。

 「These traditional clothes are cute.(この服可愛い。)」

 「あぁ、浴衣ね。」

 「Yukata?」

 「そうそう。この写真さ、今のエマちゃんとおんなじくらいの歳の時だね。修繕寺の花火大会ん時の。」

 「Shuzenji Hanabitaikai?」

 「ここ来る途中で、神社の前通ったら? 毎年そこの近くで、夏の終わりにやってるのよ。」

 「エブリー・サマー・ユー・キャン・シー・花火・修善寺!」

 誠がいない時は、結花がはエマの通訳を担当する。

 「Hanabi?」

 結花は、大きく打ち上がった花火の写真を指差した。

 「花火は、これ!」

 「Ahh, fireworks!! That looks like fun.(楽しそう。)」

 と羨ましそうな顔をして言ったエマに、明美が言う。

 「エマちゃんも、お母さんとおんなじ浴衣着て花火大会行こっか。そのときの浴衣まだ残ってるよ。」

 「ユー・キャン・ウェアー・キモノ・アンド・ユー・キャン・ゴー!」

 と結花が通訳する。

 「Sounds like fun. I’d like to go.(やった。行きたい。)」

 エマは嬉しそうに答えた。

 写真を見ながら母の話を聞いているうちに、気がつけば1時を過ぎていた。

 「もう1時?お昼にしよっかね。今日は、そうめんだよ。」

 「Somen?」

 「夏の名物。暑いときは、よく食べるんだよ。」

 明美はアルバムを優しく閉じると、台所へと向かった。

 それから10分も経たないうちに、明美が氷と素麺の入った大きなざるを持って戻ってきた。白い素麺の中には、緑色やピンク色の麺が数本混じっている。

 「ほら結花、台所からそばちょこと、つゆ入れを持ってきてちょうだい。」

 「はーーい。」

 結花はさっと台所へ向かい、3人分の小さな器と、つゆの入った入れ物を持ってきた。

 「エマ、カラー・ソウメン・イート・アンド・グッドラック!(エマ、色の違う素麺を食べる、縁起いい。)」

 「Really!?(ほんと!?)」

 エマは結花の話に興味を抱いたが、内心では半信半疑だった。

 「いただきます!」

 エマはピンク色の麺が一本混ざった所を箸ですくい上げ、軽くつゆに浸してから口に運んだ。素麺は冷たく、つるっとして美味しかった。それで運が良くなったのかは分からないけれど、なんだかちょっとだけ得をしたような気分にはなった。

 結花は、素麺と混ざっていた氷も一緒にすくって、つゆの中に入れた。そして素麺を啜った後、ガリガリ音を立てながら氷も齧っている。

 「素麺を食べながらガリガリ音立てて、変な子だねぇ。」

 明美が結花を軽く変人扱いすると、結花が言った。

 「だって氷も美味しいんだもん。」

 エマも氷をお箸ですくおうとしたが、氷がツルツルと滑って取れなかった。

 それを見た結花は、器用に一発で氷をお箸で掴んで、そのまま口に運んだ。

 「Wow. you’re amazing with chopsticks.(箸の使い方が上手いね!)」

 エマがそういと、結花は得意げな顔をした。

 エマはカナダでもお箸はよく使っていたが、結花と比べると圧倒的に器用さが違った。

 結花は自慢げに次々と氷を箸でつかみ、つゆの中に入れ、エマも素麺を食べることよりも、氷を掴むことに集中した。すると、ついに明美が口を開いた。

 「もう、あんたたち、素麺を食べなさいよ、素麺を。」

 明美に注意されながらも、素麺を食べ終えると、結花が少し緊張した様子でエマに話しかけてきた。

 「ドゥー・ユー・ライク・アウトサイド?(外は好き?)」

 結花が外の方に人差し指を向ける。

 「Yes, I love spending time outsede.(うん、外で過ごすの大好き。)」

 結花は、どうやら今日は外を案内してくれるようだ。

 玄関に向かう二人に、明美が遅れてやってきた。

 「これ、持ってき。ふたりに500円ずつ。」

 明美から手渡された銀色の硬貨には、500と印字してある。これが日本円でどれくらいの価値があるのかはわからなかったが、

 「やったー!」

 っと隣で結花が目を輝かせて喜んでいるその反応を見ると、とても価値のあるものなのだろうと思った。

 「のど乾いたらジュースでも買うんだよ。熱中症になんないように気をつけて、いってらっしゃい。あ、ほら、帽子もちゃんとかぶってけよ!」 

 明美の声に背中を押されるように、2人はお揃いの麦わら帽子をかぶり、駆け足で外へと出ていった。

 外に出ると、ジリジリと肌を刺すような日差しが降り注いでいた。道路の上では、何匹もミミズが干からびている。エマは明美が渡してくれた帽子に改めて感謝した。

 エマは結花に連れられて、温泉街へと続く田んぼ沿いの道を歩いていく。

 昨日タクシーで来た道を、今度はゆっくりと歩いて戻る。のどかで人気もなく、蝉の声だけが鳴り響き、草木が日光に照らされて温まった匂いがする。午前中は少し雨が降ったので、少しぬかるんだ匂いも混じっていた。

 道なりにしばらく歩くと、大きな小学校の正門にたどり着いた。

 「ディス・イズ・マイ・ショウガッコウ!」

 薄黄色の大きな3階建てのコンクリート校舎は、ところどころ煤けたように黒ずみ、長い年月を感じさせた。正門は少し小高い場所にあり、校内の様子は見えなかったが、広々とした校庭が奥に広がっているのはわかった。

 「Do you like Shougakko?(小学校好き?)」

 「イエス!アイ・ライク・ベリーマッチ!バット・ネクスト・イヤー・アイ・ゴー・チュウガッコウ。ソー・サッド。(好き!でも来年は中学校だから。とても寂しい。)」

 「Chugakko?(中学校?)」

 「イエス!アフター・ショウガッコウ・イズ・チュウガッコウ!オーケー?(小学校の次は中学校。わかる?)」

 「Ahh I understand! Chugakko is a junior high school.(あ、なるほど。中学校のことね。)」

  エマはさらに続けて聞く。

 「So.. what is after Chugakko! What Gakko?(じゃあ、中学校の次は何”がっこう”なの?)」

 「アフター・チュウガッコウ・イズ・コウコウ!オーケー?(中学校の次は高校だよ。)」

 「Koko? Not kokogakkou?(高校?高校学校じゃないの?)」

 「ノーー!」

 結花は大きなリアクションで否定したが、内心では戸惑っていた。小学校、中学校、高校、なんで高校だけ”学校”がつかないのか、考えたこともない質問だった。実際には”高等学校”という正式な呼び方があるが、結花は知らなかったので説明ができなかった。

 エマはモヤモヤとしたものを抱えながらも次の質問をした。

 「Okay…and then…what is after KoKo?(じゃあ、高校の後は?)」

 「ダイガク!」

 「Daigaku? Not Daigakugakko?(大学学校じゃないの?)」

 「オフコース!」

 「Of course? What? Yes?(もちろん?何?イエスってこと?)」

 「ノーーー!」

 エマは納得があまりいかず、結花も説明ができず、お互いモヤモヤしたまま小学校を後にした。

 小学校の道をさらに進むと、住宅街へと景色が変わる。和風の家々が立ち並び、石垣の塀や竹藪の中にひっそりと佇む家々は、カナダにはない独特の雰囲気を醸し出していて、ネットで「日本」の画像を調べた時に最初に出てきそうな場所に思えた。

 結花は通りにひっそりと佇む、こじんまりとした商店の前で立ち止まった。

 年季の入った木の外壁に、色あせた看板、入り口から中をのぞくと、棚にはお菓子や食べ物、酒が所狭しと並べられていた。

 「ふたりで千円もあるから、好きなものなんでも買えるね!」

 結花は少しいたずらな笑みを浮かべて、エマの方を見た。

 エマは不思議と、結花の言っている日本語を理解できた気がした。

 お店の中に入ると、壁に取りつけられた扇風機が回っていて、外よりはずいぶん涼しい。エマがお菓子の棚を見て回っていると、さくらんぼのイラストが描かれた、グミのようなお菓子が目に留まった。ピンク色の四角いグミのようなものが、1cmほどのサイズで、縦3個×横4個ときれいにパッケージされている。その見た目がとても可愛くて、思わず手に取った。

 「Looks cute.(可愛い。)」

 「さくんぼ餅にするら?」

 レジのカウンター越しにいた、頭に白いバンダナを巻いた店員のおばあさんに声を掛けられた。

 「Sakuranbo Mochi?」

 エマが聞き返すと、おばあさんはにこっと頷いた。

 お菓子をレジに持っていき、エマはポケットから500円玉を取り出してカウンターに置いた。

 「30円だよ。これだけでいいら?」

 エマは「さんじゅーえん」の意味がよく分からなかったが、すぐに結花が横から教えてくれた。

 「サーティ! オーケー?あとなんか飲み物も買おうよ。」

 結花はレジの隣にある、飲み物が入った冷蔵庫を指差した。

 冷蔵庫を見ると、青いラベルに「POCARI SWEAT」と書かれたボトルが、ひときわエマの目を引いた。

 みずみずしいパッケージと薄い液体の色から、スポーツドリンクだろうと想像はついたが、"SWEAT(汗)" という単語が奇妙に感じた。

 結花は、エマがじっとポカリスエットを眺めているのに気づいて声をかけた。

 「ドゥー・ユー・ライク・ポカリ?」

 エマは少しためらったものの、好奇心が勝ってポカリを選ぶことにした。

 「Hmmm, I don't know but, I'll try it.(ん、わからないけど、それにしてみる!)」

 エマはさくらんぼ餅とポカリを買った。

 お釣りで、"100"と刻まれた銀色の硬貨が3枚、"10"と刻まれた銅色の硬貨が2枚返ってきた。数字が大きく書かれている日本の硬貨は、カナダの硬貨と比べると覚えやすい。

 次に結花が何やらお菓子とオレンジジュースを買ったとき、お釣りの中に、金色の硬貨が一枚混ざっているのをエマは横目で見た。

 「Yuika, what is this? I don’t see any numbers on this coin.(結花? この硬貨、数字が書いてないけど、いくらなの?)」

 「え?どういうこと?五円玉のこと?ナンバー?あ、数字あるよ?ほら。」

 よく見ると、小さく「五円」と漢字で印字されている。

 「That’s not a number! Why do other coins have numbers, but this one doesn’t?(でもそれって数字じゃないでしょ?他の硬貨は数字なのに!)」

 「え?よく分からないけど、これは漢字で5ってことだよ!ファイブ!」

 「Kanji? But why not just a number?(漢字?でも、なんで数字じゃないの?)」

 「知らない!!!あっ、おばあちゃん、またね!」

 結花は答えられない質問から逃げるように、お店を飛び出した。

 「ありがとうね。またいらっしゃい。」

 店員のお婆さんがそう言うと、エマも軽くお辞儀をして、結花のあとを追って店を出た。

 「もう少し歩いたら、ベンチのある公園があるから。そこまで行こ!えっと、レッツ・ゴー・トゥー・パーク・アンド・イート・お菓子!オーケー?」

 「Okay! But what is Okashi?(うん!でもお菓子って何?)」

 結花は手に持ったお菓子の袋を上に挙げて見せた。

 「Ahh, candy!(あ、キャンディね!)」

 結花は不思議そうな顔をした。

 「キャンディー?ノー・ディス・イズ・ガム・アンド・グミ!」

 「Huh? But we just say candy(でも、カナダではキャンディって言うけど。)」

 「変なのーー、キャンディーは飴だよ」

 「Ame?」

 「違うよ、それは雨。これは飴」 

 「Mmmm..Ame?」

 「だからそれは雨。飴、飴、飴」

 エマにとっては、雨も飴も同じ発音に聞こえる。

 少しムキになったエマは、結花にも英語で問題を出した。

 「Yuika, what’s this direction in English?(結花、こっちの方向は英語なんて言う?)」

 エマは右の方向を指差して言った。

 「ライト。」

 「No, it's light.(違う。それはLight)」

 「え???」 

 「The answer is “Right”(正解は、Rightだよ。)」

 「だから、ライト!!!」

 「No. it's Light.」

 結花にとっては、LとRが同じに聞こえる。

 お互いに苦手な発音を見つけては、言い合いながら歩いていると、やがて小さな橋に辿り着いた。その橋の手前から、川沿いに少し下る道があり、その先には小さな公園がひっそりと佇んでいた。流れの速い川に隣接した、芝生のあるのどかな公園だ。

 結花はエマの手を取って、公園のベンチへと向かった。ありがたいことにベンチは木陰にあり、時折涼しい風が心地よく吹く。

 2人は「ふーっ」とため息をついてベンチに腰掛け、一目散に袋から飲み物を取り出した。ポカリとはどんな味なのだろうか、エマはそう思いながらペットボトルの飲み口にそっと口を近づけ、ごくりと一口飲んでみた。冷たくてほんのり甘く、どこかフルーツのような風味もある。乾いた喉にすっと染み込んでいくようで美味しかった。そして思った。なんでSweat(汗)なんだろうと。

 「ぷはーっ!」

 隣から大きな声がして、結花の方を見ると、ペットボトルのオレンジジュースはすでに半分以上減っていた。

 エマは笑みをこぼしながら、さくらんぼ餅の袋を開けた。中に入っていた楊枝で餅を一粒刺して口に運んでみる。思ったよりも硬く、弾力のある食感。ほんのりとしたさくらんぼの風味と、甘酸っぱさが口の中に広がった。

 「美味しい? グッド?」

 結花が興味津々に聞いてくる。

 エマは少し言葉に詰まりながらも、一言で答えた。

 「Unique.(ユニーク)」

 「ユニーク?」

 結花が不思議そうに顔を傾ける。

 「Yeah, in a good way!(うん、いい意味でね!)」

 「好きってこと? ライク?」

 「Ah... Yes. Suki!」

 エマが日本語を使うと、結花は少し嬉しそうにした。

 そして結花も自分のお菓子を取り出し、袋を開けながら言った。

 「これ、一個あげる!ジャスト・ワン・オーケー?(一個だけね!)」

 結花は、丸くて黄色いガムが3つ並んで入っている容器を、手のひらにのせてエマに差し出した。

 「What is that?(何それ?)」 

 「サプライズ!」 

 「Surprise?」

 エマは少しイヤな予感がしたけれど、真ん中のひとつを選んで口に入れた。

 ガムを噛んだ瞬間、中からものすごく酸っぱい粉のようなものが飛び出してきて、エマの口は「むっ」とすぼまり、顔がきゅっと歪んだ。

 「サプラーーーイズ!!」

 結花は酸っぱそうな顔をするエマを見て、嬉しそうに笑った。

 その時、公園の入り口から三人組の男子がぞろぞろと入ってくるのが見えた。歳はエマや結花と同じくらい。全員野球帽を被り、Tシャツにハーフパンツ、ビーサンという夏らしい涼しげな格好をしている。何だか”悪ガキ”といった雰囲気もあった。

 「おーい、結花!」

 ひとりが大声で叫ぶと、結花がそちらを振り向いた。

 エマが横目で結花を見ると、さっきまでの笑顔はすっかり消えていた。

 男子たちはそのままベンチに近づいてきて、エマの顔をじろじろと見つめる。

 「だれ?外人?ハロー!ハウ・アー・ユー?」

 ひとりがニヤニヤしながら言った。

 「Hi, I’m good. How are you?」

 エマは普通に返事をしたが、男子はそれに応えることもなく、薄ら笑いを浮かべてエマを見ていた。

 すると突然、結花が鋭い声で言った。

 「どっか行ってよ!」 

 その一言に、男子たちは一瞬きょとんとしたが、鼻で笑いながらポケットに手を突っ込み、公園の奥へと去っていった。

 エマはそのとき、自分がからかわれていたのだと確信した。そして、エマは理由が気になって結花に聞いた。

 「Because I am a foeriner? (私が外人だから?)」

 「フォーリナー?」

 「From another country.(別の国から来たって意味)」

 「うん。あいつら、意地悪なんだ」

 結花は悔しそうな顔をしてうなづいた。

 「Ijiwaru? What is that?(意地悪?何それ?)」

 結花は少し考え込み、それから真剣な顔で言った。

 「うーん、あいつらIQが低いの。」

 「IQ ひくい?」

 「イエス!ライク・チンパンジー!」

 「Chimpanzee?」

 エマはぷっと笑い声をこぼしたが、差別的な行為を受けたことにまだ動揺が残っていた。

 それから若干空気が重くなり、会話が無くなった2人は、公園から出て家に帰ることにした。

 川沿いの道を、エマは結花の少し後ろを歩いている。

 さっきの出来事の余韻がまだ少し残っていて、お互いに気にしているのか、沈黙が続いていた。エマはうつむき、地面に映る自分の影をじっと見つめながら歩いている。結花は時折、後ろを確認する振りをしてエマの表情をうかがっていた。エマの顔は少しさみしそうにも見えた。けれど、どう声をかけたらいいかわからないまま、2人は黙って歩き続けていた。

 道は緩やかな坂道になっているので、少しずつ心拍数が上がってくる。額に汗も滲み始め、暑さに耐えかねた結花が、嘆くようにして沈黙を破った。

 「あっつーい!」

 と言いながら、結花は路肩に生えてる木の陰を見つけて入った。そして、同じく暑さに嫌気が差していたエマも、遅れて木陰に入る。

 すると、木の上から「ミーンミーーン」と蝉が鳴きはじめた。

 エマも結花も同時に木を見上げる。 

 「あ、ディス・イズ・セミ!」

 「Ahh, Semi. I know Semi.(あ、蝉知ってる。)」

 エマは昨日、修繕寺駅に着いた時に誠が言っていた名前を思い出した。しかし、初めて見る蝉の姿はちょっとグロテスクにも見え、エマは嫌悪感を抱いた。

 「セミ・リブ・オンリー・セブン・デイ」

 「Ohh...that's sad.(え、可哀想。)」

 蝉が一週間の命だと知ると、見た目のことなんてどうでもよくなって、むしろその短い命に同情の念が芽生えた。

 結花が背伸びをして、木の少し高い所にとまっている蝉に手を伸ばそうとした時、蝉は「ミンミンミン」と、警戒したような音を出しながら、羽を羽ばたかせ飛びったった。そして蝉を見上げていた顔には、ピシャッと微かに水滴がついた。

 「うぇーーー。おしっこかけられたーー!」

 と結花は、叫びながら木陰から駆け出た。

 エマも何が起きたかわからず、ただ焦って結花の後を追った。

 「What was that!!!??(何これ?!!?)」

 「ダーティー・ウォーターー!!」

 エマはその意味がわからなかったが、その液体が口に入ったことを結花にジェスチャーすると、結花は「おぇっ」っとベロを出して笑った。

 エマはすごく嫌そうな顔をしていたが、そんなふうにちょっとふざけた空気の中で歩いているうちに、2人の歩くリズムは、いつの間にか自然にそろっていた。

 家に着くと、エマと結花は勢いよく玄関の戸を開け、中へ駆け込んだ。

 「せーのっ、ただいまーーー!!」

 声が廊下に元気よく響く。

 廊下に上がると、足の裏にひんやりとした床の感触が心地よく伝わった。

 「体ベトベトだ〜!気持ち悪い〜!」

 と喚きながら、結花はそのまま一直線に風呂場へと消えていった。

 エマは廊下から敏朗と明美の寝室に入り、母の仏壇の前に静かに膝をついた。

 仏壇には、白いお皿の上に大きい真っ赤なトマトが供えられていて、その隣では、誰かが灯したばかりの線香が、まだ長さを保ったままゆらゆらと細い煙を立ちのぼらせている。

 エマは何も言葉にはしなかった。ただ目を閉じて、心の中で母にだけ伝わる思いをそっと伝えた。そして仏壇に飾られた母の写真に笑顔を見せようとした。しかし、口元がわずかに震えただけで、笑顔にはなれなかった。

 そしてエマはゆっくりと立ち上がり、居間へと向かった。

 台所からは、包丁のトントンという軽やかな音や、食器がカチャカチャとあたる音、時々、明美と霞の話声も聞こえてくる。生活音の全てが、なんだか安心する音だった。

 居間に入ると、誠が座椅子にもたれながらテレビを見ていた。

 「外、楽しかったら?あ、エンジョイ・アウトサイド?」

 「Hai, Tanoshikattara!」

 「お、ちゃんと日本語しゃべれるじゃん!」

 誠は少し驚いた後に、優しく微笑んだ。

 その誠の反応を見て、エマも嬉しかった。なんだか日本語を使うと、英語よりも相手に気持ちがちゃんと届いているような気がする。

 それからエマも軽くシャワーを浴びて、夕食の時間になった。

 食卓には、白いご飯、味噌汁、豚の生姜焼き、トマトのサラダが並べられている。

 「いただきます!」

 と共に夕食が始まるとすぐに、明美は忘れ物を取りに行くように台所へと戻ると、何やら白い発泡スチロールの四角い容器を人数分持ってテーブルの上に置いた。

 誠が一目散にその容器を取りぱかっと開ける。そして薄いビニールを剥がした途端、ネバネバと糸を引いた。

 納豆だ。

 隣では、結花も同じように納豆の入れ物を開け、醤油とからしを混ぜて、勢いよくかき混ぜ始めた。結花は混ぜることに満足すると、納豆を白いご飯の上に豪快にのせて、にこにこと口に運んだ。 

 「んー! おいしい!」

 みんな普通に納豆を食べている。この光景は、みんなにとっては普通なのだろう。しかし、混ぜれば混ぜるほどに泡立ち、ネバネバが増し、その糸が茶碗から箸へ、そして箸から口元へと伸びている光景は、エマには何とも苦手だった。

 母が日本人とはいえ、エマは一度も納豆は食べたことがなかった。前に母親が納豆を食べていた時に、そのネバネバした見た目と匂いが苦手で、納豆は食べたくないと言ったことがある。それ以来納豆を見ることもなくなった。

 「納豆って、うんめぇし、体にもいいんだよ。」

 誠がそのネバネバした口の周りを舐めながらエマに言った。

 「Natto…」

 エマは納豆を見つめたまま、箸を手に取った。

 みんな美味しそうに食べているし、なぜか今ならいける、というよりは、挑戦しないといけない気がした。とりあえず、みんなの真似をして納豆を混ぜようとしてみたが、やっぱりまだ泡立ちのない状態で、一口だけ食べてみることにした。

 おそるおそる箸で納豆をすくい、口に運ぶ。納豆が舌に触れた瞬間、エマの目がわずかに見開いた。

 味は思ったよりも大丈夫だったが、ぬるぬるした食感とその異様な匂いが鼻の奥にツーンとして嫌だった。エマはごくっと一気に飲み込み、そっと箸を置いてうつむいた。

 「I'm sorry but…(ごめんなさい、でも..)」

 小さくつぶやいたその声に、食卓が一瞬静まりかえった。しかしすぐに、明美が笑いながら言う。

 「気にしなくていいよ〜、だいじょぶ。」

 結花がくすっと笑って言う。

 「はい、納豆の勝ちーー!ナットー・ウィン!」

 「ゲームじゃないのよ!」

 霞がツッコむ。

 結花のおかげで、何となく空気が和んだと思いきや、敏朗がふとエマのほうをじっと見つめて言った。

 「美香はなんで、日本語を教えなかったんだ?」

 優しいトーンだったが、なんだかピリッとした空気が流れたのをエマは感じた。

 エマは何を言われたのか分からず戸惑った表情を見せると、誠が翻訳に困りながらも、ゆっくりとエマに伝えた。

 「えっと…ジーチャン・セイ・あー….ワイ・ユアー・マザー・ドント・ティーチ・ジャパニーズ・ランゲージ?(お母さんは何で日本語をエマに教えなかったのかって、爺さんが言ってる。)」

 その質問に、エマはゆっくりとできるだけわかりやすい英語で答えた。

 「My mom was like, "We’re not going back to Japan, so she meant that I only needed English to live in Canada.(日本に帰ることも考えていなかったし、カナダで生活する上では英語だけでいいって。)」

 誠は頭の中でゆっくりと言葉を整理してから日本語に直す。

 「えっと、姉ちゃんは、あの、日本に戻る予定はなかったから、別にエマに日本語は必要ないって。」

 敏朗はそれに返事をすることなく、黙ったままお麦茶を啜った。

 エマはその沈黙に違和感を感じ、誠にささやくように尋ねた。

 「Did I say something bad?(私、変なことを言ったかな?)」

 マコトは首を横に振った。

 「ノー!バット・んーー、ディフィカルト。ソーリー。(いや、そうじゃないんだけど、難しいな。ごめん。)」

 誠は珍しく言葉につまり、うまく説明ができなかった。

 「エマちゃんが気にすることじゃないけど、じいさんは美香が外国に住むことを良く思ってなかったからね。色々あるのよ。」

 と明美がエマに説明すると、誠が言った。

 「これは、通訳した方がいい?」

 「あ、大丈夫。ご飯の時間にそんな暗くなるような話しないほうが良かったね。」

 「そうだな。エマが変に思い詰めてもな。そー、エマ、ノー・ウォーリィ。(エマ、気にしないでね。)」

 誠がそう言うと、エマは頷いたが、エマの心の中にはモヤモヤとしたものが残った。

 夕食が終わると、それぞれが風呂に入ったり、部屋に戻ったりして、居間にはテレビを見ている敏朗とエマだけが残った。

 敏朗はエマに話しかけることもなく、エマもただ何となくテレビの画面を眺めていた。

 テレビには動物たちの面白い映像が流れている。見かけによらず、敏朗は動物が好きなのかもしれない。

 番組がコマーシャルに入った時、玄関のほうから明美が呼ぶ声が聞こえた。

 「エマちゃん、おいで〜。」

 エマが居間から顔を出すと、明美は手招きしながら庭の方へと向かった。

 庭にある小さな家庭菜園には、手作りの看板にひらがなで野菜の名前が書かれている。

 「これはねぇ、ナスだよ。」

 「NasuDayo?」

 「”だよ”はいらないよ。ナス!」

  明美は優しく笑って言った。

 「Nasu!」 

 「そうそう。うちっちはねぇ、野菜はぜんぶ家で採れたの使ってるから、経済的だら?」

 エマは意味はよくわからなかったが、おばあちゃんの優しい声の響きに会話を合わせて頷いた。 

 次に明美はきゅうりの苗の前に移動した。

 「これは、きゅうり。」

 「Kyuuri?」

 「グッドグッド!」

 そして菜園を見回りながら、明美はピーマン、しそ、オクラと、ひとつひとつ野菜の名前をエマに教えていった。

 「ピーマン」という音を聞くと、エマには "Pee-man" のように聞こえて、思わず可笑しくなった。Peeは「おしっこ」、Manは「人」。まるで “おしっこマン” みたいな響きだからだ。

 明美はトマトの苗の前で立ち止まり、赤く実ったトマトにそっと手を伸ばした。

 「これはねぇ、美香がいちばん好きだったの。」

 “美香”という名前に反応して、エマは明美の顔を見た。

 「Mom?Suki Tomato?」

 明美はトマトを見ながら頷いた。

 エマは、さっき家に帰ってきたとき仏壇に供えられていたトマトのことを思い出した。きっと、明美が母の仏壇に供えたのだろう。

 エマは、ふっくらと身の引き締まった真っ赤なトマトをじっと見つめ、明美に言った。

 「Can I try one? Uh…One Tomato Okay?(ひとつ食べてもいい?あ、トマト1つ良い?)」

 明美はやさしく微笑むと、トマトのヘタを掴み、くりっと捻りながら取った。

 エマはそっと受け取ると、トマトはまだ微かに太陽の温もりが少し残っていて、ずっしりと重みを感じた。一口かじると、口の中に甘酸っぱい汁がジュワッと飛び散った。

 「美味しい?」

 「Oishi!!」

 エマは嬉しそうに言った。

 味は本当に美味しかったけど、母がかつて食べていたトマトと思って食べると、なんだか特別なものに思えた。

 「夜のほうが涼しから、だいたいいつもこの時間に野菜を収穫してるんだよ。」

 明美の言っていることを理解できなかったが、エマは聞き返しはしなかった。明美は英語がほとんどわからないから、聞き返して困らせたくないと思った。

 明美とエマは、しばらく野菜を摘みながら、涼しい夜の穏やかな時間を過ごした。

 それから夜も深まり、寝支度を整えたエマは布団の上に横になっていた。昨日とは違い、布団が体に馴染んできたのか、畳の上に寝ることへの違和感は少し薄れていた。

 夜の寝る前は、だいたい母親のことを考えて辛い時間がやってくるが、孤独感や不安な気持ちも、不思議と今は感じない。鈴虫の音色も、気持ちよく耳に響いている。

 これはトマトのパワーかな。と、そんなことを考えているうちに、エマはいつの間にか眠りについていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ