終わり
9月1日。
夏休みも終わり、今日から新学期が始まる。
まだ外は薄暗く、太陽が上がる前にエマは目を覚ました。枕もとの目覚まし時計を見ると5:10と表示されいる。
ふと足元に視線を移すと、そこにはしらたまが、体を丸めてぐっすりと眠っていた。エマはそっと体をお越し、しらたまの頭を優しく撫でる。すると、しらたまは体を伸ばし、両前足を頭の前に持ってきてギュッと抱き抱えるようなポーズをとって見せた。その様子が愛おしくて、エマはニコッと微笑む。しらたまは薄目を開けてエマを見上げると、またゆっくりと目を閉じた。
エマは静かに部屋を出て、音を立てないようにしながら階段を降りた。
まだ誰も起きていないので、家の中はなんの音も聞こえない。ただ、外からは蝉の声が霞かに聞こえてくる。
エマはなんとなく外に出たい気分になり、玄関で靴を履き、静かに扉を開けて外へと出た。
外の空気はさっぱりとして涼しく、エマは手を大きく広げで体を伸ばす。
空を見上げると、少しずつ青くなってきて、雲とのグラデーションが幻想的に見えて綺麗だった。
玄関は鍵をしないと、少し扉と壁の間に隙間が空いてしまうので、玄関から離れることはせず、エマはただ深呼吸をし、早朝の清々しいひと時を感じていた。
『My school life starts today.(今日から学校が始まるんだ。)』
エマはぼそっと小さく呟くと、心臓の鼓動が少し早くなってきたのを感じ、それを落ち着かせようとまた深く深呼吸した。
すると、玄関がガラガラっと開いた。
『気持ちのいい朝だねぇ。』
そう言って、明美が玄関から出てきた。
『お、ばあちゃん!おきた?ごめん。』
『え?あぁ、おばあちゃんはいつもこの時間に起きるんだよ。』
『え?はやい!なんで?』
『なんで?んー、自然と目が覚めちゃうんだよ。日中は暑くて外も出れないからね、朝早く涼しい時間に散歩するの。』
『さんぽ?』
『そう。ウォーキングって健康にもいいんだよ。エマも散歩行くかい?』
『うん!』
明美は玄関の扉に鍵をかけると、エマと一緒に家の門から外の道へと出た。
2人は修善寺温泉街とは反対の方向へと向かった。
『どこウォーキング?』
『どこも行かないよ。ただぐるっと田んぼを回るだけ。』
エマは明美のゆっくりとしたペースに合わせながら歩く。
『朝は涼しくて気持ちいら?』
『うん。』
しばらくまっすぐと歩いていると、分岐にたどり着いた。
『ここを左に曲がって、橋を渡るの。』
2人は小さな川を跨ぐ橋を渡り始め、橋の真ん中あたりで明美が立ち止まって言う。
『この川は桂川って言ってね、温泉街を通って狩野川に繋がってるんだよ。』
『かつらがわ?』
『そうそう。』
エマは、膝下くらいの高さの橋の塀に近づき、覗き込むようにして川を眺めた。
川の流れは速くはないが、ゴツゴツした石たちが水面から頭をのぞかせていて、落ちたら大怪我になりそうだ。
『危ないから落ちるんじゃないよ!』
明美がそう言いうと、明美はまたゆっくりと歩き始めた。そして、エマも少し小走りで明美の後を追う。
それから田んぼの反対側をぐるっと一周するようにして、家の方向へと向かう。
歩いている途中、森の中からツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。
『あら、ツクツクボウシ。』
『つ、く、くつ、つく、つぼーし?』
エマは、その早口言葉のような日本語がうまく発音ができなかった。
『つ、く、つ、く、ぼ、う、し。』
明美が発音しやすいようにゆっくりと言い直し、蝉の鳴き声がする方向に指をさして続けた。
『ほら、ツクツクボウシって蝉だよ。ツクツクボウシ、ツクツクボウシって聞こえるでしょう?』
『え、せみ??つく、つく、ぼうし、つく、つく、ぼうし?』
『なんだか歌ってるようだら?』
エマにとっては、”つくつくぼうし”と鳴いているようには全く聞こえない。
『んー、かわいい。でも、せみはいっしゅうかん?かわいそう。』
『一週間?』
『うん。ゆいかいった。』
『あー、一週間の命ね。でも、何年も土の中で生きてるんだら?』
『つちのなかでいきる?』
明美は、土を指差して答える。
『そうそう。1年、2年、もっとかしらねぇ?ただ、こうやって地上で生きていられる時間は、確かに少ないけどねぇ。』
エマは、蝉が土の中で長い期間生きていることをなんとなく理解すると、明美に新たな質問をぶつけた。
『つちのなかで、なにする?』
エマの質問に、明美は軽く笑いながら答える。
『本当、何してるんだろうね?おばあちゃんも知りたいよ。』
エマは不思議そうな顔をして、鳴き声の方を眺めた。
『蝉って、ずっと1人で土の中にいてさ、誰に教わるわけでもないのにちゃんと地上に出てきて、命懸けで鳴いて子孫を残そうとするのよ。すごいだら?』
『え?』
『生まれた時から、1人で自立してんだもん。大したもんだよ。』
『せみ、すごい?』
『すごいと思うよ。』
『ふーん。』
『でもばあちゃんからしたら、エマちゃんもすごいと思うよ。』
『エマ?すごい?なんで?』
『まだまだ若いのに、立派だよ。』
『りっぱ?』
『蝉みたいにね!』
『え、せみとエマ、にてる?』
エマは少し嫌そうな顔をした。
『はははっ。見た目じゃないよ。でもね、エマちゃんはすごい強い子だよ。』
『つよい?わたしはよわい。』
『何で?』
『がっこう....』
エマが少し緊張しているように見えた明美は、優しいトーンでエマに言う。
『おばあちゃんね、毎日朝起きると、今日も生きてる!ってワクワクするんだよ。』
『あさ、おきてわくわく?』
『まぁ、楽しいとか嬉しいとかそう言う気持ちかな。』
『んー、おきるだけ?』
『そう、ただ起きただけなのにね!』
『なんでわくわく?』
『だってね、いつ死んじゃったっておかしくはない年齢だら?』
『え??』
エマは不安そうな顔をして明美を見た。
『歳を取るとね、死ってことが常に頭の片隅にはあるんだよ。でもね、暗いことを考えて時間を過ごすよりも、ワクワクした時間が多いほうが、楽しく生きられるだら?』
『んー。』
エマは、明美の言葉を理解できずにいると、明美が英語を使って言い換える。
『ポジテブシンキングって言うだら?』
『あ、Positive thinking!うん。わかる。』
『でもおばあちゃんも、学生に戻れるなら戻りたいねぇ。』
『もどりたい?がっこう?たのしい?』
『そりゃ楽しかったさ。学校行けば友達に会えるし、それに家にいたってやることなかったしねぇ。まぁ勉強はそんな好きじゃなかったけど。』
『そっか。』
『だから、楽しみなさい。』
『うん。』
明美が優しくアドバイスをしてくれたことで、エマの学校に行くという不安は少し解消した気がした。
そして、2人はまたゆっくりと歩き出し家に向かった。その時にはもう、空はすっかり明るくなっていた。
朝食を済ませたエマは、すでに学校の準備を終え、制服姿で母親の仏壇の前に座っていた。目を閉じて静かに手を合わせていると、しばらくして霞の声が聞こえてきた。
「エマちゃん!もう出発の時間よ!」
「はーい!」
エマはそう返事をすると、母親の写真に優しく微笑みかけ
『いってきます。』
と最後に一言告げて、玄関へと向かった。