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じりじりと照りつける夏の陽射し、深い山に囲まれた土地、ゆったりと流れる大きな川、稲が青く茂った広大な田んぼ、見なれない和風の家々。どこか異世界に訪れたような景色を、電車の窓越しに眺めながら、ガタガタと揺られて終点の駅へたどり着いた。
2両編成のローカル電車がホームに滑り込み、シューッという音とともにドアが開き、少女がひとり降りてきた。
竹田エマ(13歳)。カナダ・ビクトリア出身で、日本人の母とカナダ人の父の間に生まれた日系カナダ人。茶色がかったセミロングの髪に、くっきりとした目鼻立ちで、年齢のわりにどこか大人びた雰囲気をまとっている。 背中には大きなバックパックをひとつ。慣れない気温と長旅で顔には疲れが見え、目の奥には不安と緊張が浮かんでいた。
エマが降りたすぐ後に、男性が続いてホームに降り立った。
竹田 誠(40歳)。エマの亡くなった母の弟で、エマの叔父にして後見人でもある。サイドを刈り上げた黒髪の短髪で、全体的に清潔感がありキリッとした顔立ちが印象的だ。
電車を降りると、もわっとした熱気と、じっとりと湿った空気に包まれた。周囲には「ミーンミーン」と、エマには聞き慣れない蝉の鳴き声が、何重にも重なって響いている。
ホームを見回すも、車掌と誠、エマ以外に人の姿はなかった。
ホームの看板には、「修善寺駅」の文字。エマにとって日本語は、全く意味のわからない暗号のようにしか見えないが、その下に小さく英語で名前が書かれていた 。
“Shuzenji Station”
「やっと着いたなぁ。ここが、エマのお母さんのふるさとだよ。ユア・マザー・ホームタウン。」
「This is where my mom grew up...(ここが、お母さんが育ったところ...)」
エマは感慨深げな表情を浮かべながら、誠と改札へと向かった。
改札を出ると、広々としたロータリーには黒いタクシーが1台だけ停まっており、少し離れたところにはバスの停留所が見えた。そこには薄いオレンジ色のバスが何台もきれいに列をなして停まっている。駅の正面にはコンクリート造の建物が並んでおり、たくさんの看板やのぼり旗があるが、文字が読めない以上それが何のお店なのかはわからない。ただ、駅全体にどこか寂れた雰囲気が漂っていた。
電車を降りてまだ数分しか経っていないのに、エマは額にじっとりと汗が滲んでいる。
「静かなとこだけど、風情があって、いい町だよ。」
「Shizuka? Huzei?」
「サイレント・アンド・ビューティフルかな??」
「Silent? But the noise around is really loud.(静か?でもすごい騒音がするよ。)」
「ノイズ?ああ、蝉か!たしかに、うるさいなぁこれは。」
誠は笑いながら言った。
「Semi?」
「え、蝉はカナダにはいない?ノー・セミ・イン・カナダ?」
「I've never seen Semi in my hometown.(私の故郷では見たことない。)」
「へぇ、そうなんだ。夏ににれば、日本中どこにでもいるよ。」
誠はそう言うと、ロータリーに停まっていたタクシーを拾った。
駅を離れると、まず鉄骨の大きな赤い橋を渡り、そしてくねくねと曲がる山道へと入っていく。しばらく道なりに進むと、大きなホテルや旅館がぽつぽつと現れ、だんだんと人の気配が増してきた。人通りの多い細い道では、タクシーはスピードを落とし、人々が通り過ぎるのを待ちながらゆっくりと進んでいく。
「ここは温泉街って言ってね、まぁ観光地だよ。」
「Onsengai,Kankouchi?」
「そう。ほら、あそこに神社があるだら?あれがこの街の名前にもなってて、修禅寺って言うんだよ。」
「Ah, Shuzenji.」
エマは駅のホームで見た名前を思い出した。
温泉街を抜けると、再び人影がまばらになり、深い山々に囲まれた田んぼの広がる静かなエリアに入った。舗装された細い田んぼ道を進むうちに、ぽつりぽつりと家が見えてくる。
駅を出てから10分くらいが経ち、タクシーは青い瓦屋根の古びた木造2階建ての家の前で止まった。その家はエマの背丈より少し低い塀に囲まれている。
タクシーのドアが開き、誠はエマに先に降りるようにジェスチャーする。
タクシーから降りたエマは、家の塀の穴から庭をちらりと覗いた。庭の奥には家庭菜園があり、そのすぐ奥には森が迫っている。
少し遅れてタクシーから降りてきた誠が、エマに声をかける。
「ここがエマの母さんが育った家だよ。これからは、エマの家になるけど。ユアー・マザー・リブ・ヒアー・ビフォー。」
「My mom used to live here…(ここに母が住んでたんだ…)」
エマは母親が住んでいた家の外観を見渡しながら、なんとなく母の面影がないか探そうとしたが、すぐに誠が声を出した。
「外は暑っちぃら、家ん中入ろう。レッツゴー!」
誠はそう言うと、ひと足先に家の敷地に入り、ガラガラと玄関の扉を開けた。
エマもその後を追うようにして、静かに家の中へ足を踏み入れた。
家に入った途端、馴染みのないお香の香りがふわりと鼻をかすめた。
「靴はここで脱ぐんだよ。」
誠は靴を脱ぐジェスチャーをしてみせた。
カナダでも靴を脱ぐ習慣はあったので、エマは言い返そうとしたが、それよりも初めて足を踏み入れる日本の家の雰囲気に意識を奪われた。
玄関を上がると、すぐ左右に部屋がある。左側の扉は閉まっていたが、右手にはこじんまりとした和室が広がっている。その和室では、70代くらいの男性が座椅子に腰掛けテレビを見ていた。エマと誠が居間に入ると、男性はテレビから目を離してエマ達に顔を向けた。
「おやじ、エマ、迎えに行ってきたよ。」
誠が言うと、男性はエマをじっと見つめた。
竹田敏朗(71歳)。誠の父で、エマの祖父である。日に焼けた肌、白髪に鋭い目つきで、見た目からも物静かで厳格な雰囲気がある。
「おまえさんがエマか。初めてだな。」
「エマ、おじいちゃんだよ。グランド・ファーザー。」
敏朗の圧に気おされ、エマはおそるおそる口を開いた。
「I am Emma. It's nice too me you.」
「外国語はわからん。」
敏朗が低いトーンで言うと、誠がすぐに言い返す。
「こんな挨拶くらい、みんな英語でできるよ。おやじだけ遅れてる。」
すると和室の奥にある台所から、今度は敏朗と同じくらいの年齢の女性が現れた。白髪でパーマのかかった髪、やさしげな顔の女性は、コップが乗ったお盆を両手で持っていた。
竹田明美(70歳)。誠の母で、エマの祖母である。明美はお盆をテーブルに置き、エマの向かいに立った。
「のど乾いたら?これ飲んで、麦茶。」
エマは麦茶が何の飲み物かわからなかったが、一言お礼を言った。
「Thank you.」
明美は胸に手を当てて、ゆっくりと話す。
「あたしはね、おばあちゃんだよ。あけみ。あけみって言うのよ。」
「Obachan Akemi。」
エマはその名前を心に刻むように、小さな声で繰り返した。
「逆ね。明美おばあちゃんよ。」
明美は優しく笑いながら訂正した。
「Akemi obachan, I'm Emma. It’s nice to meet you」
「エマちゃん、はじめまして。遠いとこから、よく来てくれたねぇ。疲れたら?日本の夏は暑くて....」
その時、廊下の方から少女の声が明美の言葉を遮った。
「おばあちゃん、その人。」
少女は廊下に立ち、じっとエマを見つめていた。
竹田結花(12歳)。誠の娘で、エマの従姉妹である。髪は肩あたりまで伸びていて、前髪はまっすぐに切りそろえられている。まんまるな輪郭とクリっとした大きな瞳が特徴的だ。
「結花、従姉妹の姉ちゃんだよ。ほら、挨拶しなさい。」
誠が言った。
結花はエマと目が合うと、少し緊張した様子で口を開いた。
「初めまして、こんにちは、あ、えっと結花。アイアム・ユイカ。トゥエルブ・イヤーズ・オールド。」
「It's nice to meet you, Yuika. I’m Emma. I’m 13 years old.」
「ナイストゥー・ミィーチュー・トゥー!」
結花の口元に、微かに笑みが浮かんだ。
「今時は12歳でも、英語でしっかり挨拶できるんだよ。」
誠が敏朗を見て言う。
敏朗は知らん顔で、テレビの方に顔を向けた。
「結花、エマちゃんに家のこと教えてあげてね。エマちゃんの部屋とか、風呂とか、トイレとか、台所とかさ。」
明美に頼まれると、結花は硬い表情で頷いた。
「えーっと、台所。レッツゴー!?」
「Daidokoro?Okay.」
エマは明美が持ってきてくれた麦茶を一口だけ飲むと、味わうまもなく結花に呼ばれて台所へと向かった。
「ディスイズ、えーーっと。キッチン。オーケー?」
「So kitchen and daidokoro are same thing, right?(キッチンと台所は同じことだよね?)」
「イエスイエス!」
エマは小さく頷き、台所を見渡した。広々と整った台所の流し台の隅には、大きなボウルが置かれており、その中にはスライスされたナスが水に浸かって浮かんでいた。
結花は、扉に磁石やチラシ、メモがぎっしり貼られた冷蔵庫を少し開けた。
「ディスイズ・ムギチャ。ユー・キャン・ドリンク・フリー。オーケー?」
「Mugi cha?」
「うん。あ、イエス!さっき飲んだ、えーっと、ユー・ドリンク・ビフォー!」
「Ahh, the one Gramma gave me earlier, Okay.(あ、さっきお婆ちゃんがくれたのだよね、わかった。)」
「イエス!イエス!」
すると、結花は少し神妙な表情に変わって続けて言う。
「オープン・クローズ・ファースト・オーケー?(開けたらすぐ閉める!)」
「Got it.(了解)」
おそらく結花は何度も注意されてきたのだろうと、エマは思った。
次に結花は、台所から居間を横切り廊下へと出た。そして、階段下の扉へとエマを案内した。
「ディスイズ・トイレ! ユーズ・ディス・レバー・アフター !ドゥーノット、えっと...」
結花はトイレのレバーを指差し、流し忘れないように伝えたかったが、言葉が出なかった。
するとエマはなんとなく結花が言いたいことを察して言った。
「Forget?(忘れる?)」
「フォゲット?」
「Yeah, I think what you mean is “forget,” right?(忘れないでって言いたいんだよね?)」
「んーー。」
結花は「forget」の意味がわからなかった。
2人ともそれ以上どう説明すればいいか分からず、少し気まずい時間が流れた。しかし古い洋式トイレには、流すレバーがついているだけだったので、言葉を使わずともなんとなく通じ合うことはできた。
「Okay! I’ll never forget to flash!(わかった。流し忘れないよ!)」
エマは、心の中では「そんなこと言われなくても流し忘れない」と思った。けれど、結花は過去に流し忘れた経験から、エマを思って言ってくれているのだと察し、言い返さなかった。
「イエス!イエス!ネバー・フォーゲット!」
結花はエマの言ったことを繰り返し、何となく会話を合わせた。そしてトイレの前の廊下を進み、洗面所へ向かった。
「ブルー・イズ・マイ・パパ。グリーン・イズ・マイ・ママ。イエロー・イズ・マイ・オバーチャン。ブラック・イズ・マイ・オジーチャン。ユイカ・イズ・ピンク!アンド・ディスイズ・エマ。」
結花は洗面台にある5本の歯ブラシが、誰のものなのか丁寧に説明し、まだ袋に入ったままの新品の白い歯ブラシをエマに手渡した。
「Thank you」
「オンリー・ユーズ・ユアー・歯ブラシ・オーケー?」
「Of course I do.(もちろん)」
当たり前のことを言われてエマは思わず苦笑いをしたが、同時に、結花にとってカナダ人がどう思われているのかも気にもなった。
そして2人は洗面所に隣接する風呂場に入った。
「ディスイズ・風呂!ウォッシュ・ファースト・アンド・ゴー・風呂、オーケー?」
「Furo?」
エマの問いかけに、結花は浴槽を指さした。
「Ahh, okay.」
「えっと、ディスイズ・シャンプー。ディズイズ・リンス。ディズイズ・ボディソープ。オーケー?」
「Okay. 」
結花は丁寧に教えてくれたが、容器にはそれぞれ Shampoo、Conditioner、Body Soap と英語で書かれていた。「リンス」という言葉の意味はわからなかったが、結花が Conditioner を指さして言っていたので理解できた。
「レッツ・ゴー・トゥー・ユアー・ルーム!」
そう言うと、結花は玄関の突き当たりにある階段を上がり、2階へとエマを案内した。
きしむ音を立てながら階段を上がると、2階には3つの部屋が並んでいた。
「レフト・イズ・マイ・マザー・アンド・ファーザー・ルーム。真ん中・イズ・マイ・ルーム。アンド・ライト・イズ・ユアー・ルーム。オーケー?」
「Okay, but Mannaka??」
結花は、真ん中の部屋を指差した。
「Oh, the center. Got it(あ、真ん中。わかった。)」
そして2人は、右手の小さな和室に入った。
初めての畳の感触がじわりと足の裏に伝わった。硬すぎず、柔らかすぎず、カーペットの上を歩くのとは違う不思議な感覚だった。障子にはところどころ小さな穴が空いていて、そこからやわらかな光が差し込んでいる。窓側には勉強机があり、部屋の隅には古びた扇風機がひとつ置かれている。エアコンがないので、部屋はモワっとして暑い。
結花は押し入れをスライドさせ、中にある布団を指さした。
「ディス・イズ・ユアー・布団。オーケー?」
「My futon, okay.』
布団という言葉を知らなかったが、これを使って寝るということは見ればわかった。
「んーー、えっとー。終わり!エンド!」
結花は明美に任された役目を果たし、満足そうに案内を終えた。
「Okay. Thank you so much for your explanation.Your English is very good.(説明ありがとう。英語はとっても上手だよ。)」
「オフコース!」
結花は少し照れながら、そして得意げに言うと、1階へと降りて行った。
エマは扇風機のスイッチを入れ、肩からバックパックを滑らせるように下ろした。ずしりと重たい荷物が畳に落ちると、小さく息を吐き、そのまま畳の上に腰を下ろした。
「I'm really going to live here…(本当にここに住むんだ…)」
昨日までカナダにいたことを思うと、今この場所にいるのが信じられなかった。ここがカナダからどれほど遠く離れているのか、日本という国のどこに位置しているのかもわからない、ホームシックのような心細さを感じた。
エマは扇風機の風に吹かれながら、窓に浮かぶ入道雲をぼんやり眺めていた。
するとスリッパのパタパタという音を響かせて、誰かがゆっくりと階段を上がってくる。
音の方に顔を向けると、明美が和室に入ってきた。
「ここはね、昔、美香が子どもの頃に使ってた部屋なんだよ。」
美香とはエマの母親の名前で、その言葉だけが聞き取れた。
「My mom?」
「そう。ほら、ここ。」
明美は部屋の入り口の柱に、黒い字で書かれた小さな数字を指さした。
エマが柱に近づいて目を凝らすと、低い位置から順に「6才115cm 7才119cm….」と身長を記録したらしい数字と線が、いくつも並んでいた。
「エマちゃんは、まだ13才だったら?」
明美はそう言いながら、柱にそっと指を当て、エマの年齢にあたる場所を探しはじめた。
すると、エマは明美よりも先に数字を見つけて言った。
「One hundred fifty-five centimeters.(155cm)」
「え?」
明美はエマの英語を聞き取れなかったが、すぐ後にその数字を見つけた。
「ああ、155cmだら。あ、エマちゃん、ちょっと待っててね。」
明美はひらめいたように言うと、1階へ降りていった。
エマはなんとなく柱の記録を眺めながら、母親の姿を想像した。
ここはエマにとって初めての場所だけど、母が実際に暮らしていた証が確かに残っている。母の面影を見つけて嬉しいような寂しいような、言葉にできない複雑な気持ちが胸に広がった。
しばらくして明美が戻ってきた。手にはメジャーと赤いマジックを持っている。
「ほら、エマちゃんの背ぇも記録しとこかねぇ。」
明美はエマを柱の前に呼び寄せた。
エマは柱に背をピタッとつけると、明美がメジャーを使って身長を測っていく。明美が狙いを定めると、スッと赤いマジックで線を引き、「13才158cm」と記録した。
「あら〜、もう美香よりもちょっくら高いねぇ。」
「Takai?」
「ほら、身長。」
明美は手のひらをエマの頭のてっぺんに置き、母親の記録がある所まで平行に移動させた。柱の一番上にある記録は、「15才 157cm」と記されている。
「母さんにも、顔見せてあげようか。」
「Kaomise?」
明美は優しく頷くと、エマにおいでと手招きして先に1階へと降りて行った。
エマが案内されたのは、さっきは扉が閉まっていた玄関を入ってすぐ左の部屋だった。その部屋も和室で、敏朗と明美の寝室のようだ。部屋の奥にはタンスと黒い仏壇が置かれており、家の中に漂っていた線香の匂いは、その仏壇から漂っていた。
仏壇には高級そうな白い花と、火のついた線香の間には、母親の写真と、白い骨壷が納められた箱が置かれていた。
「4日前にね、美香の遺骨がカナダから帰ってきてさ、坊さんも呼んで、お葬式はもう済ませてしまったのよ。」
明美は、どこか申し訳なさそうに言った。
母が不慮の事故で亡くなったのは、3週間ほど前のことだった。仕事の帰り道、車を運転していた母はガードレールに衝突し、そのまま救急車で病院に運ばれたが、その時にはすでに心肺停止だったという。医師と警察の話では、不整脈を起こし、意識を失った状態で衝突したのではないかという見解だった。病院で変わり果てた母の姿を見た後、エマは他に身寄りがいなかったため、病院の提案で遺体は一時的に葬儀社に預けられた。その間、書類の手続きなどが必要で、エマは母親のスマホを調べて親族である誠に連絡を取り、誠がエマの後見人として火葬に必要な書類や手続きを代行してくれることになった。数日後、遺体は火葬場へと移送され、その後の日本への遺骨送付や母のアパートの引き払いなどの事務も、誠が仲介業者を通じて進めてくれた。
母親の姿はずいぶん変わってしまったが、それ以来、母と再会するのは今日が初めてだった。
エマは母の遺骨の前に座り、優しく遺骨の入った箱を持ち上げた。
「This is how heavy my mom is?(これがお母さんの重さなの?)」
かつて母に抱きしめられた腕のぬくもり、母と繋いだ手の感触、何気ない笑い声や、優しいまなざし、そのすべてが、今はこの手のひらに収まってしまっている。あまりにも小さくて、あまりにも軽い。母の死という現実が、じわじわと心に染みこんでくる。
エマは母に何を伝えたら良いのかわからなかった。優しい言葉をかけるべきなのか、本当の気持ちを伝えるべきなのか。
「今までありがとう」
「心配いらないよ、頑張るから」
そんな言葉が言えるほど、エマの心はまだ整理されていない。
ただ、心の奥底から溢れてくる思いは
「Miss you(寂しい)」と「Why」
それだけだった。
そしてエマの目から、涙がこぼれ落ちた。
すると明美がそっとエマの隣に座り、母の写真を見つめながら震える声で言った。
「美香、心配すんじゃないよ。エマちゃんのことは、ちゃんとうちらが面倒見るからね。あたしも爺さんも、すぐそっち行くかもしんないけど、誠もいるし大丈夫だよ。」
エマにはその言葉の意味はわからなかった。ただ、明美の優しくも震える声からは、母に対する強い思いが伝わってきた。
明美はゆっくりと立ち上がり、エマを残して先に居間へ戻って行った。
それからどれくらい時間が経っただろうか。線香の火はとっくに消えていたが、エマはどうすればいいのかわからず、ただ仏壇の前に座って母の写真を見つめていた。
すると部屋の襖がそっと開く音がした。
「おなか、すいたら?晩ごはんまで、もうちょいあるからね。」
明美はエマに手招きをして、居間の方へと呼んだ。
エマはふとお腹に手を当て、お腹が空いていることに気がついた。日本に着いた時は機内食がまだ腹持ちしていたから、それから何も食べていなかった。
エマは母親の写真にもう一度目を向けると、グッと涙を堪えて居間へと向かった。
居間のテーブルには、ふっくらとした茶色いパンがお皿の上に用意されていた。
エマはパンを見つめた後、自分を指差して言った。
「For me?(私に?)」
明美は小さくうなずく。
「Thank you so much.(ありがとうございます。)」
「お礼なんかいらないよ。エマちゃんは、うちっちの孫じゃんね。」
「あ、えっとー、ノー・センキュー。』
明美の言葉を誠が通訳した。
「No thank you?(いいえ、結構です?)」
「あぁ、ドント・セイ・センキューってことかな。」
「Ah, but why?(でも、なんでお礼は言ってはいけないの?)」
「ビコーズ・ユーアー・マイ・ファミリー。」
「Hmm, okay. (うーーん、わかった。)」
とはいえ、なんで家族だとお礼は言ってはいけないのか、それはエマにとって不思議なことだった。
エマがあんぱんを食べようとした時、明美が言った。
「食べる前には、”いただきます”って言うんだよ。」
「Ah,Itadakimasu?I know it.(あ、いただきますは知ってる!)」
「お母さんが言ってたら?手ぇ合わせてこうやって、”いただきます”ってねぇ。」
明美は胸の前で両手をぴったりと合わせ、顔を少しだけ前に傾けて見せた。エマも母親が食事の前によく口づさんでいたので、馴染みのある言葉の一つだった。とはいえ、母親に言わせられていたわけでもないし、習慣的に言っていたわけではない。
「Itadakimasu!」
とエマは手を合わせて言って、パンをひと口食べた。すると中には餡が入っていた。
「あんパンって言うんだよ。ちょっと甘すぎるかねぇ?」
「Anpan?」
「そう。ばあちゃんの大好物なんだよ。」
餡はとても甘くて粘り気があり、口の中にいつまでも残る感じがして、なかなかきれいに飲み込めなかった。 その様子を見ていた明美が、何かを思い出したように「あっ」と声を上げて台所へ向かう。そして、冷蔵庫の扉の閉まる音がするとすぐに戻ってきた。
「牛乳と一緒に食べると、すっごくおいしくなるんだよ。」
明美はコップに牛乳を注いで、エマの前に置いた。
エマはもう一口あんぱんを口に含み、あんが口いっぱいに広がると、牛乳で一気に流し込んだ。あんのねっとりした甘さが牛乳のおかげでさっぱりと流れ、餡の甘さを絶妙に引き立てた。
「This is amazing!(すっごく美味しい!)」
明美はニコッと微笑んだ。
エマはあんぱんを食べて少しお腹がふくらむと、暗くなった気持ちも少し和らいだ気がした。
外は薄暗くなり、窓の外からは蝉の声に混じって、カエルの鳴き声も聞こえ始めていた。
その頃には、居間のテーブルの上にはご飯、焼き魚、茄子の漬物、味噌汁が並び、夕食の準備も整っていた。母の料理にも和食は多かったので、エマにとって日本食は身近なものだった。ある一品を除いて。
みんながテーブルを囲んで何やら待っていると、玄関の扉がガラガラと開いく音が聞こえた。そして、手提げバッグを手にした女性が居間へと入ってきた。
さらさらの黒髪を髪留めでひとつにまとめ、日焼けをしていない透けるような白い肌、全体的に控えめながら品のある佇まいの女性は、エマの姿に気づいて立ち止まった。
竹田霞(38才)誠の妻で、エマのおばにあたる。
「ただいま、あら、この子がエマちゃんね?はじめまして。霞です。」
霞は軽くお辞儀をしながら言った。
「Ahh, I'm Emma, it’s Nice to meet you, Kasumi.」
エマは同じように軽く頭を下げて言った。
「シー・イズ・マイ・ワイフ。エマにとっては、霞おばさんかな?」
「ちょっと、霞お姉ちゃんのがいいわ。」
霞は誠を軽く睨むようにして言った。
「Kasumi Onechan.」
エマは忘れないように「kasumi Onechan」と言う言葉を、何度も何度も頭の中で再生した。
簡単な挨拶を終え、霞がさっと身支度を整えて戻って来たところで夕食がはじまった。
「さあ、食べましょ。」
明美がそう言うと、みんなが一斉に手を合わせる。エマもワンテンポ遅れて、手を合わせた。
「いただきます!」
「あら、エマちゃんもいただきます言えるんだね?」
霞が少し驚いて言った。
「美香が言ってたから覚えてるみたいだねぇ。発音もよくできてるよ。ところで、エマちゃんのお口に合うかねぇ?」
誠がすぐに明美の言葉を通訳する。
「えっと、フード・デリシャス?」
「Yes, so delicious(とっても美味しいです。)」
「よかったぁ。なに食べるかわからないから、ちょっと心配だったんだよ。」
と明美はほっとした表情を見せて言った。
「エマはカナダじゃ、なに食べてたら?ワット・フード ドゥー・ユー・イート・イン・カナダ?」
誠がエマに質問をした。
「My mom made a lot of Japanese dishes, like miso soup, tamagoyaki, curry, meat dishes, and karaage(母は味噌汁、卵焼き、カレー、お肉料理、唐揚げなど、日本食をたくさん作ってくれました。)」
「姉ちゃん、よく日本のもん作ってたみたいだなぁ。」
「日本から出てってもなぁ、故郷の味はそう簡単に忘れられんだろ。」
敏朗が重たい口を開いた。
敏朗が話した後は、なんだか居間の空気が重くなるような感じがした。
するとその重い空気を壊すように、隣に座っていた結花が料理の名前をエマに教え始めた。
「ディスイズ・ゴハン・ディスイズ・ヤキザカナ・ディスイズ・ナスノツケモノ・アンドー・ディスイズ・ミソシル。オーケー?」
「Gohan,Yakizakana and? 」
「ナスノツケモノ・アンド・ミソシル!」
「Nasunotsukemono and misoshiru…it’s hard to remember all of them at once(茄子の漬物、味噌汁…一度に全部覚えるのは難しいわ)」
「結花、そんないっぺんに言われても覚えられないわよ!」
霞に注意されて結花は少し嫌な顔をした。
(My mom also used to eat here when she was young.)(母も昔はここでごはんを食べていたんだ。)
エマはふとそう思って、この空間にかつて母がいた気配を重ね合わせた。しかしすぐに、母がもういない現実を思い出し、孤独な気持ちに引き戻される。
すると物思いにふけっていたエマに突如異変が起きた。
慣れない正座を長時間続けていたせいで、足が痺れたのだった。
エマが顔を顰めて、足を気にしている様子に気づいた明美が、優しく声をかけた
「あらあら、足しびれちゃったら?無理せんで、足くずしていいんだよ〜。」
「えっと... 」
誠は言葉につまりながらも、足を崩す動きを見せた。
エマは痺れた足の痺れに耐えながらも、ゆっくりゆっくりと体を動かしながら、楽な姿勢に座り直した。
「あはは、大丈夫大丈夫、日本人だってしびれるから!」
誠が笑いながらエマをフォローすると、なんとなく和やかな空気が食卓に戻った。
誠が後見人になると決まってから、どんな家庭に迎えられるのか分からず不安でいっぱいだった。でもそんな不安をかき消すように、賑やかで暖かい家族だ。敏朗は一癖二癖ありそうだけど。
エマが物心ついた時にはすでに両親は離婚していて、父親の記憶すらない。ずっとシングルマザーのもとで育ってきたエマにとって、こうして家族が何人も揃って食卓を囲むのは新鮮な光景だった。まだ出会って数時間しか経っていない人たち。みんなの名前を完璧に言える自信もないし、自分がこの家でどんな存在なのかも、まだ分からない。育った国も、話す言葉も、文化もすべてが違う。けれどこの人たちは、「母の家族」だと思うと、エマにとっても切り離せない何かが繋がっているようにも感じた。母親のいない喪失感と新しい家族が増えるという感覚、それは今までに経験したことない不思議なものだった。
夕食が終わり空腹も満たされ、朝から張り詰められていた緊張の糸も切れたのか、エマの表情にはどっと疲れが現れていた。
「エマちゃん、今日はもうお風呂入って、はやく寝なぁ。疲れたら?」
「えっと、ユー・アー・タイアード・ソー・風呂・アンド・スリープ?」
「Ah, yes. I'm very tired. Thank you so...(はい、とても疲れました。ありが...)」
エマはお礼を言うとしたが、咄嗟に止めた。
「ははは、日本の文化ってちょっとややこしいかもね。お礼をしないと「ちゃんとお礼をしなきゃ」と思われるし、お礼を言うと「言わなくていいのに」と思われたりする。」
誠が笑いながら言った。
「でも、母さんが言いたかったのは、家族なんだからあんまり硬くならなくていいってことなんだよ。」
「え?」
「ん、なんだろな。ちょとまって。」
誠は伝えたい英語がわからなかったので、スマホで調べてから言い直した。
「あ、テイク・イット・イージー。(気楽に行こ。)」
「Yeah, I understand.(うん。わかった。)」
エマはなんとなく誠の言っている事は理解できた。
それからエマは自分の部屋に着替えを取りに行った。
自分の部屋の片隅に置いてあった、カナダから持ってきたリュックサックを開けると、中に入っていたスマホが目が止まった。
母が亡くなってからというもの、友達と連絡を取る気にもなれず、人々が浮かれ気分で投稿するSNSを見るのも嫌気がさして、スマホから距離を置いていた。母が死ぬ前は、スマホがないと生きていけないほど依存していたのに。ただ、幸いこの家にはWi-Fiがなかったため、社会の交流をする必要もなく、スマホは昔の写真しか見られないただのデータ保管デバイスにすぎなかった。
エマは着替えだけさっと取り出して、風呂場へと向かった。
お風呂場に入ると、四角い浴槽にはすでに湯が張ってあり、風呂場全体が湯気でけぶっていた。そっと指先でお湯に触れてみると、あまりの熱さに思わず指を引っ込めた。湯船に浸かる習慣のないエマにとって、この熱さの風呂に浸かるのは気が進まない。結局シャワーでさっと体を流すだけにして、風呂を出た。
カナダから持ってきた薄手のパジャマに袖を通すと、ほんの一瞬だけカナダに戻ったような気がした。特別な思い出があるわけでもないただのパジャマ、けれどこれは母が買ってくれたもので、今となっては手元に残る数少ない“母との繋がり”だった。母が亡くなるまではただのパジャマだったのに。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるように苦しくなった。
結花からもらった白い歯ブラシで歯を磨き、ドライヤーで髪を乾かした後は、そのまま自分の部屋に戻った。
そして、エマは電池が切れたように布団の上へと倒れ込んだ。
畳の上で寝るのは生まれて初めてで、違和感を感じたが、布団は冷んやりとしていて気持ちよかった。窓も半分は網戸にしてあり、そこから時折涼しい風が入り込み、耳には心地よい鈴虫の鳴き声が運ばれてくる。明かりも付けなかったが、窓から差し込む月の光がうっすらと部屋を照らしていた。
何もない時間がやってくると、まず必ず頭に浮かんでくるのは母親のことだ。母を失って、まだ3週間しか経っていない。けれど、その日々は残酷なほど早く過ぎていき、エマが立ち直るのを待ってはくれなかった。
朝が来て、夜が来て、また朝が来る。ただ地球が太陽のまわりを回っているだけで、時間なんて存在しないし、戻すこともできないんだ。そんなことを考えているうちに、エマは眠りに落ちていた。
夢の中。
淡い光に包まれた部屋に母がいた。母は優しく微笑んでいるけれど、その笑みはどこか寂しげだった。母はエマに何か伝えようとしているが、声が聞こえない。エマも何か伝えようと口を開こうとするが、声が出ない。そして動こうとしても体も動かない。
エマは無理やり体を動かそうとした時、体がビクッとなって目が覚めた。
どれだけ眠っただろう、外はまだ真っ暗だ。枕が少し湿っていて、エマはそっと寝返りを打った。
鈴虫の声も、さっきまでは心地よく聞こえていたはずなのに、今はなぜかひとりぼっちで取り残されたような寂しさを、よりいっそう際立たせていた。