第四話 追放されなかった元魔法使いは日本でのんびり暮らします! (3)
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最初は点に過ぎなかった白い光は、瞬く間に大きく膨らんで日本全土を飲み込んでいく。
それでもまだ喰い足りないとばかりに白スライムは巨大化を続け、その成長が完全に止まったのは縁が日本の排他的経済水域の外に達しようとした時だった。離島も何もかもを腹に収めた巨大スライムから白濁した体色が消える。だが、スライムそのものが消えたわけではないらしい。
EEZと公海の境には海面を埋め尽くすほど大量の人間が浮かんでいた。その数はざっと数えて数万は下らないだろう。彼らの中にはスーツケースを腹の下に置き、ボディボードの要領で必死に水をかく者もいたが、目に見えぬ障壁に阻まれ、無駄な努力に終わっていた。後方では客船や漁船、軍艦に潜水艦、航空機までもが絶妙なバランスで折り重なっている。恐ろしいのは小笠原諸島と南鳥島の間でのみ見られる限定的な光景ではないということだ。波間を漂う人の群れは日本を取り囲むEEZ境界線上であれば、どこででも見ることができた。船舶や航空機によるバランスアートも同様に。
影響は海に限ったものではなかった。
同時刻。地球の引力に引き寄せられる小惑星があった。人類が長年発見できなかった準衛星である。名も無き星は大都市どころか国家をも消滅させかねないほどのスケールがあり、もし地上に落ちれば未曾有の大災害として歴史に刻まれることになるだろう。発見されたのが大気圏突入直前だったため、天文台の研究員たちは神に祈ることしかできなかった。日本列島に向けて落下し始めると思われた瞬間、小惑星はトランポリンに飛び乗ったかのように跳ね、再び宇宙空間へと舞い戻って行ったのだ。
日本を包み込む巨大スライムの正体は強力な結界であった。
”日本人および日本国と、主権の及ぶ領域を害する意思のある者は残らず追放する” という強い思念により展開された結界は、人々が心の奥底に秘めた歪んだ思想をも汲み取り、有無を言わさず国外に放逐したのだ。対象となったのは電車の中や歩道で踊り狂う観光客、神社の鳥居で懸垂をするアスリート、旅館の客間をゴミ屋敷に変える宿泊客、だけではない。皮肉にも国の舵取りを担う日本の政治家の多くがその中に含まれていた。海面にその姿が見えないのは公用車ごと海中に没したからであろう。毒されていない運転手や秘書官は幸いにも無事なようだ。
だが、これらの情報を国民の知るところとなったのは、ずいぶんと先の話になる。
新聞やテレビなどマスメディアは職員の大半を失って機能不全となり、新聞は休刊に、テレビとラジオは完全に沈黙した。事態の収集を図るべき政府は、親の七光を巧みに利用し、総理の座にまで上り詰めた若き支配者を筆頭に閣僚の九割が消失。与党、野党を合わせて日本国内に留まったのはおよそ三十名という為体ぶりを発揮したのだ。
そのせいだろうか。
通常であればテレビ局の中継車が殺到し、報道各社のヘリが上空を忙しく旋回しているはずの東京ディザスターランドは奇妙な静寂に包まれていた。無人の園内で動くものといえば幾多の鳥たち。来場者が地面にばら撒いたポップコーンや、缶が潰れ、無惨に散乱したクッキーを群れで啄んでいる。人類が滅亡し、文明が崩壊した後の世界のようで、ディザスターの名に相応しいと思える風景だった。
そんな鳥たちの食事を蹴散らす無粋者がふたり。
熱中症から復活したカブアと悪漢の元から無事生還した美咲である。
ふたりはパークマップ片手に駆けずり回っていた。汗に濡れるその顔は疲労に歪む必死の形相と言っても過言にはなるまい。彼らはパーク内に存在するすべての建物、植栽、アトラクションのコース内に至るまで、とにかく細かく慎重に丁寧に捜索を続けていた。
ふたりが捜しているのは、ここで遊び倒すのを一番楽しみにしていたユピの姿。
迷子などを知らせる園内アナウンスで待ち合わせを呼びかけるも反応はなかった。どこかで倒れている可能性も否定できない。時おり浮かぶ最悪の事態を美咲たちは何度も振り払ってきた。再び笑顔で相まみえると信じてここまで来たのだ。
「次はここ」
美咲が建物を見上げる。
「⋯⋯血の匂いが尋常じゃない」
カブアは腕で鼻をかばい、顔をしかめた。
「このフロートで一悶着あったのかも⋯⋯ともかく、捜しましょう」
美咲の呼びかけにカブアは首肯で応じる。
建物の一階はここでしか買えない限定グッズやカプセルトイを扱うショップだった。店員も客も避難済みなのだろう。人の気配はない。スタッフオンリーと記されたドアを開き、二階へと駆け上がる。二階は休憩室のようだ。テーブルに椅子がいくつも並べられ、壁にはテレビも設置されている。一階と同様に人がいた形跡はあるものの、今はその存在を感じられない。続いて三階、四階へと移動し、やがて屋上に到着した。慎重に扉を開ける。心地の良い風が火照った身体に沿って通り過ぎていく。
目の前には強い日差しを遮るオリーブの木々。鼻腔をくすぐる風には土と緑の香り⋯⋯だけなら良かったが、それらを遥かに上回る猛烈な生臭さが備わっていた。よくよく見れば、逆光で陰るオリーブには黒ずんだ臓物が寄生植物の如く幹に貼り付いており、周りで無数のハエが耳障りな羽音を立てている。
美咲は胃液が逆流しそうになるのを懸命に抑え込む。
だが、意識すればするほど、胃液は沸るマグマの熱を持って迫り上がってきた。
「オボロロロ」
耐えきれなくなり吐き出す美咲。
丸くなった背中をカブアがやさしくさする。
「げほっ! ごべんべぇ⋯⋯」
「いえいえ、気にするほどのことじゃないですよ」
柔らかい表情を浮かべたカブアが美咲のバッグからタオルと水のペットボトルを取り出し、渡す。
バツの悪さからか美咲はタオルに顔を埋めた。
「それにしても、ひどい臭い⋯⋯ジビエの解体ショーでもやったのかしら」
気まずい空気を変えようとでも思ったのか、美咲が軽い冗談を口にする。
「⋯⋯ユピはここですね」
「え?」
「この解体ショーをやったのはユピでしょう。以前にも見たことがあるんですよ、同じような光景を。その時に解体したのはハシラオオカミとヤマタガラス⋯⋯それにウデノワウミウシでしたけど」
「うん、まぁ、動物の形がいまいち想像できないんだけど」
「狩猟魔法といいまして、その魔法を使うと、こう首の周りに切れ込みが入るんです」
カブアが自分の首周りに指を這わす。
「すると、そこから首と一緒に胴体にある骨と内臓と血がまるごと飛び出すので、あとは皮を剥いで腹を割いて、血やぬめりを洗い流すだけで解体が完了するという便利な魔法なんです」
「それをユピちゃんが?」
「あいつの十八番ですよ」
カブアが嬉しそうに笑う。
つられて美咲も笑顔になる。
笑顔を作るのはずいぶんと久しぶりな気がした。
だからだろうか、少しばかり頬が引き攣るのを自覚する。
「捜しに行ってきます。美咲さんはここで休んでてください」
「うん。ありがと⋯⋯」
美咲はカブアの言葉に甘えることにした。
視界に臓器や生首が入るのを嫌い、階段と屋上を繋ぐ踊り場に身を隠す。
壁に背中を預け、床に座り込んだ。冷気の染み込んだコンクリートが身体に溜まった過剰な熱を奪っていく。
日頃のフィールドワークや神社への行き来で脚力に自信のあった美咲だったが、身体は思った以上に疲労していた。
ふと魔が差して、大の字を描き、床に寝転がる美咲。
ずっと強いられていた心の緊張も糸がほぐれて弛緩する。抜けた力を深呼吸ついでに口から吐き出すと、美咲は軽く目を閉じた。ほんの数秒で済ますつもりだった小休止は、美咲の思惑を外れ、やがて眠りの深淵へと誘うのだった。




