第三話 イルカが攻めてきたぞ!? (2)
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「あっつぅ⋯⋯」
木陰の下でカブアはため息混じりに呟き、げんなりとした表情で地面から立ち上る湯気を見つめていた。
「美咲もどこ行ったんだろねぃ」
地面を小枝で突きながら、ユピもひとりごちる。
会計担当がいないことに最初のうちは地団駄を踏んで憤怒していたユピだったが、時間経過とともに落ち着きを取り戻し、今やすっかり賢者モード。とりあえず直射日光が遮られるこの場所に移動し、持て余した暇を手にした小枝で潰しているのだ。
「ねぇ、あそこにタコ映ってるけど、ウチのとちょっと違わない?」
ユピが指し示す先には巨大なサイネージモニターがある。そこには半年後に公開が予定されている新エリア『ディザスター・シー』の見どころが紹介されていた。水族館も目玉の一つなのだろう。
「⋯⋯ウチのは逆さまになってるな。泥で足元が見えない湿地帯に潜んでるんだ。触手をこう大きく広げて。で、うっかり踏んだ動物や人間を絡め取って口へと運んでいく。それにしても、へんな頭してるな」
「ねー、おもしろいよねー」
「はあー⋯⋯」
期せずして大きめのため息が同時に漏れた。
絶好の行楽日和、といえば聞こえは良いが、この時期のピーカンはもはや大いなる殺意である。開園から一時間と経たずに園内の気温は急上昇。直射日光と地面からの照り返しに挟まれた場所では体感温度が四十度をゆうに超え、じっとしているだけで体内の水分が毛穴という毛穴から溢れ出てくる。
そのため、水分補給は欠かせないのだが、あいにくカブアもユピも所持金はゼロ。
野外の木陰で暑さを凌ぐより他はないのだ。
パークチケットと現金を美咲に預けず、自分たちで持っていれば、と後悔しても後の祭りだった。そのため、美咲を見つけ出さないことには喉を潤すこともままならない⋯⋯というのは、少し大袈裟かもしれない。なぜなら、水を飲みたいと思えば無料でいくらでも飲めるからだ。パーク内では来園者の熱中症対策として、園内の至る所に給水所が設けられている。上向きの吐水口に顔を近づければ、口めがけて冷たい水が自動的に飛び出してくる便利仕様。利用すれば腹がタプタプになるまで飲めるのだ。ユピは見た目が幼いのをいいことに、来園の子どもに混じって水を飲んだり、わざと頭をずらして水玉を顔に当てたりと、涼を求めてちょくちょく席を外している。しかし、カブアにはどうしてもそれができずにいた。
仮にも自分は王宮に仕える誇り高き騎士である、という揺るぎなきプライドがそれを許さないのである。
彼をここまで意固地にさせる理由。それは、故郷での経験に基づく。
⋯⋯夜が更けてもなお戦勝に沸く王宮街地。大通りにまで上機嫌の笑顔で溢れ、酒や食べ物を手に歌い踊っている。こんな夜は些細なケンカが暴動に発展するのだ、と先輩騎士に教えられ、リハビリ中だったカブアも巡回に同行することになった。山から吹き下ろす冷たい風をも打ち負かす人々の熱気で、街は季節が逆行したかのように暖かい。
だが、感心するのもここまでだった。
明るい雰囲気で軽くなった心を地面に叩き落とすニオイが街の至る所から漂ってくる。
ニオイの正体はゲロ。酔っぱらいが所構わず撒き散らかした吐瀉物である。風が運んできた臭いが鼻をかすめるだけで、胃から何かが込み上げてきそうになる。猛烈な異臭にカブアは両手で鼻口を押さえ、顔をしかめた。先輩騎士も同様だった。羞花閉月の眉間に深く皺を刻み、嫌悪感を露わにしている。そして、細くしなやかな指先で鼻をつまんだまま、速やかに指示を下す。命令を受けて警備隊の中から現れたのは、大きな壺に革ベルトを通し、それを襷掛けにした小柄な男たちだった。彼らは異臭の発生源を特定すると壺の蓋を開き、中から取り出した一握りの白い粉を吐瀉物にふりかける。すると、瞬く間に悪臭が爽快なフレグランスに変化したのだ。
目と口を丸くして、驚きを隠せないでいるカブア。そのあまりの表情に明眸皓歯の先輩もたまらずプッと吹き出した。そして、丁寧に解説をしてくれた。
粉の正体はペビリアという植物の根を乾燥させ、細かく砕いたものだという。粉自体に臭いはなく、他の臭気と反応することで様々な香りに変化する。クサければクサいほど、気高く麗しい香りになるのだそうだ。元々は魔牛を繁殖させる牧場において牛糞の臭い消しに使用されていたものが、隊商によって世界各地に広まっていったと考えられている。今では世の中に蔓延る多種多様の悪臭に効果アリとして、一般にも普及しているのだ。もちろん、王国とて例外ではない。王族の馬車をひく黄金色の魔黄馬をはじめ、数多くの魔物が王宮内で飼育されている。その臭い対策にペビリア粉は一役買っているのだ。
「このくらいの知識は常識中の常識だぞ。剣術ばかり磨いてないで、ちゃんと勉強もしろ」
玉質のゲンコツがカブアの頭をコツンと叩く。
「とりあえず、今夜はゲロの後始末に追われそうだな。浮かれ騒いでる諸兄姉らも少しは弁えてくれるといいんだが⋯⋯どうした?」
紅玉の輝きを放つ先輩騎士の瞳がカブアの変化を鋭く捉える。それは変化と呼ぶにはあまにりも奇妙なものであった。
動きを止め、棒立ち状態のカブア。無表情で立ち尽くすその姿は魂が抜け落ちたかのようだ。
なんらかの衝撃を受け、ショック状態になったのだろうか。否、彼は今、途方もなく猛烈な怒りによって人間らしい喜哀楽の表現機能が緊急停止に至ったのだ。視線の先に見えるのは街区広場の噴水。そこには魔法の杖と剣を掲げる半人半獣キメラ像が建つ。この像が王家の紋章を模ったものだと国民なら誰もが承知しているはず。にもかかわらず、ごく一部の蒙昧な連中が酔いにまかせて像によじ登り、あろうことか像の頭にゲロを吐きかけているではないか。
あまりの衝撃映像にカブアの理性はプッツンし、心身とも怒りに完全支配されてしまったらしい。
暗闇で光る動物たちの眼がごとくカブアの瞳孔も黄緑色に輝く。妖光の範囲は双眼に止まる事なく、瞬く間にカブアの全身を包み込んだ。
百戦錬磨の先輩騎士も初めて見る現象に言葉を失う。
しかし、呆然ともしていられない。周囲にどのような危害が及ぶかわからないのだ。
「おい⋯⋯なんだそれは。おまえに魔術適性は微塵もないはず⋯⋯いや、まさか、あの時ユピがおまえの身体に封じた魔力が⋯⋯?」
やっとの思いで絞り出した言葉が歌劇の台詞のように凛と響く。
次の瞬間、カブアの身体は文字通り光の速さでキメラ像の建つ噴水へと移動する。
全身に黄緑色の炎を纏う少年の出現に、噴水の周りにいた酔っぱらいたちの動きは一瞬だけ停止した。
だが、すぐにグニャリとした動きに戻る。どうやら、目の前に見えている存在は酒による幻影だと決めつけたらしい。
興味深げに炎に手を伸ばす者、手を叩き笑い転げる者、反応は様々である。その中にカブアの怒りを鎮める者はいない。
カブアの手が腰へと下がっていく。
剣を抜こうとしているのが明白な動きだった。
「よせ、カブア!」
制止の声も虚しく、弓状の黄光が像に向かって飛ぶ。
黄光が弾けた。火花とは違う。細かな光の泡の塊が飛び散ったような、そんな変化だった。
同時にドボンと噴水の池に水柱が立つ。
一瞬の間を置いて、酔っ払いたちが抜かした腰を担ぎ上げ、ほうほうの体で噴水から逃げ始めた。
水を蹴飛ばしながら一心不乱に逃げる酔っ払いを静かに見下ろすキメラ像に頭はなかった。
リハビリ中の彼が持つのは訓練用の木剣である。
本来であれば、どんなに魂を込めて振るったとしても、石像に傷ひとつ付けられるはずがない。
だが、現実には届くはずのない場所に刃が達し、石像は切断されていた。
その切り口は非常に滑らかで力任せに折られたものでなかった。
カブアはといえば、剣を振るってストレスが発散されたのか、満足そうな表情を浮かべ、地面に横になっていた。全身を覆っていた炎にも似た光も消え、出血や外傷もないようだ。沈魚落雁の先輩騎士は安堵の吐息を吐き出す。そして、この出来事をどう報告したものか、と頭を悩ませるのだった。
後日、像は修復され、元の姿へと戻された。
ごく一部の界隈において『若気の至り像』とも揶揄されるようになったが、あの夜のことをカブアはほとんど記憶していない。だが、あの晩以来、噴水に対して不思議と苦手意識が芽生えたのである⋯⋯。
トラウマ回顧録を閉じたちょうどその時、ベチャ、と頭に冷たいものが乗せられた。過剰に水分を含んだそれは、爽快感と不快感という二つの感情を同時にカブアへともたらす。
「熱中症になったら大変だから、それで頭を冷やしてなさい。水をたっぷり含ませといたから、絞って飲んでもいいかもね」
ユピの声だ。
水飲み噴水場で他の子供たちと楽しく遊んでいたのか、声も息も大きく弾ませていた。
「うん、ありがとう⋯⋯」
素直に礼を述べるカブア。首元に当てると冷気が皮膚の奥まで染み入り、先ほどから脈打つ頭痛も少しは引いたかに感じられた。しかし、とカブアは考える。先ほどのユピの言葉には別の意図が隠されていると思うのだ。むしろ、隠された意図が本当の目的であるかのように。
「⋯⋯職業病かな?」
自重気味に小さく笑うカブア。
そして、延髄に張り付かせておいた物体を剥がし、あらためて目の前に掲げる。それはスニーカーと同色のアンクルソックスであった。形を認識すると、つま先から滴る水滴にも臭いを感じるから不思議だ。
「⋯⋯これを飲ませる気だったのか、ユピィ!」
少し強めに声を張る。
そのせいで眩暈がした。
怒鳴られたユピは楽しそうにキャアキャアと笑っては、炎天下の中を逃げ回っている。
その光景が次第に歪む。
どうやら、本格的な熱中症であるらしい。病み上がりの体にこの環境はいささか酷だったようだ。
上体を起こしておくのもキツくなったカブアは、ゆっくりと体を横たえる。
鼻腔をくすぐる土の香りは故郷のそれと同じ気がした。