人生の退職代行会社と棺桶体験(1)
オフィスの時計は、昼の十二時ぴったりを指す。同時にチャイムが鳴り、オフィス全体にゆるい空気が混じり始めた。
「さーて、どっか食いに行くか」
「コンビニの弁当飽きたー」
「あっちに新しい店できたよ」
「混んでる?」
「本当?」
上司や同僚たちの声が響き、ゾロゾロとエレベーターの方へ出ていくが、高瀬川優香は、一人、非常階段の方に向かい、降りる。
正直、昼休みまで上司や同僚の顔を見たくない。オフィスのある五階から階段を使うのは、ちょっと面倒だったが、無料筋トレと思い込み、軽やかに降りていく。
ようやく昼休みになった。毎日この時間が楽しみで仕方ないほど、仕事が嫌だった。薄いピンク色のブラウスとスカートの制服も大嫌い。昭和的遺物の男尊女卑な気もして、居心地が悪い。
とはいえ、優香の職場は一般的にホワイト企業だった。健康食品を扱う中小企業だったが、福利厚生もよく、給料も高い。新卒後、三年ほどこの会社で経理事務をしていたが、大きな不満は無い。
そう、不満など無いはずだが、優香はコンビニで昼ごはんを買いながら、考える。こんなに毎日、昼休みの時間が楽しみなのは、仕事が好きじゃないからか。帰る時も嬉しいが、その時は翌日の業務も考えてしまい、微妙に楽しくない。当然やる気もない。管理職や出世にも一切興味がない。こう言った状態は「静かな退職」とネットで表現されていた。
コンビニは似たような制服姿のOLやスーツ姿のサラリーマンが行列を作っていたが、どの人も表情は暗い。レジの外国人スタッフも余裕がなさそうで、優香は誰もいないセルフレジへ行き、バーコード決済で支払った。
「なんで、あんな混んでいるのに、セルフレジ使わないんだろう?」
コンビニの裏手のある公園のベンチに座り、優香は首を傾げる。優香はいわゆるZ世代と言われた世代で、便利なものが好きだ。正直、コンビニのレジから人の温もりや人情といったものは、感じにくいし、全面的に無人レジにしないのは効率が悪いし、意味がわからないと思うが、会社にいるよりはマシか。
公園の様子も覗ったが、会社の同僚や上司はいないらしい。ほっと安堵のため息をつき、昼ごはんを食べ始めた。
この公園の規模は大きくないが、桜の木々に囲まれ、新緑も爽やかだ。桜の時期が舞い散る花びらは少々鬱陶しいぐらいだったが、今は風も心地よく、晴れた空も綺麗だ。
コンビニで買ったおにぎりやさサンドイッチもあっという間に食べてしまう。ゴミをまとつつ、これから会社に戻るのが憂鬱になってきた。確かに一般的にはホワイト企業と言われているが、何かピンとこないというか、毎日がつまらない。息苦しい。
「退職代行使おうかな」
周りに誰もいない事をいい事に、愚痴がこぼれる。
そろそろゴールデンウィークもある。それが終わったら、ますます辞めたくなる悪寒がする。
ついつい、退職代行サービスの会社を調べる。有名な会社は値段が高めで、少し躊躇するが、変な会社も見つけた。
出エジプト社という名前で、一般的な退職代行サービスだけでなく、人生の退職代行も行なっているらしい。人生の退職代行とは一体なんだろう。
変な会社名だが、旧約聖書から名づけられたとか。奴隷となったイスラエル人を導き出したというモーセの旧約聖書の話は、大学の一般教養で聞いたことがある。イスラエル人の奴隷とブラック企業をかけた退職代行会社なのか。色々と趣味が悪そうだが、近年は終活ビジネスにも手を出し、遺品整理や孤独死防止の見回りなどもしているという。
「なるほど、だから人生の退職代行会社ね……」
悪趣味な退職代行会社ではあった。実際、死にたい人向けに遺書代筆やSNS運用代行サービス展開まではじめ、ネットで炎上。自殺者志願者向けのサービスは今は無期限休止中らしが、広報の百瀬亜論という男はお喋り大好きで、ネットでもよく顔出しているらしい。SNSのフォロワーも多く、炎上もしているらしいが、よくも悪くも目立っているらしい。
動画サイトでは、百瀬亜論が踊って歌ってる動画もある。会社が持っている動画チャンネルらしいが、オリジナルの自社ソングまであり、コメント欄でもプチ炎上していた。
「出エジプト〜♪ 奴隷の身分から、自由になろう♪ 我々はモーセじゃないけれど、新しい人生までご案内します♪」
百瀬亜論が歌って踊っている動画を見てみた。イヤフォンから、奇妙に明るい音楽が流れ、優香の労働意欲は、余計に薄くなっていく。ふざけた内容の歌詞も批判が集まっても仕方ないだろう。海外の宗教家から怒りのコメントもついていて、全く笑えない。
「さあ約束の地へ♪ 我が社は弁護士監修♪神も監修しているかも?♪ さあ、自由になろう♪ 奴隷の身分はさようなら♪」
動画の中の百瀬亜論は中年男性とは思えないほどキレキレダンスを踊り、アイドル顔負けのキラキラ笑顔を振りまく。たぶん四十過ぎぐらいのおじさんだが、短めの黒髪はツヤツヤとし、黒縁メガネもやけに似合い、コメディアン風の容姿にも見えた。人気者タイプというよりは、ブラックジョークを連発するような芸人タイプだろうか。
「さあ、奴隷の身分はさようなら♪ さあ、出かけよう♪ 素晴らしい人生へ♪」
やはり、変な曲だ。優香はくだらないと思い、動画サイトを閉じ、スマホを制服のポケットにつっこむ。
「はぁ……」
こんな曲を聴いていたら、労働意欲がすり減りそう。ただでさえ、SNSには自由に生きているインフルエンサーや好きな事で成功しようといった言葉が踊る。年功序列は死語となり、退職、転職、副業、フリーランスも一般的になり、夢も大量に食べさせられている現代。
ふと、空を見上げる。空を飛ぶ鳥は自由そう。人に好かれないカラスや汚い鳩も、空を飛べるなら幸せだろう。
もし、空の鳥が地上に降り、毎日穴を掘るような仕事をしていたら……。
考えてただけでも気が滅入るが、今の優香も似たようなものだった。本当はしたい事があった。夢もあったが、諦めて経理事務をしていた。
息苦しい。鳥が地上で穴を掘っているような。今の仕事も合っていないのかもしれない。
やはり退職代行を使おうか。あの変な名前の退職代行を使おうか。無料でトークアプリも登録し、相談できるまで進めたが、どうも最後のステップまで踏めない。貯金額、生活費、世間体、老後の現実などがぐるぐる頭を周り、余計に笑えなくなってきた。
気づくと、もう昼休みの終わりに近づいていた。再びスマフホを制服のポケットに突っ込み、オフィスに向かう。
空は見ないようにした。今、空の鳥を見てしまったら、すぐにでも退職届けを書いてしまいそう。
「はぁ、やっぱり仕事やめたい……」
本音だけは漏れてしまっていた。とても小さな声だったけれど。