人生の退職代行会社と遺品整理(3)
その夜、紀子は夢を見てしまった。夫は他界、一人娘は独立している。一人の夜は、時々変な夢を見る事はあったが、よりによって夫の夢だった。
夫は音楽関係の仕事をしていた。昔はバンドを組み、そこそこのレベルまで行ったらしいが、メジャーデビューとはいかず、バックミュージシャンやアレンジ、ゴーストライター、音楽講師などをしていた。
若い頃は見た目も良かった。中性的なルックスでストーキング被害も多かったらしいが、本人はさほど気にしてはいなかったし、紀子と結婚して、娘が産まれたら、落ち着いてはいた。
しかし、夫の女癖の悪さは、簡単には消えなかった。ちょうど娘が中学生になった頃、大きな不倫トラブルが発覚し、離婚の危機もあった。
その度に紀子が許し、とっくに愛情は喪っていたものの、なんとか家庭は維持できていたものの、三つ子の魂は百までか。死ぬまで夫の女癖の悪さは治らず、旅先のホテルで死んだ。突然死だった。側に愛人がいた。夫と同じく音楽関係者の若い女だった。
この女のタチが悪かった。葬式まで来て大暴れし、紀子に八つ当たりした。何度かぶたれた。
結局、葬儀は警察沙汰にもなってしまい、グダグダだった。
「奥さん、かわいそう。彼の死に際に会えなくてかわいそう!」
愛人は最後にそう言い残していたが、その声が夢の中まで響く。
「はぁ、よりによって夫と愛人の夢を見てしまうなんて」
目覚めは最悪だった。葬儀中の線香や菊の花の匂い、坊主の読経の声もリアルに感じてしまい、首回りは汗だくだった。
こんな夢のせいか、体調も悪い。咳もゴホゴホと出て、パートの仕事を休む連絡を入れた。課長は電話口で文句を言っていた。「鈴木さんみたいに退職代行使わないでよー、全く迷惑なんだから」と冗談まで言われ、紀子の体調はますます悪い。
ふと、一人、リビングで紅茶を啜りながら考える。
こんな夢を見てしまったのも、葬儀がグダグダになってしまったからだろうか。あるいは、夫の遺品もちゃんと整理できていないからだろうか。
夫が死んでから、彼の部屋はそのままだ。さすがに仕事で借りていた部屋は、どうにか片付けられたが、そこはずっとそのまま。換気すらしていない。埃も溜まっているだろうが、今では部屋に入るのも勇気がいるぐらいだ。
これでも、何とかしようと、一人で夫の部屋を片付けようとした事はある。夫の仕事関係者に聞くと、貴重なCDやレコードもあるかもしれないという。
机の引き出しの中など見たくもない。どうせろくなものは入っていない。愛人からの手紙もあるだろう。紀子を傷つける言葉が書かれた日記も出てくるかもしれない。実際、一度片付けようとした時、引き出しの中に愛人からの手紙があった。
手紙にはどれだけ自分が特別で紀子より愛されているかが綴られていた。紀子の気持ちは折れ、遺品整理などする気分ではなくなった事は、言うまでもない。
頭では分かっていた。自分一人であの部屋を何とか片付けないといけない事は。
会社の鈴木のロッカーも片付けた。もういなくなった人の私物など、片付けた方がいいに決まっている。
「やっぱり、自分で片付けなくちゃ……。自分でやらないとダメよね……」
紅茶のカップをテーブルに置き、天井を見上げる。二階にある夫の部屋まで行かなければ……。
具合は良くないはずなのに、何かに突き動かされるようだった。ゴミ袋や使い捨てのビニール手袋を持ち、二階へ上がる。
平日の昼間はしんと静か。階段を上がる音だけが響く。
夫の部屋の前に立ち、深呼吸すると、扉を開けた。
想像以上に埃っぽく、鼻のあたりがツンと痛い。思わず咳き込みながら、窓を開けると、初夏の風が流れた。
部屋の空気と相反し、風は心地いい。
「さ、片付けないと……」
そう呟き、重い腰を上げ、CDやレコードが詰まった棚、本棚、机などを見つめるが。
どうしても手が動かない。もう悪夢は終わったはずなのに、夫の歴代の愛人の顔が浮かんでは消える。
「なんで、俺が責められるんか? 不倫は芸の肥やしだし」
その上、喧嘩中の夫の声もオーバーラップする。家事や娘の教育なども、細かい所をネチネチと夫に責められた過去も思い出し、立っていられない。
想像以上に、夫に苦しめられていた事に気づいてしまった。もう、この世からいないはずの夫なのに、今でも紀子の傷を抉ってくる。いわゆるトラウマというものか。
「あ、あぁ……」
故にこの場所を祓い清める必要があるのに、手も足も動けない。過去の記憶が紀子をグルグルと縛っているようだ。
「ちょ、お母さん大丈夫なの?」
娘が来ていた事も、しばらく気づかずにいた。
「あ、良子?」
「ええ、ちょっと来たけど、どうしたの? しかもお父さんの部屋で」
紀子は上手く答えられないが、娘は何か察したらしかった。
確かにずっと故人の部屋が片付けられていない現状は、不自然だろう。
「まあ、ちょっと休む? コンビニでケーキでも買ってくるわ」
今の紀子にとっては、娘の声を聞くだけでも、気が紛れた。