人生の退職代行会社と復讐代行会社(1)
毎日がつまらない。籠の中にいるような気分。
井中千花は、ため息をつきながら仕事をしていた。仕事といっても寿司屋の厨房にある洗い場で、昼から夕方まで淡々と洗い続ける単純作業だ。いわゆる底辺職と言われているもの。
床も濡れるため、長靴を履き、エプロンもつけて洗い続けていたが、全く楽しくない。店は地元でそこそこ有名な老舗寿司屋で客層もいい。クレーマーなんていないし、外国人客も日本人が想像する以上に大人しい人も多い。それに寿司なんて残す客がほぼいなので、廃棄がないのは楽ではあった。板前さん達だって優しい。千花の夫の知り合いのオーナーだっていい人。
毎日、毎日、食器や調理器具を洗い続けている。かれこれ三十年。結婚出産後、夫からはパート主婦になる事を所望され、それ以来年収百数万以上稼いでいた事はない。主婦の場合は税制の関係上、稼いでしまった方が損になるケースもある。
「はぁ、つまんね」
思わず呟く。肌が強い事が千花の唯一の自慢で、オーナーにも褒められていたが、五十を過ぎた現在は、いくらクリームを塗っても手が荒れる。一応ゴム手袋はつけていたが、寿司の食器類は食洗機を使えないものが多いのが面倒。単純作業だが、全くスキルもつかない。退屈。時給も上がらず、狭い洗い場にいると、籠の中にいるような気分になる。
近くに誰もいない事を理由につぶやいてしまう。
「あぁ、つまんね」
だからといって家ももっとつまらなかった。夫は長年、部下と不倫中だったし、時々嫌がらせの手紙も届く。不倫女のSNSは匂わせ投稿も目立ち、千花へのチクチクとしたマウントも欠かせない。「年収百万程度の無能主婦パートにはなりたくない!」というコメントと共に、給与明細の画像もあげていた。月収は千花の約三倍だった。税金で色々と引かれているのは、正直「ざまぁ」と思ったが、全く嬉しくはない。この投稿は明らかに千花へのマウントだったから。
「井中さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
そんな事を考えていたら、同じ皿洗いバイトがやってきた。山下亜由子という。ここのバイトは大学生とフリーターが多い中、亜由子はアラサー。転職活動中らしいが、そこそこ有名な企業で広報もしていたらしい。なぜそんなタイプの女がバイト?
おそらく転職中の繋ぎとしてバイトに来ているのだろが、イライラする。亜由子は要領もよく初日からあっという間に仕事を覚えていた。美人で愛敬もあり、板前さんにも好かれ、バッシングの仕事も任せられ、常連さんにも評判が良いらしい。一方、千花は何年も洗い場に閉じ込められ、バッシングの仕事を任せられるのは忙しい時にしかない。
「あ、井中さん。こっちのお皿、まだ終わっていないんですか? やりますよ」
亜由子はテキパキと要領よく皿を洗い続けていた。
あぁ、イライラする。アラサーとはいえ、千花と比べると、肌にシミやシワもない。もともと顔の土台も整っており、薄いメイクやエプロン、長靴を履いてもそこそこの美人に見える。その上、笑うと愛敬も倍増しになるらしい。本人にその自覚があるのか不明だったが、千花にも分け隔てなく笑顔を向けてきた。
「最近、暑いですね。今年の夏もきっと暑いから、洗い場の仕事できるのはラッキーです」
そんなポジティブな事も話す亜由子。亜由子自身は何もしていないはずだが、千花の顔は青くなる。まるで幽霊のように。
「そう? そんな事はいいから乾拭き用のタオル見て。ちゃんと畳んでいないじゃない。一ミリずれているわ。畳み直して」
「すみません」
「すみませんって何? 私が悪いみたいじゃない。何、謝っているの?」
亜由子は熊と出会ったリスのよう。カタカタと指先が震えている。有能で美人、愛敬もある。それ故に叱られ慣れていないのだろう。
そんな亜由子の表情を見るのは楽しい。いじめてやろう。悪魔が耳元で囁いてきた。この誘惑に逆らえず、今日はずっと亜由子をチクチクと「指導」していた。
同じバイトの大学生やフリーターは、髪も派手でチャラチャラとし、正直、いじめにくい。一方、亜由子のようなタイプは簡単だ。前にもオーナーの知り合いの息子で元引きこもりの男がパートに来ていたが、その時も「指導」するのが楽しかった。いいストレス発散だ。その彼は鬱病になり、もっと酷い引きこもりになったと聞いた。「8050引きこもり問題」の背後には、千花のような人間がいるのかもしれない。そんな事はマスメディアは決して報道しないが。
「なんで、一ミリずらして畳むの? やり直してよ」
「す、すみません」
「だから何で謝るのよ!?」
亜由子の怯えた顔を見るのが最高に楽しい。脳内から何かホルモンとか出ていそうだが、一応「指導」の範囲内なので、板前さんや他のバイトが来ても全く問題ない。
「すみません……」
「謝るってどういう事?」
洗い場に千花の低い声が響いていた。
こうして夕方になり、千花の仕事は終わった。亜由子は夜の仕事もあるが、今日は色々と「指導」ができて満足。口元を綻ばせながら、女子更衣室へ向かう。長靴も脱ぎ、足取りも軽かったが。
夕方からのバイト達が更衣室で何か噂しているのが聞こえた。一旦、扉の前で立ち止まり、耳元を集中させた。おそらく夕方からバイトに入っている大学生達だろう。髪色も派手な鈴木萌と立野凛か。二人とも新しく入った亜由子に良い印象は抱いていなさそうだった。もしかしたら二人とも亜由子の悪口を言っているかもしれない。千花は再び口元をニヤニヤとさせてしまう。
しかし、その声は千花の期待を裏切った。
「井中さんって痛いババアよね」
鈴木萌の声。
「ねー、典型的なお局って感じ。新しく入った山下さん、美人じゃん? めっちゃ対抗意識していじめてるの笑える。自分より若い美人が嫌いなんだろうね」
立野凛の笑い声。
「しかも井中さんって出産してからずっとここで皿洗いやっているらしいよ」
「マジ!?」
「やばー。もう洗い場の呪縛霊じゃん。お局っていうより幽霊じゃーん。お坊さんとか連れてこないと、あの呪縛霊祓えないレベルじゃなね?」
「やだー、こわー。っていうかいくら主婦パートだからってあんな風にはなりたくないわ」
「だよねー! 副業とか自営とか今のうちからやっていこうって思う」
「ははは、ねー」
二人の笑い声が遠くに聞こえる。
千花は思わず両手を見つめた。かさつき、皺っぽい手。三十年以上、皿を洗い続けたこの手には悪い念がこびりついている気がする。それはハンドソープでも石鹸でも落ちない。ハンドクリームやオイルでもそう。お坊さんが来ても祓えない気がした。
「呪縛霊ね……。はは、確かに私はそうかもね?」
千花の声は掠れていた。亜由子に「指導」する時の声とは全く違う。弱々しく、情け無い。惨めな声だった。
「ねえ、恨めしや〜、末代まで呪ってやるって言っていい?」
この後は着替えなくてはならない。悪口で盛り上がっている鈴木萌と立野駅がいる女性更衣室に突撃した。
「きゃあ!」
「ひっ!」
二人とも本当に幽霊に会ったような顔だった。悲鳴もあげている。
千花は本当に呪縛霊になった気分だ。きっとここは何のスキルもつかない&誰でもできる単純作業底辺職という地獄。千花はそこにいる呪縛霊。この呪縛霊はどうやって成仏できるかは不明。今更転職活動なども不可能だろう。そもそも主婦は年収を上げたら損になるシステムもある。
「ねえ、あなた達。呪縛霊の私を祓えられる? 成仏させてみなさいよ」
そう凄むと、若いバイト二人は悲鳴をあげていた。
「きゃああ! 呪縛霊だ!」




