人生の退職代行会社と荒野(3)
相変わらず手が痛い。じんじんする。一昨年は休日で光輝に会えたが、昨日から仕事。セール前で残業もあり、相変わらず手が痛い。夜勤で帰るのは朝だったが、今日もなんとか仕事をこなし、自宅につく。
「ただいまー」
ワンルームに一太の声が響くが、当然のように返事はない。
床は洗濯物が積み上がり、ホコリも溜まっていた。食卓の上は菓子パンのクズやペットペットボトルのゴミ。
掃除は二日ぐらいサボっていた。手も痛く、頭もぼんやりとし、どうもやる気が出なかった。
一太は着替えると、ベッドの上の転がる。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩してくて仕方がない。
梅雨中のくせに、ぴかぴかな天気だったが、この光のせいで寝付けない。
嫌な予感がした。背中が少し寒い。この感じ、パニック障害を患った時と似ている。まず掃除ができなかったり、不眠などの鬱症状が出た後、芋蔓式にメンタルが悪化し、パニック障害の症状が出たのだ。
「いやあ、弱ったね……」
もはや苦笑してくる一太だ。過去、パニック障害になった後はよく調べずヤブ医者のところへ行き、薬漬けにされ、数年無駄にした。運良く、良い医者にめぐりあい、寛解まで行けたが、その医者も去年、引退したと聞いている。
また背中が冷える。当時の泥沼のような精神状態を思い出すと、一太は苦笑すらできない。
しかも、眠れないので眺めていたスマートフィンでは、ろくでもないニュースはトップページに二つもある。一つは退職代行を使うこと若者への批判記事。もう一つはブラック企業で自殺した男のニュース。この二つのニュースは食い合わせが悪いが、目に飛び込んできた情報の数々に一太は変な声が漏れるほど。
「退職代行使うような若者は、人生終わってるか……。でも、こっちのブラック企業で自殺した男の記事では、みんな悲しんでいるな。嘘くさい偽善っぽいが。すげー、ダブルバインド」
仕事を辞める選択も、死ぬ選択も塞がれているような気がする。
「退職代行の記事では新卒で三年は働け。ブラック企業で自殺した人は、可哀想。なあ、どっちだ? どっちが正解なんだよ?」
二つのニュースを見ているだけで鬱になってきたが、読み進めるのは止められない。ろくでもない情報しかないのに、毒でしかないのに、自分を傷めつける為に見てしまった。完璧な自傷行為。
「はぁ……」
案の定、さらに眠れない。手も痛む。いよいよ出口が塞がれた感覚がした。荒野から脱出する方法が全くわからない。
ブラック企業で自殺した男は、遺書にこう書き残していたという。「仕事を辞めて、メンタルの不調を治す為に休職したとしても、ブランクありの男に新しい職はあるものか。どうせ警備、介護、飲食、工場、宿泊をたらい回しにされるだろう」と。
男の選択は正しかったのかもしれないが、退職代行の記事では「退職代行を使って辞める奴なんて迷惑」とある。
仕事にしろ、人生にしろ辞めても、辞めなくて荒野らしい。
「こんな記事、見るんじゃなかった……」
そう呟いたが、もう遅い。その日から一太は余計に精神状態が悪化し、仕事でもミスをし続けていた。来週、上司から面談も決まってしまったが、胃が痛む。
仕事の帰りのバスの中、仕事を辞める選択も、死ぬ選択も塞がれているような気がし、手の痛みは全く消えない。
それでも、余計なニュースは嫌でも目に飛び込んでくる。森で自殺しようとした老婆を助けた高校生のニュースも見てしまった。コメント欄では、高校生が絶賛され、生きろ、生きようの大歓声。高校生は警察から賞状まで貰ったらしいが、一太の表情はどんどん険しくなる。
退職代行使って辞めるのもダメ。自殺もダメ。死んではダメ。世間の本音を見るたびに、全部の出口を塞がれているとしか思えない。
しかも運の悪いことに、バスから降りた後、大通りで退職代行会社の宣伝カーも見てしまった。
あの出エジプト社の宣伝カーだ。奇妙に明るい音楽も響く。
「我が社は弁護士監修♪神も監修しているかも?♪ さあ、自由になろう♪ 奴隷の身分はさようなら♪」
何回も同じ音楽が繰り返えされ、一太の思考回路のどこかが切れた。プツンと、あっけなく。もう限界だったのかもしれない。
逃げよう。出口が見つからないのなら全力で逃げるしかない!
通勤や通学客の涙を逆行し、一太は都心行きのとは反対の電車に乗り込む。
通勤ラッシュ時間だったが、都心とは逆方面の列車はガラガラだ。老人ぐらいしか乗っていない。
仕事を辞めるのも、退職代行使うのも、死ぬのも、全部選択肢が塞がれていたら仕方がない。逃げるしかない。
そう思うと、少し気が抜け、電車の中では眠れた。他にほとんど客がいない電車の中は静かで、不眠だったのに、あっさりと眠れてしまった。
普通の人生とはだいぶ離れてしまった。普通の人はきっと、今、都内のオフィスにいてパソコンのキーボードを叩いているのだろうか。もうそこから脱線してしまったし、戻る方法もわからない。
行く当てもなく電車に乗っているのに、なぜか不安はなかった。荒野から逃げられた事に安堵し、よく眠れるぐらいだった。