人生の退職代行会社と荒野(2)
光輝から紹介された居酒屋・ミツは、壁も屋根もぼろぼろ。入り口の赤提灯も骨董品のような空気も出ていたが、立地は悪くない。
駅から徒歩で十分ほどの飲食街にあり、周辺に似たような居酒屋も多く、ラーメン屋や中華屋なども仕事帰りのサラリーマンで混み合っていた。
ちょうど今日は仕事は休みだ。一太は光輝とともに飲んでいた。外見は全く綺麗ではない居酒屋だったが、中は綺麗でこじんまりとしている。大将や女将も雰囲気が良く、カウンター席でも全く緊張しないぐらいだ。
「で、最近、一太どうなん? そのメンタル系の病気は」
「医学的には完治している。いや、寛解っていうのかな」
「そっかー。良かったね?」
光輝は笑顔。ずっと営業マンをしているためか、髪もセットし、スーツも似合う。いわゆる陽キャ。
大学時代は光輝と一緒に文芸活動をしていたので、似たように垢抜けていなかった。が、今の光輝は仕事も順調で、その上、作家になる夢も叶えていた。
一方、一太は作家の夢は早々に諦め、塾講師をしていたが、躓いた。人生のレールから脱線し、今は荒野に彷徨っている。なお、荒野の出口はさっぱり見えない。
「っていうか、光輝。今日誘ったんでよ」
正直謎だった。最近はあんまり会っていなかったし、夢を叶え、人生のレールを順調に進む光輝と共通点は独身という事ぐらいだ。
「実はさー」
酒のお陰か、光輝は最近の事情を話し始めた。なんでも作家業の方が不調らしく、レーベルが潰れたという。今後はAIの台頭もあり、潰れるレーベルが増えると予想し、エンディングノートや人生史を記録する仕事をしたいらしい。実際、そういった終活サービスから面接も受け、内定が出ている。
「へえ……」
詳しい終活サービス会社の名前は教えてくれなかったが、急に酒が不味くなってきた。まるで夢のような話。一方、荒野にいる一太には、光輝の悩みなど想像もできない。
「いいんじゃないの。好きな事仕事にできて良かったね」
そう言いながら、口調はどこか嫌味っぽいと気づく。実際、光輝も微妙な表情だった。返事もしない。お互いに沈黙。一太は無理矢理咳払いをしたが、重い空気は拭えなかった。
「でもね、お客様。好きな事だってずっと続けるのは大変ですよ」
なぜか女将がバニラアイスクリームをサービスしてくれた。こに重い空気を察したらしい。
バニラアイスクリームは硝子の器にもられ、蜂蜜ソースもトッピングされていた。バニラの甘い匂いもし、光輝も一太も黙々と食べる。
「お前だって好きな事したらいいいんじゃね? 誰も止めないだろう」
バニラアイスクリームで空気が溶けたのか謎だが、光輝が苦笑しながら言う。
「鳥は空。魚は海。モグラは地下にいるわけじゃん? 別のもんになろうとしたら、メンタル、再発するんじゃないか?」
「そうか、そうかね?」
光輝の指摘はもっともだったが、すぐに肯定できない。
子供の頃は空の鳥のように生きられると信じて疑わなかった。のびのびと自由に翼を広げられると思っていたが、いつの間にか荒野にいた。餌がない。水がない。出口もない。
「思っているほど、人生のレールから脱線した男に、みんな優しくはない」
「みんなって具体的に誰だよ。俺、一太の書く小説好きだった」
今更そんな事を言われても、ちっとも笑えない。いくら友人に認められたとしても、多くの人、あるいは権威に認められない小説はゴミ同然化する事はよく知っている。例え、空の鳥のように生きていたとしても、何かに擬態しないと生き延びられない自然界、荒野。
「奇跡が起こればいいけどね」
そう、奇跡のような夢物語に縋りたいぐらいの今。いつまでも何かに擬態し続けていられるかは謎。もうとっくに限界がきているかもしれないが、今日の酒は美味しくない。
「俺は奇跡があると思うけど?」
「そうか?」
光輝の言葉にはなかなか同意できないが、結局、彼は今の会社を退職し、終活サービスの会社に入ると決めたらしい。そこだったら、自由に楽しく翼を広げられそうと笑っていたが。
「そうか、おめでとう」
最後は素直に祝福の言葉が言えた。大学時代と比べ、もう独身という以外共通点はなかったが、友人の成功ぐらいは素直に祝いたい。
それは光輝の為ではなかった。結局、自分の為だった。もし友人を呪ってしまったら、余計に今の自分が嫌いになりそうだったから。
そして明日からも仕事だ。何かに擬態しながら、義務感のみで業務をこなす。労働時間が長く、体力も消耗する割に、賃金も低い。
この場所で奇跡があるかわからない。相変わらず手は痺れ、痛みがある。もう限界かもしれない。