人生の退職代行会社と遺書代筆(4)
「雨の日って空の鳥はどこにいるんだろうね?」
光輝は自宅の窓の外を眺めながら呟いた。今日は一日中、雨だった。五月末、まだ梅雨入りは宣言されていないが、季節は変わって来ているらしい。
今日は土曜日だ。休みだ。昨日は珍しく氷河期世代の上司の機嫌がよく、仕事も早く終わった。もっとも業績が年々悪化し、下請けの人手不足もあり、昇級は期待するなと氷河期世代の上司から釘を刺されてはいたが。
小説の仕事については相変わらずだ。レーベルがなくなり、別のレーベルに営業をしたいところだったが、企画書を書けるほどのアイデアもない。何か短編でも気晴らしに書こうかとも思ったが、それも筆は進まず、相変わらずワードの画面は真っ白。
一人暮らしのワンルームに雨音が響く。空気も湿っぽく、頭も痛い。低気圧かもしれないが、ネットで偶然AI失業のニュースなども見てしまい、ますますやる気が出ない。
なのですぐには気づかなかった。あの退職代行会社から、例の依頼のものが届いているとは。
トークアプリを開くと、パソコンのメールアドレスの方にPDFのデータを送ったとある。
「あ、すっかり忘れてたわー」
あの退職代行会社に遺書の代筆を頼んでいた事は、頭からすっかり抜け落ちていた。依頼した時は酒も飲んでいたし、どうかしていたのかもしれない。
光輝は髪の毛をグシャグシャとかきつつ、例のPDFを読む事にした。自由に印刷して良いが、電子書籍などの営利目的で配布する事は禁止らしい。おかしな退職代行会社だったが、コンプライアンスは一応誰かが監修しているようだった。
PDFの作成者は退職代行会社の職員らしい。名前は杉下荒野という。
「荒野? 変な名前だな?」
そういえば広報の百瀬亜論も変な名前だった事を思い出しつつ、PDFの中身を読み始めた。
家族ぴへ
今日は俺は死ぬ事にした!
PDFはこんな出だしだった。
「は? 家族ぴってなんだ? 若者用語か?」
PDFを読み進めるうちに光輝の眉間の皺はもっと深くなる。確か依頼時には副業のレーベルが消えた事、本業の営業も氷河期世代の上司が辛い云々と細かく書いたが、それも丸っと無視され、軽い文体だった。光輝が書いているライトノベルより軽く、昔流行ったケータイ小説よりも砕けた文章だった。遺書の文面に「草生える」とか「上司のおじ」という砕けた言葉も散乱し、実に汚らしい文章。
誤字脱字も多く、三点リーダーの使い方も適当。〜だ、〜ますも同じ文書内に混在し、時々三人称も混ざり、読んでいるだけでイライラした。
「なんだよ、この汚文は!」
印刷し、思わず赤ぺンで直すが、紙は真っ赤になってしまう。ゴリゴリとボールペンの音も響く。外の雨音より存在感がある音で、夢中になって文を直してしまった。
ライトノベルより酷い。昔のケータイ小説より読みにくい。WEB小説以下。誤字脱字も多く、AIの文章の方がよっぽどまともだ。夏目漱石の「こころ」にも足元にすら及ばない汚文。
「なんだよ、この文は!」
イライラもする。これを書いた杉下荒野は光輝が作家だと知っているはずだ。わざとやったとしたら、悪趣味にも程があるではないか。
「どう思いますか、女将さん」
こんな日はまた酒を飲みたくなってしまい、あの居酒屋に来てしまっていた。土曜日の昼間はランチ営業で、大将特製の牛すじカレーを食べる。
これが絶品で汚文のイライラは少しは癒されそうだったが。
これには女将も大将も腹を抱えて大笑いしていた。今日は雨のせいか、他に客はなく、余計に二人の笑い声が響く。
「すごい。今時のZ世代の文って感じだね。幼い頃からSNSに触れてきた世代の文というか、ネットスラングいっぱんだね」
女将は目尻に涙を滲ませていう。
「面白いな。これで遺書代行とか、すごい商売だね」
普段、さほど笑わない大将も口元を歪ませている。
「でもさ、お客さん。これでプロ意識に火が付いたんじゃないの? そうよ、夏目漱石みたいな遺書文学書いて見返してやりなさいよ」
女将は光輝に例のPDFを印刷したものを返す。もう真っ赤になってしまい、とても綺麗ではない紙だったが。
「そうだな。この遺書はお客様は純文学やれっていうメッセージだろう」
大将の言葉にすぐに同意できない。純文学はライトノベル以上に売れるのが難しいジャンル。読者が少ない割に志望者が多い。光輝もかつてはそこを望んでいた。上手くいきそうだった時、タイミング悪くレーベルが潰れてしまった。
「そうよ。ライトノベルのレーベルが消えたのも、神様のメッセージじゃないかしら?」
女将はまたバニラアイスを奢ってくれた。ガラスの器に白くて丸いバニラアイス。その上に蜂蜜がしたたり、夢のように甘い匂いがする。
「その退職代行会社、面白いな。あ、今日、近所のショッピングモールでイベントするらしいぞ。広報の人が踊って歌い、エンディングノートの作成イベントするとか。お客さん、行って
い見たらどう?」
「そうよ。このふざけた遺書についてクレームつけに行っちゃいなよ」
二人してそんな提案をされ、心が動く。確かに今は甘いバニラアイスクリームを楽しみ、心がゆるくなっていた。それに、この退職代行会社も気になる。どれだけ不謹慎で、悪趣味なのか、自分の目で確認したくなってくる。
気づくと、ガラスの器は空っぽだった。舌はまだ冷え、甘みが残っているが。
「そうだな。女将さんも、大将もありがとう。あの退職代行会社、ちょっとこの目で見てみたいかも?」
そう呟くと、二人とも笑っていた。