人生の退職代行会社と遺書代筆(3)
「えー、お客様って作家でしたの?」
女将は大袈裟に驚いていた。
その後、もう副業のやる気も失ってしまった光輝は、毎日にように居酒屋に向かい、愚痴っていた。氷河期世代の上司は新しく転職してきた二十代を気に入ってしまい、今はこうして一人で呑む事が多かったが。
「いや、女将さん。作家といってもラノベ作家だから。純文学とかじゃなくて、サラリーマンしながらの副業だから。アニメ化とかもないし」
「でもいいじゃない。サイン本欲しいわ」
さすが女将は客商売が長い。決して客を不快にさせる事は言わず、ニコニコとしていた。
「そんなんじゃないし。レーベルも潰れて、作家業がどうなるか先行きわからない」
「そうか。なかなか大変だな」
大将の方は冷静に同意してくれたが、酒が止まらない。光輝はもう一杯呑んでしまうが、なかなか酔えない。
「友達とかは好きな事してていいね、夢叶えて運がいいよなって言われるが、もう餌がないよ。AIに駆逐されそう。元々出版業界も不況だしな」
「お客様、大丈夫? 愚痴すごくない?」
女将は呆れ始めた。
「退職代行でも使いたいもんだわ。仕事っていうより、人生の」
酒の勢いとはいえ、ろくでも無い事を呟いてしまい、光輝は慌てれき口をつぐむ。気づくと、もうカウンターの他の客はいない。家族がいるからと早く帰ってしまったらしい。
「いや、最近、出エジプト社っていう変な退職代行会社の動画みただけ」
さすがにバツが悪くなり、カウンターの女将も言い訳した。
「ふぅん、その退職代行の会社聞いた事あるね。出エジプトって旧約聖書からとったって」
女将は大学時代、宗教を学んでいたらしく、出エジプトについても知っているようだった。
「確か奴隷になったイスラエル人がエジプトを出て約束の地へ行くっていう神話だった。荒野でイスラエル人が彷徨うんだよね」
「へえ」
正直、光輝は興味がないと思いつつも、荒野という言葉が妙に耳に残る。
今も荒野にいるのかもしれない。希望通り空を飛ぶ鳥になれても、荒野にいて、餌が見つからない。確かに今の営業の仕事も合ってはいたが、結局、純文学も書けていない。何もかも中途半端で荒野を彷徨う。そんな光景が頭に浮かんで消えない。
「でも、神様は荒野にいるイスラエル人を決して飢えさせはしなかったらしい。天からマナとう不思議な食べ物を降らせたって。荒野では神様の奇跡があるそうよ」
「へえ」
海を割ったモーセの話は知っていたが、マナについては初耳だった。女将によると、マナの正体は宗教家も決定的な答えは無いらしいが、薄焼きミルク煎餅に似てる説があるという。幼児用の菓子でもマナをモデルにしたものがあるとのこと。
「大丈夫でしょ。お客様にも天からマナが降る。それにずっと荒野にいるとも限らない」
「そうかね?」
「モーセがいるかもしれないし、神が奇跡を起こすかもしれない」
光輝は半信半疑だったが、女将はバニラアイスクリームをサービスしてくれた。ガラスの器に入ったバニラアイスクリームだった。目にも涼しげで、蜂蜜ソースもトッピングされ、夢みたいに甘い。
「美味しい。ありがとう」
甘いものが特に好きでもない光輝だったが、今が舌にも心にも染みてきた。
「でしょう。天からマナは降るわ」
「お客様、そうですよ。神様が養ってくれるでしょう」
大将にまで励まされ、目尻が滲んできた。酔っているかは不明だったが、また頭がふわふわとしてきて、家路につく。
もう深夜に近く、空は真っ暗。星の月も出ていない夜だったが、こんな空からマナが降るだろうか。
シャツやネクタイを脱ぎ捨て、部屋着に着替えると、本棚の夏目漱石の文庫と目が合う。もう何度も読み返し、カバーもクタクタだった。夏の文庫キャンペーンの時はカバーも変わるので、何パターンも買ってはいたが、ふと「こころ」を取り出して読む。
思えば、「こころ」の登場人物の「先生」は長い長い遺書を書いていた。これがそのまま小説になっている文学。ライトノベルでは絶対にない構成。
「あぁ、俺もこういう純文学書きたかったな……」
まだ酒が抜けないのか。本音が溢れ、さっき食べたアイスクリームの甘さが、まだ消えていない感覚がする。
そうは言っても、ラノベのレーベルも潰れてしまった今、光輝が書く場所はあるだろう。このままずっと空の鳥でいられるかは、不明。天からマナが降るとか、無宗教の光輝は信じられない。
未来が急に見えなくなってきた。本業の営業の仕事もいつまであるか分からない。明日からAIに代替されて無くなったとしても不思議ではない。実際、アメリカではAI失業者のデモもあると知った。
このまま荒野を彷徨い、飢えて死ぬ未来だけは想像がついてしまうから困る。その時に、慌てて遺書を書けるだろうか。それとも、遺書だけでも小説になるような文学でも書いてもいいのかもしれないが、自信はない。そんな傑作な遺書が書けるか不明。
ふと、あの人生の退職代行会社、出エジプト社が自殺志願者にサービスしている事実を思い出した。確か遺書代筆や遺族への連絡をサービスにしようとして炎上。そのサービスは無期限で中止になっていたはずだが、今も遺書代行のサービスはやっていないものか?
ダメ元とは分かっていた。荒野で飢え死にする前に、納得できる遺書が欲しい思いでいっぱいだったから。何も今すぐに自殺するつもりはない。終活だ、そう未来のための明るい終活。
発作的に出エジプト社の公式トークアプリに登録し、遺書の代筆サービスはできるかと問い合わせた。
深夜に近い時間なのにすぐ既読になり、返信も即帰ってきて、光輝の目は丸くなる。
「は?」
しかも無期限停止中だった遺書代筆サービスも、特別に請け負ってくれるという。A四サイズ二枚でちょうど二万円。詳しい要望も記入でき、約一週間で仕上がり、PDFで送ってくれるという。ちなみにAIは利用せず、専門のスタッフが代筆してくれるという。
悪趣味、不謹慎という言葉が頭の中で踊るが、悪くないサービスだ。値段は高いが、万が一荒野で飢え私にしても、これがあったら後悔はない。
「どうせ夏目漱石みたいな遺書なんて書けないしな……」
そう呟いた光輝の目は、案外生き生きとしていた。死ぬ準備を始められると思うと、逆に安心してしまう。
窓の外は相変わらず真っ暗だ。空の鳥も一匹も見えない。星も月も何も見えなかった。