人生の退職代行会社と棺桶体験(5)
「このポリコレの時代、いろいろとうるさいじゃないですか。だから、特定の宗教には偏らないようにしているんです」
過越安息はそう言いながら、ワゴンを持ってきた。ワゴンの中には、菊や百合などの白い花ばかりだが、この棺桶にも詰めてくれるらしい。
「出エジプト社っていう会社名で? いまさら?」
優香はつい文句を言いたくなる。日本風の死に装束、十字架つきの棺桶。その上、過越安息はお経を唱えながら、花の茎を切り始めた。この場の宗教はカオスらしい。今更逃げられる雰囲気もなく、優香は棺桶の中に足を入れた。
意外と広い。木の匂いもする。過越安息は、さらにお経を唱えつつ、棺桶に花を入れていく。
悪趣味だ。いじめっ子がする葬式ごっことどこが違うのか不明だったが、棺桶の中の花は埋まり、過越安息のお経も止まった。
「では、しばし、死の体験を」
そう言って、棺桶の蓋が閉められ、優香の視界は真っ暗になる。花の匂いにむせそうにまったが、ここまでされると、本当に死の直前のようで、不快感だけ高まる。
音は静か。公園の喧騒も遠くに響く。過越安息は何も言わない。お経すら消え、微かな音も拾えない。
目を閉じるしかないだろう。不快感だけ高まるが、仕方がない。十五分だけ、死への体験。
また、花の匂いにむせそうになったが、本当に死んだ時は、もうそんなものも体感できない。急に五感が冴えてくるから困る。花の匂いだけでなく、死に装束が肌に触れ合う感覚や、唾の味までクッキリしてくる。まるで身体の細胞が「まだ死んではいない」と訴えているよう。
汗も出て来た。棺桶の中は狭く、汗が出るのは当然だったが、今は特別な気もする。汗が出る事も、生きてるって事か?
そんな事を考えていたら、死ぬ間際の自分がリアルに想像できてしまう。日本人女性の平均ぐらい生きたと仮定したら、その時、何を感じるのだろう?
正社員で仕事していれば良かったと思うだろうか。あの仕事を定年まで勤めあげ、何の後悔もせずに再雇用のパートでもした時、満足しているだろうか?
そもそも年金は出るのだろうか。その時、日本という国は存在しているのだろうか。地球そのものもあるって断言できるのか?
世間のいう安定、年金、正社員の良さが根本から崩れてきた。死を目の前にし、未来を想像すると、何と儚いものだろう。
さらに汗が出て来た。この先、あの会社で働き続け、結婚し、子供が産まれたとして、世間一般的な幸福を手に入れられたとしても、死ぬ前に後悔しそうだった。
なぜかわからない。鳥ではなく、穴を掘るモグラとして生きてしまったからだろうか。
木の匂いがする。棺桶の資材の匂いだろうが、結局、これも灰になる?
「あと五分でーす!」
過越安息の声がした。低く、ボソボソとした声だったが、今は妙に大きく響く。
あと五分。こんな体験はあと五分で終わるらしいが、世間体や安定、収入、生活を引き換えに手に入れたものは、儚いらしい。その事はハッキリと気づいた。
優香は思う。きっと「普通で真っ当な大人」or「世間体の良い人」になりたかっただけで、別に今の仕事は好きじゃない。
自分じゃない誰かになろうとしていた。鳥は鳥の生き方があるのに、モグラになろうとしていたのか。
「あと一分でーす」
過越安息の声を聞きながら、もうそんな架空の何者かは死んでもいい気がした。どうせ安定も世間体も死を前にしたら、儚い。
本当に死ぬ時、架空の何者かのままで人生終わらせたらずっと後悔しそう。鳥は鳥。魚は魚。モグラはモグラ。優香は今、架空の何者かは死んで貰う事にした。
「はーい、終了です」
ちょうど、その時。棺桶の蓋が開き、光が差し込む。目を開けたら、異様に眩しく、目がチカチカしてきた。それに涼しい。花の匂いからも解放され、立ち上がると、身体が異様に軽い。
「生まれ変わりました?」
過越安息はニヤニヤ笑いながら、頷く。
「さあ?」
わからない。わからないが、着替えブースで死に装束を脱ぎして、鏡を見ると、憑き物が取れたようにスッキリとしていた。本当に架空の何者かは死んでしまった模様。もうモグラになって穴を掘らなくていいと思うと、肩も軽いから不思議。
仕事は辞めるか。パートでもフリーターでも、空の鳥に戻れるなら、何でも良いのかもしれない。問題は退職届けが受理されるのかという事だが、そこは不安だった。
「さあ、新しい人生へようこそ」
着替えブースを出ると、過越安息に案内された。ブースの展示や棺桶体験のアトラクションも全部終了らしい。
外に出ると、退職代行相談会もやっていた。あの広報の百瀬亜論も相談スタッフとし、退職代行のチラシや申し込み書も配っている。
「さあ、お客様。新しい人生を始めましょう。死ぬ前に後悔したくないでしょ?」
優香もチラシや申し込み書を渡された。なるほど、棺桶体験から退職代行相談までの流れは、よくできている。なぜ退職代行会社が終活ビジネスに手を出したのか、いろいろと察した。人間、死を意識させれば、現状に疑問を持ち、仕事を辞める人も少なくないはず。よくできたビジネスモデルだ。
「ええ。そうですね。空の鳥に戻ろうかと思います」
「では、お客様。こちらの机へ。ここに記入欄がありまして……」
さっそく百瀬亜論に退職代行サービスを申し込んでいたが、不思議と何の後悔も無い。
もう空の鳥に戻れるなら。もう架空の何者にもならなくて良いのなら、死ぬ前に後悔は無いだろう。
ふと、空を見上げたら、ツバメが飛んでた。誰よりも伸びやかに。家に帰ったらこのツバメの絵を描きたい。