??日目、午後
シオン:20代前半程に見える青年。実年齢は本人もエルフも把握していない。本人曰く日本人のようだが…?
雨脚は徐々に力を増し、今や窓に叩きつけるような勢いだ。シオンは自分の記憶喪失が看破されていた衝撃から何も言えず、カップを握りしめたまま雨の滴る窓と目の前に座るエルフの女性を交互に見ていた。
エルフもシオンに合わせて暫く黙っていたが、優雅な手付きでティーカップを口元に運び、徐に口を開いた。
「…まずは自己紹介をしましょうか」
落ち着き払ったその声に、シオンは静かに頷く。
「何回目かの初めましてね?私はレイテンシー・フェル・ビリーシング。レイテ、と気軽に呼んでもらって構わないわ」
聞きなれない名だ。綴りさえも見当がつかない。見た目通り日本人ではないのだろう。ややもすれば地球人ですらないかもしれないが、シオンはその点には一先ず口を挟まないことにした。
「ご存じでしょうけど、あなたの名前はシオン。家名はタイラー、と聞いているわ」
タイラー。たいらー。漢字で平なのか多以良なのか分からないが、日本人風な名前だ。シオンも紫苑とか詩音と書くのだろうか?
しかし、耳で聞く分には馴染んでも綴りがピンと来ない。今まで何度も耳にしたよう名前という気もするし、たった今初めて聞いた名前にも思える。
ほっそりとした指を胸の前で組み合わせて、レイテと名乗るエルフは話し続ける。
「あなたが記憶を失くしているのは、あなたが起きてすぐにわかったわ。記憶を失くして最初に私を見るとき、あなたは決まって私の身体に興味津々ですもの」
起き抜けに邪な目を向けていたことが筒抜けだったので、シオンは身が竦むようだったが、幸いにもレイテは非難するような目付きではなかった。彼女は変わらず暖かな微笑をシオンに向けている。好色な視線を向けられたことなど、まるで意に介していないようだ。
「えっと…いくつか質問しても?」
急に気恥ずかしくなってきたのを隠そうと、シオンは自分から会話の主導権を握ろうとした。レイテは表情を変えず、ゆったりと頷く。
「俺とレイテ…さんは、その、」
「レイテ、って呼んで?」
出鼻を挫かれた。シオンの感覚では出会って間もない女性を、呼び捨てにするのはなんとも落ち着かない気分だ。だが、小首を傾げて上目遣いで頼まれては、断る方が難しい。敬語はこの際構わないからと付け加えられ、シオンは少し気合を入れ直して質問を続ける。
「俺とレイテは、えっと、どういう関係なんですか?どう見ても親戚とは思えないし、かといって上下関係にあるわけでもなさそうで…」
「恋人以上夫婦未満、といったところかしら。言葉にするとちょっと野暮ったいのだけど」
シオンには自分から『もしかして俺達恋人?』などと聞く勇気はなかったが、レイテの返答が余りにも淀みなかったので、少々面食らった。
「ということは、俺とレイテはこの家に、ずっと一緒に住んでいる?」
「そうね…あなたと暮らし始めてからは、7年くらいかしら」
「『初めてじゃない』ってことは、これまでにも何度か俺の記憶は消えているってことですか?」
「その通り。暮らし始めた最初の頃は数週間に一度は記憶が消えていたから、ちょっと大変だったわね。最後に記憶が消えたのは1年くらい前だから、私もちょっと油断していたわ。暫くは消えないと思い込んでいたの」
淡々と、事もなげにレイテは語る。
実のところ、自分に記憶がない以上はどんな出鱈目を吹き込まれようがそれを証明しようがない。だが、レイテはシオンの記憶がないことに気付きながらも、シオンが動揺しないよう普段通りに、ともすれば普段以上に気を使って接していたように思える。
自分如きにそこまで気を遣う理由がシオンには分からないが、彼女の言葉を無暗に疑っても話が前に進まないため、シオンは一先ず彼女の言葉を素直に信じることにした。
「それじゃあ…俺とレイテがどうやって知り合ったのか、教えてもらえますか?」
シオンはいよいよ核心に触れた。シオンの知る限り、現代日本には…もっと言えば現代の地球には、レイテのような銀髪で耳の尖った人種は存在しないはずだ。そんなレイテと自分がなぜ、どうやって知り合ったのか。話はそこからだ。
レイテはここで初めて笑みを崩した。少し俯いた憂いを帯びた表情を見て、シオンは謂れのない罪悪感のようなものを抱いた。
「…私達のこれまでのことや、シオンの身の上について、ここで一度に説明してもいいのだけど」
レイテは言葉を切ってシオンを気遣わしげに見つめた。こちらの反応を窺っているのだろうか?先ほど受けた衝撃に比べれば、並大抵の真実では子揺るぎもしない自信があったので、シオンは鷹揚に頷いた。
「…けど、あなたが次にいつ記憶を失うか分からないから、説明が二度手間になるかもしれないのよね。少し複雑な話になるし、前提となる説明が多いから、今ここで全てを話すことは出来ないわ。それに、今回は記憶が1年以上続いたけれど、5年前には2週間かけて全て説明した翌日に記憶喪失になったこともあったの。次もそうならない、とは言い切れないから…」
どんな衝撃的な事実が語られるかと身構えていたシオンは肩透かしをくらった。そこを何とか話してもらえないだろうか。シオンが身を乗りだして口を開いたそのとき、
「…ごめんなさい。意地悪したくて話さないんじゃないのよ。ただ、あの話を何度もあなたに語るのは、私としても楽しいことではなくて…」
レイテが心底申し訳ないという顔で視線を落としたので、シオンは閉口して座りなおす他なかった。
先程の話を信じるならば、彼女は突発的に記憶を失うシオンと7年も一緒に暮らして、シオンが記憶を失う度に根気強く関係を紡ぎ直していたことになる。恋人以上夫婦未満という耳慣れない表現には、「夫婦」と言い切るだけの関係に至る前に、自分が記憶を失ってしまうことに理由があるのかもしれない。
以前の…突然記憶を失うようになる前の自分がレイテといつ出会って、どうして一緒に暮らすようになったのかはわからない。だが、少なくともレイテが7年間も自分を見捨てないだけの何かはあったのだろう。
「いや、謝る必要はないです」
落胆こそしたものの、レイテに対して憤りなど微塵も感じていなかったので、シオンは慌てて口を開いた。
「俺が今日目覚めたとき、あなたが隣にいたことに驚きはしました。けど、記憶がない上に知らない土地で一人きりだったら、多分とても不安だったと思います。というか、俺にはそっちの方が恐ろしい」
レイテがゆっくりと顔を上げ、シオンと視線を合わせる。
「きっと、以前の…記憶を失ったときの俺も、同じような事を考えると思います」
「だから俺は、あなたにお礼が言いたい。何度も記憶を失くしている俺の…そばにいてくれて、ありがとうございます」
理由がどうあれ、レイテはシオンを見捨てなかったのだ。それに今後報いることが出来るかはシオン次第である。レイテへの、ひいては己への所信表明として、胸を張ってシオンは告げた。
「今の俺がレイテさんに何をお返しできるかはわかりませんが、俺もただ気を遣われるだけでいるつもりはないです。また一から色々教わることになるでしょうが、精いっぱい、なんでも、出来る限りは頑張ります」
自分でも気づかないうちに、シオンの言葉には力がこもっていた。7年という歳月を費やしたレイテに対する敬意と、これに報いなければという思いが、シオンに決意を抱かせている。
「なので、謝らないでください」
それを聴いたレイテは、泣き出しそうな、吹き出して笑いそうな、奇妙で複雑な表情をしていた。
「本当に、変わらないのね、あなたは。何度記憶を失っても…」
多少熱が入ったとはいえ、シオンは心に思ったことをそのまま口に出したつもりだ。それがレイテの中のシオン像とそう違わないということであれば、以前の自分も気持ちを取り繕うようなことはしなかったのだろう。
それならば、自分の気持ちを偽らずに接していれば、今の自分でもレイテと上手く付き合っていけるかもしれない。シオンの胸に仄かな希望の光が灯ったような気がした。
「その言葉を10回以上も聞いていなければ、今頃涙が止まらなかったでしょうね」
レイテは少し苦しそうに、それでもにこやかに笑いかけてきたので、シオンは合わせて苦笑するしかなかった。
「ただ、これまでのことは今後一切話さない、というわけでもないわ。私とあなたが出会ったきっかけや、お互いが置かれている状況と、それらを説明するための事前知識を、暮らしの合間で少しずつ…1,2ヶ月くらいかけて全てを話します」
「そうですか…」
気にはなったが、彼女にも葛藤があるのだろう。7年以上同じ話を、しかもあまり愉快ではないだろう話を、恋人…とされている相手にするのは、気力のいることなのかもしれない。
「わかりました。では、明日から少しずつ教えてください」
「ええ、約束するわ」
レイテの真剣な表情に、シオンはこの場ではこの答えで十分だろうと思った。
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レイテはこの場で一度に全てを説明するつもりはないが、シオンが知るべきことについて口を噤むのも本意ではないらしい。折衷案として、シオンが今知りたいと思った事については続けて質問することになった。
「この部屋…家?はいったいどこにあるんですか?」
強い雨が降り続けているから砂漠や雪山ではなさそうである。加えて、シオンは半袖のシャツと膝までのパンツという出で立ちだったので、それなりに気温の高い地域だろうと当たりをつけていた。しかし、それ以上のことは思い当たらない。
「一応、カント国のイーテという町に属しているけど…」
ナニ国のナントカ町に属しているって?聞きなれない名前に理解が及ばなかったが、シオンは一旦、口を挟まなかった。
「ここはアイランという小島よ。私とあなた以外には畑や木や草食動物しかいないわ。冬には少し雪が降るけど、一年中暖かい。魚や木の実もたくさん獲れるから、二人で生きていく分には殆ど不自由しない。いいところよ」
小島。予想だにしていない答えだったが、意外ではなかった。雨が降っているとはいえ、この家は妙に静かだった。家の周りには人がいる気配がまるでなかったし、丸太で出来たこの家も島の樹木を使って拵えたものならば合点がいく。
「…”二人で”ってことは、島には他に人はいないんですか?」
「そうよ。元はあなたが一人で静かに暮らすつもりだったのだけど、私が拝み倒して着いてきたの」
シオンはレイテから親しみの情を感じているが、同時にどことなく気位の高さも感じていた。そんな彼女が自分と暮らしたいと拝み倒す光景を想像すると、少し可笑しく思えた。
「…三人以上で暮らしていたなら、夫婦"未満"なんて言い方をしなくてよかったのだけど」
シオンは妖しい笑みを浮かべるレイテの流し目を正面から受け止められず、顔が赤いのを誤魔化すために質問を被せた。
「そのなんとかっていう町にも、カントとかっていう国にも、俺には聞き覚えがないです。ここって地球…ではないんですか?」
「チキュウ…というのは、あなたの故郷の名前よね。ええ、そうです。ここはチキュウではないわ」
やはりそうか、とシオンは納得した。魚の名前に聞き覚えがないこともそうだが、それ以上にレイテの存在が信じ難かったのだ。彼女に並び立つような美人などそうそういるはずもないし、彼女のような耳を持つ人種にも心当たりがない。シオンの知る限り、創作の世界に於けるエルフというのは美人が多いのが鉄板だ。彼女はエルフの中では特別美人なのではなく、寧ろ平均的な顔つきという可能性もある。いずれにせよ、ここが地球ではないどこか…異世界か別惑星か、とにかく現代日本ではないという
ことが分かれば十分だ。
「この島には猛獣も疫病も戦争もないわ。その分刺激や娯楽も少ないけれどね」
レイテは安心させようと言っているのだろうが、彼女と二人きりで暮らす生活は十分刺激的だろうと、シオンは苦笑した。
Q1.ここはどこ?
A1.孤島。シオンとレイテ以外には自然しかないところ。シオンがここに住むと決めた…らしい。日本ではない。
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「俺が記憶を初めて失くしたのも7年前ですか?」
「そうね。厳密には6年と10か月前に、初めて記憶を失ったわ」
自分であれば5年以上昔のことなど少々記憶が遠くなっていてもおかしくはないと思ったが、レイテはそれなりに詳しい期間を出してきた。彼女にとって、初めてシオンが記憶を失くした日はそう簡単に忘れられないのかもしれない。
「最初の1年は数週間おきに、それ以降は長くて半年、短くて1ヶ月くらいの間隔で記憶を失っているわ。最短記録は2週間で、最長記録は今回の1年と2か月」
1年目は月に1~2回、2年目以降は大雑把に1年辺り3~4回記憶を失っているとして、7年間の記憶喪失の回数はおそらく30を下らないだろう。だが、シオンの関心は回数にはなかった。
「その…俺がある日突然記憶を失くすって、以前の俺は把握していたんですか?」
「ええ、もちろん。あなたはこうして記憶を失くす度に私と話をしているから、いつも私が説明して…」
「いえ、そうではなく。最初に記憶を失くす直前の俺は、自分がいずれ記憶を失くすことを知っていたんですか?」
ああ、そっちの話ね、とレイテは何かに思い当たったようだ。
「最初のあなたも知っていたわ。ちょっと待ってて」
言うが早いか、レイテはおもむろに立ち上がり、隣の部屋…シオンが目を覚ました寝室に向かい、程なくして分厚い革張りの本を持ってきた。
「これは最初のあなたが、自分の記憶がなくなることを見越して残していた日記よ。何が書いてあるかは…見ればわかると思うわ」
やはりそうか、とシオンは思った。自分の記憶がなくなることを知っていたなら、記憶を失くした後の自分に対して情報を残すものだろう。レイテはどうして、この本を初めに持ってこなかったのだろう?
「兎に角、中身を開いてご覧なさいな」
促されるままに、シオンは日記の表紙から数ページをぱらぱらとめくってみた。
「……んん?」
日記というからには、日付やその日の出来事が整然と書き連ねられているのを予想していたが、中身はもっと雑然としていて、段落や行数に規則性がなく、縦書きだったり横書きだったり、斜めに走り書きしている所もあった。どちらかといえば、雑多なメモ帳と表現した方が適切だろう。
単に中身が整理されていないというだけであれば、この日記を読むことはそう難しくはなかっただろう。シオンの見る限り、過去の自分はそう悪筆ではない。一つ一つの文字は寧ろはっきりと書かれていて読みやすいくらいだ。だが…
「あの…この文字は何ですか?俺にはなにがなにやら…」
そう。日記の文字は、シオンの知る日本語のカナや漢字とはまるで違っていたのだ。アルファベットやアラビア文字ですらない。これは本当に文字なのだろうか?三角形や四角形、楕円が複数組み合わさった複雑怪奇な図形ばかりが並んでいて、これなら楔形文字やヒエログリフの方がまだ親しみやすく思えるくらいだ。
「これは正真正銘あなたの残した日記よ。最初の方のページには大事なことは書いてないけれど、後になるほど記憶を失くした後のあなたに必要なことが書いてあるわ」
聞くが早いか、シオンはページを勢いよくめくって最後に書き込みがあったページまで飛んだ。成程、最初のページは本当にメモ帳代わりに使っていたのかもしれない。最後のページは最初の頃と打って変わって、几帳面そうな筆跡の文章がびっしりと整列していた。中点を打って幾つかの単語を箇条書きにしているところや、二重線を引いて注釈らしい矢印を入れているところもある。文字が読めずとも記述の意図がなんとなく理解できるのは、自分で書いた文章だからだろうか?
しげしげと過去の自分が残したらしい文章を眺めていると、レイテに横から声をかけられた。
「ごめんなさいね。一番最初のページに戻ってもらえる?」
言われるがまま、シオンは日記の一番最初のページに戻った。先ほどは飛ばしてしまったが、ここには同じ単語と思しき文字列が何度も繰り返し書いてあった。文字の大きさは不揃いで、最初のメモのページと比べてもなんだか不格好だ。
「あの…これは?」
「あなたの名前よ。タイラー・シオン。」
これが自分の名前?シオンには、子供の落書きと言った方がまだ信じられると思えた。
「最初のあなたにとって誤算だったのは、あなたが書いたこの日記が、記憶を失った後のあなたには読めなくなっていることだったの」
レイテは一つ一つの文字を慈しむように指でなぞった。
「読み方だけではならまだしも、あなたは書き方も忘れてしまっていたわ。だから、最初の数年はこの日記を読み書きの練習に使っていたの。最初に覚えるべきは自分の名前の綴りだから、これは一番に練習をしていたわ」
記憶喪失になると、どうやら文字の読み書きも出来なくなるらしい。シオンにはかつて記憶喪失になった記憶など当然なく、知識が豊富なわけでもないので、それが一般的な事なのか自分に特有の症状なのかは判断がつかなかったが、そういうものなのだと思うことにした。
「この島では紙を買い足すのに手間がかかるから、この日記で文字を書く練習はしなくなったけれど、練習がしたいと思ったら別の方法を用意するから、いつでも言ってちょうだいね」
この女性はきっと、このやりとりを何度も何度も繰り返してきたのだろう。その苦労を感じさせない、明るく励ますようなレイテの言葉に、シオンは熱い感謝の気持ちが湧いてくるのを感じた。
Q2.過去のシオンは記憶喪失を見越してメモとか残さなかったのか?
A2.残しているが、今のシオンには読むことが出来ない。
説明のための説明回
ルビは独断と偏見と気分でつけたりつけなかったりします