9 ベティお姉様の離婚
「ベティ! 急に離縁だなんて、一体どういうことなんだっ」
「そ、そうよ、きちんと説明してちょうだい?」
バタバタと足音を立てて、両親が駆け込んできた。
その慌てた様子を見て、呆けていた頭がハッと現実に引き戻される。
ベティお姉様は騒ぎ立てる二人を一瞥し、紅茶のお代わりを注いでいたグレタに出て行くよう命じてから徐に口を開く。
「お義母様の差し金ですよ。結婚してそろそろ三年になるでしょう?」
お母様が「あ……」と腑に落ちた表情になった。
平民と違い、この国では原則として貴族の結婚に離婚はない。家と家との結びつきにより政治に影響を与えるからだ。複雑に絡み合ったパワーバランスを保つため、婚姻には国王の許可が必要となる。つまり簡単にくっついたり、離れたりするなということ。
しかし跡継ぎ問題に配慮して、白い結婚が一年続けば婚姻無効、三年間子が授からなければ離縁が例外として認められている。あとは、相手に余程の瑕疵がある場合だけだ。
そしてベティお姉様には、まだ子がいなかった。
「だとしても、せめてあと数か月は様子を見て……いや、こんなにもあっさり切り捨てるなんて情がなさすぎる」
お父様が苦々しく呻いた。
子ができなくても、縁戚や愛人の子を夫婦の養子にして跡を継がせるのはよく聞く話だ。離縁に発展するなど、そうあることではない。よっぽど不仲で政略結婚としての価値すらないか……。
ゆえに離縁されたとなると不名誉極まりなく、特に女性は傷モノ扱いだ。
「あのババア、いえ……お義母様に情などあるわけないじゃないですか。あの方は、わたくしのことが最初から気に入らなかったの。息子に甘いから渋々結婚を承諾したけど、いずれ離縁させようと虎視眈々とチャンスを狙っていたのよ。ご丁寧に避妊薬まで盛ってね」
「いくらなんでも、薬まで盛る?」
私が驚愕すると「あら、高位貴族なんてそんなものよ」とベティお姉様は軽く答えた。
一瞬、冗談かと思ったが両親もそれに関しては冷静なので、私の認識が甘いのだろう。普段は優雅な貴族の闇に触れたような気がして、背筋がゾッとなった。
「おまえの夫……アダム殿の意向はどうなんだ。やはり離婚すると?」
「抗ってはいるけど、当主であるお義父様に命じられたらどうなることか。無理やりサインを迫られては堪らないから屋敷を出てきたけど、時間稼ぎにしかならないし……」
「そんな横暴、陛下がお許しになるはずないわっ」
お母様が金切り声で叫べば、ベティお姉様は首を横に振る。
「いいえ、陛下は離婚をお認めになるはずだわ。お義母様が用意した彼の再婚相手は、ヴェハイム帝国の侯爵令嬢なの。持参金にミスリル鉱山の採掘権が含まれているそうよ」
「あ、あのミスリル鉱山の!?」
「ミ、ミスリル?」
私とお母様が同時に声を上げる。
ミスリルは我が国が喉から手が出るほど欲しがっている希少な金属で、武器や防具のほか、宝飾品として加工され価値がある。魔法と相性がよいことから、国境の防御結界を維持するための媒体としても欠かせないものだ。
ミスリル製のナイフなんて、目玉が飛び出るほどの値段である。数回しか触ったことはないけど、あれはいい。どんなに高度な付与魔法も、スゥーッと入っていくもの。
「それは……我が家に勝ち目はないわね」
お母様が肩を落とす。
「こうなったら、できるだけ好条件で離縁することも視野に入れたほうがいいと思います。もらえるものは全部もらって」
「醜聞になるんだぞ」
お父様とて貴族だ。名誉を重んじる。やり切れないのか、眉間に皺を寄せた。
「もう社交場には出られないでしょうね。縁談があったとしてもオジサンの後妻か、愛人か……」
「そんな……ベティ……」
お母様も痛ましげにベティお姉様を見つめている。
しかしミスリル以上に魅力的なものが、ハーシェル家にないのも事実。侯爵家を敵に回す前に、身を引いたほうが傷は浅いかもしれない。
「だからね、考えたの。表に出られないなら、ここで過ごせばいいって。ハリーと結婚して、ゆくゆくはサイラスのサポートをするの。お父様、いいでしょう?」
それを今ここで言うのかと衝撃が走った。ベティお姉様は本気なんだ。
両親はさすがに愕然となっている。
「何を言っているの? ハリーはシャノンの婚約者よっ。ダメよ、絶対にダメ!」
我に返ったお母様が、真っ先に異を唱えてくれた。
「そうだ。もうクリントン家に話を通してハリーの承諾は取れている。二人の婚約は、おまえにも知らせてあっただろう」
続いてお父様もお母様を援護する。
しかし、ベティお姉様はまったく動じる気配がなく、笑みを浮かべた。
「まだ正式に婚約してません。ハリーの承諾だって、わたくしの離縁の話が持ち上がる前のこと。彼はいずれ家令になるのでしょう? 領主の右腕として領内の有力者たちを纏め、時には辣腕を振るわなくてはならない立場です。みすぼらしいワンピースを着て魔法の付与しかしてこなかったシャノンよりも、昔からお母様と一緒に婦人会の茶会に出席していたわたくしのほうが、妻として適任だわ」
「ベティが領地にいたのは、貴族学院に入学する前のことじゃない。もう何年経つと思っているの? 婦人会の茶会なんて、あなたがしゃしゃり出なくてもサイラスの妻になる人がやることですよ」
負けじとお母様が反論し、お父様も「そうだ」と頷く。
私はといえば、そんなにみすぼらしかったのかと、思わず着ていたワンピースをチェックしてしまった。確かに社交もできないけれど……。
「ベティお姉様、私はハリーにふさわしくないのかもしれないけれど、胸を張って隣に立てるように、これから努力するつもりです」
せめて、彼と共にありたいのだと伝えたかった。
けれどベティお姉様は、それで引くような人ではない。
「ひどいわ、シャノン。わたくしとハリーは愛し合っているのに引き裂くの? あなたには付与魔法師という立派な仕事があるじゃない。傷モノのわたくしにはもう何もないのよ? 三年前、この家のために侯爵家に嫁いだの。皆の犠牲になった結末がこれだなんて、あんまりだわ」
凛とした態度から一転、くしゃりと顔を歪め涙声で弱々しく訴えられれば、誰も何も言えなかった。部屋全体がシンと静かになる。
まさかベティお姉様が自分を犠牲者だと思っていたなんて!
夫と仲睦まじく暮らしていたのではないのか。華やかな王都の暮らしを楽しんでいたのではなかったのか。
幸せなのだと信じて疑いもしなかった。そこまで本気の恋だったの……?
「離縁もしていないうちから、どうこう言っても始まらんだろう。ハリーの気持ちも確認せねばならん。この件は保留だ。ひとまずファレル侯爵家の出方を待とう」
沈黙を破ったのはお父様だった。投資に失敗し困窮の原因を作った超本人だから、『犠牲』の一言が相当胸に堪えたようだ。顔が青くなっている。
お母様もすっかり勢いをなくし「そうね」と同意した。
「長旅で疲れただろう。しばらく、ゆっくり休むといい」
「はい。そうさせていただきますわ」
お父様に労わられ、ベティお姉様はゆっくりと席を立つ。その後姿からは哀愁が漂っているというのに、やっぱり美しいのだ。
きっとハリーは、ベティお姉様を選ぶだろうな。
彼がお父様に一言『イエス』と告げれば――――ああ、考えたくない。
頭の中が真っ白になる。
私はどうやって自分の部屋に戻ったのか憶えていなかった。