8 お母様と私
お母様が、寝込んでしまった。
ベティお姉様が離縁するのだと聞いてショックだったらしい。
「あの子が離縁するだなんて、一体どうしたらいいのっ? せっかく家が持ち直したのに、サイラスだって貴族学院に入学したのに……グスッ……娘たちは傷モノ、伯爵家が落ちぶれたって……きっと皆の笑いものになるんだわ! 恥ずかしくてお茶会にも行けやしない……」
ワーッと泣きながら、枕に顔を埋めている。
「まあまあ、落ち着いて」
娘たちって……しっかり私もカウントされている。何かしたわけでもないのに傷モノ扱い。なんて失礼な!
抗議したいけれど、今はとにかくお母様を宥めるのが先だ。
「これが落ち着いていられますかっ。キャンベル伯爵夫人とメイブ子爵夫人に、ネチネチ嫌味を言われちゃうのよ? 一昨年なんて一年前と同じドレスを着ただけで『あら、大丈夫ですの? 夫人のドレスに難儀するようでは、討伐隊の補給もままなりませんわね』って……ううっ……逆よ、そのためにドレスを我慢したのに、ぜーんぶわかってて絡んでくるのぉぉ!」
「言いたい人には言わせておけばいいじゃないですか。あの時、お母様がドレスや宝石を惜しげもなく売ってくれたからこそ、急場をしのげたんですもの」
私はひっく、ひっくとしゃくりあげるお母様の背中を優しく撫でた。
「グズッ……次の王宮舞踏会用のドレス、もう注文しちゃったのよ。もし莫大な慰謝料を支払うことになったら……」
「まだそうと決まったわけじゃありません。そのドレスは、私がたくさん働いて買ってあげますよ」
「ホント? じゃあ、キャンセルしなくていいのねっ」
「ええ、大丈夫ですよ……たぶん」
付与魔法師としてみっちり三年、いや四年も働けば、夜会用のドレス一枚分くらいにはなるだろう。魔法の世界は実力がすべてだから、女性でも稼げるこの職に就けたことは幸運だった。お陰でお母様の機嫌も直ったし……。
お母様は、もともとオシャレで華やかな場が好きだ。朗らかで愛嬌があり、容姿にも恵まれている。パッとしない男爵家から格上の伯爵家に嫁げたのも、お父様の愛あってのことだろう。
毎年、流行のドレスを誂え、伯爵夫人として王都の社交シーズンを満喫していたことを思い出す。幼かった私は領でお留守番だったけれど、どこそこの公爵夫人のお茶会に呼ばれたんだとか、クリームたっぷりのチェリーパイが美味しかったとか、楽しそうに土産話を聞かせてくれたものだ。
そんな人がドレスを売って金を工面し、社交界で嘲笑されたのは堪え難い屈辱だったはずだ。辛い境遇の中で唯一の自慢は、侯爵家に嫁いだベティお姉様だったのだから、そりゃ、泣きたくもなるってものだ。
その一方でお母様は、いつまでたっても体の小さい私のことを恥じていたふしがある。私を可愛がってはくれたけれど、あまり表に出したがらなかったから。
いつの間にか王都行きはもちろん、地元のお茶会ですら連れて歩くのはベティお姉様、私は屋敷でお留守番が当たり前になっていた。
同年代の令息とのお見合いが全滅して、残るは年の離れた男性の後妻かと苦心していた時に「無理して貴族に嫁がせなくても、領内でいい人を探せばいいではないですか」とお父様を説き伏せたのもお母様だった。
もしかしたら、家があんなことにならなくても私を社交界デビューさせるつもりなどなかったのではないかと、時折、感じることがある。
母親から恥ずかしい娘だと思われていることに、傷つかないわけじゃない。だけど感謝しているのだ。ハリーと結婚できるのは、まぎれもなくお母様のお陰なのだから。
私は、お母様の瞼に冷却効果付きのハンカチを当ててあげた。
ハリーに贈ったのと柄違いで作った冷却ハンカチは、こうして泣きはらした瞼を冷やすのに便利だ。わざわざ冷たい水に布を浸さなくて済む。
今、協会を通じて特許の申請をしてもらっているから、いずれどこかで商品化すれば特許使用料が入るだろうと期待している。
「う……ん、気持ちいいわ」
しばらくしてスーッと寝息を立て始めた。
改めてお母様の美しい寝顔を眺める。
ミルクティー色の髪とふっくらとした赤い唇は母娘同じ、違うのはハンカチに隠れた瞳の色だ。お母様とベティお姉様はエメラルドグリーン、私は桔梗みたいな青紫だ。お父様とサイラスが藤のような薄い青紫だから、濃淡はあるものの父方の遺伝なのだろう。
光の加減で虹色に煌めくこの瞳だけは、お母様も「キレイね」と褒めてくれたから、飽きずにずっと鏡を覗き込んでいたこともあったっけ。
「眠ったわ……」
私は、隣のクローゼットルームでドレスの手入れをしているお母様の侍女ドーラにそっと声をかけた。
彼女はお母様が男爵令嬢だった頃から、ずっと仕えている。瓶底眼鏡をかけ、いつも紺や茶の地味なドレスを着ていて、大人しいけれど忠誠心に厚く働き者だ。たまにお母様が自分の手に負えない状態になると、こちらに丸投げしてくるのが玉に瑕である。
「それはよろしゅうございました」
ドーラは手を止めてから小さく頭を下げ、ヒソヒソ声で返事をした。
「あとは任せるわね」
手のひらをヒラヒラさせると、やはりヒソヒソ声で「ありがとうございました」と返ってきた。
礼を言われて、なんだか重要任務を成し遂げたあとのような解放感が押し寄せる。いつも無表情で淡々としているせいか、ドーラには妙な威圧感があるのだ。
疲れた……。
私は廊下に出たあと「ふぅ~」と大きなため息を吐いたのだった。
※※
ベティお姉様がこの屋敷に帰ってきたのは、ハリーが出立してから六日目のことだった。
従者は御者と侍女一人だけ、荷物はトランク一つ、後先考えず勢いで家出しましたと言わんばかりだ。
離縁するにしても両家の話し合いのあとだと考えていたので、予想より相当早い到着にびっくりした。
「ここは殺風景なまま、なんにも変わってないわねぇ」
ベティお姉様は、三年ぶりの我が家をぐるりと見回し不満げに口を尖らせた。
豊満なボディラインが露わになるタイトなドレスを堂々と着こなし、括れた腰に手を当てている。首元には大きなダイヤモンドのネックレス。ゴージャスだ。
さすが侯爵家の若奥様、纏うオーラが、迫力が違う。使用人たちも結婚前よりパワーアップしたベティお姉様に慄いている。
マイルズがお父様を呼びに行っている間、私はひとまずグレタにお茶の用意をしてもらい一息入れることにした。
「サイラスの進学もあったし、あんまり屋敷の装飾に手をかけていないのよ」
「質素倹約ってわけね。だからってシャノン、その格好はどうなの? もうちょっとマシなドレスを着なさいよ」
ジロジロと値踏みするような視線を浴びせられ、仕事用のワンピース姿だった私は、すっかり気後れしてしまった。
「こ、これは朝から仕事で、さっき帰ったところだったから……」
咄嗟に言い繕ってみたものの、マシなドレスなんて持っていないのである。バレるのは時間の問題だ。
「へえ、まだ付与魔法師なんてやっているのね」
「そ、そうなの。結婚後はあまり依頼を受けられなくなるから、今のうちにこなしておこうと思って。勘が鈍ると大変なのよ。ほら、討伐用の武器とか防具の依頼が多いでしょう? 少しの加減が戦闘に影響するから気が抜けなくて」
ドレスの話題からそれたので、ここぞとばかりに力説する。
ビスケットに手を伸ばすベティお姉様の指に、ガーネットの指輪が煌めく。以前、結界魔法を付与して渡したものだ。そしてちょっぴり後悔する。これがあるから護衛もなしに戻ってこようと思ったのか。
「シャノンは付与魔法の腕はいいものね」
「まだまだ未熟だけど、ベティお姉様に褒められると嬉しいわ」
「その道で稼げるのだから素晴らしいわ。結婚しなくても食べていけるもの」
「そうかしら」
「そうよ。だからお願い、ハリーをわたくしに譲ってちょうだい」
紅茶のカップに口をつけながら、何かのついでみたいに平然と言うので、一瞬、意味がわからなかった。
バカみたいにポカンと口を開けて二の句が継げないでいると、ベティお姉様が焦れたように私を真正面から見据えた。
「ハリーを譲って、シャノン。わたくしたちは、愛し合っているの」