6 星空でラストダンスを
私はベティお姉様に憧れていた。
私の想い人に愛されるお姉様。
侯爵家へ是非にと請われて嫁ぐお姉様。
美しいお姉様。
成績優秀なお姉様。
王宮舞踏会の華やかな世界で優雅に微笑み、友人に囲まれ、紳士たちは皆、お姉様をダンスに誘う。
ずっと羨ましかった。
私は練習以外で踊ったことがない。
この国の社交界デビューは十六歳だ。貴族学院の在学中に相手を探して婚約を調え、卒業後遅くとも二十歳までに結婚するのが貴族令嬢の王道である。
学費を一括で支払っていたため退学せずに済んだベティお姉様は、ギリギリその王道の真ん中を歩くことができた。
私は貴族学院入学を断念しただけでなく、夜会用のドレスを買うお金がないばかりにお父様から「社交デビューは義務じゃないからね」と諭され、脇道を行った。
それに壁の花になる姿が容易に想像できた。なぜならベティお姉様が貴族学院や社交場で注目を集めるようになるにつれ、「あの姉に対して妹のほうは」と悪い意味で有名になっていったから。
私は会ったこともない人たちから「小さい」「子が産めない」と噂され、挙句の果てに「醜い」「領地に引きこもる変わり者」などと蔑まれた。
小さすぎるこの容姿と、たまたまその年に貧乏だったという間の悪さ。たったそれだけのことが私とベティお姉様の人生に、ここまでの格差をもたらしている。
『侯爵家で肩身の狭い思いをしていないか案じていたが、夫婦仲睦まじく過ごしているそうだよ』
『あれだけ愛されているのですもの。ベティは果報者だわ』
これは、ベティお姉様が結婚したあとに両親が交わしていた会話だ。
私は安堵していた。ベティお姉様は幸せになったのだ。ハリーとの間に特別な感情があったのだとしても、過去の話だ。きっと時が解決して、懐かしい思い出に変わっているに違いない。
いつだって運命はベティお姉様の味方をする。この先も順調に人生を歩んでいくはずだ。
だから私は気兼ねなくハリーを好きでいられる。横恋慕の正当化のために誰かの幸せを願う……なんてひねくれた性格なんだろう。
私は、自分が嫌いだ。
※※
討伐隊が去り協会の依頼が落ち着くと、家の仕事に費やす時間が増えた。
ワインの在庫管理――こんなことまでするのかと仰天しながら、私はハリーのあとをくっついて歩いている。
だがそれよりも、もっと驚くべきことが起きた。ハリーが誕生日プレゼントのお礼をしたいと言い出したのだ。
「希望があれば、おっしゃってください」
「では、私と踊っていただけませんか?」
照れくさいので、私は淑女を誘う紳士の口調を真似て、わざとらしく丁寧な返事をした。お礼など要らないと断ろうと思ったのだが、ダンスに対する未練があって欲に負けたのだ。
「ダンスですか?」
品物を求められると考えていたのだろう。ハリーの顔がキョトンとなった。
「せっかく習ったのに、社交界デビューしなかったの。ビシビシしごかれたのよ、一回くらい踊りたいじゃない?」
「でしたら今年からサイラス様が王宮舞踏会へ参加なさいますよ。一緒に出席なさったらいかがですか?」
「それじゃあ、ドレスを贈って。初めての夜会だから白ね」
無理を承知で、ふふふと笑いながら冗談めかして言う。
社交界デビューする日、令嬢たちは、それとわかるように白いドレスを纏うと決められている。一人ずつ国王陛下に拝謁し、お言葉を賜るため手抜きができない。ドレスから作法に至るまで、何か月も前から念入りに準備をするのが普通だ。
いつも堂々としているベティお姉様ですら粗相があってはならないと、初めての舞踏会の日はとてもとても緊張していたらしい。
「それは伯爵家の予算で買ってください。私の一生分のお給金が吹っ飛びます」
ハリーも笑って答えた。
一生分は大袈裟だろう。精々、数年分だ。
「サイラスの服を仕立てるのが先だわ。お母様も新調するでしょう? さすがに伯爵夫人が流行遅れのドレスを着るわけにいかないもの。私の分は無理よ」
「サイラス様は、シャノン様と舞踏会に出席なさりたいご様子でしたが」
「あの子が? 嬉しいけど、学院のご令嬢をエスコートすることになるでしょうね。早く婚活しないと乗り遅れちゃう。私に構っている余裕なんて――」
そこで、ふと気づいた。そうか。以前、ハリーが『一緒に』と私を王都へ誘ったのは、弟の意を酌んでのことなのか。もしかして頼まれた?
『シャノン姉様を舞踏会に連れていってあげたいんだ』と無邪気に微笑むサイラスの顔が目に浮かぶ。
だけどお父様は、今更私を社交界デビューさせるつもりはないはずだ。没落の危機を脱したあと、そのチャンスはあったのに何もしなかったのだから。
悪評しかない私が舞踏会に出れば、否応なく好奇の目にさらされる。それをファレル侯爵家は快く思わないだろう。嫁であるベティお姉様の立場を悪くするかもしれない。最悪これから婚約者を探すサイラスの足を引っ張りかねない……。
「行きたくないわ、王都なんて」
「急にどうしたんです? あんなに王都に憧れていたのに……もし旦那様が反対なさるなら、私から――」
「いいえ、ダメよ。気を遣わせて悪かったわ。サイラスにもきちんとしたご令嬢にパートナーを申し込むよう、あなたから伝えて。それがあの子のためだから」
真剣に訴えた。
ハリーは複雑な表情を浮かべ「私が浅はかでした。すみません」と謝る。こちらの意図を察してくれたようだ。
私は頷き、また軽口を叩く。
「いいのよ。ダンスなんて、ただの気まぐれだったんだから。それより魔法の実験につき合ってほしいわ。ジミーが討伐でいないから、相手がいなくて」
「私でよければ喜んで」
その実験でジミーがどんな目に遭っていたか知らないハリーは、快諾した。
えっ、いいの? あまりの警戒心のなさに良心が咎める。
ワイン貯蔵室を出たあと、私は迷った末にハリーのネクタイピンに魅了回避の防御魔法を付与するだけにとどめ、お礼の実験ということにしたのだった。
宵の口、窓の外からソナタが流れてきた。時折、ギィと耳障りな異音が混じる。お父様の仕業か。
戯れにヴァイオリンを奏でているということは、ようやく仕事が一段落したらしい。
突然パタッと演奏が止み、少ししてからワルツに切り替わった。今度は美しい音色を響かせている。おそらくお母様から苦情が入ったのだろう。これは、お父様が唯一まともに弾ける曲だ。
窓を大きく開けて、部屋の中に音楽を取り込む。
それから私は瞳を閉じ、ハリーを思い浮かべた。今、目の前にいて優しく私の手を取り、ダンスホールへ誘う、そんな姿を。
音楽に合わせて、実際にステップを踏む。
背筋をしゃんと伸ばし、つま先立ちをしても身長差が埋まらないので、ハリーは僅かに背をかがめている。首が疲れるほど見上げないと、ハニーブラウンの瞳と見つめ合えそうにない。
そういう想像をしながら、教師に教えられたことを忠実に再現していく。
ワン・トゥ・スリー、ワン・トゥ・スリー、ナチュラルターン……。
ここには、私を嗤う者がいないから思いっきり踊れる。
ヴァイオリンの音色に恍惚となる。
どのくらい時が経ったのか、何度目かのターンを華麗に決めたところで曲が終わった。
目を開けた途端、ハリーの幻が消えてゆく。
空に星が瞬いている。
窓を閉める間際、吹き込んできた一陣の風がダンスの余韻を攫っていった。
「ひょっとして私、痛い女じゃない? 好きな人を妄想しながら、一人で踊っちゃうなんて」
日頃の運動不足が祟り、ゼイゼイと息を切らしながらベッドに仰向けに転がる。
「でも、スッキリした!」
想像だろうが妄想だろうが、踊ったことに変わりはない。一度だけ、好きな人と踊ってみたかったのだ。だけど、気を遣わせてまでしたいことじゃない。
むくりと起き上がった。内扉で繋がったクローゼットルームへ行き、ダンスレッスン用のドレスとシューズを一番奥に仕舞う。箱の紐を結んでしっかり封をした。
これはケジメ……。
私は執事の妻になる。これらはもう必要ないのだ。
翌日、お父様に呼ばれた。きっと婚約の話だ。
やっとその時が来たのだと、執務室へ進む足取りは軽かった。