31 ピチュメ王国の密使 後
「グレタ!」
私の叫び声を聞いて、扉の外に控えていたジミーが部屋に飛び込んできた。首にナイフを当てられたグレタを見て息を呑む。
「オレのグレタになんてことしやがるっ!」
「動かないでください。こちらも手荒なことはしたくない」
ルーマンがナイフを持つ手に力を入れると、ジミーから殺気が溢れる。
このままでは死人が出るかもしれない。少なくともジミーはルーマンを生かしてはおかないだろう。これは、まずい。
「ち、ちょっと、落ち着きましょう。話せばわかります、話せば」
私がルーマンを宥めにかかれば、ジミーは「こんなヤツ、殺したほうが早いっす」とやる気満々。
一方のハリーは私を守るように体を抱き込んでいる。こんな時に限って、結界付与のアクセサリーをつけ忘れているからだ。
「ハーシェル伯爵令嬢、大人しくピチュメ王国へいらしてください」
「なんだとぉ!」
ジミーの殺気が膨れ上がった。いや、ジミーだけではない、ハリーもだ。無言でルーマンを睨んでいる。その鋭い眼光は、氷よりも冷たい。
「私に攻撃は効かない。この服には物理と魔法、両方の攻撃を回避する防御魔法が付与されているのでね」
そう言われてしまうと一歩踏み出したジミーの足が止まる。
するとジェナが「すみません。私たちも必死なのです」と申し訳なさそうな顔で謝った。
「えーと、とにかく落ち着きましょう。ジミーも、ね?」
「でもお嬢、こいつグレタを人質にしているんですよ? 始末したほうがいいっすよ! 国交のない国の使者が一人消えたからって、誰も騒ぎやしませんて」
ジミーが不敵に笑い、「ふんっ」と力んで身体強化魔法を発動させた。以前、私が付与した『血吸いの呪い』の短剣を腰から抜き、ルーマンと対峙する。ルーマンの防御より強い攻撃を仕掛けるつもりだ。『血吸いの呪い』は失敗した時の保険だろう。これは相当、頭に血が上っている。
「動くな! それ以上近づいたら、この女の命はない。こちらはとうに覚悟を決めているんだ」
じりじりと間合いを詰めていくジミーに対して、ルーマンが警告を発した。両者は睨み合い、空気が緊迫する。
「ちょっと、グレタからもなんとか言ってよ! 部屋が血の海になっちゃう」
ジミーが言うことを聞きそうにないので、グレタに助けを求める。本当は、こちらが助ける側なんだけれども。
「しょうがないですねぇ」
グレタがため息を吐く。
その直後、ルーマンの手からナイフが滑り落ちた。ガクンと膝を折り、あっけなく床に転がる。
自由になったグレタは冷静にナイフを拾い、「殺しちゃダメですよ」とジミーの傍まで歩いていった。
「グレタ!」
ジミーはグレタを抱き寄せたあと、ルーマンから防御魔法付きの上着を脱がし縛り上げた。ご丁寧にペチペチと頬をひっぱたいて、攻撃が通用することを確かめている。
「ルーマン?」
ジェナが呼びかけるが反応はない。グレタの安眠魔法で眠っているのだ。微笑をたたえながら気持ちよさそうに。
眠りの魔法は攻撃ではないので、防御魔法に弾かれることはない。戦場では緊張したり気が高ぶって眠れないこともある。だから私たち付与魔法師も、特に指定がない限り安眠魔法を防いだりはしない。
「魔法で眠らせました。強めにかけましたから、しばらく起きませんよ」
グレタがジェナに説明する。
ジェナは、腰が抜けたようにヘナヘナと床に座り込んでしまった。
「グレタさんを害するつもりはありませんでした。ですが王家の肝いりで婚約されたとカイル様から伺って、こうでもしない限り、シャノン様が国を出ることはないだろうと思ったのです」
「とにかく座ってください」
ジェナは高齢なのであまり無理をさせられない。仮にもエルドン公爵家の侍女長である。ここで倒れられでもしたら、前公爵夫人に何を言われるか。これ以上刺激を与えて、面倒事が増えるのはごめんである。
近くにいたジミーが、ジェナを抱えそっとソファに座らせた。彼は、女性には優しい。
「はっきり言っておきますけど、私はピチュメ王国へ行くつもりはありません」
「いずれ女王になれるとしてもですか?」
ジェナの声に力はない。答えは訊かずともわかっているというように。
「私は女王ではなく、ただの付与魔法師として生きていきたいの。そしてハリーと結婚して、愛し愛される温かな家庭を築いてゆくわ。ピチュメ王国で権力争いに巻き込まれたり、政略結婚を押しつけられる人生は嫌なの」
一縷の望みも抱かないように、もう一度きっぱりと断る。
ジェナは項垂れている。顔は青ざめ、生きる気力さえ失っているようだ。
そんなジェナを労わるように、ハリーが優しく語りかけた。
「ジェナ殿は、まさかこんなに早くシャノン様の婚約が決まるとは思わなかったのでしょう? こうなる前にルーマン卿が王家と話をつける予定だったのに、間に合わなかった。だから無謀とわかっていても強硬手段に出たのではないですか? ですがその前に一言、閣下に相談してほしかった。そうすれば、きっと思いとどまったでしょうから」
「そんなに気を落とさないで。『虹の瞳』が生まれる条件がわかったの。カイル様はそのことを発表するために、今準備なさっているわ」
ピチュメ王国の王太子が無理だったとしても、ほかの王族が愛する人と結ばれれば『虹の瞳』は生まれる。カイル様にだって、そのうち好きな女性ができるかもしれない。
今後、精霊の書が修正され、ピチュメ王族の恋愛結婚が当たり前になったら、『精霊の祝福』を授かることも増えてゆくだろう。
「カイル様が……?」
ジェナが驚いたように顔を上げた。
「近々、ヴェハイム帝国で開催される魔法研究学会で公になさるはずです」とハリーが言う。
帝国の魔法研究学会は、世界各国から優秀な魔法師たちが集う。当然、ピチュメ王国からも参加する。ピチュメ王族特有の青紫の瞳を持つカイル様の発表は、注目を浴びるだろう。
「そうですか」
落ち着きを取り戻したジェナの瞳に希望の光が宿った。唇が弧を描き、笑みが零れる。
そのすぐあと、ジェナの暴挙を知ったカイル様が駆けつけた。
「うちの者がご迷惑をおかけして申し訳ないっ」
床に転がるルーマンに驚愕し、よもや長年仕えていたジェナがこのような愚行に走るとは思わなかったと謝罪する。
私は後始末をカイル様に任せ、内々で処理することにした。不幸中の幸いで、両親は展覧会へ、サイラスは学院に行っているため留守である。騒ぎを知っているのは、その場にいたハリーとグレタとジミーだけだ。
その決定にムスッとして「やっぱり一発殴ってやる」とごねていたジミーも、前から行きたがっていたコッペ温泉への婚前旅行をプレゼントすることでコロッと手のひらを返した。
ただ、人質になったグレタには申し訳なくて――。
「さすがにピチュメ王国の使者を勝手に処分できませんから。騒ぎを大きくして国際問題にするより、ここは閣下にお任せするのが妥当だと思います」
グレタは平然としているように見えるけれど、大きなショックを受けているはずだ。女性だし、ジミーのように戦闘経験があるわけではないから。
「せめて今日はもう休んで。明日はジミーが非番だから、デートでもしてくるといいわ」
「でも人質に取られたのは、シャノン様からいただいた結界付与のネックレスをつけ忘れていたせいですし……」
「私も忘れてたわよ。自分の家だもん。まさか危ない目に遭うとは思わないじゃない?」
「それはそうですが」
「いいから、いいから。ゆっくり休んで、ジミーと気分転換しておいでよ」
翌日、グレタとジミーはピクニックを楽しんだようだ。
数日後、ジェナから詫状が届いた。退職して、エルドン公爵領にある小さな家で隠居生活を送ることになったそうだ。ずっと仕えてきた王女の眠る地で生涯を終えたいのだ、と。
密使のルーマンは不問にする代わりに、研究発表の手伝いをさせられている。ヨゼラード王国ではなかなか手に入らない資料を集めたり、翻訳したり、とても役に立っているらしい。
「私を王配にして女王になるという発想はなかったんですか?」
そういえば、とハリーに訊かれたので首を横に振る。
「興味ないもん。それにカイル様が研究発表をしたら、ピチュメ王家に『虹の瞳』が生まれる可能性が高くなるでしょ? そうしたら余所者の私は邪魔になるもの」
最悪、暗殺なんてことになりかねない。
「それもそうですね」
このままこの国で、平穏に暮らしてゆきたい。心からそう思った。




