20 抱きしめられて
「心配、したんです」
ハリーの腕に力がこもった。
「ごめんなさい」
私は気が動転してしまい、咄嗟に謝った。ハリーから必死さと嘘がないことだけは切実に伝わってきて――。
「必ず戻ってこいとおっしゃったのに、黙っていなくなるなんて」
「ごめんなさい」
その通りだ。必ず帰ってくるように命じておきながら、勝手にいなくなった。せめてエルドン公爵家の縁談のことを手紙で知らせ、謝るべきだったのに。
「いえ、私が悪いんです。ベティ様との仲を誤解していたと、サイラス様から聞いて驚きました。私がしっかりしていれば、疑われることなどなかったのに」
「誤解……だったの?」
「私がお慕いしているのはシャノン様です。あなたのことが、ずっと好きでした」
まっすぐな告白だった。
この人は本当にハリーなのかと半信半疑で、みぞおちに埋めていた顔を上げるとハニーブラウンの瞳と目が合った。
「突然、迷惑ですよね。私はシャノン様にとって、兄のような存在でしたから。でも、もう一度会えたら、絶対にこれだけは伝えようと心に決めていました」
そう言って、はにかんだように笑う。
「私も……私もずっとハリーが好きだったわ。婚約できると聞いて嬉しかったの」
「両想いだったんですね……」
ハリーはもっと早く伝えればよかったと後悔をにじませて、ほう、と息を漏らした。
両想いだった――。
目頭が熱くなる。私は堪えきれずに、みっともなくヒックヒックと肩を揺らしてしゃくりあげてしまった。
ハリーは私が落ち着くまでの間、優しく背中をさすり続けてくれた。
「ジミーとグレタが、サイラス様に状況を報告したんです。シャノン様の危機だ、と」
居間に場所を移しカウチソファに横並びに座ってから、ハリーはここへ来た理由をそう説明した。
どうやらあの二人は、デート前に屋敷へ立ち寄ったらしい。
クリントン兄弟は次期当主のサイラスに仕えるよう教育されているから、報告がいくのは不思議ではない。口止めもしなかった。こちらの事情はすべて筒抜けで、当然、カイル様との破談もバレているということだ。
「びっくりしたでしょう? 私もまだ混乱していて、これからどうしようかと悩んでいるの」
「簡単ですよ。ベティ様は離縁されませんし、エルドン公爵との婚約はまだ正式に結ばれていません。王都が危険なら、領地で静かに暮らせばいいだけです」
ハリーはこともなげに言う。
「そういえば、しばらくは行儀見習いとしてエルドン家に滞在すると、お父様に言われていたんだっけ」
「降って湧いたような突然の縁談に、旦那様も警戒しておられたのでしょう。王宮舞踏会に出席するために、あと数日もすれば王都にいらっしゃいます。そうしたら正式に白紙になるはずですよ」
「私は、ハーシェル家の娘でいられるのかしら……」
もしお父様の子ではないのだとしたら、すべて今まで通りというわけにはいかなくなる。カイル様と話し合いの場を持てば、『虹の瞳』についても触れざるを得ないだろう。
お父様に不義の子を受け入れてくれとは言えない。家を追い出されてもおかしくないのだ。
募る不安を和らげるように、ハリーが私の手を温かく包んだ。
「たとえあなたがどこの誰でも、私と結婚して家族になればいい。旦那様が反対なさろうとサイラス様がお許しになります」
「サイラスが?」
「特許の権利を譲渡なさったでしょう? 驚いていましたよ。でもそのお陰でサイラス様は、次期当主としての存在感と発言力が増しました。特許の使用を許可しないとなれば、ハーシェル家の事業は立ち行きませんからね。今日も『これ以上、横槍が入らないように既成事実でも作ってこい』と送り出されました」
「へ?」
既成事実? あのサイラスが? そんなことを言う子ではなかったはずだ。それとも王都という都会は、純朴な青年をいとも容易く変えてしまうのだろうか。
「あ、そうそう、ジミーとグレタは戻ってきません。代わりに私が今日からここで暮らします」
「ええっ!?」
仰天する私を尻目に、ハリーは平然と「よろしくお願いします」とのたまった。
両家の話し合いが終わって迎えが来るまで、二人きりだという。
早速、サイドテーブルの皿を見られ、食事はしっかり取るように注意されてしまった。
「鍋にポトフがあるのよ。私が作ったの」
「シャノン様が料理を?」
「エルドン家の料理人に教わったのよ。味は保証するわ」
私はポトフを温め、ハリーは慣れた手つきでベーコンを焼きパンとチーズを切った。次期当主を生活と領政の両面から支えられるように、執事見習いになる前から家事は一通り仕込まれているのだそうだ。
「なんだか新婚みたい」
キッチンに二人並んでいると夫婦みたいだ。ただし、貴族は料理などしないから庶民の。てっきり「令嬢らしくない」と叱られるかと思いきや「新婚ですよ」と返された。
「一つ屋根の下に男女が夫婦同然に暮らす……既成事実ってやつです」
年頃の娘が同棲なんて、とんだ醜聞である。もう他所へは嫁げないってわけだ。
「いいわよ。こうなったら既成事実を作ってやろうじゃない。しくじったら、サイラスに責任取ってもらうわ」
サイラスが焚きつけたのだから、最後まで面倒を見てもらおう。そういう意味で言ったのだけれど、「この場合、責任を取るのは私です」とハリーに真顔で指摘されてしまい、ちょっと照れる。
ポトフとベーコン、チーズ入りオムレツのまともな食事を終え、ハリーが紅茶を淹れてくれた。声を上げて泣いたせいで喉がガラガラだったので、角砂糖を三つもカップに沈める。
「そうだわ、ベティお姉様の件は、本当に離婚はないのよね?」
いろいろありすぎて危うく聞き流すところだったけれど、ここへ来たということは、必要な情報は集め終わったのだろう。
「はい。ファレル侯爵に直接確認しました。今後もハーシェル家の事業に投資してくださるそうです。それにお忘れかもしれませんが、あのお二人は学生時代からの恋人同士ですよ」
「ハリーと愛し合ってるだなんて、結局、いつもの冗談ってこと?」
「すぐバレる嘘なんですけどね。私が否定すれば終わりなんですから」
「んもうっ、まったく人騒がせなんだから。あ……」
そこで気づいた。あの時、到着したばかりのベティお姉様は、ハリーが王都へ向かい不在だったことを知らなかったはずだ。プライドが高く自分から嘘を白状する性格じゃないから、意地を張って言えなかったのかもしれない。
「本当ですね」
ハリーがクスッと笑った。それから、私が二人の仲を誤解する発端となった出来事の真相を話してくれた。酔っぱらって抱きつかれたのだ、と
ベティお姉様の酒癖が悪いだなんて初耳だった。どうやら、いつもアビーやハリーが解毒魔法で酔いを醒ましていたらしい。誰彼構わず絡んで醜態をさらすたびにお母様に叱られ、あの日を境にとうとうハリーが貯蔵室の管理を任されることになってしまった。ほかの使用人ではベティお姉様に抵抗できなくて、高級ワインがどんどん持ち出されていたのだ。とんだとばっちりである。
「私、ベティお姉様ってもっと完璧な人かと思ってたわ。美人で成績優秀だったし、モテたでしょう?」
「猫かぶりなだけですよ」
「辛辣ね」
「そりゃ、大切な人を失うところだったんですから」
その夜は幸せだった。
世界で一番好きな人にプロポーズされ、指輪を贈られたからだ。ファレル侯爵領の帰り道、ルビー鉱山で有名なリカントの街に寄って手に入れたというハリーの好きな色の宝石は、私の左薬指にぴったりとはまった。
「永遠の愛を天と精霊王に誓います」
誓う相手が女神フレイヤだったり、精霊王だけだったりと国によって違いはあるものの、これが世界共通のプロポーズの定番である。神様と精霊王の両方に誓いを立てるのがこの国の流儀だ。
イエスの場合は、「永遠の愛をあなたに捧げます」と返事をしてキスを交わす。ノーの場合は「この誓いは天と精霊王がお認めになりません」と返事をすればいい。相手を慮り、あくまで自分の意思ではないように装うのがミソである。
私はもちろんハリーの求婚を受け入れ、初めてのキスをした。
一生、忘れない。
そして翌朝。
「な、何、これ?」
爽やかに目覚めると、部屋中に花びらが舞い、お花畑のような光景が広がっていたのだった。




