19 魅了の眼鏡
「ねえ、あなた、今日の夕食は何がいいかしら?」
「そうだな、君の愛情がたっぷり入ったポトフが食べたいな」
「わ、わかったわ。鶏肉と玉ねぎを買って帰りましょう」
「グレタ姉さん、豚の腸詰とサラミも欲しいわ。あとはリンゴと白カビのチーズ、それから……」
「おじょ……いや、シャナはちょっと欲張りすぎじゃないか?」
「そうかしら?」
「そうっすよ」
「じゃあ、お義兄さんだけ食後のデザートは抜きでいいのね」
「そりゃ、ひどいっす!」
私とジミーが言い争いを始めたので、その間にグレタが肉屋の店主に注文している。
「奥さん、ポトフにするなら、こっちのベーコンもおススメだよ」
「そうねぇ、どうしようかしら」
「買うなら、試作のスモークベーコンをオマケしよう。クルミのチップで燻してあるから、クセがなくて美味しいよ」
気のいい店主の売り込みに押され、グレタは「それもいただくわ」と財布の紐を緩めた。
それからぐるりと市場を巡り、チーズと玉ねぎとリンゴ、翌朝のためのクロワッサンを買って帰った。
荷物持ちのジミーは「買いすぎだ」と不満を漏らしつつも、軽々と抱えている。
カイル様のアパートに落ち着いた私たちは、とある領主に仕える護衛ジミーとその妻グレタ、妻の妹の私シャナという設定で暮らしていた。結婚祝いに長期休暇が与えられたので、知り合いのアパートを借りて王都観光を楽しむ新婚夫婦ということにしてある。
掃除洗濯はグレタのクリーン魔法で、食事は私がスープを作っている。あの時、ベンに習っておいてよかった。
当初、カイル様は使用人を派遣しようとしてくださったけれどお断りした。気を遣うし、信用できる人かどうかわからなかったから。
ここへ移ってきてすぐにグレタに眼鏡を買いに行ってもらい、外出時にはそれをかけている。というのも髪と皮膚の色は染粉や魔法で変えられるが、瞳の色だけはどうにもならないのだ。特級魔法師のカイル様でも変えられない。誤魔化せないからこそ、ピチュメ王国でも特に瞳の色が重要視されているのだと言える。
幸い高位貴族のいる一等地からは離れていることだし、瞳さえ見えなければ外出してもいいのでは? と考えて、瓶底眼鏡で隠すことにしたのだ。
もう五日経つが、なかなか快適である。
「付与率二十三パーセント……これでよし、と」
「また魔法ですか。熱心っすね。今度はなんですか?」
「瓶底眼鏡の女性ってめずらしいから、怪訝な目で見られるでしょう? だから眼鏡に魅了を少しだけ付与して、好印象になるように操作してみたの」
私はアイディアノートに記録しながらジミーの質問に答えた。
この眼鏡はかけている間だけ相手を魅了するようになっていて、付与率百パーセントになると溺愛、執着の領域、八十パーセントで恋愛感情を抱かせることができる。五十まで下げても買い物するたびに“オマケ”をもらう羽目になるので、ほどよい好印象は、なかなか難しいのだ。
「だからって、オレを実験体にするのやめてほしいっす。グレタに捨てられたらどうしてくれるんですか」
ジミーが涙目で訴えてきた。彼はグレタに一途だから、嫌われたら生きていけないかもしれない。
「大丈夫、事前にグレタに承諾を得たから。というか、魅了の眼鏡をかけるなら、しっかり検証してからにしろと言ったのはグレタだから」
実験中に私に愛の告白をしたことなど気にしなくていいと告げると「そういう問題じゃないっす」とあからさまに肩を落とした。
「私は気にしていませんよ」
グレタがジミーの頭を撫でて慰める。
するとジミーが、グレタをぎゅっと抱きしめながら「君への愛が魅了に負けるなんて情けないっ。精神修行を一からやり直す!」と叫んでいた。
良心の呵責を感じた私は、翌日二人に休暇を与えることにした。
王都に来てからずっと、こちらの都合で振り回してばかりだった。まともなデートをする余裕なんてなかったはずだ。これでは主人として失格である。
「本当によろしいのですか?」
グレタに何度も確認された。
「いいのよ。食材は十分あるし、今日は一日、本を読むつもりだから」
「お土産、買ってくるっす!」
あんなにしょげていたのが嘘のように、ジミーは嬉しそうにグレタの肩を抱く。
「いってらっしゃい、ゆっくりしてきてね」
私は二人が意気揚々とアパートを出て行ったあと、本棚からピチュメ王国に関する薄い書物を取り出し、居間にある臙脂色のカウチソファに腰かけた。
『ピチュメ王国の人々』――表紙の文字をなぞり、ページを開く。
ヨゼラード王国とピチュメ王国の国交はほとんどない。大陸の北と南。端と端で遠く隔てているから、中央のヴェハイム帝国を介して品物のやり取りすることが多く、情報があまり入ってこないのだ。
私の知識は、この国と違い小柄な民族であることと、精霊信仰が盛んなことくらいだ。国王の実子を差し置いて『虹の瞳』の王族が王位を継ぐことも、カイル様に教えられるまで知らなかった。
カイル様がピチュメ王国の情勢に詳しいのは、おそらく独自の情報網を持っているからだろう。自身がピチュメ王族の血を引く以上、子孫に『虹の瞳』が生まれる可能性があるので無関心ではいられない。
「虹の瞳……あった。青紫に虹の煌めきを纏う瞳……王家の血筋のみに生まれてくる。精霊王の祝福を受けた初代国王の瞳に由来し、この瞳を持つ者は精霊の愛し子であると言われている……か」
正直、まだ実感が湧かない。カイル様の勘違いじゃないかと頭の隅っこで思っている自分がいる。
キッチンでお茶を淹れ、チーズとスモークベーコンを切って皿に盛る。マホガニー製の丸いサイドテーブルに置いて、再びカウチソファに足を伸ばして座った。
ペラペラと本のページをめくる。国の成り立ち、年に一度の精霊祭、民の暮らし、王家の系図……すぐに読み終わってしまう。生憎、本棚にあるピチュメ王国に関する本はこれだけだった。
こんなことならエルドン公爵邸の図書室で何冊か読んでおけばよかった。
仕方がないのでフォークでベーコンをつつきながら、王家の系図を眺める。
「本当に国王の実子じゃなくても王位を継げるのねぇ……」
現王は先代の王兄の息子だし、三代前は王族と妾の間にできた子が王位を継いでいる。系図を見る限り『虹の瞳』はランダムに誕生し規則性はないようだ。
どうして私なの? と思う。
精霊の愛し子という言葉は、ピチュメ王国のような精霊信仰がないこの国でも一般的に知られている。
魔導書によれば、魔法は精霊王からのお恵みらしい。生まれつきの魔法の資質は精霊の気まぐれによって決まるという説が有力で、精霊の愛し子は魔力が高いと考えられている。
それが本当なら付与魔法しか使えない私は、精霊の愛し子なわけがない。何が『虹の瞳』だ。結局のところ青紫の瞳に纏う虹色なんて、ただの特徴にすぎないのではないか。
そんなことを考えているうちに、つい、うとうとと寝入ってしまった。
どのくらい時間が経ったのか、来客を知らせるチャイムの音がビーッと鳴り、心地よい微睡みを破った。
「だ、誰っ……?」
びっくりして跳ね起きる。時計を見れば、まだ昼過ぎだ。グレタとジミーが帰ってくるには早い。
訪ねてくるような知り合いはいないし、まさかピチュメ王国の……そんなわけないか。
よし、居留守を使おう。
ビーッ、ビーッ、ビーッ。
ずっと鳴り続けている。執拗に繰り返し響く低い音が、恐怖心を煽る。思わず耳を塞いだ。
ビー……。
しばらくして呼び出し音が、急に止んだ。ホッとして、床にうずくまる。
胸に結界付与の首飾りがあるのを指で確かめ、落ち着こうと心に言い聞かせた。大丈夫、大丈夫だ。
立ち上がった瞬間、今度は玄関の扉がドンドンッと叩かれ心臓が跳ねた。
息を殺して恐る恐る扉に近づいたその時――。
「シャノ……いえ、シャナ様っ!」
「え?」
聞き覚えのある声に安堵して、反射的に扉を開ける。
ハリーだった。
息を切らせて室内に滑り込む勢いそのままに、私は抱きしめられていた。
「よかった、ご無事で……」
ハリーの胸、というよりは少し下のみぞおち辺りに顔を埋め「どうして?」と尋ねた。今まで指一本触れられたことがなかったから混乱する。いきなり現れるなんて、一体どうなっているの?
「シャノン様が狙われていると思うと、じっとしていられなくて」
頭の上から降ってくる甘いバリトンの声を聞いて泣きそうになる。
ああ、やっぱりこの人のことが好きだ。