2 弟の出立
近頃の私は、生前お祖母様が愛用していた安楽椅子に腰かけて、せっせとハンカチに針を刺している。
想い人のために刺繍する……なんて穏やかで幸せな時間なんだろう。
ハリーの好きな色がルビーレッドなので、赤い火吹き竜の意匠にすることにした。いっそのこと温熱効果を付与して懐炉代わりに使えるようにしてもいいかもしれない。
うん、そうしよう。気に入ってくれるといいな。
お父様からはまだ正式な話はないけれど、二週間後の私の卒業に合わせて婚約を発表するつもりなのかもしれないとのんびり構えていた。
「シャノン姉様」
ノック音のあと、弟のサイラスが遠慮がちに扉から顔を覗かせた。まだ十五歳なのに体格がよい。育ち盛りだから、これからもっと背が伸びるだろう。
「ちょうど休憩するところだったの。一緒にお茶でもどう?」
部屋に招き入れ、侍女のグレタを呼んでお茶の用意を命じた。ティーテーブルへ移動し、向かい合わせに座る。大きな体で所在なさげにもじもじしているサイラスが微笑ましくて、つい口角が上がってしまう。
「明日、出発するんだ」
「そう、寂しくなるわね。たまには手紙を送ってよ。王都で流行の小説とか食べ物とか、いろいろ教えて?」
「うん、長期休暇には帰ってくるよ。お土産をたくさん持って」
「楽しみにしてるわ」
サイラスは貴族学院に入学するために王都へ行くのだ。前途洋々である。
それなのに、急にしゅんとなって「なんか、ごめん……」と目を伏せてしまった。どうやら私が諦めた貴族学院に自分が通うことを引け目に感じているようだ。
「何言ってるのよ。あなたはハーシェル家の跡取りなんだから、しっかり学んでいらっしゃい。そして将来、姉様に楽させてよ」
おどけたように片眼を瞑ると、サイラスはやっと柔らかな表情を浮かべる。優しい子なのだ。
「そうだね。僕、頑張るよ」
次期当主らしい頼もしい答えが返ってきた。
一時は没落寸前の我が家だったが、今は持ち直している。
美人と評判のベティお姉様が、侯爵家の嫡男に見初められたからだ。先方には政略的な利益がないのに、持参金不要のうえ借金の肩代わりまでしてくれるという破格の条件での嫁入りだった。
さすがに格下のこちらから私の学費の援助までは言い出せず、そのまま領の学校に通うことになったものの、お陰でサイラスの入学までには必要な資金を貯めることができたのだ。
「ベティお姉様に感謝しないとね」
「王都の侯爵邸にいるだろうから訪ねてみるよ」
「それがいいわ」
グレタが紅茶とビスケットを運んできたので、サイラスと味わう。
硬めに焼いたザクッとした歯触りのビスケットは、長期保存が可能なため軍人や旅人に需要があり、この辺りではお馴染みのお菓子だ。馬車の中で食べてもらおうと、明日の出発に間に合うようにお母様が焼かせているのだろう。
出来立てのほんわりした温さが残るビスケットも美味しい。
「あ、そうだ。ご婚約おめでとうございます。シャノン姉様が領に残ってくれるなんて心強いや」
「まだ正式に決まったわけじゃないわよ」
「でも父上はそのつもりなんでしょう? 次に会うのは、結婚式かもしれないな。ベティ姉様は、知ってるの? 早く言わないと『着て行くドレスの注文が間に合わない』って叱られるよ」
「正式に決まってからでも充分間に合うわよ。ウェディングドレスだって、まだ注文していないんだから」
「それもそうか」
サイラスは屈託のない笑顔を見せ、そのあと一頻り世間話に花を咲かせてから自室に戻っていった。
私は刺繍を再開する前に、弟が乗る馬車の調子を確認しておこうと思い立ち、馬車置場へ向かうことにした。
我が家の馬車と馬具には、私の付与魔法がかけられている。馬の負担を軽くするための軽量魔法、道が悪くて車輪が壊れたりしないように強化したり、馬車全体を保護したり。道中何が起こるかわからないので、念には念を入れたい。
「シャノン様? どうしたんですか、こんなところまで」
厩舎の管理室の扉を開くと、目の前に御者のティムと打ち合わせをしているハリーがいて、びっくりされてしまった。
「サイラスが明日発つと聞いたから、馬車に浮遊魔法を追加しておこうと思って」
「浮遊魔法?」
二人とも怪訝な顔で首を傾げている。
「もし崖から転落したら危険だもの。予め発動条件を術式に組み込んでおけば車体が浮くことはないわ。付与率八十パーセントで落下速度を大幅に軽減できて、なおかつ――」
「わかりました、わかりましたから、落ち着いて」
興奮気味に語りだす私をハリーが制した。そしてコホンと咳払いしてから優しく諭す。
「王都までの道中に崖はありませんよ。定期的に討伐隊が行き来するので、道が整備されているのはご存じでしょう。それこそ伝説の超巨大なブラックドラゴンでも現れて馬車を持ち上げない限り、転落などあり得ません」
「そうなの? でも万が一ってこともあるじゃない。本当は飛行魔法を付与できたらいいんだけど、馬車ごと飛ばすには魔力が足りなくて」
飛行は、風属性の上級魔法だ。王宮の筆頭魔法師ならば自身が飛ぶことも、物を飛行させることも可能だろうけど、私にはそこまでの実力はない。如何せん、上級魔法はコントロールが難しく魔力消費も激しいので、疲れて体がくたくたになってしまうのだ。
以前、荷馬車で実験したときは、付与率四十パーセントで力尽き、丸一日眠ってしまった。お母様にめちゃくちゃ叱られたので、それからは無茶しないようにしている。
「わっはっは。空飛ぶ馬車ですか。シャノンお嬢ちゃまは、夢がありますなぁ。将来が楽しみです」
「ちょっと、ティム! 私はもう十八歳よっ」
「おや? もうそんな年齢におなりなすったか」
ティムが惚けた。この中年のベテラン御者は、事あるごとに体の小さい私を子ども扱いする。今回も絶対にわざとだ。
「ふん。ティムじいも、とうとう耄碌したわね」
私がやり返すと、ティムはますます愉快そうに声を上げて笑った。こんな応酬はいつものこと。嫌われているわけじゃなく、親愛の裏返しだとちゃんとわかっている。
ハリーも「まあまあ、シャノン様。ティムもその辺にしておきなさい」と苦笑いするだけで強く咎めたりはしない。
「心配されるのはわかりますが、大丈夫ですよ。ジミーが護衛ですし、ティムも王都までの道には慣れていますから」
「そうですよ、お任せください。サイラス様は、必ず無事に送り届けます」
ティムが一転して神妙になったので、私も「頼みましたよ、ティム」と厳粛に返事をする。
それから打ち合わせの邪魔にならないように管理室を出た。
やっぱり、こっそりと浮遊魔法を付与してから戻ろうかしら。
厩舎は、馬具置場、馬車置場、引き馬用の馬房、乗馬用の馬房など、いくつかの場所に別れており、管理室から右に進むと馬車置場がある。
立ち止まり悩んでいると、ハリーが追いかけてきて横に並んだ。どちらからともなく邸内に向けてゆっくりと歩き出す。
「シャノン様は、王都に行かれたことはないんですよね?」
「ええ。学校が地元だったから機会がなくて。きっと華やかなんでしょうね」
一度くらいは行ってみたいと思っているけれど。
そんな私の心の中を読んだようにハリーが微笑む。
「では今度、一緒に行きましょう」
ベティお姉様とサイラスに会いに行く。そういうことで特別な意味なんてない。だけど。
一緒に――。
この言葉にドキドキと胸が高鳴る。
「……ええ」
思わず私は、赤く染まっているであろう頬を隠すように俯いた。
結局、馬車に浮遊魔法をかけそびれてしまい、それに気づいたのは明くる日、弟が出立したあとのことだった。