10 縁談、舞い込む
気がついたら自室のベッドで泣いていた。
「大丈夫ですか? まったくベティお嬢様ったら、あんなことを。冗談にもほどがあります」
グレタが気遣ってくれた。
瞼に当てた冷却ハンカチをずらして彼女を見ると、左の眉が僅かに上がり、どこかピリピリしていて怒っているのだとわかる。
そうだ、グレタは聞いていたんだった――あの言葉を。
『ハリーを譲って、シャノン。わたくしたちは、愛し合っているの』
ベティお姉様は、よく私たち弟妹を揶揄って遊んでいたから「ふふふ、冗談よ。本気にした?」なんてオチがついたらよかったのに。でも、そうはならなかった。
私は再び瞼にハンカチを当てながら言った。
「本気みたいよ」
「まさか」
視界が遮られているぶん、音には敏感になる。たったの三文字のグレタの言葉が動揺で震えていた。
クリントン家も巻き込まれているので、嫁入りするグレタにもかいつまんで事情を話す。
「離縁したら世間体が悪くて、もう王都にいられないでしょ? だから、ここで暮らしながらサイラスを支えたい、って」
「嘘ですよ。ここでならお姫様でいられるからでしょう。弟が領主で、自分は家令の妻です。好き勝手し放題ですよ」
「ベティお姉様の場合は、姫じゃなくて女王様ね」
「わかっていらっしゃるではないですか」
「妹だもん。お姉様がチヤホヤされるのが好きなことは知ってる。私やサイラスを揶揄う癖があって、自分にはそれが許されると思っていることも」
「だったら……」
「そうね。愛し合っているだなんて、いつもだったら信じなかったかもしれない。だけど、自分のことを『皆の犠牲になった』と言ったのよ。それって恋を諦めて、お金のために嫌々結婚したってことよね。ベティお姉様は、ああ見えて情に厚いところがあるじゃない? あり得る話だなって思っちゃったわけ」
女王様気質なんだけれども、時々「しょうがないわねぇ」と面倒見のよさを発揮するものだから憎めない。ベティお姉様は、そういうお得な性格なのだ。
「たとえベティお嬢様がハリーさんをお好きだったとしても、ハリーさんは絶対に違うと思いますけどね」
グレタはやけにきっぱりと言う。何も知らないからだ。
「それがそうでもないのよ」
声が裏返り、ぶわっと涙が溢れてきた。
異変を感じ取ったグレタが「シャノンお嬢様?」と怪訝そうに私の名を呼ぶ。
「ベティお姉様の嫁入りの日、二人が抱き合って別れを惜しんでいるのを見ちゃったの。ハリーが『泣かないで』って慰めて、恋人同士みたいに……いえ、恋人同士だったのよね。それなのに幸せに暮らしているという報告を真に受けて……私ったら、愚かよね。ハリーだってずっと淡々と過ごしていたのは、大人だから感情を露わにしないだけ」
話しているうちに涙腺が壊れた。次から次へと眦から涙が流れる。
「はっ? ハリーさんがベティお嬢様を慰める? 何かの間違いじゃないですか、信じられません」
「本当に、この目で見たんだってば」
「はあ、ともかく旦那様がハリーさんに確認なさるんですよね?」
「うん。でもきっと、もう無理よ」
「簡単に諦めないでくださいよ。あの強烈なベティお嬢様が未来の義姉だなんて、胃が痛いです。この忠実な侍女のためにも、もう少し頑張ってください」
「大丈夫よ、適当に褒めれば機嫌がいいから。それでダメなら、精神強化のキャンディを作ってあげる」
「要りませんよ……」
グレタは大きなため息を吐き、グズグズと泣く私の瞼から、涙でぐしょぐしょになった冷却ハンカチを取って新しいものに替えてくれた。
「情けないわね。他人のために作ったハンカチを自分で使うはめになるなんて」
「情けなくなんかないですよ。こんな時もあります」
「そうかしら」
「そうですよ」
もうお休みください、とグレタに髪を撫でられた途端に眠気が襲う。安眠魔法だ……。
「グレタ……ありがと……う」
心地よい夢の中へ身をゆだねる寸前、ベッド脇に飾られたフリージアの花が、ほわんと甘く香った。
それから数日は淡々と過ぎた。
ファレル侯爵家から音沙汰はなく、ハリーの諜報活動がどうなっているのかは、お父様は何も教えてくれない。
ただ、ベティお姉様の夫のアダムお義兄様が離縁を回避しようと奮闘中だから、正式な手続きにはもう少し時間を要するのではないか――というのがベティお姉様の侍女アビーの目算である。
私はほとんどベティお姉様と顔を合わせていないので、グレタがそれとなく訊いてきてくれたのだ。頼りになる侍女である。
私は付与魔法師として依頼をこなし、わざと忙しくしていた。ベティお姉様とはギクシャクしているし、暇だといろいろ考えてしまうからだ。
いつまでこんなことが続くのだろう?
そう思っていた矢先、予期せぬ出来事が起こった。ハーシェル家に縁談が舞い込んだのである。
お父様の執務室に呼ばれ、二人きりで話を聞く。
「私に縁談ですか? ベティお姉様ではなくて」
「ベティは人妻じゃないか。まだ離縁のことは公になっていないはずだ。それにちゃんと『ハーシェル伯爵家のご息女を』と書いてある」
「シャノン・ハーシェルとも書いてないですけど……」
「ハーシェル家の娘は、おまえしかいないだろう」
「それはそうですが」
ベティお姉様はファレル家の人間だし……。けれど、こちらからの縁談をけんもほろろに断られてきたのに、今更どこの誰が私をもらってくれるというのか。どうにも腑に落ちない。
「お相手はカイル・エルドン公爵。二十三歳になられる王宮魔法師だ」
「ええっ、公爵家!?」
世情に疎い私でも知っている大物の名前が飛び出し、ぎょっとなった。
エルドン公爵といえば、国内でも数人しかいない特級魔法師だ。素晴らしい魔法の才を持ち、前王弟の孫に当たる高貴なお血筋の方である。ただし「冷酷」「変人」と評判が悪い。従軍の際は無慈悲にも凶悪な魔法で敵を屠り、普段は屋敷にこもって魔法研究に明け暮れているため、滅多に姿を現さないらしい。
そのため率先して嫁ごうとする令嬢はおらず、本人も縁談に消極的だったという。
「公爵領にも付与魔法師協会の支部を置きたいとのことだ」
お父様が政略的な理由を挙げるものの、それだけなら何も結婚しなくてもいいのでは? と思う。付与魔法師協会の支部は国内にいくつかあり、増えるたびに政略結婚していては娘が何人いても足りない。
「はあ」
間の抜けた返事をする私の困惑を察して、お父様が念を押す。
「この縁談は断れない。ハリーと正式に婚約していればよかったんだがな……すまん」
王家に連なる公爵家と古い家柄なだけが取り柄の凡庸な伯爵家、身分差は歴然である。正当な理由なくして断ることなど不可能だ。
「ただ、ベティの離婚を待って再婚する方法もある。あちらの希望はハーシェル伯爵家の娘だからな。シャノンはどうしたい? まだ誰にもこの縁談のことは知らせていないから、正直な気持ちを聞かせてほしい」
「私、私は……」
逃げ道があると聞かされれば、ぐらりと心が揺らぐ。だがその時、ふと『犠牲』の文字が脳裏に浮かんだ。
私が嫁がなければ、またベティお姉様が『犠牲』になるのだ。唇を噛みしめた険しい表情、あの顔をもう一度ハリーにさせてしまう。
それは、できない――。
「私が嫁ぎます」
きっぱりと言った。
「いいのか? おまえはハリーのことが好きだったろう」
お父様が意表を突かれたように目を見開く。
よもや自分の恋心がバレているとは思わなかったので気恥ずかしい。早口になりながらも、私は努めて明るく答えた。
「お父様、ベティお姉様とハリーは愛し合っているんです。ベティお姉様は、もう十分この家のために尽くしてくれました。そろそろ幸せになってもいいのではないですか? 私とて貴族の娘です。政略結婚の一つや二つ、へっちゃらですよ」
「へっちゃらって……まあいい。当面は正式な婚約は交わさず、行儀見習いとして公爵邸に滞在することになると思うが、それでいいか?」
正式に書面を交わしてしまうと、もし破談になった場合、慰謝料が発生するリスクがある。だから、顔合わせ兼お試し期間を提案してみるということだろう。
「はい」
私は素直に応じた。
皆が幸せになれる……これでいいのだ。




