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09 はじめての日々

 


 翌日、リュシーは机の上に置いてある紙を前に唸っていた。

 お話を書こうと思ったのが、紙は真っ白なままだ。どこからスタートいいかもわからない。

 絵もとても難しかったが、一応目の前に描くものは存在していた。しかしお話というものは空間にはひとつも存在しないのだ。


「全く思いつかないわ」


「難しそうですものね」


 エルザが隣でお茶を淹れてくれる。

 たくさん恋愛小説を読んできたはずなのに描くべきものがちっともわからない。好きなものは恋愛小説だが、それはハードルが高い気がする。

 うんうん考えていても楽しくない、昨日日記を書いた時はあんなに感動したのに何が違うのだろうとリュシーは考えた。

 そして昨日楽しかったのは、気持ちを形に出来たからだと気づく。


「無理に小説にしなくてもいいんだわ」


 登場人物も設定も結末も決めなくてもいい、感じたことをまずは素直に形にしていきたい。

 真っ白だった紙がどんどん黒で染まっていった。


 一時間ほど夢中で書いたのは、花蜜病が発覚した時の自分の気持ちだ。

 戸惑い、恐怖、強制されることへの抵抗感、不安。

 読み物にしてはかなり暗い内容だが、嘘偽りない感情の塊だった。

 あの時は濁流に流されていたリュシー。国と親とアクセルに決定権がありリュシーはただ波にのまれながら進むしかなかった。

 自分が何を思っているのか、自分でもわからないほどに。


 でもこうして形にすると、あの日の自分を認めてあげられる気がした。怖くて震えていた自分を受け入れる事ができた。


 またひとつ自分を形に出来た。

 リュシーの胸に満ちた充実感は今までの人生で感じたことのないものだった。



 ・・


 それからのリュシーの日々はちっとも退屈ではなかった。

 言葉と遊んでいるとあっという間に時が過ぎる。


 まずは過去の自分を描いてみることにした。その頃の感情はあまり思い出すことは出来なかったが、その頃から変わらず過ごしている大好きな領地のことは鮮明に思い出すことができた。

 だからリュシーはその風景を文字にしてみた。青々とした緑が広がる田園、小道が続く小さな丘、並んだレンガの屋根といった目に見えるものから、雨の翌日に踏んだ芝生、晴れた日の洗濯物の匂い、夕方にだけ聞こえる鳥の声、目には見えない物たちも。


 文字を読むだけで、リュシーは実家に帰った気持ちになった。

 少しだけ気恥ずかしかったが、クレモン領を訪れたことのないアクセルにもその文章を読んでもらった。

 アクセルは「この風景を描いてみたい」と言った。リュシーにとっては最大の賛辞の言葉だった。



 文字を楽しむようになってから、日常に潜む様々な物を一つ一つ目に止めることの楽しさを知った。


 学園に併設された公園に出かけて、花が咲き誇る小道を歩いてみる。

 先日は「きれいだな」と思って通り過ぎるだけだったが、その花を文字で描いてみたくなる。花一つとっても、見た目を丁寧に描写することもできるし、花に感じた気持ちを残すこともできる。それが楽しかった。



 ・・


 アクセルとも公園を訪れた。アクセルが隣で描く風景をリュシーは言葉にしてみることにした。

 花壇に広がるベゴニアを描くらしい。赤、白、黄色、ピンクときっぱり色分けされている花は美しく、鮮やかな色を引き立てる緑の葉ははりがあってツヤツヤ光っている。一つずつは小さく愛らしいけれど、集まると華やかで迫力もある。見るだけで楽しくなるその気持ちを綴ってみた。


 お昼休憩に二人は紙を交換した。エルザが作ってくれたお弁当を食べながら。

 アクセルの描いたベゴニア達は、まだ色も塗っていないのにその場の空気ごと切り取ったみたいだ。


「アクセル様の絵は写真のようですね、目の前の光景そのものです」


「面白みのない絵だ」


「どうしてですか?こんなに忠実で美しいのに」


「忠実なだけだ」


「そもそもそれがすごいことじゃないですか!こんな素敵なのに……」


 リュシーはアクセルの表情を見るが、謙遜している様子ではない。

 アクセルは自分の絵に自信がないのだろうか。リュシーの何倍もうまいことは当然だとして、贔屓目なく素晴らしいと思うのに。


「君の文章は読んでいて楽しい」


 アクセルはもう一度リュシーの紙に目を落として続けた。


「君みたいな文章だ」


「私みたい……とは?」


「素直で無邪気なんだ」


「アクセル様は私のことをそう思ってくださっているんですね」


 リュシーの頬は緩んでしまう。子供ぽいと言われてるのかもしれないけれど嬉しかった。


「そうだ」


 アクセルは少し目を泳がせた。これは少し照れている気がする。最近のリュシーはアクセルの心情を勝手にポジティブに解釈させてもらうことにしている。


「でもアクセル様の絵もアクセル様らしくて素敵だと思いますよ」


「私に似てつまらない絵だ」


「アクセル様に似て、優しい絵ですよ」


 リュシーは真っ直ぐアクセルを見た。アクセルの瞳はさらに揺れる。


「見ているとひだまりにいる気分になりますよ。アクセル様の絵は温度を感じます」


「さすが小説家の卵だ」


「からかわないでください。本当に好きなんです、私は」


「そ、そうか」


 アクセルはとうとうリュシーから目をそらして、目の前のベゴニアを眺めている。


「君の文章は君の心がわかっておもしろい」


「本当ですか?見た目の描写だけでなく、私のベゴニアへの気持ちも詰め込んでいるんですよ!」


 気づいてもらえたことが嬉しくてリュシーははしゃいだ声をあげる。


「そういえばアクセル様は風景しか描かないんですか?抽象画とかは?」


「私は心情や想像を膨らませて描くのは苦手だ。無機質な物しか描いていない」


「でもこのベゴニアは愛されているのがわかりますよ」


「そうだろうか」


「はい。こんな細部まで描くのは、愛さないとできませんから」


 リュシーはもう一度ベゴニア達を見る。小ぶりで左右非対称の花びらや葉を細かく描くのは大変な作業だろう。それでも一枚ずつ飽きることなく丁寧に描くのは愛を感じる。心情を反映させていないというが、それならばこんなに温度を感じる絵になるだろうか。


「丁寧に生み出された物は、伝わりますよ。真面目な作品だとは思いますが、そこがまたアクセル様の良さですから」


「ありがとう」


 アクセルはもう卑下しなかった。再びリュシーに向けたその瞳は穏やかなものに戻り、微笑んでいるように見えた。



 ・・



 今日のリュシーは図書館で借りてきた花の図鑑を開いている。

 花をテーマに文章を書いていたら、あの花はなんという名前というのか知りたくなったのだ。名前の由来や、花言葉があることも知る。

 さらさらと過ぎてきた今までの日常では知り得なかったことだ。

 すべてのものには意味や背景があり、それに対する感情は人の数だけある。

 それに気づいた途端、この世界にあるものが美しく眩しく見えた。



「あっ、この花」


 図鑑に見覚えがある花の写真があった。リュシーの身体からこぼれる紫の花だ。

 すぐにアピスと契約ができ、毎日治療をしているから症状は進行していないけれど、涙や汗のかわりにこぼれた小さな花を忘れることはない。

 ハート型の花びらが可愛らしいその花は、ライラック。

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